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どちらにしようかな、天の神様、ちょっと来い

 次の式の値を求めよ。
6 ÷ 2(1+2)
 これは昨年末、台湾の facebook コミュニティ(?)で話題になり、日本のネットでも大きな反響をよんだ問題である。なにかひっかけがあるんじゃないかと身構えてしまうかもしれないけれど、素直に計算してみてほしい。どうなっただろうか。ちなみに僕は「1」になった。

 しかし、この式は「9」と計算することもできる。僕は正直、気付かなかったけれど、そう計算した人のほうが元記事を読むかぎり、多かったようだ。どういうことかわかるだろうか。教育関係の算数業界の人なら、「ああ、あれね」という感じかもしれない。つまり、こういうことである。
(a)
 6 ÷ 2(1+2) =
 6 ÷ 2(3) =
 6 ÷ 6 = 1
(b)
 6 ÷ 2(1+2) =
 6 ÷ 2(3) =
 6 ÷ 2 × 3 =
 3 × 3 = 9
 元の式を、(a)は二項式とみていて、(b)は省略された三項式とみているという違いがある。なるほど、という感じである。まあ、「9」になるような計算を拒否する便法というのはけっこうあると思うけれど、厳密に言うならやはり、構文エラーだろうなと思う。ポーランド記法なら起こらない。

 ちなみに、元の式の「÷」も省略してしまうなら、
6 / 2(1+2)
という一項式になるが、こちらの値は「1」とする人が多そうである。同じことではあるのだけれど、これらの省略を展開し、「9」を求める人はあまりいないだろうということは想像できる。どうしてか。はっきりと(上下に)区切られているからだろう。これはもう、認知心理学の領域である。

 もともとの「a÷bc」のかたちの式だと、(a)の「a÷(bc)」と、(b)の「(a÷b)c」にけっこう解釈が分かれるのに、「a/bc」のかたちの式だと、ほとんどの人が「a/(bc)」と解釈して、「(a/b)c」とは解釈しなそうだというのはなかなか面白い(試してみないとわからないけれど、たぶんそうだろう)。

 さて、元の式である。この多意性はどこに問題があるのかと考えると、これは記号の結合力の問題なのかなと思う。記号の結合力というのは、いわゆる、「足し算や引き算よりも、掛け算や割り算を先に計算しましょう。括弧があったら、そのなかを最初に計算しましょう」というやつである。

 算数だったら、「=」<「+」「-」<「×」「÷」の順に結合力が強まると教えられる(この書き方でわかるかな)。さらに、基本的に左のほうから順番に計算しましょうというルールもあったりする。記号の結合力が定まっていると、余分な記号を省略することができるから便利だ。たとえば、
(5+(3×6))
 は
5+3×6
 としてもいいし、
((3×6)×(8+(2×5)+(7×4)-3))
 は
3×6×(8+2×5+7×4-3)
としてもいい。もちろん、省略してはいけない括弧もある。式の一意性が保たれているなら、冗長な括弧や結合力の強い記号を囲む括弧は省略できるということである。とはいっても、これはメタなルールであって、どこかに書かれているかというと書かれてはいない。

 「まあ、わかるよね」という慣習である。定義と形成規則の他に、記号の結合力を明記するということは普通しない。仮に明記したとしても、今回の場合のような「演算子の省略」を許すことはないだろう。これはやはり「共通因子は先に計算しちゃいましょう」という慣習である。

 こういうのは人が筆記するようなときに記号を省略するためのテクニックにあたるもので、「厳密に言うと、おかしい」というようなことはけっこうある。「ここの括弧は省略するけど、これ一意に読めるよね」という暗黙の了解のなせるわざみたいな感じである。今回の場合だと、
(a)
 6÷(2(1+2))
(b)
 (6÷2)(1+2)
 (a)の括弧は冗長だから省略するけど、これわかるよねという意識があるだろう。一方、(b)の括弧を省略しようとはあまり思わないに違いない。どうしてか。それを省略してしまうと多意的になってしまうことがあきらかに予想できるからだ。しかし、こうした判断は意外と曖昧なものである。

 ちなみに、記号の結合力というのは論理記号にもあるし、記号言語だけかというと自然言語でも分野によっては結合力が定まっている。たとえば、法文における「及び」と「並びに」は「及び」のほうが強いし、「又は」と「若しくは」は「又は」のほうが強いと決まっている。

 読むという行為は文字が読めるならできているものと思うだろうし、実際、そうなのだけれど、なにかおかしいなと思うことがあったら、文章を否定する前に一度「自分は本当に読めているのか?」ときちんと疑ってみることも必要かもしれない。意外と読めていないこともあるものである。

 ところで、この話題をみていて僕が「なんだかな」と思ったのは、数学者や教師を名乗る人たちはわりとコメントを出しているのに、こういうのをもっとも得意とするだろう論理学者や哲学者のコメントはあまり見かけなかったことだ。それが僕には残念でならないのである。
by kourick | 2012-01-10 13:00 | 考察