あることに不思議さを感じたとき、どうしてそれを不思議だと思うのかを反省してみることは、物好きな人にとっては面白いものだ。たとえば、物体消失の手品に不思議を感じるのだとしたら、それはその人が「物体は急に消えたりしない」ということを経験的に知っているからだろう。

 物体が出現したり消失したりを繰り返しているような世界に住んでいる人にしてみたら、ずっと同じところにあり続ける物体のほうが不思議に違いない。物体消失よりも、物体固定の手品のほうに不思議さを感じるだろう。不思議さはそれまでの経験によって規定されていると言える。

 手品業界に詳しいわけではないが、たぶんマジックにも素人客向けのマジックと玄人客向けのマジックがあるだろう。偏見かもしれないけれど、小学生に技巧的なマジックを見せたところで、その面白さは伝わらないのではないか。耳がデッカクなったほうが喜ばれそうだ。

 感じ取った逸脱、異常、変化をはっきりと把握するためには、もともと自分はどういう常識を持っていたのかをはっきりさせないといけない。「なにも不思議に感じない」と言う人だって、ある朝、西から太陽が昇ったら不思議に思うだろう。常識に不感症になると、不思議にも不感症になる。

 あるいはこんなこともあるかもしれない。二人の子供が積木遊びをしていた。一人が塔を作ると、もう一人が塔を壊す。一人が「どうして僕の塔を壊すの?」と尋ねると、もう一人が「もとに戻したんだよ。君こそ、どうして僕の海を壊すの?」と言った。子供の常識と不思議は紙一重である。

 子供の頃、「どうして人を殺してはいけないの?」という子供らしい質問を大人が提案してきたとき、僕は「いかにも大人の言いそうなことだ」と思った。その質問は「人を殺してはいけない」ということが前提にあって、その前提を子供が疑うというシチュエーションなのだ。

 だが、僕の感じていた不思議はそれとは反対に「どうして人を殺しちゃうの?」のほうだった。だから、大人から「どうして人を殺してはいけないのでしょうか?」と投げかけられるたびに、僕はむしろ「どうして大人はそんなことを言うのだろう?」と不思議に思った。

 だって、人を殺しちゃいけないのは仕方のないことだ。誰かがそう決めたことがあるのかどうかわからないけれど、それは誰も文句を言わないほどに無根拠に正しそうに思われた。また、人を殺すというのはどこか気持ちの悪いことのように思った。哀しいこともたくさんあったんだろう。

 ただ、それでも人は人を殺しちゃうものらしかった。僕は人が人を殺す現場に立ち会ったことはなかったけれど、いろいろな記録や証言から、人が人を殺せるのは歴史が証明していた。どうして殺しちゃいけないことがわかっているのに殺しちゃうのか。そのほうが不思議だった。

 硬直化した不思議というのは、どこか不気味なものだ。これは規範(ノモス)と自然(ピュシス)という観点の違いになるけれど、大人は規範を重視しがちだし、規範を疑われることを恐れているようだった。しかし、僕は「人は人を殺す」という自然のほうに興味があったということだ。

 さて、違うことを書こうと思っていたのだけれど、変な方向に話が進んでしまったので、近いうちにまた更新したいと思う。ちなみに、いま僕が感じている不思議は「どうして更新しないほうがアクセスがあるの?」ということである。彼の家、彼さえいなけりゃ、居心地いいな、みたいな?
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by kourick | 2012-01-31 00:00 | 随想
 次の式の値を求めよ。
6 ÷ 2(1+2)
 これは昨年末、台湾の facebook コミュニティ(?)で話題になり、日本のネットでも大きな反響をよんだ問題である。なにかひっかけがあるんじゃないかと身構えてしまうかもしれないけれど、素直に計算してみてほしい。どうなっただろうか。ちなみに僕は「1」になった。

 しかし、この式は「9」と計算することもできる。僕は正直、気付かなかったけれど、そう計算した人のほうが元記事を読むかぎり、多かったようだ。どういうことかわかるだろうか。教育関係の算数業界の人なら、「ああ、あれね」という感じかもしれない。つまり、こういうことである。
(a)
 6 ÷ 2(1+2) =
 6 ÷ 2(3) =
 6 ÷ 6 = 1
(b)
 6 ÷ 2(1+2) =
 6 ÷ 2(3) =
 6 ÷ 2 × 3 =
 3 × 3 = 9
 元の式を、(a)は二項式とみていて、(b)は省略された三項式とみているという違いがある。なるほど、という感じである。まあ、「9」になるような計算を拒否する便法というのはけっこうあると思うけれど、厳密に言うならやはり、構文エラーだろうなと思う。ポーランド記法なら起こらない。

 ちなみに、元の式の「÷」も省略してしまうなら、
6 / 2(1+2)
という一項式になるが、こちらの値は「1」とする人が多そうである。同じことではあるのだけれど、これらの省略を展開し、「9」を求める人はあまりいないだろうということは想像できる。どうしてか。はっきりと(上下に)区切られているからだろう。これはもう、認知心理学の領域である。

 もともとの「a÷bc」のかたちの式だと、(a)の「a÷(bc)」と、(b)の「(a÷b)c」にけっこう解釈が分かれるのに、「a/bc」のかたちの式だと、ほとんどの人が「a/(bc)」と解釈して、「(a/b)c」とは解釈しなそうだというのはなかなか面白い(試してみないとわからないけれど、たぶんそうだろう)。

 さて、元の式である。この多意性はどこに問題があるのかと考えると、これは記号の結合力の問題なのかなと思う。記号の結合力というのは、いわゆる、「足し算や引き算よりも、掛け算や割り算を先に計算しましょう。括弧があったら、そのなかを最初に計算しましょう」というやつである。

 算数だったら、「=」<「+」「-」<「×」「÷」の順に結合力が強まると教えられる(この書き方でわかるかな)。さらに、基本的に左のほうから順番に計算しましょうというルールもあったりする。記号の結合力が定まっていると、余分な記号を省略することができるから便利だ。たとえば、
(5+(3×6))
 は
5+3×6
 としてもいいし、
((3×6)×(8+(2×5)+(7×4)-3))
 は
3×6×(8+2×5+7×4-3)
としてもいい。もちろん、省略してはいけない括弧もある。式の一意性が保たれているなら、冗長な括弧や結合力の強い記号を囲む括弧は省略できるということである。とはいっても、これはメタなルールであって、どこかに書かれているかというと書かれてはいない。

 「まあ、わかるよね」という慣習である。定義と形成規則の他に、記号の結合力を明記するということは普通しない。仮に明記したとしても、今回の場合のような「演算子の省略」を許すことはないだろう。これはやはり「共通因子は先に計算しちゃいましょう」という慣習である。

 こういうのは人が筆記するようなときに記号を省略するためのテクニックにあたるもので、「厳密に言うと、おかしい」というようなことはけっこうある。「ここの括弧は省略するけど、これ一意に読めるよね」という暗黙の了解のなせるわざみたいな感じである。今回の場合だと、
(a)
 6÷(2(1+2))
(b)
 (6÷2)(1+2)
 (a)の括弧は冗長だから省略するけど、これわかるよねという意識があるだろう。一方、(b)の括弧を省略しようとはあまり思わないに違いない。どうしてか。それを省略してしまうと多意的になってしまうことがあきらかに予想できるからだ。しかし、こうした判断は意外と曖昧なものである。

 ちなみに、記号の結合力というのは論理記号にもあるし、記号言語だけかというと自然言語でも分野によっては結合力が定まっている。たとえば、法文における「及び」と「並びに」は「及び」のほうが強いし、「又は」と「若しくは」は「又は」のほうが強いと決まっている。

 読むという行為は文字が読めるならできているものと思うだろうし、実際、そうなのだけれど、なにかおかしいなと思うことがあったら、文章を否定する前に一度「自分は本当に読めているのか?」ときちんと疑ってみることも必要かもしれない。意外と読めていないこともあるものである。

 ところで、この話題をみていて僕が「なんだかな」と思ったのは、数学者や教師を名乗る人たちはわりとコメントを出しているのに、こういうのをもっとも得意とするだろう論理学者や哲学者のコメントはあまり見かけなかったことだ。それが僕には残念でならないのである。
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by kourick | 2012-01-10 13:00 | 考察
「割り算は数字を入れ替えて計算しちゃダメなのに、どうして掛け算は数字を入れ替えて計算してもいいの?」
と、子供に訊かれたら、あなたはどう説明するだろう。たとえば、「答えが同じになるからだよ」と言えるかもしれない。しかし、それに対して「答えが同じになるかどうかは計算してみないとわからないよね?」と言い返されてしまったら、どうしたらよいだろう。

 たしかにその通りだ。それは計算してみないことにはわからない。こちらもムキになって「絶対に同じになるから気にするな」とか言うかもしれない。きちんとしたことは学校の先生が教えてくれるだろうから、それで問題はないが、「どうして絶対に同じになるの?」と訊かれたらどうしたものか。

 ときに「ペアノ算術なら乗算の交換法則が証明できるからだよ」とか言うことはできるかもしれない。しかし、「うちの学校はロビンソン算術かもしれないじゃない。帰納法は使っちゃダメだよ。それに帰納法による証明は蓋然的なんだよね、絶対じゃないじゃない」とか言われたらどうしよう。

 普通の子供はそんなことを言わないし、そんなことを言わないから普通の子供なのかもしれないが、「いや、その証明に使う帰納法は数学的帰納法だからね。数学的帰納法は「帰納法」と言われるけれど、実際には演繹法だから真理保存的なんだよ」ということはできるかもしれない。

 あるいは「厳密に言うと、たしかにちょっと違うかもしれないね。なにが違うかというと「式の表現する内容」は異なっているということ。けどね、「式を計算した結果」は同じになるから、あまり気にしないでいいんだよ」と言うこともできるかもしれない。表現は異なるのに結果は同じ、これは凄い。

 百円玉10枚と千円札1枚は「同じ価値」をもっているけれど、百円玉10枚と千円札1枚は「同じ」ですかということである。同じだけど、違う。一見、明らかに矛盾しているこの表現が、素直な感覚を表している。表現(素材と枚数)は異なっているが、価値は同じだということである。

 数学的言語というのは計算さえできたらよいのであって、その目的のためには結果さえ同じになればよいというのは正直な意見である。一方で、数学的言語というのは世界から抽象された事柄を表現することができて、なにかしらの意味を持っているんだというのも素朴な感想だろう。

 3人の子供が遊んでいるところに5人の子供が「なにしてるの、入れて」と言ってやってきたら、これはやはり「3+5」と表現したいものである。これを「5+3」とすると子供たちからの反発を食らうかもしれない。「結局は8人になるんだから同じでしょう」という理屈は通るだろうか。

 たしかに計算すると結果として「8」になる。「8人いる」ということである。しかし、式というのが思考の過程を示すものだったり、世界から抽象した事態を表現するものだったりするとするなら、この場合は同じではない。やはり、「3+5」が正解だろう。「3人いるところに5人きた」ということだ。

 これは別に特別な考え方ではない。わたしたちの日常はこんなことで溢れている。むしろ、結果の提出だけを求められることのほうが少ないかもしれない。情報量を削ぎ落とし「安全か危険かだけ教えろ。それができない専門家は無能だ」というような思考停止はあるかもしれないが。

 数学自体は無時間的かもしれないが、わたしたちの思考や計算は時間的なものである。公式を適用して、できるだけ端的な表現に式変形するパズルが数学の醍醐味だと錯覚させるような物言いはちょっと狭量ではないかと、僕なんかは思ってしまうほうである。
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by kourick | 2012-01-08 12:00 | 随想
 年を越し、さあ、そろそろ後編を書いてみようと思うのだけれど、正直、僕はちょっと緊張している。というのも、前・中編を読むかぎり、やりようによってはおよそ正反対の教訓すら引き出しうるように、僕には思われるからだ。とはいえ、まあ、あまり客観的にならないように、やってみよう。

 さて、地球球体説である。前回、前々回、僕は実際に疑ってみた。かなり素人臭のする懐疑かもしれないけれど、こんなものだろう。これだけ真面目に思考していて、もし「だから、それは科学的に否定されているから」などと説教されてしまったら、それは「科学」を嫌いにもなろうというものだ。

 しかしまあ、地球球体説を疑う人の言っていることはどこかおかしい、そうじゃなきゃいけないと思う人は多いだろう。疑うことを否定することと同義だと思い、屁理屈を捏ねられているように感じる人もいるだろう。そういった人は、まあ、自分のなかの常識を疑われるのがうざったいのだろう。

 だから、「科学的に否定されている」などといったことを言ってしまう。それは要するに「考えるのが面倒臭い」とか「説明できない」という意味であり、だったらそう言えばいいのだが、ついつい科学に責任転嫁してしまう。この手の無責任さは道徳教育などにおいても見られるが、罪深いものだ。

 このようなことを言うとき、その人は「科学的である」ということをどのように理解しているだろう。むしろ、科学的事実を盾にして相手の思考を封殺しているだけではないか。だとすると、残念ながら、それは「科学的な態度」とは言い難い。それは学識ある大人の姿ではないだろう。

 ところで、前々回から、科学の名のもとに人々を小馬鹿にする人物を、さも当然のように登場させているが、しかし実際、そのように人を辟易させるのが得意な人というのは(まあまあ)いるものである。そして、僕は無知よりも、その種の傲慢さにより強い虚しさを覚えるのだ。

 というわけで、僕はここで「科学の方法論」や「科学と宗教」といったことよりむしろ、「学問的な態度」ということを言いたいわけである。主張の再現性や反証可能性、説明能力の高さといったことは重要だし、事実が信じることとは無関係に成立しているという認識は、たしかに重要なことだ。

 しかし、それもこれも、「知ろうとする」という意欲あってのことである。この段階においては「信じようとする」と言い換えてもよいかもしれない。「わからなさ」や「疑い」のただなかにあって、よりもっともらしいものに漸近しようとする意志、それを損なわないようにしたい、してほしいと思うのだ。

 それゆえ僕は、学問的思考のエッセンスは、よりもっともらしい説明を求め、思考錯誤することを惜しまない精神にあるのだろうと思っている。要するに、軽々には「断定しない」ということである。曖昧な領域に留まりながら地道な検証作業を積み重ね、確からしさを高めるということだ。

 踏み止まる、我慢する、悩む、疑う、そして、その足踏みのなかから思い切って一歩を踏み出す、たぶんこうだろう、こう考えないとおかしいと主張する。こうした慎重さが、学問的な態度には必要である。そのときにこそ、自分の意見に対する自負や責任感が生まれる。

 しかし、どうしてそんなことをするのか。これはけっこう難しい問題である。そもそも僕自身、そんなことができているのかというと、いささかこころもとないところがある。まあしかし、それは自分の道徳心に自信がなかったとしても、子供を躾けないといけないというのと同じことかもしれない。

 「どうして科学的な物の見方を身に付けなきゃいけないの」と質問されたら、僕はその相手によって返答の仕方が変わるだろう。しかし、結局のところは、科学的な世界観というものを自分の現実として持っているということはスマートなことなのだと身をもって示したいとは思うのである。

 これもまあ、いちおう、ちょっと変則的な科学論ということができるのかもしれない。こういった問答はややカウンセリングの様相を呈しているが、科学というのはもはや日常の基礎にあるものなのだから、そこからの逸脱を修正できるような姿勢というのは大切だろう。

 だから、科学の柔軟さを硬直させないようなストレッチというのは、たまにはしたほうが良いのである。つまりどういうことか。人の話を聴き、一緒に考えてみるということである。考えるということを通して結論を出し、考え方自身を意識するようにしてみるということかなと思う。

 というわけで、本当に地球は丸いのだろうか。もし誰か、僕のテキストに目を通して地球が球体ではないと思った人はいるだろうか。いないだろう、そりゃそうである。疑いうるということは、まだ、なんらその疑われるところのもののもっともらしさを損なうものではない。

 実際、この疑っている人物は疑ってみせているだけで、その結論は保留している。充分な情報を提供し、一緒に考えてくれる人が身近にいたなら、そう心配せずとももっともな理解に到達するだろう。それに、今回はたまたま地球は球体だったが、そうじゃないこともあるかもしれない。

 そう考えるのならば、仮に円盤状の惑星が存在するとして、そのためにはどのような条件が整っている必要があるのか、その場合、どのような現象が生じうるのかと探究を進めることもできるだろう。そうすると、これはもはや非科学的とは限らない。考えることの自由は、こういうところにある。
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by kourick | 2012-01-04 23:00 | 考察