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Zガンダム劇場版 第三話「星の鼓動は愛」を観る

 Zガンダム劇場版第三話「星の鼓動は愛」をやっと観ました。「明るいZ」という富野御大の言葉通りかどうかはさておき、ラストでカミーユが精神崩壊を起こさないのには(想像はしていたものの)ちょっと感動しました。そして、その分、シロッコの扱いが微妙になっていると僕は思います。

 そして、そこに注目して読みすすめると、富野御大がある意味で穏当になったという具合にこのアニメを観ることになるのではないかと思います。

 Zに登場する指導者的役割を果たすニュータイプ(ハマーン、シャア、シロッコ)は皆、貴族主義者です。これはF91で正面から扱われるようになるテーマですが、Zでも暗にそうなっています。

 そのなかでハマーンとシャアは、「地球の重力に魂を惹かれている人々」の粛清を行う(選民思想が色濃くでる)ようになりますが、シロッコは本作品中では「オールドタイプを導く」としか言わず、抽象的な表現で良いなら「女性による統治」を何度も仄めかしています。

 もちろん、シロッコも後々、シャアのように「ならば今すぐ愚民どもに叡智を授けてみせよ!」と叫ぶようになったかもしれないですが、本作中の段階ではそこまでマッチョな思考に傾いてはいません。

 そう、もしかしたらシロッコの台頭によって、人類の革新が成功裏に進んだ可能性はなきにしもあらずなわけです。(だからこそ、レコアの駆るパラスアテネがティターンズを倒しに向かうということは、まさに象徴的に感動できる出来事なわけです)

 そのようなわけで、たしかにシロッコは作中で暗躍するにせよ、ラスボス的に倒されてよいキャラクタでもありません。それをカミーユは「人類の革新は個人の手によって恣意的に行われるべきではない」という、まさに自分の個人的な判断でシロッコを悪として、オーバーテクノロジーを用いた反則技で殺すわけです。

 ここには漫画版ナウシカと同じ構造の問題があります。もしかしたら、この判断は人類の豊かな未来に対する重大な反逆だったかもしれないのです。だからこそ、偉大なる指導者シロッコの死という代償として、主人公のカミーユが精神崩壊を起こすというのは、実のところ、釣り合いが取れていたのです。

 ところが本作では、シロッコを殺したあと、カミーユは五体満足に生き残ってファに心配された挙句にいちゃついて終劇です。いったい、これはどういうことなのか。恋愛劇としてはまとまっているしもちろん面白いけれども、常識を過剰に突き刺すような富野節はどこにいったのか。僕の考えではこうです。

 基本的に御大は「大人」を「聡いところもたしかにあるが、やはり狡猾で薄汚いもの」として描き、「子供」を「馬鹿で融通が利かないけれども、純粋無垢で直感的に正しいことを把握するもの」として描きます。そして御大はそのどちらも殺します。悪い大人が一方的に死ぬこともないし、良い子供が一方的に生き残ることもない。

 はずだったのだけれど、本作ではシロッコが悪玉として死に、カミーユが善玉として生き残る(御大がもっとも嫌がりそうな)ある種の勧善懲悪ものになっています。それとともにカミーユの嫌らしいところはむしろカツが引き受けてくれていて、カミーユ自身は自分の芯をもった精悍でいて聞き分けの良い己の葛藤に自分で結論を出せる立派な主人公です。そして、ファとカミーユは子供の恋愛をしているという扱いを頻繁に受けています(ラストシーンもそう)。

 これはある面で、御大がガンダムシリーズで追及していた(と思われる)はずの「ビルドゥングスロマン」を否定しています。カミーユを最後まで子供として扱うということ、そして、周りのクルーやブライトさんがそれを(冷ややかにではなく、暖かく)見守っているということ、これはつまり、子供にむかって「成長しろ!」と言うことを御大はもう止めたということなのではないかと僕は思いました。

 シロッコという野心は抱えているけれども、悪意とも善意ともつかない思想上中立にある天才指導者の生き死にを、カミーユという少年の判断に委ねたわけです。御大はカミーユに対して「シロッコを殺し、その業を背負って君はこのあとどのように生きるのか」と問うに留め、その業に「カミーユの魂」という代償を払わせるのをやめたように思われます。つまり、説教はほどほどにして、もはや次の世代に「託そう」そして自分は「それを見守ろう」という気持ちに移り変わってきたのかなと受けとめた次第です。
by kourick | 2007-01-10 00:00 | アニメ