僕は大通公園12丁目の噴水あたりを待ち合わせ場所に設定した。
 約束の時間は午後二時。いまは午後二時だった。

 僕は北区を背にしてベンチに座る。とくに意識したわけではなかったけれど、僕は時間通りに到着していた。一般的にポジティブな評価を期待しうる状態であり、こういうのは棚から瓢箪というのだったか。

 大通公園の12丁目はたしかに実在する長閑な場所なのだけれど、はっきりいって、そう積極的に活用したいと思われる場所ではない。

「暇を持て余した人たちが大通公園をテレビ塔から西に向かって歩き出しました。彼らはどこまで行ったでしょう?」という問題があったとしたら、「全員、11丁目で引き返した」が模範的な解答だ。君子危うきに一生を得るというのは、こういうときに使う表現だったと思う。

 本当だったら10丁目で引き返したいところだけれど、かりそめにも暇を持て余しているというのなら、11丁目までは来ることができるだろう。暇人には暇人の矜持というものがあるに違いない。しかし、その余っていた暇すら使い果たしてしまうのが12丁目という場所である。

 大通公園は13丁目まであるが、そこは札幌市資料館に占拠されているので、実質的には12丁目の「若い女の像」が大通公園という空間のヴァニシング・ポイントだ。この像の前に立つと、まさに魚の目鷹の目という気持ちになれる。

 彼女は場所を想像しなかっただろう。僕からのメールを一瞥して条件を確認すると、僕の提案を丸呑みしたに違いない。彼女に呑みこまれた条件は自動的に脳内の時系列をいそいそと歩み、適当なところを探してよいしょと腰を下ろす。そしてときおり、彼女に向かって手を振ったり、クルクル回ったりして、自己主張をするのである。それが彼女の予定というものだろうと僕は勝手に想像する。

 今頃、歩きながら「なんなんだこれは」と思っているかもしれない。記憶を確認して、もしかするとメールを見返したかもしれない。だとしたら、僕の試みは成功といえる。彼女の頭上に「?」を浮かばせることは、僕のちょっとしたレジャーなのだ。

 とはいっても、僕は二日前にメールを送っているのだし、彼女からも「わかった」という必要にして十分な返信があったのだから、彼女のコミットメントだってある。そうそう責められるいわれはないのだ。まあ、彼女はこんなことで誰かを責めるような人格ではないけれど。

 あ、「彼女」といっても「付き合っている」だとか「真剣交際」というような微笑ましいものじゃない。僕たちはそうした言葉の用法に疎かったし、そもそも、関係に恒常性を求める傾向が低かった。あるいはまた意図的に、そうした慣習に無関心を装っていたきらいもあった。

 もし僕たちがきちんと自分の感情を反省し、互いのポジションに関する検討を始めたなら、おそらくいまのような関係を継続することはできなかっただろう。だから、僕たちはささやかな好奇心のために思考を停止するという贅沢をしていた。風が吹いてもそうは問屋が卸さないのだから、一心夢中に五里模索する必要はなかったというわけだ。

 ただ、健全な男女に取り交わされると風も噂する契約的行為に積極的な意義を見出していないことを互いに理解しあっているという点においては、多少、特別な信頼関係を築いていたとはいえるかもしれない。

 だから、これは行為遂行的な発話に慎重だという互いの態度によって縒り合された関係といえるだろう。要するに、苦虫を噛み潰した鯉の滝登りといった状態なのだと思う。つまり、寄らば三文の得といったようなものである。

 それゆえ、僕たちは普通よりちょっと自由に、そのかわり禁欲的に、だからこそ背徳的に、なににせよ楽観的に付き合いを継続していた。もちろん、僕たちはそうした関係にそれなりに満足していた。

 そして、僕たちにとっては「それなり」であることが重要なことだった。というのも、僕にとっても彼女にとっても、真に思考を働かせるべき興味の対象は、互いの人格やその器についてではなく、もっとほかのところにあったからである。

 とまあ、ついつい彼女の気持ちまで代弁してしまった。僕は自分の分析にショートケーキのイチゴみたいな評価を期待しているけれど、本当のところは彼女に訊いてみないとわからない。当たり前である。

 ただ、訊いてみたってわからないかもしれない。それは言葉で表現するには移り変わりやすい不合理さに彩られていたし、そうした不合理さにうっとりするほど僕たちはロマンチックじゃなかった。

 なによりも、そういう不粋なことは互いの望むところではないだろう。
 だから、これはこれでいいのだ。

 しかし、こうした行為が彼女に見透かされておらず、蜃気楼のように熱せられた大気のなかを泳いでいるだけなのだとすると、僕のおかれた窮境というのはまさに河童が流れて海に出たといわれるものに違いないだろう。しっかりキュウリを持っているのなら、普段とは一風変わった塩味の効いたキュウリを食べられるかもしれないが、そこから川を遡上しなければならないことを想像すると頭を抱えてしまう。

 このことからわかるのは、鬼が金棒を持つのとはまた異なるフィールドにおいて、河童がキュウリを持っていたら、それはもう無敵だということである。残念なのは、鬼に金棒を作るだけの製錬技術はないと思われるのと同様に、河童にキュウリを育てるだけの栽培技術はないと思われることであり、そのことだけが悔やまれるのである。

 僕は溜息を吐いた。

「おはよう」
 ふと、女性の声がした。

 僕は頭を左斜め後ろに傾げると、声のしたほう、同じベンチに座っている人物を横目で確認する。その女性は背筋をすっと伸ばしてベンチに腰かけ、膝の上に開いている本に目を落としていた。

 膝は直角か、そうでなければ、やや鋭角気味に曲げられている。意図的にこちらを視界の外に置いている気配があり、彼女特有の攻撃的なインテリジェンスの香りがした。もしこれが彼女じゃないなら、彼女の双子の姉妹かクロンだろう。

「おはよう」
 僕はオウムに返した。
「無視していたわけじゃないよ、気付かないふりをしていたわけでもない。自分でいうのもなんだけど、そういう白々しい真似をするタイプじゃないんだ」
 彼女の横顔を見ながら、僕は言う。

「そうだね」
 彼女は本を静かに閉じると、ベンチの脇に置いてあるバッグにしまった。そのバッグのなかには彼女のお気に入りの詩集と最新の論文が何本か収められていることを僕は知っている。そのほかにどういうものが収められているのか定かではないけれど、秘密道具や最終兵器みたいなものなら入っているかもしれない。それが女性のバッグというものだ。

「バカみたいな顔してた」
 ふっと笑うと、彼女は僕の顔を見た。
 1メートルほどの線分で、僕たちの視線が結ばれる。

 僕はとっさに顔を逸らし、それとなしに周囲を観察したあと、脚を組んだ。右脚を左脚に乗せ、右脚のつま先をもう一度、左脚に絡ませる。きなこねじりみたいにクルンと右脚を一周させる。そして、右膝を両手で抱えた。腕組みをするみたいに、これは防御の姿勢なんじゃないかと自己分析している。
 ああ・・・どうも余計なことを考えているな。

「これからは気をつけるよ」
「そう。それはもったいないね」
 こういうわからないことを彼女は言う。

「それよりもどうしたの、ちょっと変わったね」
 僕は彼女の服装を確認する。
「ヘン?」
「ん、かわいいと思う」
 僕の思いだせる彼女はたいてい、細身のブルージーンズにスニーカを履いて、白いシャツを着ていた。黒髪は短めのストレート、シンプルなシルバーフレームの眼鏡、小柄な体格と女性向けの洒落た腕時計だけが性別を匂わせていた。食べ物でいうなら「冷ややっこ」といったところか。

 いま僕の目の前にいる女性は、エスニックな刺繍の入ったスカートにサボを履いて、胸元のあいたシャツに編みこまれた薄手のカーディガンを羽織っていた。ゆるいウェーブのかかった茶色い髪はセミロング、赤みの差した鼈甲色のセルフレームの眼鏡をしていて、長数珠のような木製のネックレスをしていた。もはや食べ物でたとえることは不可能だ。

「子供のころ、いまの君みたいなアンブッシュ塗装をティガー戦車にしたことがあるよ」
「ん?」
 彼女は左に15度、首を傾げた。
「まあ、冷静に考えたら、そこには君しか座らないよね」
 僕は彼女の様子を受け流し、違う話題をふる。
「だろうね」
「気配は感じていたんだけどなあ」
「やれやれ」
 彼女は鼻から息をもらした。
「ドイツでもそういう格好してたの?」
「いや、これは帰ってきてから」
「ふうん」
 僕はその意図、心境の変化をあとで訊こうと思った。

 さわさわと黄緑色に揺れる木洩れ日の隙間を縫うように自動車の行き交う音がかすかに聞こえた。人慣れしたハトが首をふりながらこちらに向かって歩いてくる。ああ、大通公園だな、と思う。

 ちらっと横を見ると、彼女は姿勢よく正面をむいたまま座っていた。この姿勢だけで、彼女だとアイデンティファイできる。両手は上品に膝の上で重ねられ、全体的に柔らかい直線(なんて詩的な表現だろう)で構成されたフォルムをしている。親指はパラレルに重なり、他の四指はそれぞれ直角に重ねられていた。

 人形みたいに、無為な所作がない。
 それが、
 なにを考えているのか、
 どんな意思に満ちているのかを、僕に想像させる。

「それで、今日はどうしたの?」
 すっと彼女がふりむいて、僕に言う。
「君に会いたかったんだよ」
 僕はちょっと笑って、真面目に答える。
「そう」
 僕をじっと睨んで、彼女は黙る。
 続きのフレーズがあるのかどうかわからない。

「どう、大通公園の12丁目は? 来たことあった?」
 僕は逆に彼女の表情をうかがった。
「遠いし、暑い。ただ、もちろん、これは環境に依存した性質ではないね、わたしの感想。たまにだったらいいかな。適度なノイズが静けさを強調している場所だと思う。来たことはなかった」
 彼女はすらっと言う。

「迷ったりしなかった?」
「わたしは道に迷わないし、判断にはもっと迷わない」
「うーん、変だな、ちょっと奇妙だな、みたいな?」
「それは、どうしてわざわざ大通公園の12丁目を待ち合わせ場所にしたのかということについて疑念を抱いたかということ?」
「ヤー」
「まあ、それは少し考えたけど、キミって変でしょう?」
「そうかもしれない」
 僕は頷いた。

「それをいうなら、そもそも、これだけ通信手段が発達しているなか、待ち合わせなんていう、点に点を重ねるような行為を不意に提案すること自体が変わっているね。まあ、なんにせよ、わたしもそれを了解したんだから、いまさら場所についての疑念を口にするようなことはしないさ」
「なるほど」
 これはもう、遠回しに批難されているのではないかと思われたが、僕こそ、それを口にするのは避けた。
 僕は組んでいた脚をとき、ベンチの背もたれに寄りかかる。

「まあ、それに、すぐキミを見つけたしね」
 彼女は上目遣いに僕を見て、ぺろっと舌を出した。
「んん」
「キミが前を歩いているのを見かけたから、わたしはちょっとコンビニに寄って涼んでたんだよ」
「なんで?」
「『この道でいいよ』とキミが言ったから、6月20日はセブン記念日」
「なにそれ」
「知らない?」
「いや、そういうことじゃなくて」
「ちょっと汗かいてたし、そのほうが楽しめるかと思って」
「だれが?」
「前者はわたしが、後者はキミが」
「ああ、そう」

 僕は少し憑き物が落ちたような気分になっていた。鍋もない、とはこういうときに使う表現だっただろうか。ちょっとしたレジャーが食べ残されたレタスみたいに器のなかでしなしなになっているのがわかる。

 その一方、あるものは器から零れ落ちたミニトマトみたいにいきいきとテーブルの表面を自由に転げまわっている。まあ、いいさ、あのミニトマトはすっぱいんだ。

「お昼、食べてないでしょう。美味しいミニトマトでも食べに行かない?」
 彼女の反応を見ながら、僕は内心を他言語に翻訳する。
「ミニトマト?」
「そ」
「どうして?」
 目をぱちくりさせて、彼女が言う。
「わからない?」
「はっきりしない」
 どうやら彼女も緊張しているらしいと、僕はそのときやっと気付いた。
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