なにはともあれ「世界」である。『論考』 は世界から始まる。世界は事実の総体である(「1.1」)。事実は命題によって描写される(「2.1」→「2.182」「2.19」→「3」→「3.1」)。命題の総体が「言語」である(「4.001」)。こうして、ザックリと「世界」と「言語」の対応関係は示される。

 世界における事実の成立・不成立が、言語における命題の真偽に対応しており、流行りの言葉を使うなら互いが互いに随伴するような対応関係をもっている。だからこそ、「思考しうることは可能なこと」でもあり(「3.02」)、「記述されうることは起こりうること」でもある(「6.362」)。

 「机上の空論」というネガティブな慣用句があるけれど、机上でシミュレートできることが現実において再現できるということはもはや珍しいことではない。67年前、日本は身をもってそのことを体験している。日本人は技術を重視しがちだが、理論を侮ってはいけない。

 さて、ここからである。じゃあ、このとき、「命題」とはなんだろうか。命題とは「思考を表現するのに用いられた記号」のことである(「3.12」)。命題とは記号である、しかし、単なる記号の羅列は命題としての要件を満たしていない。それは思考を表現していることによって命題となる。

 それでは、この「思考(Gedanke)」とはなにか。実のところ、その身分はいまいちはっきりしていない(と僕は思う)。けれど、それがどのようにして現れるかということは示されている。いわく、思考は「知覚可能な仕方で表現された」「有意味な命題」として現れる(「3.1」「4」)。

 ゆえに、『論考』 においては「表現できない思考」などというものはありえない。人はときに「言葉にはできないけどちゃんと考えてるんだよ」と言いたいことがあるけれど、バッサリ言って、それは「考えられていないから言葉にできないんだ」ということになる。なかなか手厳しい。

 表現された命題が思考であるということからは、「じゃあ、そもそも私はいったいなにを表現しているのか」という疑問はあるかもしれない。それが思考じゃないのか。しかし、『論考』 においては、もはや「表現されるまえの思考」の存在論的身分を問うことはできない。

 なぜなら、存在というのは世界のうちに現れてきているものにのみ問いうることであるからだ。思考が命題として表現されたものであり、命題もまたひとつの事実であるとしたら(「3.14」)、思考もまたひとつの事実としてしか世界のうちに現れてこない。

 表現されていない思考というものが仮に「ある」のだとしても、それが「本当にあるのか」というような問いはできない。いや、してもよいけれど、それはナンセンスだということになる。なぜなら、表現されていない思考などというものは、そもそも世界のうちに現れていないからである。

 ややこしいなと思うなら、「表現されていない思考? 表現されていないんなら、ないんじゃない?」と考えてもいい(厳密には「ない」とも言えない)。「いや、頭のなかにはあるんだよ」と言いたいかもしれないけれど、脳みそを解剖しても思考はでてこない、そんなものはない。

 これは音読しかできなかったはずの子供が「黙って読んでいる」ときに「本当に読んでいるのか」と疑問に思うことと似ている。子供は「読んでいる」と言い張るかもしれないけれど、それが「本当に読めているかどうか」は表現させてみないことにはわからない。

 表現されていない思考も同じである。「考えているんだ」と言い張る人には、「本当に考えられているのかどうか」を表現してもらうしかない。そうであるなら判断できる。つまり、表現されていない思考が仮に「ある」のだとしても、その段階で「『ある』 とは言えない」のである(「5.61」)。

 いあまあ、言ってもよいのだけれど、それは「ナンセンスだ」ということになる。受け手としては「いや、ないだろ」とも言い切れないので「ああ、そうなんだ」としか言えない。あるいは「使用されない記号は意味を持たない」のだから(「3.328」)、あったとしても「無意味だ」ということになる。

 しかし、それでも食い下がり、「いや、私の頭のなかでは表現されているんだ」と言う人もあるかもしれない。往生際が悪いけれど、しかし、これはよくよく考えてみるとけっこう微妙なところだ。前半を読んでいる限りは無理だが、独我論までいけばワンチャンある、か?

 いま、これを書き進めていて僕も思うけれど、やはり「まだ表現はされていないけれど、これから表現可能な思考というものが、事実として表現された思考よりまえにあるのだ」と言いたいものだ。思考(や意味)のような抽象的な「なにかがある」という誘惑に駆られる。

 あるいは、そういったものはたしかにないにしても、「頭のなかで言語化されている思考もある」「描こうとしている絵はある」というようなことは言いそうになる。そうやってイメージしている内容によって、所定の脳の部位は活性化していて、それが思考している証拠じゃないか。

 しかし、表現してみてはじめて、「ああ、自分はこんなことを考えていたのか」と思い知らされることもある。この文章にしたって、表現の試行を繰り返してやっと、思考の骨格が見えたり、なに書いてるのかわからなかったりする。まあ、これはたんに僕のメモリ不足かもしれないが。

 それでも「思考はある」と言いたくなるのは、おそらく、僕が僕の頭のなかで喋っていること(思考?)は「僕には聞こえている」という直感に由来しているのではないかと思う。ほかの人の頭のなかに思考があるのかはわからないが、私の思考は私には知覚可能なのだから、ある。

 これはちょっとバッサリいっちゃまずそうな疑問ではある。いや、バッサリいきたいのだけれど、たぶん、こうした気分をバッサリ落とすような独我論は方向違いだろう。「頭のなかで喋っていることを聞く」という比喩的な表現で示されているのは、いったいどんな知覚だろうか。

 はたして、それは知覚だろうか。知覚じゃないような気はする。たまに誰か(自分?)の声付きになってドキッとすることはあるけれど、そんなことはまれである。じゃあ、どんな行為なのだろうか。これはけっこう面白いテーマだけれど、とりあえずさきに進むことにしよう。

 なにはともあれ、ウィトゲンシュタインはとにかくそうした抽象的にしか把握できないなにかは「世界」のうちには含めなかった。それは「ある」とは言えない、これで一貫している。人は言語を用いて思考する、そして、その限りにおいて、「ある」とか「ない」とかも問いうるのだ。

 仮に、命題を「外言」、思考を「内言」として把握するとしたら、『論考』 において、これらは完全に一致する。ゆえに、外言になっていない思考はありえないし、内言になっていない命題もありえない。表現されていることは考えられているし、考えられていることは表現されている。

 というわけで、『論考』 において、思考と命題は緊密な対応関係をもっている。というか、実質的には(ほぼ)イコールである。さて、思考が命題であるための条件には「有意味である」というものもあった。僕が思うに、この「意味(Sinn)」の考察が独我論の次のステップかなと思う。(続く)
[PR]
by kourick | 2012-05-27 20:00 | 考察
 言語習得の途上にある子供と接したことのある人は覚えがあるのではないかと思うけれど、そうした子供に文章を「読んでごらん」と言うと、たいてい声に出して読む。それが発達の必然なのかどうかはちょっとわからないけれど、音読できないのに黙読できるということはまずない。

 もっとも、文字言語よりも音声言語のほうを先に習得することになるだろうから、これは当たり前というと当たり前のことかもしれない。そもそもそうでないのなら、「読む」という行為自体が成立しない。「読む」という行為を「文字を音声にすること」と把握するとそうなる。

 しかし、大人になるとそうともかぎらないわけで、普段、なにかを読むというときにやおら音読を始める人はそういないだろう。大人が黙って文字を眺めているのを見て、子供が「なにをしているのだろう」と奇妙に思わない理解力には天才的なものがある(思っているのかな)。

 黙読している人を指して「あれ、なにしてるの?」と音読しかできない子供に訊いたら、「あれはね、本を読んでるんだよ」とか教えてくれるかもしれない。そして、自分も同じ格好をして本を開くのだ。彼はいま、本を読んでいるのだろうか、いないのだろうか。

 音読ならチェックするのが容易だけれど、黙読だと傍目からはわからない。「じゃあ、声に出してごらん」ということになる。僕にとってそれは「読んでいるふり」だけれど、彼にとっては「読んでいる」のかもしれない。「読む」という行為はどこまで「読めている」という実績を伴うのか。

 さておき、音声を文字に、聴覚的な情報を視覚的な情報に変換できるというのは、成長過程におけるちょっとした発見には違いない(人類の歴史で考えるなら、数万年はかかっている)。あるいは、あまりにもありふれたことなので、これといってなにも思わないだろうか。

 ピアジェとヴィゴツキーの論争で有名だけれど、コミュニケーションの道具としての言語のことを「外言」といい、思考の道具としての言語のことを「内言」という。たぶんではあるけれど、黙読というのは、この内言を用いないといけないから難しいのだろうというのが拙速な理解だ。

 子供がよくひとりごとを言っているのは、問題を解決しようとする過程でその「外言」を内面化していっているのだと考えられている。そうして内面化された言語が「内言」である。僕もよく「頭のなかで喋る」けれど、これは「内言」を用いている。あるいは、これこそが「内言」である。

 人は普段、思考を伝達しようとして喋る。しかし、発達的には、なにかを伝達しようとして用いる言語が内面化して、思考できるようになると考えられる。じゃあ、僕たちはそもそもなにを伝達しようとしていたのだろう。言語化される前の広い意味合いでの思考とはいったいなんだろう。

 それは意図なのか欲求なのかもっとほかのなにかなのか、あるいはそんなものない(行為のみある)のだろうか。しかしまあ、どのようなレイヤを想定するにせよ、子供たちは暗闇のなかから意味を生み出しているわけではない。それは訓練され、学習されるものである。

 一定のコードは子供の誕生に先立って成立しており、それは共同体において担保されている。それを子供たちは養育者(環境)から学習し、使用し、応用する。さて、そんなわけで導入が無駄に長いけれど、今回はウィトゲンシュタインの独我論をみてみたいと思う。

 これはわりと解釈の余地のあるところで、いろいろな人がいろいろなことを書いているのだけれど、正直、それらを読んでもちょっと理解できなかったので、僕は僕なりに勝手に読もうかなと思う。そもそも僕は、独我論のなんたるかというものがいまいちわかっていないのだ。

 独我論にはいろんなバージョンがあるけれど、なににせよ、その肝にあるのは「この私の特別さっていったいなんなんだ!」というワンダーなセンスのようだ。「私」というときに、他の何者でもない、まさに「この私」であることの不思議さ、これが独我論の肝にある(みたいだ)。

 かの涼宮のハルヒも似たようなことを言っていたような気がするし、誰しも子供の頃に一度は考えてみることのようなのだけれど、実のところ、僕はこれがいまいちわからない(哲学的なセンスがない)。言っていることはわかる(ような気がする)のだけれど、やはりどうもわからない。

 むしろ僕は、僕の意識はけっこう自動的な感じがしている。たんに普段からぼうっとしているだけと言われるとそうかもしれないけれど、主体として明確な自己意識を保持しているのかといわれると、いささかこころもとない。内省はできるものの、どこか他人事のような感覚もある。

 もしかすると、これも独我論から照射される問題なのかもしれないけれど、通常の独我論のような、主体性の濃さからくる個我の統制感よりも、むしろ主体性の薄さからくる個我の空虚感のほうが切実な問題のように僕には感じられるのだ。僕の「私感」は離人症的なまでに薄い。

 僕はどちらかというと意識の主体性というようなものよりも、意識の追従性というようなものほうに不思議さを感じている。わりと意識が状況を後追いしているようなところがあって、エピソード記憶もほとんどないし、ふっと我に返って自己を同定しているようなところがある。

 思うに、僕が僕として、僕が僕のように生活を続けるために、僕の意識はもはや、さして必要ないのではないか(と、「僕」はいま思っている)。そうであったとしても、僕は環境に適応し、僕であることを続けるだろう。むしろ、意識のほうがイレギュラで、生活を邪魔することすらある。

 もっとも独我論というのはそういう精神病理や社会病理のような心理学的な問題意識ではなく、もっと形而上学的な問題意識なんだよと言われるとたしかにそうかもしれない。だとすると、僕の存在の問題はもはや哲学の範疇にはないということで、まあ、これもそうかもしれない。

 僕というものをトータルで考えるときに、意識のあるほう(自我)にプライオリティを持たせるのは、まさにそれを考えているのが自我なので仕方のないところもあるが、いまいちフェアな感じもしない。欠席裁判じゃないか。僕は意識のないときの僕もけっこう信頼しているんだが。

 というわけで、『論考』 の独我論なんだけれども、この独我論が面白いのは、それが出発点というよりも到達点の先に現れることかなと僕は思っている。順番としては「世界」→「言語」→「私の言語」→「私の世界」からの「自我」となっていて、これは(なぜか)逆向きも成立する。

 さて、こう書いたところでわけわかめで、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前んなかではな」というだけのことになってしまうので、実際にテキストをみてみることにしよう。僕は、この独我論は 『論考』 だけからわかりたいと思うし、それでわからないなら、わからない。(続く)
[PR]
by kourick | 2012-05-26 20:00 | 考察
 いまどき「世界は・・・」などと統一的に語ろうものなら、かなり危険なそうとうヤバイぶっちぎりでイカレたヤツじゃないかと思われかねないが、ウィトゲンシュタインの 『論考』 はそんなふうにして始まる。しかもそれが、どういうわけか格好良い。その巧みな「空中戦」に痺れるのである。

 もっとも後期の「泥臭さ」のほうが渋いよという人もいて(『論考』 も泥臭いと思うが)、そのあたりは個人の好みということになっている。ただ、していることはそう変わらない。前期と後期は鮮やかな対比を示すのだけれど、ウィトゲンシュタイン自身のスタイルは一貫しており連続している。

 いや、むしろ逆だろう。ウィトゲンシュタインのスタイルが一貫して連続しているからこそ、前期と後期は鮮やかな対比を示す。後期は 『論考』 をも成立せしめた世界の探究が行われる。だから、彼にとって、それを一冊の完結した書物にまとめられないのはたぶん必然だったのだ。

 ウィトゲンシュタインは 『論考』 において、バベルの図書館にある書物の有意味な命題すべてをマークアップすることに成功した。しかし、『論考』 自身もバベルの図書館の一冊だということに気付いてしまう。自分はどうして 『論考』 を書けたのか。この「謎」の探究が後期の仕事だ。

 さて、そんなこんなでまたちょっと書いてみたいと思うのは、前回の補足も兼ねて、『論考』 の「世界」についてだ。といっても、『論考』 における分析の最小単位は命題(ないしはそれに対応する事実)なので、まずは「1」の全体を見ることから始めてみよう。
1  Die Welt ist alles, was der Fall ist.
1  The world is everything that is the case.
1  世界は成立していることがらの総体である。
 冒頭の「Die Welt」は英訳版だと「The world」になり、日本語だと定冠詞の「Die」に対応するものはないが(これは大きなニュアンスの違いだ)、つまり、「世界」である。ちなみに「Welt」の「W」が大文字なのは、ドイツ語の名詞だからというだけで特別な含みはない。

 さてはて、そもそもこの命題はいったいなんなのだろうか。なんなのかという言い方もないが、要するに、この「ist」はどういう働きをしているのかということだ。それは繋辞なのか等号なのか存在の表現なのか(「3.323」)、等号だとしたら、それは定義なのか再認判断なのか。

 これは簡単なように見えて、意外と難しい。「話すというのは類語反復に陥ることさ」とあっけらかんとできるならよいのだが、そうは言ってもどうにもならない。もっとも手っ取り早いのは、これはウィトゲンシュタインという神による「そういうものなんだよ」という「託宣」だという理解だろう。

 これはけっこう本気の冗談だ。定義でいいじゃんと思われるかもしれないけれど、定義だとするとこれは「世界」の定義ということになり、「言語」と対応している「世界」をその外側から定義するということは「言語」の外側から定義するということになり、ウィトゲンシュタインにはできない。

 そもそも定義とはなんだろうかという方向には進まないことにしよう。そうしたら次は、じゃあ、なにかしらの主張ということじゃないかと思われるかもしれないけれど、主張だとするとこれは「世界」と「成立していることがらの総体」が表現しているものは「同一だ」という主張になるだろう。

 ウィトゲンシュタインは「二つの表現の指示対象が同一であると主張することはできない」(6.2322)と言っている。なぜか。端的に言うと、私がそれらの指示対象を把握しているのなら「同一だ」などと主張する必要はないし、把握していないならそもそもその主張はできないからである。

 ゆえに、そうした命題は「私が二つの表現を検討する観点を指し示すにすぎない。すなわち、指示対象の等しさという観点から見よ」(6.2323)というわけである。つまり、「これ、そういうことになってっから! 見てみ、ほら! ね?」ということだ。「示唆」と言われる行為に近いだろう。

 前回のことを踏まえると、これこそまさに「解明」というところのものである。とりわけ、「1」から「2.063」は存在論をしていると言われ、どうすんだこれみたいな命題の集まりになっている。この部分を「なるほど、そういうことにしておこう」と受け容れられるかどうかはかなり大きい。

 特に「1」は始まりにして全てみたいな感じで奥深い。人は普段、「世界」という言葉を使っていても、それがどういうものなのか厳密に追究することはないし、そんなことができるとも思わない。だが、ウィトゲンシュタインは「世界はある!」という意志からその完全な記述を試みた。

 世界とは成立していることがらの総体である(「1」)。成立していることがらとは事実である(「1.1」)。事実は命題によって描写される(「2.1」→「2.182」「2.19」→「3」→「3.1」)。そうして表現された命題もまた、ひとつの事実である(「2.141」「3.14」)。

 事実を描写している命題は、それ自身がひとつの事実である。さて、このとき、「1」という命題もひとつの事実である。ということは、「世界は事実の総体である」というときの「事実」のなかに命題「世界は事実の総体である」自身もまた含まれている。

 すると、「世界は事実の総体である」という命題自身のなかに当の命題が含まれていることになり、一見、世界が延々とネストしているように見える。世界の内側に世界が、世界の外側に世界があるように見える。この循環は悪性のものではないものの気になるものではある。

 ウィトゲンシュタインが 『論考』 に 『論考』 を適用するというようなことや、引用の問題をどう考えていたのかはわからないけれど、「1」から「2.063」の命題に現れる「世界」は、そうした循環を先取りして成立している包括的全体として把握するのが、たぶん適当だろう。

 たとえば、「2.063」までを見てみよう。世界とは成立していることがらの総体である(「1」)。成立していることがらとは事実である(「1.1」)。事実は事態の成立である(「2」)。事態の成立・不成立が現実である(「2.06」)。現実の全体が世界である(「2.063」)。

 これ、一見、変じゃないだろうか。この変さは「1.13」も参照するとわかりやすい。そこでは「論理空間のなかにある諸事実、それが世界である」と言われる。これを素直に受け取ると、論理空間というものがあって、そのなかには成立している事態と成立していない事態がある。

 そして、その成立しているほうの事態の総体が「世界」である。ということは、論理空間のなかには成立していない事態というものが残され、そっちは「世界」には含まれないということになりそうだ。「世界」とそこに残された事態を合わせて「現実」と思ってしまいそうになる。

 つまり、「現実」のほうが「世界」より大きい。「2.06」までを読んでいるとそう思ってしまう。だが、違う。ウィトゲンシュタインは「2.063」でそれをすべて回収にかかる。いわく、「現実の全体が世界」である。これはいったいどういうことなのか(「3.01」「4.26」とかも)。こう考えるしかない。

 まず、僕たちは「世界」に直面する。それは「成立していることがら」すなわち「事実」の集まりであり、そこから理解の道は始まる。そこで「成立していることがら」がわかったとなると、僕たちは同時に「なにが成立していないのか」もわかったことになる(「2.05」)。

 要するに、「2.063」においては、成立していることがらは成立しているという仕方で成立しており、成立していないことがらは成立していないという仕方で成立している。「成立していることがら」も「成立していないことがら」も、いずれにせよ、ある仕方で「成立している」ということだ。

 このような押さえかたをするなら、「2.06」に書かれる「否定的事実」という不可解な表現も、それなりきに納得できるかたちで理解できることになる。ただ、依然として、「否定的事実」という表現が不注意なものであることは否めない。けれど、まあ、それはいい。

 あるいは、こういう言い方もできる。成立している事態は事実なのだから、世界の一部である。成立していない事態は事実ではないのだから、世界のうちに現れてはこない。ただそれは、成立している事実の可能性として世界のうちに含まれてはいる。世界は可能性に満ちている。

 とんちかよ、という感じだが、そういうことである。ウィトゲンシュタインの「世界」は一個の包括的全体性をもっている。だが、もし知識状態という観点からみるなら、「1」の「世界」と「2.063」の「世界」は明らかに異なっている。そこで「世界」は更新(発展)されていると言っていいだろう。

 なぜなら、「1」では「成立していることがらしか知らない」が、「2.063」では「成立していないことがらも「成立していない」という仕方で知っている」ということになるからだ。けれど、この書物はそういう書物ではない。だから、あるいみ、この書物の全命題は同時に成立していないといけない。

 同時に成立している命題群を「どこから読み始めるか」というのはちょっとした難題だが、最終的に全部読むなら「どこから読んでもかまわない」ということなので、気楽というと気楽ではある。小説だったら、後ろから読むと時間は逆行するものだけれど、『論考』 はしない。

 さて、ここまで書いておいてなんだけれど、実は上記したようなネストはウィトゲンシュタインによると起こりえない。それはおもにラッセルのタイプ理論を非難している箇所で言われている(特に「3.333」)。けど、書いた。「世界」に関して、ちょっと腑に落ちなかったからである。

 というわけで、「5.54」からの命題的態度はどうなってるんだとか、「5.6」からの独我論はどうなってるんだとか、もうちょっと気になるところはあるかもしれないけれど、このあたりにしておこうと思う。最後にギャグみたいな一節が 『論考』 にあるので、それを引用しておしまいにしたい。
神がある命題を真とする世界を創造するならば、同時に神はまた、その命題から帰結するすべての命題が真となる世界をも創造するのである。同様に、命題「p」が真となる世界を創造しておきながら、命題「p」に関わる諸対象の全体を創造しないなどということもありえない。(「5.123」)
命題は、そこから帰結するすべての命題を肯定する。(「5.124」)

[PR]
by kourick | 2012-05-01 22:00 | 考察