北海道では「ごみ捨て場」のことを「ごみステーション」という。どうしてそうなったのか謎であり、一見わけがわからないけれど、よくよく考えてみるとなかなかポジティブな名称である。まあ、999号のように、乗った客が二度と帰ってこないということだけが不憫ではある(嘘である)。

 ちなみに北海道では、いわゆる電車のことを「汽車」という。わざと古風を気取っていってるんじゃないのと思う人もいるかもしれないが、僕の知る限り、そういう意識ではないと思う。「電車」という言葉でイメージするのは「路面電車(チンチン電車)」のほうであって、「汽車」ではない。

 じゃあ、「列車」でいいじゃんと思う人もいるかもしれないが、地方では1両編成の場合も多いので、列なっていないものを「列車」というのはいかがなものか(実際には1両編成でも「単行列車」という)。そう抵抗はないかもしれないが、イメージには合わない。実際、気動車だろうし。

 まあ、そうは言っても、「汽車」という表現の情緒に惹かれて使っているという側面も多分にあると思う。うちの母方の一族はそろって開拓民で、祖父は汽車の好きな人だった(みたいだ)。汽車関係の写真や標識なんかが旧宅にはあったと思う。輪切りの線路はいまでも僕が保管している。

 やはり、そういう想い入れ補整があると、古めかしながらも「汽車」と言いたい気持ちになるのもわかる。しかしまあ、もちろん、単に「汽車」という表現が違和感を抱かれずに定着しているというだけの話でもある。これからの世代の人が、どういう言葉を使うのかはわからないが。

 宇宙飛行士や航空機乗り、その他、戦闘機や戦車など、操縦士や運転士が自分の職に高い誇りを持っているというのは知られたことだが、汽車の運転士も自分の職に対して高い誇りを持っているそうだ。特に日本の鉄道関係者はそうかもしれない。

 そうであればこそ、特急スーパーカムイの車掌さんだって、自分の黒革バッグに「超神威」と刺繍をいれようというものである(前にも書いたか)。それはさておき、僕がなんだか面白いなと思うのは、運転士さんもそうだが、ホームの駅員さんもどこか溌剌としているなと感じることである。

 汽車がホームに進入してくるときなどに「きしゃおあぁ、ほぉむにはいったられらぁ、おきをつけらっせー」みたいなことを言って、指をピッピとやる人の制服の仕立て具合や姿勢の良さ、なによりもそのどや顔が尋常ではないのだ。格好良いだろうと思う気持ちが格好良い。好きだからこそであろう。

 さて、およそ関係のないことだが、駅弁というのはどうして汽車が走り出してから食べるものなのだろうか。僕はついつい駅弁を買って汽車に乗り込むと、巣を作ったあとにすぐ手を付けてしまう。そうして汽車が走り出したあと、逆サイドの乗客が駅弁を開きだして「しまった」と思うのである。

 別に「しまった」と思うことはまったくないのだが、このやっちゃった感はいただけない。思えば、『孤独のグルメ』でお馴染みの久住昌之さんが脚本を書いていた「夜汽車の男(世にも奇妙な物語)」でも、大杉漣さんは汽車が走り出す前に駅弁を開ける乗客に心のなかで悪態を付いていた。

 やはり、それだけの理由があると思われる。僕が想像するに、おそらく駅弁とは「ただの弁当」ではないのである。駅弁によって味わわれるものは味ではなく、旅なのである。ただ腹が膨れたらよいというものではない。ゆえに汽車が走り出す前に食べるのは邪道である。おにぎりでつなごう。

 あろうことか、僕はそのとき、コーラを買っていた。よりによって、コーラ! 弾ける甘い水である。やはりそこはお茶を買うべきだった。僕はお茶を買う習慣がないが、このときばかりはお茶について考察した。彼らの存在意義は冷たくても温かくても、ましてや、ぬるくても美味しく飲めることだ。

 こんな飲み物は、そうそうない。よくよく考えてみてほしい。そんな飲み物は、まあ、ないのである。僕はこれからもお茶を買うことはあまりないと思うが、お茶を見直したことは確かだ。自分たちがそこまで期待されていないことをよくわかっていて逆手に取っているとも言える。長旅に最適なのだ。

 汽車での一人旅で弾けている場合ではない。お茶を買おう。
[PR]
by kourick | 2011-11-29 02:00 | 言葉
 僕は公務員の子供なので、小さい頃から転勤族として北海道中をうろうろとしていた。もちろん住まいは公務員宿舎だから、それはもう、いまから思うと酷い有様だった。なにから指摘したらよいのか迷うが、要するにコンクリートの塊である。薄暗い灰色の空間、それが公務員宿舎だ。

 いちおう具体的なことも添えると、ぼっとんトイレと裸電球は標準装備、天井の板の染みが顔に見えるのは御愛嬌である。そういった原体験があるのもあってか、僕は一般的に辛いといわれる住環境にかなり強い。もともと僕の満足や幸福の閾値が異常に低いというのもあるだろう。

 そんなわけで、僕が最近まで住んでいたところも平屋の 3LDK で家賃は 7500円だったし、その前に住んでいたところは木造二階建ての 3LK で家賃は 7000円だった。虫との戦い、寒さとの戦いは苛烈だが、まあ、これはこれでと思えるのは我ながら有難いものだと思う。

 田舎にはそんな公務員宿舎がごろごろしており、住環境が整っていないから男性はさておき、女性がやってこない。女性は標準以上の家にしか寝ないものだ、どうにかしたほうが良いだろう。北海道事情を言うと、僕の経験上、住居に関してはやはり道営住宅のほうがいい。

 水洗トイレなどはまあ、ないが、場合によっては簡易水洗だったりすることはある。シャワーもあるだろうし、白い壁紙やフローリングなんかも期待していいだろう。その代り、畑は少し狭いかもしれない。もっとも僕の基準がそもそもおかしいだろうから、話半分にしてもらいたい。

 そんなわけで、まあ、公務員はみな、精神を病みながら過労死したらよいと思う。それはさておき、国家公務員宿舎問題が話題になっているようだ。どうして「公務員宿舎」と言わずに「国家公務員宿舎」と表記しているのか不思議だったが、テレビニュースを見て理解した。

 1LDK か 3LDK か忘れてしまったが、そこに住む公務員は近所の人が 11-12万円の家賃を払っているような環境のなか、5万円の家賃で住めているということだった。それに不公平感を抱いている人が多いという演出で、どうやらそれが無駄遣いだという主張らしい。

 僕はそのことに関して特に意見を持たないが、そもそもの家賃の高さには驚かされる。まずもって10万円を超える家賃というのが東京のおかしさを表している。家賃ほど馬鹿馬鹿しいものはない。しかしまあ、そんなところで寝る国家公務員だからこそ、攻撃の対象にもなる。

 地方公務員宿舎であったら、破格の安さであってもそう文句は言われない。「あんなところに安全な土地あったんだ」みたいなところにある、「あれ人住めるの?」みたいなものに帰っているのだから(実際、廃屋になっているものもある)、不憫さに免じて許してもらえるというわけだ。

 田舎の宿舎は家賃が1万円を超えると「高級住宅」と呼ばれる。
[PR]
by kourick | 2011-11-27 02:00 | 日記
 古い LEGO ブロックを片付けようといろいろ容器を探していたんだけれど、最終的にダイソーで売っているセクションケースに辿りついた。これは感動的な手頃さで、売切れる前に15分割セクションケースを7個大人買いしておいた。本来の用途はなんなのか、謎の便利さである。

 細々とした部品をそれにまとめ、大きなブロックと板のブロックはそれぞれ食パン保存用のケースに分けてしまった。書類保存用のものも含め、ダイソーのプラスチックケースは便利だと思う。たぶん、これまでに2-30個は買っているだろう。

 食品保存用に使うのはちょっとどうかと僕は感じるけれど、サイズが豊富にあるので工夫次第である。ちなみにファイル類も便利で、とりわけクリアポケットファイルはダイソーが幅を利かせるようになってから全般的に安価になった。以前は500円とかする商品がざらにあったように思う。

 そんなこんなで、容器探しの旅の途中、トイザらスにも立ち寄った。僕はおもちゃ屋を散策するのが好きなんだけれど、これは子供の頃、あまりおもちゃを与えられた実感がないからだろうか。子供の頃にこんなおもちゃ屋に連れてこられていたら、もう、どうしていいかわからなかっただろう。

 僕のイメージするおもちゃ屋というと、駄菓子屋的なものか専門店的なもので、どうも子供の頃から僕には縁遠いものだという印象だった。だからかどうだか、明るい印象もない。むしろ、どこか悪徳の気配すら感じていたかもしれない。

 そこは七夕と遠足準備の時以外は行っちゃ駄目な場所で、ビックリマンチョコを箱買いするようなブルジョアの金銭感覚に違和感を覚える場所でもあった。ときはファミコン全盛期、うちにもあったとは思うが、それにしたってメインの遊びはイキシ(カタキ)などのボール遊びと木登りだった。

 恋愛というものが恋に恋することのできる選ばれし者にのみ与えられる幸運であるような気がしてしまうのと同じようにして、玩具というものは遊びに遊ぶことのできる選ばれし者にのみ与えられる幸運であるような気がしていた。そして、僕は早々に、そういう舞台からは降りていたと思う。

 要するに、あまり頭がよくなかったのだろう。おもちゃを使った遊びは想像力が必要だし、なにより、そのおもちゃが価値のあるもので、それを持っている自分は凄いということを理解する脳みそが必要だった。残念ながら、僕にそれはなかった。とりあえず考える前に走っていた。馬鹿である。

 だからだろうか、僕は他の子のおもちゃを羨ましいと思うこともなかった。むしろ、そうしたさまざまなおもちゃを所持することが怖かった。たぶん、僕は他の子が持っているようなおもちゃを与えられても、どうしたらよいのかわからなかったと思う。ちょっと心配な子供である。

 ここには圧倒的な「子供騙され力」不足がある。折角、大人が大真面目に子供を騙しにきているのに、当の子供のほうに騙されるだけの余地がない。これは大人にとっても子供にとっても不幸なことだ。もっと幼少の頃から騙されていたら、僕の騙され力も増していたのではないかと思う。

 僕が思うに、子供の騙され力が足りないと、例えば、「誕生日は素敵な日だ」ということを感じられなかったり、「贈り物に感激する」ことができなかったり、「遊園地を楽しむ」ことができない人間になってしまうだろう。子供を子供扱いするのもどうかと思うが、大人扱いするのも考えものである。

 そうしたわけで、紆余曲折の末、僕は無難にちょっと心配な大人にクラスチェンジしたわけである。昨今は知育玩具に興味があって、かなりの数を持っているのだけれど、はたして知育玩具はおもちゃかと問われると、いささか疑問に思わないこともない。これは食器や家具に近い気もする。

 あるいは、あれはどうだろう、アンパンマン。大人になると特に意識を払わないけれど、おもちゃ屋に行ってよくよく見てみるとアンパンマンの息の長さには驚かされる。おそらく、アンパンマンに日本語の読み書きを教わった子供は相当数いるはずだ。みんなの夢を守るどころの騒ぎではない。

 対抗馬のドラえもんやトーマスも奮闘してはいるけれど、やはりアンパンマンには敵わない。穴馬としてはキティちゃんもいるが、彼女は喋らないので分が悪い。プリキュアに至ってはまあ、色物だろう。結局、学習という子供の孤独な戦いを愛と勇気のみで支えるアンパンマンが優勝である。

 優勝、アンパンマン! アンパンマンが優勝です!!
[PR]
by kourick | 2011-11-25 02:00 | 日記
 以前、たしか映画「崖の上のポニョ」が公開された直後、宮崎駿さんがとあるテレビ番組のちょっとしたインタビューを受けていた。レポータがその番組のマスコットを横に置いて挨拶をすると、宮崎監督はおもむろにそのマスコットを手に取り、「これはもっと目を離したほうが可愛い」と言った。

 監督はたしか「目を離したほうが間の抜けた感じになって可愛い。それがいまの流行り」というようなことを言っていたと思う。イメージとしては「たれぱんだ」がド直球だろう。なるほど、と納得できた。似たようなことを動物行動学者のコンラット・ローレンツが1943年に言っている。

 1. 大きな頭
 2. 丸い頬
 3. 目が離れている
 4. 顔のパーツが下のほうにある
 5. ずんぐりむっくりした体型

 こういった特徴を備えていると保護本能が働いちゃうんだぜ、とローレンツは言った。どうして保護本能が働くのかというと「めろめろになってしまうから」であり、どうしてめろめろになってしまうかというと「可愛いから」だろう。これを「ベビースキーマ」という。赤ちゃんは可愛いのである。

 ニワトリよりヒヨコのほうが可愛いし、カエルよりもオタマジャクシのほうが可愛いし、メキシコサラマンダーだってウーパールーパーのままのほうが可愛いのである。さらに言うと、成犬よりも幼犬のほうが可愛く、成猫も幼猫も可愛い猫という存在は神に愛された奇跡的生物ということなのだ。

 しかし、それにしたって、ネコはどうしてあれほど愛らしいのか。まして、あの精悍な顔立ち。毛並みも良い。それに加えて、あろうことか鳴き声が「にゃあ」である。かなり可愛さを追及しているとみられる。もうちょっと言わせてもらうなら、ネコはもう、骨格がすでに可愛い。

 見たことのない人は一度、ネコの骨格標本を見ていただきたい。S字の背骨ライン、下半身の丸みから内股気味のしなやかそうな後ろ脚、そしてアーモンド型の頭骨、これは可愛かったなと思わさってしまう。また、猫の頭骨は成長しても変化しない。これも成猫の可愛さの理由だろう。

 イヌとネコの祖先は同じで「ミアキス」というが、イヌがその後、さまざまに特殊化し、特殊化させられたのに対し、ネコはその後、ほとんど変化していないと言われている。進化の最初のあたりで「あ、わたしネコだわ」と思ったミトコンドリア・イヴはかなり素敵な思い違いをしたとみられる。

 ネコになろうと思ったミアキスの生存戦略には脱帽せざるを得ない。
[PR]
by kourick | 2011-11-23 23:00 | ○学
 「ルール」というのは便利な日本語だ。もし「ルール」という言葉がなかったら、ゲームのルールを説明するときに「このゲームの規則はね」みたいな表現を使わないといけないし、なにかしらのルールを破ったときも「それは規定違反だよ」みたいな表現を使わないといけない。

 いや、あるいは「ルール」という言葉がなかったら、むしろ、そうした説明的な言語表現は減っていたかもしれない。つまり、身振りを交えて「これはこうしてこうするの」とか、相手に渋い顔をして「それ、ずるい」みたいなことを言うのである。そこはまあ、阿吽のアレということでひとつ、みたいな。

 堅苦しい表現を使うよりは、非言語的な要素を増やしてコミュニケーションをマイルドにしていたんじゃないかなというほうが想像しやすい。そうした進化を遂げていたら、主語や目的語など飾りであり、むしろ、言語など装飾であるということを日本人は偉い人に証明していたことだろう。

 そんなわけで近頃、自動車を頻繁に運転するようになったわけなんだけれど、法定速度とはいったいなんだったのか。哲学思考トレーニングの課題だろうか。あ、あと、バック時の速度を制限する機能はオプションであってもいいと思う(ベタ踏みしても 5km/h しかでないみたいな)。

 ときどき話題にされるもので、「ルール」と「マナー」と「モラル」の違いというものがあるけれど、それはさておき、「交通規則」と「交通ルール」という表現の違いが曖昧で迷っている。規則は法規とイコールだと思うのだけれど、じゃあ、ルールもイコールなのか。

 これはニュアンスの差であって「違いなどない」というのがストレートな回答だけれど、僕個人としては、「交通規則」に「交通マナー」を足したものが「交通ルール」ということになっているのではないかと想像している。正しい運転をして、人に迷惑をかけない、これがルールを守っている状態だ。

 なるほど、これはまあ、わかる。しかし、困ったことに、法定速度を守って正しい運転をしていると、周りの車に迷惑をかけてしまうことがある。なんか、この車だけ遅いぞ、というわけである。さあ、じゃあ、こういう立場に自分が置かれたとき、はたしてどういう選択をすることが正しいだろうか。

 そこに正義はあるのか、君はジャスティスかと、地球を悪の組織から防衛するヒーローのようなことを訊いているわけだけれど、どうだろうか。正しいかどうか、である。これには困ってしまう人が多いと思う。実際、これはわりと深いところにまでいってしまう話題であるだろう。

 ただ、僕ははっきり言って、こう思う。それは正義の問題なのか。日本語だからそう感じるというところはあると思うけれど、「正義」と言われるとピンとこない。一周まわって、形式的で、型に嵌められた、レールに乗せられた感じがしてしまう。歳をとるとスれるということである。

 むしろ、法治を軽んじるわけではまったくないけれど、日本には「ものの道理」というものがある。まずもって遵法精神的なものは法規ではなく、道理から生じているのではないかと思う。だから、「それは道理に適っているか」と問いかけたとしたら、もう少し意見は割れるだろう。

 法定速度を場合によっては順守しないということは「正しいことか」「良いことか」と言われると「そんなことはない」ということになるが、「理に適っているか」と言われると「そういうこともある」と言いたい気持ちになる。

 まさに道の理。正義を問われても腑に落ちないというところはある。
[PR]
by kourick | 2011-11-23 00:00 | 言葉