奇跡的な出来事は奇跡だろうか。これはまあ、ちょっとややこしい表現であって、人間的な生物は人間かというような言い方をすると、もうちょっとややこしさを増すことができるかもしれない。一般的に「的なもの」は近似とみなされることが多いだろう。「ふりをする」に近い。

 「存在は存在者ではない」とちょっとわけのわからないことを言って有名になれた人も存在しているので、似ている表現を並列するというのは「なんかいい感じ」なことだ。もし暇なら「俺のリアルにはリアリティがないんだ」とか深刻そうに言うと、あなたもなんかいい感じになれるだろう。

 というわけで、バチカンには奇跡を認定する部署があり、年に数件から十数件の認定があるようだ。毎年毎月、世界中から奇跡の認定要請があるため、日々、その調査に赴いては「これは奇跡ですねミラクル」と奇跡的な出来事を奇跡として登録しているそうだ。

 ある出来事を「奇跡」として認定する機関があるという事実こそが奇跡と自己矛盾しそうなことを言いそうになるが、「バチカン認定の奇跡」には「インドの山奥で修業した僧侶」に似た凄まじい説得力があるのはたしかだ。それがもしヨガの達人だったら、もはや不可能はないだろう。

 とはいっても、そうして公式に認められる奇跡の大半は「病の治癒」であるらしい。奇跡の認定に当たっては「現在の科学・技術では説明が付かない」という項目があるようで、ひょんなことから起きることに定評がある「難病の平癒」という出来事は奇跡として認定しやすいみたいだ。

 たしかに聖書にも病気を治す(どころか、死者のよみがえる)奇跡が描かれている。詳しい理由は分からないけれど治ったというようなことや、わたしが病むって言ったからいまからわたしは病気記念日みたいなことが、当たり前のような事態として巷間を闊歩している。

 「馬鹿は風邪を引かない」という迷言があるけれど、そんなこともあるのかもしれない。馬鹿はストレスを感じないから免疫力が落ちないとか、馬鹿は風邪を引いていることに気付かないから病識のないうちに治っていたとかそんなところだろう。ナチュラルボーン馬鹿は偉大である。

 有名な奇跡というと、出エジプトのときの「モーセの海割り」というチートが思い出される。ラオウが渾身の力を込めて手刀を叩き込むとか、亀仙人がマッチョになってかめはめ波(どどん波でも可)を放つとかならわかるのだけれど、モーセはこれといった修行なしに海を割った。

 奇跡に説明は必要ない、海は割れた、そういうことだ。「オンバサラソワカ、アーメン」みたいなことは言ったかもしれないが(言うか)、それは海が割れたこととはあまり関係がないだろう。それはアラレちゃんが地球を割るときにイデオンソードは必要ないということと同じである。

 聖書には魔術師シモンというイリュージョニストが登場するが、彼は空中に浮かぶことができた。が、神に墜落死させられた。ここからわかるのは、人間は奇跡を起こさないほうが良いということだ。ほかの有名な奇跡というと「復活」も挙げられる。復活とは「死者の蘇生」のことである。

 死者の蘇生というとこれはもうとんでもないことに思われるが、実のところ死者が目覚めたという事態は枚挙にいとまがない。さすがに現代では少ないと思うけれど、歴史的にそういった逸話は多い。もちろん、厳密に言うと「仮死状態の人が起きた」ということだろう。

 お通夜のときに親族が集まってどんちゃん騒ぎをするのも、夜通しそんなことをしているうちに死者が目覚めることが実際にあったからだと(いう、まことしやかな話を)聞いたことがあるし、海外だと死者が目覚めたときのために棺桶を浅めに土葬していたとも聞いたことがある。

 橋爪大三郎さんによると「復活や輪廻は、死後の世界など存在するはずがないという、強烈な合理主義の表現」らしいが、本当にそうだろうか。少なくとも、ルネッサンス以降の理神論者たちがいうような後付けサクサクの合理性を真に受けるほど僕は素直ではない。

 もっとも僕も、基本的に宗教というのは合理的にできているとは思うのだけれど、それはやはり神秘主義的な発想と表裏一体となっていて、その超自然的な側面を排除して宗教を語ることってフェアなのかなとは疑問に思うところだ。それはちょっとしたズルさを孕んでいる。

 それにまあ、合理的だからといって真実だとも限らない。ロジックは内容にタッチしないからだ。処女懐胎において「処女(乙女)」と訳された単語はヘブライ語でもギリシャ語でも「若い女」という意味があったが、神学者たちはどちらの解釈をとるかというときに「処女」をとった。

 なぜなら、神は特別な存在なのだから、人間と同じように産まれはしないだろうと考えたからだ。子供が若い女から産まれるというのは当たり前のことだが、それは「当たり前である」がゆえに却下された。神は当たり前の存在ではないからである。これは実に理に適った不合理である。

 もし難点があるとしたら、それがファンタジーだということである。しかし、個々人の人生において、自分の重要な信念の一部がファンタジーだったということはそれほど問題だろうか。これはウィトゲンシュタインが書き残しているように、やはり簡単な問題ではないように思う。

 それによって、さらに生き続けられるような手段を手に入れたのなら、それにはやはり価値があったのだろう。テルトゥリアヌスは「不合理ゆえにわれ信ず」と言ったし、アンセルムスは「知らんがためにわれ信ず」と言った、それが最高に理性的な人たちの合理的な解答なのだった。

 さて、当たり前のように文意が行方不明になっているけれど、案外、こういったとりとめのなさにこそ、文章を読むということの楽しさがあったりするのではないかということを僕は提案したい。というか、本当はヒュームの奇跡論に関して書こうと思っていた。だが、これでおしまいである。
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by kourick | 2012-03-20 00:00 | 随想
 不味いもの(自分の口に合わないもの)には理由があるけれど、「美味しいものに理由はない」という発想は、誰もが抱いたことがあるだろう。主観に引き寄せられる感覚の場合、「美味しいから美味しいんだ」というトートロジーを否定することはできない。そう思うから、そうなのだ。

 納豆はネバネバしていて気持ち悪いじゃんと言われたところで、いや、ネバネバしていて気持ち悪いかもしれないけど美味いよと言われたらそれまでで(美味さという感覚を問うかぎりは)どうにもならない。それでも、美味しさを疑うことは可能だし、美味しさを説明することも可能だ。

 どうしてそんなことをする必要があるのかというのはもっともな意見かもしれないが、そうした考察が感覚の精度を細かにするというのももっともだろう。少なくとも、送り手は美味しさを考察し、追究している。僕はそうした考察と、そして、その過程で生まれる批評もけっこう好きだ。

 ハンバーガーは美味しい(と僕は思う)が、さまざまな理由からハンバーガーを決して食べない人もいる。そういう人は、ときにハンバーガーというものを否定する。それはそれでけっこうなことで、それを「美味いんだから食えばいいだろ」と一蹴することはやはり噛み合っていない。

 というか、僕の場合は「食べられるもので不味いものはない」というような程度の低い人間なので、美味しさをどうこうというのはちょっとわからなかったりする。あそこのラーメンは美味しいと言われるとたしかに美味いのだけれど、不味いラーメンを食べたことがなかったりもする。

 そして、今日は暖かいななどと思って街を歩いているときに「今日は日差しはあるけど、肌寒いね」などと言われると、とたんに寒気を感じるというようなこともあって、挙句に「今日はちょっと寒いな」なんて言い出しかねないので、人の認識というのはあてにならない。

 たしかに感覚は誤らないものかもしれないが、感覚をどのように認識するかという判断は、ちょっとしたきっかけで容易に覆る。価値観が多様化した昨今、人の好みを論じることは軽いタブーになっているように思うけれど、人の感覚を論じるようなことはもっとあって良いと僕は思う。

 というのも、僕がもっとそういうものを読みたいというだけの話なのだけれど、自分自身がそういうことをしようとは思わない。そんなことをすると硬軟巧みな煽りを喰らって、僕のガラスのハートが粉みじんに砕け散ってしまうからである。割ったほうも少し怪我をするかもしれない。

 だが、自分の好きなものに対して「いかに好きか」ということを「馬鹿になってみせる」ことによって表現するのはもう、ちょっといいかなとは思っている。言葉にならない好きさをそうした仕方で競争するのは、するほうもみるほうも疲れるんじゃなかろうか。

 しかし、正直、こんなに面白いものが溢れかえっているときに、なにかを客観的に批評するという行為にどれほどの積極的な意義があるのかと思わないこともない。いまどき、「面白い」ということは結果ではない、もはや前提である。楽しむから面白いというより、面白いから楽しむのだ。

 ただでさえ面白いはずなのに、それを楽しんじゃったらもうチョー楽しいじゃんというわけである。だから、「普通に面白い」という表現が生まれる。これは自分の想い入れはないけれど、まあ、良いんじゃないのという、感情的に一歩引いた表現だ。わかるわかる、みたいな感じ。

 いまの時代は人類史上、これまでもこれからも、たぶん、もっとも情報に溢れている時代なんじゃないかと僕は思っているけれど、いまや「面白いのは当たり前」である。そうじゃなきゃ、見向きもされない。むしろ、面白さの上にどれだけの付加価値があるかを試されている。

 なるほど、つまりこれは食べ物と同じ道を辿っている。美味いのは当たり前、面白いのは当たり前。江戸時代の人たちが白米を食って「そんなもんばかり食ってると脚気になるぞ」と言われても、「いや、けど美味いし」みたいなことを言っていたのと同じである(同じか?)。

 キリンの首は長いけれど(脚も長いから、もしかすると胴体が短いのかもしれないが)、あれは「樹の葉を食みたい」と思ったから伸びたわけではない。そういう目的論的な発想は、少なくとも現代の生物学ではしない。キリンは首が伸びちゃったから、樹の葉を食むようになったのだ。

 要するに、目的が先にあって変化が生じたとは(率直には)考えない。結果を事実として認め、それに説明を加えて納得するのである。批評においても、「美味しさ」「面白さ」は目的ではない。それらは説明によってそうなるのではない。成立している結果から、思考が始まる。

 「美味い!」「面白い!」と思った肯定的な感情をいかにして表現するかというときに、「面白すぎて、だから、こんなことしちゃいました!」と爆発的に表現することもあれば、「ここがこうなっていて、だから、面白いですよ」と分析的に表現することもある。どちらも方法だろう。

 さて、相変わらず、とりとめもないことを書いているけれど、書いた傍から「キリンの首は関係ないんじゃないかな」と思い出している。いつから関係ないことは書いてはいけないことになったのかわからないけれど、関係ないところに飛躍しているあたり、僕らしい楽しみ方ではある。
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by kourick | 2012-03-15 00:00 | 随想