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それは新品の化石のように古惚けている

歴史の繰り返しは歴史のうちにはない。それは歴史を語ることのうちにのみありうる。こうした理解は実証史学こそが歴史学に他ならないという見解とバッティングしない。歴史を特定の立場に都合の良いものとしないように、因果関係のほか価値判断なども排除し、可能な限り、確証バイアスのかからないように客観的事実を羅列する。そういうものこそ、歴史の名に相応しい。

およそ近代的な歴史観はそのようなものだし、実際、そのようなものとなるように歴史は語られることを望まれる。多様な歴史認識や歴史解釈は、そのリソースがあってこそできるというわけだ。僕も基本的にはその見解に賛同するけれど、しかし万能でもない。文献史料は十全なものではないからだ。結局、それも実証主義的な歴史の語り方という態度の次元に回収される。

しかし、だとすると、歴史とはその語り方次第で、いかようにもその相貌を変化させてしまうのではないか。それは、ありもしない過去を作為的に仕立てることをも可能にし、肯定すらするだろう。すると要点は歴史製作の過程に移され、ときに歴史の正統性は歴史の語り方の多様性のうちに霧散してしまうのではないか。たしかに、「歴史は勝者によって作られる」とも言われてきた。

実際、そうなのかもしれない。理神論者が、理性によって受け容れられる真実のみを集めて合理的な宗教――自然的宗教を作ろうとし、いまとなっては大局的に否定されているように、客観的事実のみを集めて歴史を俯瞰しようとすることも、結局のところ、素朴な意味合いにおいては否定されることになるだろう。近代的な宗教概念と同様にして、実在的な歴史観もまた相対化される。

求心的な暴走は遠心的に制御される。ただ、それによって破壊してしまうのなら元も子もない。
by kourick | 2009-04-04 00:00 | ○学