午後9時12分、雪下都市直上、コンベンションセンターのエントランスフロアにあるソファに腰かけながら、松来は悩んでいた。

「忘れているのか忘れていないのか、それが問題だ」
 松来は一分間だけ悩もうと決めていた。それだけ悩めば、もう帰ったっていいだろう。どうせ帰るために悩んでいるのだから、時間の長短は関係ない。少しの間、ここに座り、ちょっと疲れた自分の様子が誰かの瞳に映ればそれでいい。

 もし、そのほんの少しの迷っている時間に自分の行動を変更するだけのイベントが起こったなら、それに従うというのもやぶさかじゃない。それはそれで迷っているふりをした甲斐もあるというものだ。

「人は忘れていることはできても、忘れることはできない」
 松来は誰ともなしに言う。
 数か月続いた緊張の糸も解け、疲労が身体中にまわりだしていた。

 松来は息をふうと吐き出す。さっきから、ハーネスの左腹のポーチに収まっている携帯電話がバイブレーションしていた。罪悪感の種が松来のなかでささやかにうごめく。それが止まると、次はその隣のポーチに収まっている携帯電話が不機嫌そうにバイブレーションを始めた。

「ふり。気付かないふり、忘れているふり。ふりとふりでないものを、人はどうやって見分けるのだろう」
 松来は哲学者然とした口調で言う。しかし、不本意ながら松来は哲学者ではなかったし、そのふりをすることもできなかった。人はいったい、どうやったら哲学者になれるのだろう。誰かが「なにかになる」というのはどういうことだろうか。そのふりをすることと真正のそれであるということは、いったいどうやったら区別できるのか。

「いや、そのために人は確認し、認定し、定位する、自覚は名前のあとにある。ただ、それにしたって、人間というのは忘れやすい。忘れたときのために連絡を取ろうとする人物がいるにもかかわらず、その連絡にすら気付かないということがあるありさま。まったく困ったものだが、はたして、それは罪だろうか、あぁあ」
 携帯電話のバイブレーションが止まった。

 松来は恐れる。右腹のポーチに収められたイリジウム携帯電話が鳴りだしたらどうしよう、それどころか足許に置かれた小型無線機に連絡がきたらどうしたらいいのか。松来はいくつか言い訳を考え始めようとしたが、そろそろ一分経ったような気がしたので帰ろうと決意する。

「先輩!」
 会議室のほうから声をかけられたような気がした。知っている声だったけれど、彼女にとっての先輩はたくさんいるに違いないし、自分は先輩という人間でもなかったので松来は無視を決め込む。

「先輩! マツライさん!」
 声をかけてきた女性、笹見は松来に近寄るとソファの前で仁王立ちした。

「待っててっていったじゃないですか」
「忘れてた」
 松来は言う。
 自分はいろいろなことを忘れるし、忘れているのだ。

「それはそれとして、これ、どうぞ」
 笹見は携帯電話を松来に差し出した。
 でろ、ということらしい。
「誰?」
「竹成さんです」
 笹見は驚いたという感じに言う。
 めったにかかってこない人物からかかってきたという感じだ。
「どうして?」
 松来は訊き返す。
 このやりとりもおそらく電話の向こうの人物に聞こえているだろう。
「知りません」
「でなきゃダメ?」
 松来は笹見を見上げ、声を潜めて言う。
「あたしが怒られます」
 笹見は眉間に皺を寄せ、哀しそうに言った。
 そのあと、この言い方では通じないかもしれないと思ったのか、
「マツライさんも怒られます、たぶん」
 と言い足した。

 松来は覚悟を決めて笹見の携帯電話を受け取る。
「こんばんは、松来です」
『お疲れさま、大変だったね』
 受話口から竹成の、まるで労わっているような言葉が聞こえてきた。
「本当にもう、疲れましたよ。もはや歩けないかもしれません」
『そうか。しかし、そこで寝るわけにもいかないだろう』
 竹成はなんとも冷静に受け答えする。
 松来はこういうタイプの人間をもっとも苦手としていた。

「笹見さん!」
 そのとき、会議室のほうからもう一人、大男が駆け寄ってきた。目の前で仁王立ちしている笹見に向かって突進してくると直立姿勢で立ち止まる。北方観測隊の第二分隊長、頼りになる漢、冬季遊撃レンジャーの範田だ。大袈裟な言い方ではなく、松来は今回の行軍視察において、二度、この範田に生命を救われていた。しかし、作戦行動中の毅然とした態度とはうってかわって、範田はいま、笹見に対する好意を最大限に表現しようとあたふたと不器用にもがいていた。

「いやあ、本当に御苦労様でした。視察も楽じゃなかったでしょう、とにかく寒かった。ほとんど演習に近いものだったと自分は思っています。訓練のときから笹見さんは素晴らしく優秀でしたが、行動中も見事だったと思います」
「ええ」
 笹見は引き攣った笑みを浮かべながら、ちらちらと松来を見る。助けを求めているのか、この状況をどう判断するのかを窺っているのかのどちらかだろう。もともと気が強いからそうやって気の弱いふりをするのだろうと松来は思う。
 じとっと眼球だけ持ち上げて笹見と目を合わせると、松来は黙って笹見から視線を逸らした。

「それでなんですが、このあと、どうですか。いえ、お疲れのこととは思いますが、隊の連中も少し気をほぐしてから帰るのが何名かいますし、もしよろしければ、ご一緒していただけると連中も気が紛れるといいますか、喜ぶといいますか、ようするに士気が高まるわけでして」
 よくわからない誘い方だ。
「ええ」
 笹見のうろたえる様子を感じながら、松来は竹成との会話を続けた。

「そうですね、そんなみっともない真似はできませんね」
 松来は心もち声を張って応対する。
『そうだ、今日は宿舎に帰ってゆっくり休んだほうがいい』
「はい、僕もそう思います。今夜はもう、このまま帰ってグッスリ」
 松来は口先に希望を滲ませる。

『うん、約束通り、知事のところに寄ったら、そのまま休暇をとるといい』
 中盤を強調して、竹成が言う。
「そうですよね」
 松来は肩を落とす。今日中にもう一仕事だ。
 それにしても、なにを子供みたいなことを自分はしているのだろう。
『忘れていたらいけないと思って、いちおう連絡させてもらった』
「ありがとうございます」
 白々しいやりとりだったが、竹成には有無を言わせぬ迫力があった。

『私もすぐに行くから、待っててくれ』
「はあ、なるほど。わかりました」
 松来は「はい」とは答えない。竹成に捕まったら、そのあとどのくらい拘束されるかわかったものではない。竹成の「言っていることはわかった」という意味合いで「わかりました」とだけ返事をする。まさか竹成も本当に自分が待っているとは思っていないだろうと決めてかかる。竹成からもそれ以上、言質をとるような追求はなかった。

『そのあたりに範田さんもいるんだろう?』
「ええ、いますよ」
 松来は答える。
 さっき笹見にかけた声が聞こえていたのだろう。
『コンベンションセンターからエレベータで「マンション」に降りてきてもらえるよう伝えてくれ。15階のA号談話室にいる』
「結婚相談ですか?」
 目の前で繰り広げられている男女の攻防をみながら松来は言う。

『ん? なにを言っているのかわからないな』
 それもそうだ。
「失礼しました。アポイントメントは?」
『今日とは言っていないが、わかるはずだ』
 あるのかないのか。
「ご自分から伝えたほうが確実じゃないですか」
『いや、二度手間だ。君から伝えてくれ』
「範田さんも疲れてますよ、いまからは難しいと思いますけど」
『今日じゃなきゃだめなんだ』
 竹成がきっぱりと言い切った。

『君にも言うぞ。今日じゃなきゃだめだ』
 それだけ言って、竹成は携帯電話を切った。
 松来はガックリと肩を落とす。誰かに「どうしたんですか、ここにガックリと肩が落ちていますよ」と落ちた肩を拾ってほしかったが、唯一、そんなことを言いそうな人物はいま、目の前でプロポーズされていた。

「範田さん」
 松来は声をかけるが、範田はまったく気付かなかった。
 もしかしたら、そもそも範田の目に松来は映っていないのかもしれない。
「範田さん」
 松来がもう一度、声をかける。
 気付いたのは笹見だった。

「どうしたんですか、松来さん? 範田さんに重要な連絡ですね」
 笹見のその言いように松来は苦笑しそうになる。
「まあ、そうだな」
 松来が言うと、範田は露骨にぶすっとした表情になった。
「なんだ?」
 声色まで違う。
「竹成さんから連絡です。コンベンションセンターからエレベータを使ってマンションに降りるようにとのことです。15階のA号談話室だそうです」
 松来は余計なことを言わずに報告する。
 範田は口端を歪めて、斜め上を見上げた。

「これからか」
「これから、現時点からです」
 かわいそうに。
「今日じゃなきゃだめだそうです」
 松来は付け足した。
「把握した」
 残念な気持ちを打ち消すように範田は了承した。

「範田さん、これから御用事ですか。残念ですね」
 笹見が言う。
 どうしてそういうことを言うのか、松来には理解できない。
「はい」
 範田は神妙に頷いた。
「竹成さんを待たせるわけにもいきませんので、お話の続きはまた」
 そして、範田はガックリと肩を落とした。
「範田さん、ここにガックリと肩が落ちてますよ、ほら」
 松来は床から透明の肩を持ち上げ、範田に渡そうとする。
 範田は忌々しそうに松来の手を叩いた。冗談の通じない男だ。

「ええ、本当に残念ですけど、またの機会を楽しみにしています」
 笹見がしれっと言う。恐ろしい女だ。
 しかし、その言葉に範田は救われたような笑みを浮かべた。
「ええ、またの機会に連絡させていただきます」
「は、はい」
 笹見は少し怯みながら、にこやかに頷いた。
「それでは、失礼します」
 範田は笹見に一礼する。

「それと松来」
 松来は急に範田に声をかけられ、背筋が伸びる。
「お前はもう、二度と行軍視察に参加するなよ」
「はあ、その節はお世話になりました」
 松来は間の抜けた返事をする。

「ちなみにお聞きしたいんですが、これからの会合はシークレットですか」
 松来は何気ない口調を装って尋ねる。
 もちろん、竹成と範田が会うことについてだ。
「言いふらすような真似は常識としてやめてもらいたいが、その必要を求められる状況に陥ったなら話してもらってかまわん」
 範田は真面目な表情で答えた。
「そんな恐いこと言わないでくださいよ」

「べつに防衛機密を漏らしたり、守秘義務規定に違反するようなことをしたりしようとしているわけじゃない。なにが機密にあたるのかの指示も受けていないしな。おそらく基本的にはデータベースに記録されていることについて少し詳細に訊かれるだけだろう」
「そうですね」
 今夜だけ通用するロジックだなと松来は思う。

「それにお前、竹成さんに会うように命じたのは他ならぬ、お前だぞ」
「は?」
「だから、俺はお前に言われたから、これから竹成さんに会うんだ。竹成さんは違うのか?」
 範田は目を細めて、うっすらと笑った。
「いえ、これは竹成さんからの指示ですよ」
 松来は内心、やられたと思う。
「俺にはわからん」
「まあ・・・そうかもしれませんね」
 厄介なことにならないよう、松来は漠然と祈る。
 不思議と、祈る対象を自覚せずとも祈ることはできてしまうものだ。おそらく、明確な行為が伴っていないからだろう。厳密には「念じる」といわれるものに近い行為のはずだ。しかし、祈れているのかいないのかなどということに松来は興味がない。ただなんとなく、「ああ、やだやだ」と思っただけだ。

「それでは、笹見さん、今回は本当に楽しかったです。ありがとうございました」
 範田はそれだけ言うと足早に会議室に消えた。
 松来は範田の背中を見送ると笹見に振り向く。
「いま喋っていたこと、わかるな」
「ええ、先輩もよくよく巻き込まれやすいたちですね」
 笹見が他人事のように言った。
「なに言ってるんだ、お前」
 松来は呆れた表情で笹見を見る。
「はい?」
「これはお前のケータイだぞ」
 笹見に携帯電話を差し出す。
「え・・・」

「記録に残るのはお前のケータイだ、ご愁傷様」
「えぇえ!?」
 笹見があわあわと慌てる。
「ど、どうしてあたしのケータイ使うんですか!?」
「おちつけよ」
 松来は携帯電話を笹見に差し出したまま言った。
 腕が疲れるから早く受け取ってほしい。
「あ、そういえば」
 笹見が胸の前でパンと両手を合わせて、花が開くみたいに指を広げた。
「あたしのケータイ、盗難にあってるんです。届出しないと」

「いや、冗談でもやめろよ」
 松来は即座に釘を刺す。
「そんなことして、まかりまちがって通信記録でも調べられてみろ、お前から足がついたらただじゃすまないからな」
 松来に言われてその通りだと思ったのか、笹見は愕然とした表情をする。胸元の花がゆっくりと萎んでいった。
「な、なんでそんなことするんですか! 鬼か悪魔の仕業ですか!?」
「天狗の仕業だな」
 実際には竹成の仕業だ。竹成が鬼で悪魔で天狗だったとしたら二人とも大正解ということになるが、正解だろうと不正解だろうと松来たちの置かれた状況に変わりはない。不正解だったとしても、異形のものしかしそうにないことを人間にされたという顛末に空恐ろしさを感じるだけだ。

「おい、受け取れよ」
「もう・・・それ、あげます」
 べそをかいている笹見の手を掴み、松来は携帯電話を握らせる。
「なに言ってんだお前、それがないと範田さんからの連絡を受けられないだろ。あんなに残念がってたのに」
 松来がふざけた口調で冷やかすと、
「やきもちですか?」
 と言って、笹見が涙目を輝かせながら口角を持ち上げた顔をする。それと同時に、笹見の手のなかの携帯電話は力一杯握りしめられてミシミシと音を立てていた。いろいろな感情が混ざりすぎていて、もうわけがわからなくなっている。
「笑顔が引き攣ってんだよ、お前。ほんとにおっかねえオンナだな」
 松来は強い口調で言いながらも「すみませんでした」というポーズをしながら笹見に頭を下げた。
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 午後11時12分、執務室のドアはノックされた。

「どうぞ」
 応接用のソファに座っていた梅永はふかしていた葉巻を左手に持ち替えながら応じた。天井の照明は消されており、ソファの脇に置かれた蓄電式のスタンドライトだけがぼんやりと部屋をオレンジ色に染めていた。

「失礼します」
 落ち着き払った声とともに長身の男が一人、部屋に入る。
「遅くなりました」
 秘書の竹成はドアを閉めると知事に会釈した。朝から動きまわっていたはずなのだが、スーツや頭髪に乱れはなく、疲れをうかがわせない。ほっそりしている見かけとは裏腹にタフさを感じさせた。その身なりと言動から「固い」と評されることの多い竹成だったが、梅永はむしろ「飄々としている」と思うことが多かった。いずれにせよ、使える男ではある。

「いや、こちらから頼んでいたことだからね」
 梅永は葉巻を右手に持ち替え、左手で竹成にソファを勧めた。
「まあ、正直、少々、待ちくたびれてはいたことは否定できないが」
 梅永がおどけた調子で言うと、
「申し訳ありませんでした」
 竹成は梅永の言葉尻を食い気味に言った。コートハンガーに上着とマフラー、そしてヘルメットをかけると、竹成はソファに歩み寄る。

「外は寒かったろう」
 場を和ませるために梅永は当たり前のことを訊いた。
「ふぶいていたので地下搬送路を使わせていただきました」
 この場合の地下搬送路というのは、地下鉄網や民生の地下通路ではなく、重要施設間を地下で結んでいる特別経路だ。物資の搬送のほか、要人の避難、及び、緊急時のバンカーとしても使われる。
「地下だって寒い」
「はい、なので、搬送車を一台借り、ここまで乗ってきました」
 竹成はしれっと言う。
「君もなかなか大胆なことをするね」
 梅永は笑った。
「お待たせしてはいけないと思いまして」

 竹成はソファに腰かけ、黒革のブリーフケースを足許に置いた。直線的なデザインの眼鏡のレンズがときおり白い光を反射する。竹成の眼鏡が汚れているのを梅永は見たことがない。
 無駄のない所作で話す準備を整える無表情の竹成を見ながら、「まったく固い男だな」と梅永は思った。

「暗いですね」
 竹成がスタンドライトに視線をやる。
「必要かい?」
 梅永は天井を指差しながら言う。別に電源が落ちているわけではなく、スタンドライトを使用しているのは梅永の趣味だといえた。節電にもなる。
「いえ、十分です」
 竹成は言う。そして、ブリーフケースからダブルクリップでまとめられた紙束を3冊取り出し、テーブルの上に置いた。

「提出される資料はすべてコピーしてきたので、明日にでも目を通してください。言うまでもありませんが、取り扱いは慎重にお願いいたします」
「もちろん」
 梅永は頷いた。提出される資料とは、今夕、北方観測隊が持ち帰ったものだ。おそらく環境省を経由して、明日には首相のデスクに置かれるだろう。その資料を竹成に入手してもらっていたのだ。どのような手段を使ったのかはわからないが、市ヶ谷に入る前にデータの受け渡しがあったのではないかと梅永は推測する。

「また、数名の隊員から話を訊いてきました」
「それは御苦労だったね」
 梅永は「それで遅かったのか」と思う。
「明日以降ですと情報に欠落が生じる可能性がありますから」
「なかなか良い表現だ」
 梅永はにやりと笑う。
 竹成が続けて話をしようとしたので、梅永はそれを片手で制した。

「なにか飲まないか」
 梅永はふかしていた葉巻を灰皿で潰し、立ち上がりながら言う。
「なにかといっても、水かバーボンかバーボンの水割りの三択しかないが」
 梅永は竹成にちらと視線をやって肩を竦めた。竹成は「正確には水のバーボン割りを含めた四択だな」と頭の片隅で思ったが、口には出さなかった。当たり前である。
「ここで、ですか?」
 竹成は周囲を見回して「いかがなものか」というジェスチャをする。冷静になって考えると現在のこの部屋ほどアルコールを飲むのに適した環境はないような気もしたが、紛いなりにも「執務室」と名の付けられた部屋でアルコールを摂取することには抵抗があった。もっともな反応だろう。

「強要はしないよ。別の場所に移ってもいいが、いまとなってはあまり意味のない行為だと私は思うね」
 梅永はデスクの下からバーボンの瓶とグラスを取り出した。
「これからここに人がいらっしゃる予定は?」
「夜の11時に? わたしは健全な知事だよ」
 梅永はグラスにバーボンを注ぐ。
 健全な知事は執務室で酒を飲んだりはしない。
「明日のご予定は?」
「それは重要な質問だ」
 梅永はグラスを持ち上げながら、竹成を見た。
「飲みながら話そう」
 一口飲む。
「じゃあ、ストレートでお願いします」
 竹成は笑みを浮かべて言った。

「いけるじゃないか」
 梅永は嬉しくなる。
「氷はないが、ミストにしたかったらいまのうちにそとから雪玉を持ってきたらいい」
 子どもみたいにうきうきした口調だった。
 竹成は「雪は汚いだろう」と思ったが、もちろん、口には出さなかった。
「4センチくらいでいいかな。だいたい、半分だ」
 梅永はグラスにアルコールを注ぎながら言う。
「4センチ?」
 竹成は量を長さで示されたので驚いた。
「重さでいったほうがいいかな? 私が若いころはシングルのことをワンフィンガーといったが、指の太さは人それぞれだし、どの指を使うかでも異なる。バーテンダーが赤ん坊だったら絶望的だ」

「シングルは1オンスです」
 竹成が指摘する。
「オンスという単位がそもそもわからないじゃないか、日本人には馴染みがない。アメリカ人とイギリス人以外はきっと、みんなそう言う」
 梅永が楽しそうに言い返した。
「1オンスは約30ミリリットルですね」
「君は30ミリリットルの酒を想像できるかい。どういう器に想像する? 私は若いころにシングルのロックを頼んで、その少なさに驚いたものだよ。馬鹿にしているのかと思って続けざまに飲み干し、そして、悪酔いした。私には多かったんだ。物事を見た目で判断してはいけないということを、私は人間よりもさきに酒から学んだね」

 梅永はグラスを持ち上げて、竹成に見せた。
「このグラス」
「オールド・ファッションドですね」
 竹成は答える。
「まあ、ちょっとした柄は付いているが、国内では標準的な単なる8オンス・タンブラーだよ。その名の通り、だいたい240ミリリットルの容積がある。4センチだとだいたい半分、つまり、120ミリリットルだ」
 梅永は言いながら、両手にグラスを持ってソファに戻った。
「君、体重は70キロくらいだろう? 身長は180センチくらいかな」
「ええ、だいたい、そのくらいです」
 竹成は頷く。
 梅永はソファに座ると、グラスをテーブルに置いた。

「ということは、君が平均的な酒の飲める日本人だと仮定して、1時間あたりに7グラムかもうちょっとのアルコールを分解する能力を有していることになる。もっとも、モンゴロイドは統計上、約50パーセントは下戸なんだが」
 梅永は竹成の前にグラスを進めた。
「そのバーボンは50度だから、概算して60グラムはアルコールだと思っていい。君がそれを飲み干したとして、分解し終わるのは約9時間後だ」
 梅永は自分のグラスに口を付ける。
「いただきます」
 竹成もグラスを手に取り、一口飲む。こういった計算は自分もよくするところのものだったが、梅永の語り口は手品の種明かしを聞いているように興味深いものだった。酒が手品だとしたら、アルコールはその仕掛けに値するだろう。トロイの木馬のようなものである。

「要するに、だ」
 梅永はじっと竹成を見据えた。
「急にですまないが、君には明朝10時、北海道に行ってもらいたい」
「了解しました」
 竹成は梅永の視線の重圧を逸らすように簡単に首肯した。
 途中から、こういった展開になるような気はしていた。
 慣れっこなのだ。
「ハシシュの件ですか」
「それもある」
 近年、雪下都市では出所不明の大麻が横行しだしており、それに伴う風紀の乱れが問題視され、治安の悪化も懸念されていた。最初は個人による栽培だろうと都市内部の調査が進められていたが、次第に外部からのものであることがわかり、特設警備による内偵が進められていた。企業都市群からの搬送物を臨検しても結果は出なかったので、梅永は自衛隊の関与まで疑っていた。

「松来と会ったんですね? 彼には待っているように言ったんですが」
 松来とは北方観測隊に従軍していた都職員だ。竹成が47歳なのに対し、松来は37歳で一回りほどの歳の差しかなかったが、竹成は初めて松来に会ったとき、リクルート中の学生と間違った。竹成が老成しているということもあったが、松来は年を経ても溌剌とした若さを維持していた。
「そそくさと帰ったよ。彼は面白いね」
「変わった男です」
 竹成は眉を顰めながら言う。

「ただ、見てきてほしいのは、それだけじゃない」
 梅永はグラスを持つ右手の人差し指を立てた。
「さきにルートを教えてもらっていいですか」
 竹成はすでに具体的な行程と手段を検討し始めていた。
「まず、旭川に入ってほしい。そこから稚内に行き、旭川に戻ったあと、帯広、根室は見てきてもらいたいね。期間は君に任せるが、一ヶ月はかかりすぎだ」
「はい」
「表向きの名目は自然エネルギー資源の活用方法の視察にしてある。実際、それはそれで気になる情報だ。予定外の動きをことさら隠す必要はないが、その分、十分な警護体制はとれないだろうから身の安全には気を付けるように」
「わかりました」
 たしかに、身内も疑いながらの視察ということになると、ちょっと危ない橋を渡らなければならない場面は想定しうる。直接的な危害は加えられなかったとしても、移動の際にほんのちょっと燃料や食料が「不足」しただけで「遭難」しかねない。

「それと、マツライ君によるとオロロンラインの風車群の一部、特に北部のものが凍結し始めているそうだ」
 松来は「マツキ」と読むが、松木という職員がほかにいたので、梅永は松来のことを「マツライ」と呼んでいた。
「風力ベースの町から難民が発生する可能性がある」
「ええ、そうですね」
 竹成もそのことは知っていた。
「第2師団も地上難民の武装化を警戒しているようです」
「あのあたりはもともとロシアや半島からの難民が多いからな」
 梅永は苦笑して言う。
「ただ、武装化もさることながら、その武装がどこからやってくるのかが問題だ。君にはハシシュやハードドラッグのこともだが、そういった一連の北方の動きについても情報をまとめてきてもらいたい」
 竹成は黙って頷いた。

「はっきりいうと、ドラッグよりも、それを捌ける集団の組織、その規模、目的、ネットワーク、流通経路、そして、今後の展開が問題だ。他愛のない集団ならいいが、まかり間違って、もしいま東京に武器でも持ち込まれたらひとたまりもないからね」
 梅永はバーボンを飲み干し、ソファから立ち上がる。
「むろん、防衛省や他の職員にも働いてもらっているが、私は確度の高い情報と信頼できる分析が独自に欲しい。自衛隊の嵯峨さんには話を通してあるから、なにかあったら便宜を図ってもらうといい。期待している」
「心得ました」
 竹成は再三、頷いた。

「さて、事務的な連絡も終わったところで、私はもう一杯もらおう」
 梅永はグラスにバーボンを注いだ。
 竹成は「事務連絡ではないな」と思ったが、口には出さなかった。
「そろそろ君の話を聞きたいね」
「はあ」
 話すべきことは複数あったはずだが、竹成は明日以降の計画に気を取られていた。なんとなしに間の抜けた返事をしたことに竹成は「しまった」と思うが、頭のなかのホワイトボードに覆いを被せることにも手間取ってしまう。少し酔いがまわってきたのかもしれない。竹成はブリーフケースから手帳を取り出そうとする。
「ああ、そうだ」
 梅永が楽しいことを思い出したみたいに声を上げた。
 竹成は嫌な予感がした。
 梅永と関わって、こういうときにろくなことが起きたためしがない。

「酒のツマミがなかったね、ちょうどいいのがあるんだ」
 そう言って、梅永はデスクから白い皿を持ってソファに戻ってくる。梅永のグラスには竹成のグラスに残っているのとほぼ同量のバーボンが注がれていた。梅永はテーブルの上に皿を置くと「まあ、食べなさい」と言った。皿の上には緑色のブロックとスナックが乗っていた。
「こちらはクロレラブロックですね。わたしも以前、試供にもらったことがあります」
 竹成は緑のブロックを指差しながら言った。
「へえ、そんなことがあったのか。私は知らなかった」
 梅永は少し驚いた。食糧の検討は竹成ともしていたが、こういったものがあることは聞いていなかった。

「ただ、そのときにもらったものとは多少、違うようですね」
「いくつかのフレーバーがあるそうだ」
「どうされたんですか、これは?」
「ああ、マツライ君からもらったんだよ」
 梅永は緑色のスナックをひとかけら口に運ぶ。
「君も食べてみたらどうだい」
 梅永に促されて、竹成はスナックを食べる。
「やや青臭いものの塩味が効いていますね」
「これはまだ試作段階の貴重品だそうだ」
 梅永は手に取ったスナックをしげしげと眺めると皿に戻した。

「クロレラも検討しているんですか?」
 竹成は訊いた。もちろん「食糧として」ということだ。
「あ、それ、クロレラじゃないよ」
 梅永は笑いを噛み殺しながら言う。
「え? 違うんですか」
 竹成はもう一度スナックを口に運び、よく味わう。
 ブロックと同様に、スナックも当然、クロレラだと思っていた。
「それはね、ユーグレナだよ、ユーグレナ、知らない?」
「知りませんね」
 竹成は右に5度、首を傾げる。
「ミドリムシ」
 梅永はにたりとした笑みを浮かべた。
 竹成は食べていたスナックを吹き出し、咳き込んだ。

「君ぃ、それが食べられないようじゃ、これからの時代、生きていけないぞ」
 梅永は竹成の様子を見ながら、グラスに口を付けた。
「なんといっても、森の女神が作ったらしいからな」
「なんですって?」
 竹成はむせながら訊き返した。
 非現実的な発言だ。立場的には危険と言ってもいい。
 梅永の発言の意図を把握しておく必要性を竹成は感じた。
「マツライ君によると実在するらしい」
 梅永はおどけた口調で言う。
「森の女神が、ですか?」
 竹成はグラスに残っていたバーボンを一気に飲み干す。
「そう。森といっても、地名の森だが」
 どうやら冗談を言っていることはわかった。
「北海道の人間なら、誰でも知っているそうだ」

 まさか。竹成は半信半疑だった。冗談なのはわかったとしても、それほど北海道の人間に慕われている人物であれば、自分の耳に入らないわけがない。竹成は少なからず自分の情報網に自信を持っていたが、少なくとも「森の女神」について竹成の人脈から漏れ伝わってくるものはなかった。あまり信憑性も重要性もあるような情報ではないのだろうが、しかし、なんとも松来らしい情報だと竹成は思った。おそらく、情報に対するアプローチに差があるのだ。

「気になるようなら寄ってきたらどうだい」
 梅永は言う。
「森ですか、たしか地熱ベースの町ですね」
 確認はするものの竹成にその気はない。
「私も実在する女神に会ってみたいものだね」
「はあ」
 竹成は溜息を吐いた。

 というのも、巧妙に隠しているつもりではあったが、竹成は大の虫嫌いだった。もはや遺伝子に組み込まれているのではないかと思われるような生理的なおぞましさを感じるのだ。実体は無論のこと嫌いだったが、すでに「ムシ」という語感だけで脳の末端が痺れる程度にはアンタッチャブルだった。

 竹成にとって、クロレラはぎりぎり植物サイドだがミドリムシはきっぱり動物サイド、クロレラは緑藻だがミドリムシは原生動物だ。もちろん、ミドリムシが虫ではないことはわかってはいたものの、その名に「ムシ」を宿している以上、それに拒否感を抱かないことは竹成には不可能だった。

 どのように高貴な人物がいるのか知らないが、竹成にとってミドリムシを培養するに飽き足らず、それを人間に食べさせようとするような人物が女神であるはずはない。むしろ、ダークサイドの住人に違いないだろう。いうなれば、魔女である。グツグツと蟲の沸き立つ大釜から緑色のスナックを取り出している女性の高笑いが竹成の脳裏に響き渡った。

 その想像のバカバカしさとおぞましさに竹成は頭を抱えた。
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 ふぶきはメーラのアカウントをオフィシャルなものに切り替え、ネットラジオのウィンドウを閉じた。

「同志の方々、か・・・どういうことなんだろ」
 ふぶきは自分に尋ねるようにひとりごちる。そして、隣のPCに向き直るとDII(防衛情報通信基盤)にアクセスした。まずは公表されている補給・配給のラインを確認する。市ヶ谷からは東京湾の雪下都市と基地周辺の企業タウン、そして原発のある茅ヶ崎ベースに物資の供給があった。地上の個別共同体への直接的なサプライはない。

「三鷹、三鷹・・・と」
 ふぶきはついで、クローズドなネットワークにアクセスする。ふぶきのパスでどこまで照会できるか心配だったが、地上共同体の分布は確認できた。千駄ヶ谷に三つ、調布に二つ、赤いポイントがあった。三鷹は記録されていない。少なくとも、隊からの配給は受けていないようだった。どうやって生活物資を工面しているのだろう。

「大丈夫だろうか」
 ふぶきは溜息を吐いた。

「ふぶきー」
 そのとき、リビングのほうから声がした。
「はーい」
 それが誰なのかはすぐにわかった。
 ドアのない部屋の入口に向かって、ふぶきは返事をする。
「おーい」
 さっきより近い。
「ちょっと待っててー」
 ふぶきはDIIからログアウトする。

「んー、あっ、こっちかー」
 直線的な声がした。近い。
「そうそう、でも、サクラ、ストップだからね、ここ入っちゃダメなところだから」
 ふぶきは書いていたソースをEmacsでコンパイルすると、テキストをpdfで出力した。
「わかってる」

 ふぶきがちらっと入口を見ると、お盆をもった白衣の女性がにこっと笑った。サクラは半分がジャパニーズ、残りがアメリカンとスパニッシュのミックスで、一見地味そうに見えて、よく見ると可愛さと綺麗さをあわせもった美人だった。頭脳はハイスペックで、人格は穏やか。こういう女性が最強だとふぶきは常々思っている。

「なにしてたの?」
 サクラが言う。
「ネットラジオを聴いてたんだよ」
 印刷機が黒い文字の書かれた白い紙を吐き出す。
「八雲ですか? それとも大湊?」
「いや、空自でも海自でもなくて、民間の」
 状況報告とは違うんだなと言いながら、ふぶきは原稿に目を通す。
 ミスプリントはないようだ。

「民間の!?」
 急にサクラが語気を荒げたので、ふぶきは驚いて顔を上げた。
「電力の無駄です」
「怒った顔も美人だなあ」
 ふぶきが言うと、サクラは頬を膨らませた。
「まあまあまあ」
 ふぶきは立ち上がり、椅子の背もたれから白衣をとって着る。

「サクラの言うことはもっともだけど、なにか理由があるんだろうし、
 これはこれで、わたしは大切なことだと思うよ」
「けど・・・」
 サクラは憮然とした表情をする。
「それに、けっこう、癒されるんだよ」
 ふぶきはサクラにウィンクすると、原稿を黒いファイルに挟み、PCの脇に置いてあったイリジウム携帯電話をもって部屋を出た。

*    *    *

 ふぶきとサクラが出逢ったのは、いまから13年前だった。当時、ふぶきはH大の極地研のドクター1年目で、複数企業・大学との国際的な共同研究のために十勝に新設されたセンターに出向していた。彼女のテーマは地熱エネルギーを効率的に活用したモデルタウン構想についてだった。

 一方のサクラはK大の分生研のドクター1回生で、アメリカのバークリに留学していたところを、教官だった教授に付き添って日本に舞い戻り、その研究室ごと十勝のセンターに出向していた。そこにはK大の研究員も来ており、3ヵ月前の涙の別れをサクラは呪った。彼女のテーマは高効率クロレラの培養、及び、光合成の促進についてだった。

 そこでの生活は3年にわたったのだが、どちらかというと、ふぶきとサクラは助手としての働きが多く、のんびりできる時間もそれなりにあった。そして、あっという間に知己になった二人は、3年目になるころには共同研究者として複数のペーパーを書いていた。その最終的な成果が、いま二人の居住する森町地熱ベース、通称「吹雪研」に結実していた。

 二人が出逢った年はマクロスケールの急激な気候変動、異常事象が確認され始めてから7年目だった。地表の年平均気温は毎年1度低下していたので、当時、すでに7度も低下していた。植生、及び、生物の生活圏も大変動をきたしており、社会的にも政治的にも巷間はすでに慢性的なパニックに陥り始めていた。移民が大規模に発生し、極点に近いところから軍事的に南下を始める国々が現れたのもこの頃からだっただろう。エネルギー資源の奪い合いで紛争も多発していた。

 しかし、そうした社会情勢のなか、彼女たちは比較的に穏やかな生活を送れていた。よくもわるくも研究者だったということかもしれないが、彼女たちの周りには、研究者を除けば、自衛官しかいなかったというのも原因かもしれない。それはもう、民間人から見ても、ただならぬ規律の正しさだった。そして、食糧や情報も必要十分に得ることができていた。

 また、北方警戒のためにO駐屯地の第5旅団も張りつめた状況にあったに違いないのに、研究センターの警備にあたっていた後方支援隊は彼女たちにフランクに接してくれていた。ふぶきの観察によると、とくにサクラへのアプローチは苛烈をきわめ、数少ないチャンスを慎ましやか、かつ、猛烈に生かしたアタックが繰り広げられていた。

 3年後、サクラを含む一行を八雲の基地に送り届けたときなど、ヘリコプター部隊は彼女がヘリに乗るときと降りるときに二度泣いた。ふぶきたちには敬礼だけした。

 ある日、ふぶきが気紛れにその時期のことを尋ねると、
「ぜんぜん知らなかった」
 サクラは口元を両手で押さえ、目をまんまるにさせて、そう言った。
「魔女か、きさま・・・」

 それから、13年。日本の年平均気温は毎年1度低下し続け、異常の始まりから20度低下していた。来年には東京の年平均気温は0度を下回り、夏季の最高気温でも10度を超えることはなくなるだろう。つまり、ツンドラ化するということだ。

 また、極付近の氷床化が進み、海水準は100メートルから200メートル降下した。日本列島も大陸棚がまるまる露出するようになっていた。要するに、いま、地球はとっても寒かった。世界有数の火山地帯である日本はまだ恵まれているという者もいたが、このまま気温が下がり続けることを想像すると、この状況を楽観視できる人類はまずいないだろう。

 生き残る術を見つけ出さなければならないのだ。

*    *    *

「ふぶき、今日、食べてないでしょ」
 サクラは持っていたお盆をテーブルに置いた。お盆には白いお皿の上にクロレラブロックとジャーキー、そして、朱色の茶托の上に湯呑が乗っていた。中身は水だろう。

「ありがと」
 そう言うと、ふぶきはソファに身を投げた。グゥウっと体全体を伸ばし、ウァアっと息を吐く。そして、そのまま腕を横にずらしてファイルとケータイをテーブルの上に置いた。

「今夜は通信障害が発生しているみたいだよ」
 サクラが言う。
「磁気嵐警報は?」
「ありません」
「そう。まあ、あさってには太陽が見えるらしいし、その影響かな」

 ふぶきはクッションに顔を埋めたまま言う。太陽が見えると障害が発生する根拠はとくになかった。サクラは非科学的な発言だなと思ったが、それを言葉にするほどの確たる根拠もなかったので黙っていた。大気科学は専門じゃない。サクラは静かにオットマンをテーブルの脇に寄せ、それに座った。ソファの対面には一人がけのソファがあったのだが、できるだけふぶきの傍に座りたかったのだ。

「あー、サクラがいると安心するなあ」
 ふぶきが言う。
「うれしい」
 サクラは律儀にも頬を赤らめた。
「よし、食べよう」
「え」
 サクラの身体がビクッと反応した。

「ん、どうしたの、これ食べていいんだよね?」
 ふぶきはソファに座り直し、テーブルの上のお皿を指差す。
「あ、ああ・・・そう、もちろん」
 サクラは少し残念だったが、気を取り直してふぶきに微笑んだ。
「ありがと」
 ふぶきはクロレラブロックを口にする。

「ん?」
 もぐもぐと咀嚼する。
「んんん?」
 久々に味わった感覚だった。
「なにこれ、やたらおいしいんだけど? なんていうの、柔らかい」
 ふぶきはサクラに視線を送る。
「いまどき高濃縮のスティック食べてるのはふぶきくらいだよ」
「え、そうなの」
 いつも食べているのは生のゴボウかニンジンのような食感だった。栄養効率はそちらのほうがいいはずだったが、たしかに味気はなかった。

「町の人たちはこっち」
「へえ、すごいなあ」
「でしょ」
 サクラは誇らしげに言う。
「こういう加工って難しいんじゃないの?」
「ちょっとね。でも、町の人たちも応援してくれるから」
 そっかと言って、ふぶきは二本目のブロックをかじった。

「そっちはエゾシカの燻製?」
「そう、おじさんたちがハントしてくれたの。燻製器もわたし用のを作ってくれたんだよ」
 おじさんと言っても、この町には予備自衛官とその家族しかいない。地熱発電所と関連施設も彼らが警備している。猟銃を所持している人もいるだろうが、まさかハチキューでハントしたんじゃないだろうなと、ふぶきは心配になる。食糧不足のこんな時代だ、サクラのためならやりかねない。あとで始末書を覗いてみよう。

 ふぶきは「なるほど」とだけ返答して、今度は湯呑を手に取った。
「うわ、なにこれ、ジャスミン・ティ?」
 さっきから驚きっぱなしだ。
「ううん、香料だけ」
「あるの?」
「この前、八雲のカンファレンスに出たとき、
 北方観測隊に従軍していたサーチャの人にもらったんだ」
 サクラはにっこり笑った。
「きみはほんとに女神だな」
 ふぶきはハァアアアッと長い息を吐いた。
 嫉妬する気にもならないほど、サクラは愛されている。

「これ、明日の婦人部会でもだそうよ。用意できる?」
 ふぶきはジャスミン・ティ風ウォータをごくごくと飲み干す。
「大丈夫だと思う」
 サクラは少し口を尖らせて答えた。
 本当はふぶきのためだけに用意したものだった。

「そこで好評だったら、来週のブリーフィングにもだそう」
「え」
 サクラの顔が強張った。
「だめかな」
「オトコのひとたちは、どうかな?」
 首を傾げる。
「だから、明日、奥様方にだすのさ。たぶん、家で話してくれる」
「そうかなあ」
 サクラは正直、嫌だった。

「そしてさ、そこでもオッケーだったら、次の視察のときにもだそうよ。これは売れる」
 ふぶきは右手の親指と人差し指を輪にして、サクラに向かって満面の笑みを浮かべた。ふぶきはサクラを褒めたつもりだった。
「もう!」
 ふぶきのその表情を見て、サクラは顔を両手で覆った。
「え、えっ?」
「わたしはいやです、反対ですから!」
 サクラは顔を覆ったまま言う。
「え、あの・・・あれ?」
 ふぶきはたじろいだ。どうしてサクラが怒っているのか、まるで理解できなかった。ただ、女神を怒らせてしまったということは、なにか人間である自分に非があるのだろうとふぶきは思った。

「なんか、うん・・・そうだね、ちょっと早かったかもしれない」
 ふぶきはこくこくと何度も頷いた。
「そうです!」
 サクラはまだ興奮していた。
「さっきのはなし、なしだから。明日の婦人部会だけにしよう、ね?」
 ふぶきは両手を広げて腕を伸ばし、なしのポーズをする。
「はい!」
 サクラはひときわ大きな声で言った。
 ふぶきは天井を見上げて、頭をグルグルと回した。

「あの・・・サクラ、ごめんね」
 ふぶきの右手がサクラに向かってふよふよと泳ぐ。
 触っていいものかどうなのか、判断に迷った。
「わたし、ちょっと、わかんなくて・・・だから、ごめんね」
 ふぶきはサクラの顔を覗き込む。
「ふぶき、今日はもう、仕事ないんでしょう?」
 サクラが言う。
「ない、ないよ」
「わたし、今夜、こっちで寝るから」
 サクラが指の隙間からふぶきを見ながら言った。

「うん、うん、一緒に寝よう。ね?」
 ふぶきはここぞとばかりにご機嫌をとる。
 子どもをあやしているみたいだった。
「ほんと?」
「ほんとほんと」
 ふぶきはサクラと視線を合わせて、何度も頷く。
「わかった」
 そう言うと、サクラは両手を下ろして、にっこり微笑んだ。
 そこには女神がいた。
 ふぶきは心底、ホッとして、微笑み返した。

「じゃあ、温泉、見てくるね」
 すっかり立ち直ったサクラは、パタパタと奥の部屋へと消えた。
「ありがとー」
 サクラの背中に声をかけ、ふぶきはソファに突っ伏した。
 クッションに顔を埋め、溜め息を吐き出す。

「つかれた・・・」
 まだ少し、胸がどきどきしていた。
 肺を空っぽにすると、干し大根みたいに全身が脱力する。

「・・・・・・」
 けれど、これはきっと幸せなことなんだろうなと、ふぶきは思う。

「ふぁあ」
 欠伸をする。気持ちいい。
 そして、もう一度、空気を思いきり吸い込んだ。
 ゆっくりと吐き出す。しっかり吐かないと、しっかり吸えない。

「・・・・・・」
 ただ、ふぶきはこうも思うのだった。
 来年も、こうしてサクラと一緒にいられるだろうか。
 いつまでこうやって、安心して疲れ切ってしまうことができるだろう。

「ああ、だめだめ」
 ふぶきは自分の顔をクッションに押し付ける。
 そのまま顔を拭う。化粧はしていないので汚れる心配はない。
 けれど、自分の弱気がまだ、顔の周辺に残っているような気がした。

「こういうときは、えぇっと」
 ふぶきは仰向けになる。
 乱れた髪を整えると、見慣れた天井に両手を伸ばした。

「ま、いっか」
 ふぶきは落ち込みそうな思考をシャットアウトした。

 それに、そう、
 今夜は女神と一緒なのだ、なにも恐れることはあるまい。
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オフラインの知人にはすでにお馴染み、ゆーめさんとサイトをやることになったんだ。ストーリィをリレイしたり、日常を書いたりすると思う。

由芽(ゆうめ)さん、こと、ゆーめさんが飽きない限り、続けられると思うし、僕もお話を書いたりするので、たまに覗いてほしいと思うんだ。

ゆめかけ!
http://yumerick.exblog.jp/

ゆーめさんの日常が垣間見れるのはこのサイトだけ!
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by kourick | 2011-07-10 00:00 | 日記
 3年前の11月を思い出す。

 札幌駅地下パセオの奥、トムズカフェ。わたしと彼はカウンタに並んで座り、壁面にディスプレイされているカップとソーサーを眺めながらぼんやりと話をしていた。ロジックの自主ゼミ終わりの午後6時、飲み会までの時間潰しだった。

「ヘンキンの定理にリンデンバウムのレンマを使って完全性を証明するのはマッチポンプだよね」と彼が眠たいことを言うので、「じゃあ、カリー・ハワード対応はどうなの?」と訊いたが始まり、そこからは部分構造論理クロニクルだったことを覚えている。わたしは半分、本当に眠りかけながら、彼の話に耳を傾けていた。面白かった。

 10数分後、遅れて共通の後輩が一人きたので、店員の了解を得てテーブル席に移動する。わたしと彼は二杯目のコーヒーを、後輩はケーキセットを頼んだ。そして、どういう流れでそうなったのかはすでに忘れてしまったけれど、わたしたちの性格についての話題になった。

「研究者っていう人たちは、どんなにソフトな物腰をしていたって、内面には気性の荒い人格をもっているものだよ」
 彼はあっけらかんとして言った。

「ソフトな物腰ってなに?」
 私はすでにちょっとイライラしていた。
 わたしみたいな態度のことでないことだけは直観的にわかる。

「夏場の風呂上がりのビールのことでふよ」
 後輩がケーキを食べながらもごもごと言う。
 タイミングを逃したくなかったみたいだ。

「それはクリアな喉越し」
 わたしが言うと、後輩は幸せそうな顔をして目を細めた。

「もっと外延的に教えてもらえないかな」
 そんなことできないに決まっている。
 具体例を挙げられたら、ひとつずつ論破してやろう。

「ふんふん、まあ、出店のわたあめみたいに柔らかふわふわってことですかね」
 後輩がコーヒーを口にし、もちゃもちゃと咀嚼しながら言う。
 同じ女性として心配になる仕草だ。
 同じじゃないのかもしれない。

「わたしはそんな人に一度も出会ったことがないんだけど」
「え、ホントですか」
 後輩がつぶらな瞳をわたしに向けた。
(ホントですけど)
 どうやら彼女とわたしでは見ている現実が違うようだった。
 むべなるかな。
 いや、さもありなん、かな。

「それはさ、君が常に研究者モードだからじゃない」
 彼が涼しげな表情で言った。
 わたしは途端にイライラする。

「いまだって、僕から攻撃されていると感じているでしょう。だから、自分のもっとも戦闘能力の高いモードにシフトしなきゃいけないってかまえちゃう。そうしないと自分を守れないと、どこかで思ってるんじゃないかな」
「だれだってそうでしょ」
 わたしは彼を突き放すように言い、コーヒーを飲んだ。

「いや、そうじゃない」
 彼は話を続けようとする。
「ストップ」
 わたしは右手の平を前に出して、発言を制止する。彼はそのまま黙った。沈黙の間、彼はわたしの様子を眺めていて、わたしはコーヒーカップの飲み口のところを親指で撫でまわしていた。

 ケーキに向かっていた後輩は上目遣いにわたしたちを見比べながら、むむっとしていた。そして、ケーキを口に運ぶ。一口食べるたびに幸せな表情になるのだが、すぐにむむっとした表情に戻る。この子はなにをしているのだろう。変わっている。

 しかし、その様子を視界の端に感じている間も、わたしの脳内ではアラートが鳴りひびき、エラーを告げるダイアログボックスが無数にポップアップしていた。冷静なわたしがスクランブル発進してきて、地上で銃撃戦を繰り広げているわたしに向かって叫ぶ。

「おちつけおちつけ、わたしたちはいま冷静じゃない!」
 おまえはいったい、どちらなのか。
 冷静じゃないわたしが冷静なわたしを逆に心配していた。
 わたしはいったい、どちらなのか。

 どうしてだろう。なんでこんなにイライラするのだろう。わたしが危険なのか、わたしにとってのわたしが危険なのか、わたしのなかの彼にとってのわたしが危険なのか、わたしはなにを言っているのかメモリ不足、いずれにせよ、この話題はおしまい。おしまいだ。

「この話はおしまい。わたしはいいの」
 わたしは顔をあげて言う。
 なにがいいのだろう。
 わからない。

「そうです、いいんです、それが先輩のいいところなんですから」
 後輩がもったりした口調で言う。
「さにあらばこそ、わたしたちの萌え萌えクールビューティなのでふ」
 わたしに視線を送りながら、後輩はまたケーキを口に運ぶ。
 できれば、話すか食べるかのどちらかにしてほしい。

「それにくらべてなんですか、そのひょうひょうとしてますみたいな能天気さ。感じわるいですよ」
 後輩はフォークで彼を刺すようなジェスチャをした。
「あれ、なんか僕にたいして厳しくない?」
 彼は苦笑して言う。
「ありません。雨が降ったから傘をさしたようなものでふ」
 そして、ケーキ。
「ノー天気じゃないじゃない」
「うわ、うわわわわ」
 後輩が彼のジョークにたじろいだ。
「どしゃぶりでふね」
「しゃべりきってから食べなさい」
 とうとう指摘された。
 彼が言わなかったら、わたしが言っていただろう。

「キミの場合はさ、その柔らかふわふわのやつ?
 それがもう、スチールウールって感じだよね」
 気をとりなおして、わたしは言った。
「ですよねー」
 後輩が笑いながら同調する。
「オレを酸化させてみろって言ってみてください」
「オレを酸化させてみろ!」
 彼が抑揚を付けて言うので、後輩がお腹を抱えて笑った。
 壮絶な現場だ。
「まあ、キミが研究者タイプなのかというと、わたしにはちょっと疑問だけどね」
 後輩の頭をなでなでしながら、わたしは彼に追い打ちをかけた。

「うーん、そう、不本意ではあるけれど、僕はちょっと研究者タイプではないかもしれないね」
 彼はやんわりと苦笑して、溜息交じりに頷いた。
「ただ、だからといって、なにかが語れなくなるわけじゃない」

 彼はそうやって淡々と話を続け、後輩はいつものように、ときおり茶々をいれていた。わたしもところどころ笑ったと思う。ただ、それはもう、完全に自動的な笑いだった。わたしの意識はもっと低いところに沈み込んでいき、水面に映る光を眺めていた。
 言葉がでてこなかった。
 この人はなにを言っているのだろう。
 わたしは驚いていた。
 このときの記憶はあまりない。

「だから、まあ、なににせよ、僕にはこれで充分なんだよ」
 彼は肩を竦め、わたしに向かって笑った。
 ああ、と思う。
 この人は遠からず、ここを去るのだ。
 わたしは直感した。
 彼の淡々とした感情的に変化のない口調は、
 逆にわたしを追いつめた。

 つまらないことを言ってしまった。
 どこかで、取り戻せるだろうか。
 わたしはいったい、どうしたらいいのだろう。

 この日、わたしは久々に泣きそうな気持ちを味わった。

*   *   *

「なに考えてるの?」
 いつのまにか、彼がわたしの顔を覗き込んでいた。
「なにも。ゼリーおいしいなって思ってた」
 わたしは口元に笑みを作る。
「そうだね、ごちそうさまでした」
 そう言って、彼は空のカップとスプーンを袋に戻した。

 さわさわと昼下がりの風が緑光を吹き流し、涼やかに肌をなめる。
 ハトが足元まで寄ってきて、クルクルと喉を鳴らしていた。
 大通公園には晴れているイメージしかない。
 今度、雨のときに来てみようか。
 ただ、ぼんやりと。

 そのとき、彼がゆっくりと身をかがめた。
 そして、ハトに向かって右手の人差し指を伸ばし、
 クルクルと円を描く。

 なにがしたいのだろう。
 どれから指摘しよう。
 じゃなかった。
 これがいけないのだ。
 えっと、
 そう、訊いてみよう。

「なにしてるの?」
 わたしは素直に訊いた。
「ハトと意思疎通する可能性について、および、トンボを捕獲する子供たちの遊戯性にみる好奇心の考察」
「あそう」
 なるほど、こういう返しになるわけか。
「面白いね」
 わたしはグレープゼリーを一口、食べる。
「君のほうが面白いよ」
「どうかな。まあ、わたしも少しは変わったと思うけど」
「そりゃあ、見るからに変わったよ。全体的に茶色くなったよね」
 彼がわたしに向かって右手の人差し指をクルクルと回した。
「バカ」
 わたしは笑った。

*   *   *

 わたしと彼はもともと似たアーキテクチャの人格だ。基本的にはふたりとも非常にロジカルだということがいえる。おそらく、その傾向自体は彼のほうが強いだろう。ただ、二点、異なるところがある。ひとつは、わたしはプラットフォームに依拠したがるのに対して、彼はプラットフォームフリーに思考したがるということ。

 もうひとつは、わたしはレイショナルに積み重ねたいという指向性をもっているのに対して、彼はリーズナブルに立ち回りたいという指向性をもっているということ。これらは些細な違いではあるものの、それがたしかに違いである限り、決定的な違いだった。

 わたしはこうした自分自身の特質の理解を、彼を通すことにより得た。この作業は意外にも感情的な関わり合いを介して進められた。そして、このことを多少なりとも理解できたとき、わたしたちの関係の把握は、わたしにとっては、もはや自動的だった。

 わたしはいつも不安だったし、彼はいつも不安定だった。わたしは束縛に安心していたし、彼は自由に安堵していた。わたしはいつも強そうで弱かったし、彼はいつも弱そうで強かった。わたしは主観に集中させていたし、彼は客観に分散させていた。

 対照的だったのだ。同じ柵のなかにいるのに、立っている地面はまるで違った。見ている方向が違った。それゆえ、わたしたちに優劣はなかった。いまなら、そうわかる。そもそも、わたしたちは同じフィールドにいなかったのだ。それなのに、わたしだけがずっと戦おうとしていた。

 だけど、だから、わたしの個人戦記は、ここでこそ、おしまい。わたしはもう、彼のことについて考える責務はないし、戦おうとする必要もない。もしかすると、これは彼の巧妙な戦略なのかもしれなかったが、もう、それでも良かった。わたしはもはや、ときおり彼に気楽に接したいと楽観的に思うだけだった。大人になったのだ。

*   *   *

「どうして、以前、キミにあれほどイライラしていたのか、近頃、わかるようになったよ」
 言いながら、わたしも空のカップとスプーンを袋に戻した。
「僕のことが好きだったからでしょう」
 反動形成だよと言って、彼は笑った。
「わたし、そういう安易なリダクションはしないの」
「じゃあ、同族嫌悪かな。専門が近かったからじゃない」
 彼は楽しそうに次の可能性を挙げる。
「近しいトライブにいたことは認める。けど、それは決定的じゃない」
 わたしは首を左右に振る。
「なら、君のコンディションの問題かな。僕のタイミングがわるかった」
「そういうときもあったかもしれない。けど、それだけでは説明できない」
 首を振る。
「ということは相性かな。そういうのってあるでしょう」
 そう言って、彼は脚を組む。
 特徴的な奇妙な組み方だ。
「あるかどうかを考えたことはないけど、そう、そのあたりかな」
 わたしもきちんと座りなおした。
「ふむ」
 彼は右膝を両手で抱える。
「ねえ、訊きたいんだけどさ」
「なに?」
「キミ、わざとわたしに挑発的なことをしてたでしょう」
「うん」
 彼はさも当然と頷いた。
 そりゃそうだ、とでも言いたそうな表情だった。
 申し訳なさそうに自信のある顔をしている。
 わたしはなんか、笑ってしまった。
「どうして?」
「どうしてだろう、かわいかったからかな」
 冗談めかして、彼が言う。
「なるほど」
 とは言ったものの、その無邪気さにわたしはあっけにとられていた。
 わかってはいたけれど、これはひどい。
「ひどいよね」
 彼がしみじみと言う。
「たぶん、キミが思っている以上に」
「わるかったよ、ごめん」
 わたしは、この人が本当にわからない。
 どういうことなんだろう?
 わたしはいったい、なにをいろいろ考えていたんだろう。
 この人、なんなの?
 なんなの?
 ねえ、本当になんなの?
「あー、わかった」
「なに?」
「わたし、キミのこときらいだわ」
 言葉にしてみると、意外にも気持ちよかった。
 胸の底からふつふつとなにかが湧きのぼる感じがした。
「僕は君のこと好きなんだけどなあ」
 彼が残念そうに言う。
 こういう言葉にちょっとドキッとしてしまう自分が情けない。
「それ、誰にでも言うでしょう?」
「好きな人には誰にでも言うね」
「キミさ、そういう軽い言動とか、重い意地悪とか、気を付けなよ。
 わたしじゃなかったら刺されてるよ」
「ああ、それはたぶん、大丈夫じゃないかな」
「どうして?」
「こういうことは、まあ、君にしかしないからね」
 彼は平気な顔をして言う。

 わたしは思わず、彼の顔を凝視してしまった。
 だめだ、わたし、しかも、馬鹿だ、
 どういうモードにシフトしたらいいのかわからない。

 どうして、こうやって、この人は他人に委ねるのだろう。
 どうして、こんなに、この人はわたしに安心しているのだろう。
 どうして、これほど、この人の優しさはわたしに冷たいのだろう。

 どうにかして、彼を困らせてやりたい。
 いまのわたしみたいに勘違いさせてやりたい。
 わたしなんてもう、考えだしたら崩れてしまいそうになっている。

 ああ・・・だから、
 つまり、
 これは戦いなんだ。

 そうか、
 そうだよね、
 こういう戦いだってあるんだよね。

 結局ところ、なんだ、
 戦い続けるしかないんじゃないか、
 チクショウ。
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「どうして?」
 彼はたぶん、皮肉を言っている。
「わからない?」
 あと数秒もらえるなら一枚上手に返せるだろう。
 けど、
「はっきりしない」
 そう思ったのも事実だった。
 わたしは複数の選択肢に思い至っていることをほのめかす。
 彼は不思議そうな顔をして、わたしを見ていた。
 やれやれ。

 彼はいま、わたしの反応を見て、わたしの内面を想像し、わたしについてのなにかを判断した。そういうことを楽しむ人なのだ。敵ながら見事だと思うのは、彼がそうした行為をほとんど無自覚的にナチュラルにおこなうということである。

 うがった見方をしなければストレートに受け取ることができるのかもしれないが、正直なところ、わたしにとってはいちいち試されているような気がしてならない。これに居心地の悪さを感じる人は多いと思うのだけれど、彼は意外と人から慕われるほうだ。みんな騙されている。

 いまのやりとりはこういうことだ。説明しよう。

(1) 彼は本当においしいミニトマトを食べたいと思った。

 素朴に考えるとそうだ。そう言っている。特別、おいしいミニトマトを食べられる店があるのかもしれないし、もしかしたらミニトマト狩りみたいなことができる場所があるのかもしれない。だから、わたしは「どうしてミニトマトなのか?」という疑問を胸に「キミがミニトマトマニアだからでしょう」と応じることはできた。

 ただ、これはいまのシチュエーションからいって、実現する可能性の低い提案だろう。わたしはそんなにミニトマトを食べたそうな顔をした人間じゃない。もしいま、昼食だよといってミニトマトを渡されたら、さしものわたしもご立腹である。もちろん、彼だってその程度のことはわかっているだろう。だから、これは暗に代案を求めているのかもしれない。つまり、

(2) 彼はわたしになにか食べたいものはないか尋ねている。

 それゆえ、わたしは「どうしてミニトマトなのか?」という疑問に「そんなわけないよね」と内心で応答し「コーヒーが飲めるならどこでもいいよ。キミはトマトジュースを飲みなよ」と返すことができたかもしれない。こうすると、彼の選んだ「ミニトマト」というワードの場違い感をきちんと理解できるだろう。

 しかし、だとすると、ちょっと腑に落ちないのはミニトマトに付けられた「おいしい」という形容詞の働きだ。これはサラダボウルに敷かれたレタスのように添える必要のあるワードなのか怪しいところだ。あっていやになるものでもないけれど、わざわざ言うことだろうか。だから、わたしは次のように深読みすることを要求される。

(3) 彼はなにかしらのことをほのめかしている。

 わたしが思うに、これが当たりだろう。問題は「ミニトマト」がなにのメタファになっているのかということだけれど、これにはふたつの可能性が思い当たる。

 ひとつはわたし。これは少し下品な発想だけれど、ないことはない。彼はとくに気にせずに、そういうあっけらかんとしたことを言う。わたしも別に気にしない。おそらく、そう受け取ることもできるような微妙なところに投げた。そして、わたしの反応を見たのだ。そうだと思う。

 そして、もうひとつは、わたしのふるまい。ミニトマトというのは、つまりはグレープトマトのこと。要するに、わたしが彼のささやかな思惑に流されず、彼に「すっぱいぶどう」を食べさせたものだから、次は「おいしいぶどう」を食べさせてほしいねと言っているわけだ。遠回しな皮肉である。

 とはいえ、これはわたしにいやみを言っているわけでも、もっと愛嬌のある素振りを期待しているわけでもない。彼はわたしと違って「負けたがり」だからだ。それも用意周到に負けたがる。それゆえ、この場合も、皮肉を言っているようで、その実、そうした状況を面白がっているというひとつのジョークである。「すごいね、君には負けるよ」といったことでも言いたいのだろう。

 やっかいなのは、彼はわたしがこうした選択肢に瞬間的に思い至ることを、さも当然と考えていることである。そのうえで、わたしがどういう反応を示すかを見ているのだ。これはちょっとわたしの洞察力を過信しているような気もするけれど、それが彼の、わたしに対する暗黙の評価といえるかもしれない。

*   *   *

「心臓、どきどきしてる」
 わたしは彼の脈動を背中に感じて言った。
「それはもう」
 彼は気怠そうな口調で言う。
 何気ない台詞なのに、耳元で言われると奇妙な魅力があった。
「この手、どこにおこうか、迷うね」
 わたしも、なんだか脱力していて、右手をゆっくり持ち上げた。
「この距離だとね、先鋭化するから」
 彼はわたしの後ろに座り、わたしを抱きしめていた。
 身体をよせて、ぴったり重なるみたいに。
「やらしい」
 わたしの左手には彼の左手の指が絡みついていて、
 それらをロックするかのように、彼の右手が左手首を押さえていた。
「そうかな?」
 彼は言う。
「やらしい」
 わたしはもう一度、言う。
 そして、身体の前で組まれた彼の右手に指を這わせる。
「けど、これはたしかに眠たいわ」
 わたしは、ふわ、と欠伸をする。
「それは僕もわかる」
 彼もわたしの欠伸につられて、ふわ、とする。
 ククッと背中が圧されて、彼の肺に空気が取り込まれるのがわかった。

 その瞬間、わたしは気付いた。
 彼はわたしに呼吸を合わせていたのだ。

 たまたまだろうか?
 いや、そんなことはないだろう。

 息苦しくなかったのだろうか。
 いや、息苦しかっただろう。

 わたしはなんだか、どうしようもなく笑えてきた。
 だから、
 わたしは彼の拘束を解いて、押し倒すようにして抱きついた。

 どうしてそんなことをしたのだろう。
 わからない。
 それが不思議だった。

*   *   *

 わたしはむしろ、彼の行為の悪趣味さよりも、彼の用意する当たり前の水準のナイーブな設定に驚かされる。それも、相手によって直観的に調整しているようだった。受け容れられる人格と言語のキャパシティが広い、珍しいタイプの人といえる。しかし、このような彼の特質に気づいている人はほとんどいないだろう。

 おそらく、説明を求めたら、彼はゆっくりと自分の意図をすべて言語化できる。しかし、それを語りはじめた時点では、彼はまだ、そのさきの帰結をしっかりと把握してはいない。最終的な広がりを把握し、形を明確に描き出すことは、わたしのほうがはるかに速い。ただ、彼はわたしよりもさきに、のちにはっきりすると見当をつけた方向に歩みを進める。

 普通に考えたら、でたらめだ。もしかすると、自分でもなにを言っているのかわかっていないんじゃないだろうか。それなのに、そういう発話をするとき、彼がその方向性を見誤っていることはまずない。わたしが考えを進めたら、たしかにたどりつける。だから、結果的にわたしが後追いしていることになる。どれだけの人が彼を読もうとするのかわからないけれど、これが変わっている。

 どうして、そういうことができるのだろう。
 わたしにはできない。
 なにかが違うのだろう。

*   *   *

 わたしは彼の姿を認めると、少し離れたベンチに腰かけた。
 バッグから詩集を取り出し、横目で彼を見る。

 ぼけっとしていて、わたしに気付いた様子はない。
 わたしは二度ほどそんなことを繰り返し、そして、彼の横に座った。

*   *   *

 さて、彼の皮肉めいた言葉に対して、わたしはあえて「それは楽しみだ、ぜひ、食べてみたいね」と返すこともできたに違いない。そうしたら、本当においしいミニトマトを食べることができたかもしれない。

 ただ、わたしはこうした種々の判断からどれかを選択することをちょっとためらった。彼はたぶん、わたしの返答のラグに「考えすぎ」の徴表を読み取り、「緊張している」とでも判断しただろう。

 だが、そうではない。
 どうして?
 正直、わたしはちょっと驚いていたのだ。
 なにに?
 うん、そう、このとき、わたしは彼を出し抜いたとでもいうような気持ちになっていたのだけれど、もしかして、コンビニに寄ったのを見られていたのかなと思ったわけ。いや、そんなことないなってすぐに思ったのだけれど、ちょっと止まってしまった。
 それはもう、すごい偶然だったから。
 なにが?

*   *   *

「はっきりしない?」
 彼が興味深そうに言った。
「ううん、もうはっきりしてる。けど、ちょっと驚いたのは事実」

 わたしは彼の目を覗き込む。こんなにわかりやすそうなのに、なにを考えているのか読めない。いや、正確にいうと、読めるのだけど絞れないといったところか。変わっている。

 わたしはふいと彼から目を逸らすと、ベンチの脇に置いてあったバッグを引き寄せ、なかをごそごそとあさる。白いスーパーの袋を取り出すと、バッグをもとの位置に戻した。

「食べたい?」
 わたしは袋に右手を入れながら、彼に訊く。
「食べたいね」
 彼は言う。なにかを訊かないところが彼らしい。

「はい、どうぞ」
 わたしは袋から一個取り出し、スプーンと一緒に彼に渡す。
「どうも」
 それを受け取ると、彼はフリーズした。
 そして、喉の奥を鳴らすように楽しそうに苦笑した。

「グレープゼリーだけど。甘いと思うよ」
「すごいなあ。たまたま?」
「たまたま」

「ほんと、君には負けるよ」
 彼はプラスチックのスプーンを袋から取り出しながら言う。
「またつまらぬことを勝ってしまった」
 わたしはささやかに、誇らしげに胸を張った。
 そして、わたしたちはゼリーを食べた。

*   *   *

 わたしの発想の根底には「戦い」が居座っているのだと思う。ちょっとまえまではだれだってそうだと思っていた。いまはそうでもないらしいってわかっている。けれど、わたしはいまでも、きわめて自然に「勝ちたい」と思っている。

 だれかを負かしたかったり、だれかに負けたくなかったりということではなく、ただ、純粋に、勝っていたいのだ。どうしたら対面した相手よりも優位に立てるか、どうしたら相手より優越している実感を抱けるかをシミュレートしながらコミュニケートしている。

 そうでないと、自分が惨めな気がして、存在している価値がないような気がしてならないのだ。黙っていたら、自分が存在していないような、笑っていたら、自分が消失してしまうような、焦燥。つまり、わたしはとても不安がりなのである。

 戦っていないと、だれかにぶつかっていないと、自分というものを保てない。どこかに属していないと、だれかに認めてもらわないと、そのために前に進み、全身に抵抗を受けていないと、わたしは自分の輪郭を見失ってしまう。

 つまり、これはわたしが生き続けるために必要な戦いなのだ。
 だから、わたしは闘争心を絶やしてはいけない。
 よりクレバーに、よりスマートに、わたしは戦いに明け暮れよう。
 砂塵が石になり岩になるまで、わたしは勝ち続けよう。
 そうでなければ、わたしは崩れてしまうだろう。
 それゆえ、わたしは、
 わたしのこうした傾向を「攻撃的な防御だ」と認識している。
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