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友達という言葉の幻想

 「僕に友達はいない」と中二臭いことをいって顰蹙をかったのはやはり中学生の頃だった。自分でもその言葉でどういうことを示したいのか正確にはわからなかった。それでも、僕はその言葉を口にした。

 そして、何かしらのことを周囲に向かって伝えようとしていたのだ。それが、たとえ運動会の網潜りのようなものだったとしても、僕は言い知れぬ世界の理不尽さというものに対して必死に足掻いていた。

 いまなら、当時よりも明確にその言葉の持つ意味を人に伝えることができるだろう。そう、僕はいつまで経っても、その類の幻想というものは持ち続けている楽観主義者である。

 だから、正月気分の抜けきらない(アルコールも抜けきらない)といったこの時期に、ほんの少しだけ話をしてみたいと思う。できれば、ビールの泡にでも透かして僕の話を聞いてもらえれば光栄だ。

 僕は人間関係で悩んだことがない。このことについてはいろいろな視点から考えることができると思うけれど、重要なのは、僕みたいな人間でも「人間関係」というあやふやなものを認めてはいるということだ。

 実際のところ、僕にとってその言葉は理解仕切れないものを二宮金次郎みたいに抱えている(いや、二宮金次郎はなにも抱えていなくて、薪を背負っているだけだ)。

 だから、僕は人間関係を表す言葉を基本的には使わない。他者に向かってコミュニケーションを図る場合などを除いては、たとえば「親のくせに」や「友達だから」や「恋人のために」といった考え方はしない。

 僕は「人間関係」というものをそんな風には捉えていない。だから、僕に友達はいない。僕の「友達」は「親友」と、「親子」「兄弟」「恋人」「親戚」「味方」「他者」「敵」となにもかもと同様にして僕のなかにある。

 当時、僕にとって他者というのは、ある水準を突破すれば「友達」になるようなものではなかった。むしろ、そうした人間関係を表示する言葉を使うと、僕の「人間関係」は空中分解してしまいそうだった。

 それをしてしまうと、なんとも滑稽なものになってしまう、そんな気がしていた。だから、僕にとって「友達」という言葉はきわめて神聖だったのかもしれない。そういう感受性の強さはあった。

 僕にとっての人間関係はもっとずっとファジィで、曖昧でぼんやりとしているのだけれども「繋がっている」ということだけははっきりとわかり、そして、わかるものしか残らない。そんなものだった。

 それはたとえるなら、脳内ネットワークのようなものだろうか。ニューロンがにょきにょきとシナプスを伸ばしてほかのニューロンと結びついて、次々にネットワークを構築していく。

 ニューロン同士の結びつきは、より刺激が加わるものは次第に強化され、刺激の薄いものは次第に弱まってついには切れる。また、強烈な刺激は、一度でも強固なネットワークを形成する。

 僕にとっては人間関係もそのようなものだ。それは人間の自然としてもわりと妥当なのではないかと思っている。ただ、そう考えると一般的にはちょっと不便かもしれないけれど。

 つまり、ある瞬間に「友達」になったり「親友」になったりするわけではなくて、自分との繋がりがあるのかないのかということのほうに強い基準があって、それを言葉でカテゴライズすることに抵抗があった。

 だから、いつからか僕は「友達」という言葉を使わないようになった。そして、「友達」を失ったのである。僕のなかに「友達」はいない。ただ、もっとなにか大切にしたいものは残っている。

 僕はきっと、それをなににもまして大切にするだろう。それは自分でもちょっとどうなのかと思うほど、きわまっている想いなので、いささか不健康な発想じゃないかとは思う。

 それでも、僕は自分に繋がる人を決して裏切らない。もちろん、僕はそうだというだけで、それを人に求めはしない。もしかすると、あなたも「友達」かもしれない。しかし、僕にはわからない。
by kourick | 2003-01-05 00:00 | 随想