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「ギザギザを ぼやかすことで 表面を滑らかにするのです」

 僕の部屋のドアは僕の左斜め後ろにある。そちらのほうで何者かが断言した。僕が振り返ると、そこには滑らかな男が立っていた。あまりに滑らかに背景に馴染んでいるものだから、彼のいる景色そのものに立体感が欠けており、彼のいる空間そのものが一枚の絵のようになっていた。

「これが滑らかな男か」と僕は思った。噂には聞いていたが、実際に会うといろいろなことを考えさせられる。具体的にどこをどう処理しているのか僕にはわからなかったが、彼の滑らかさはなんらかのギザギザさに起因しているはずだ。それは、なんとも逆説的なことのように感じられた。

「実に滑らかですね」
 僕は言った。

「ええ、そうです。そうありたいと思っています」
 彼は頷いた。滑らかに頷いた。
「しかし、これでもまだ、充分な滑らかさとは言えません」

「そうなんですか」
 僕は驚いた。そして、目を凝らした。というのも、彼は足許から僕の部屋に滑らかに溶け込みだし、すでにどこに立っているのか定かではなかったからだ。滑らかすぎる、それが僕の感想だった。しかし、滑らかな男に言わせると、これはまだ充分な滑らかさではないらしい。

「そうですよ」
 彼は微笑んだ。滑らかに微笑んだ。
「滑らかさというのは、実のところ、皆さんが思うほど複雑なことではないのです。そう、わりと指向性のはっきりした性質です。ですから、やはり、その滑らかさを知り、滑らかになる方法を知ってしまったからには、究極の滑らかさというものに少しでも近付きたいと思ってしまうものです」

「なるほど」
 僕は感心した。たしかに、そういうものかもしれない。彼の言っていることに共感できる人は多いだろう。似たようなことを聞いたこともある。
 だが、彼が言うには、究極の滑らかさを獲得することは原理的に不可能なことらしかった。それは僕にも直観的に得心できた。それはある種の限界概念なのだろう。

「しかし、それを目指さざるを得ないというのも、人間の本性からして、ある人たちにとって、つまり、私のような人間にとっては仕方のないことなのです」
 滑らかな男は、そのように説明した。

 それにしても、彼の言う「究極の滑らかさ」とはいったいどのようなもの、どのような状態なのだろうか。少なくとも、自分の存在をも世界に溶け込ませてしまうような探究が単純なものとは考えられない。滑らかな男はすでに自らの探究を洞察しているようだったが、僕にはやはり複雑なことなのではないかと思われた。それは実に難しい、求道的なものなのではないか。僕はそのことを彼に尋ねた。

「たしかに、そうかもしれません」
 僕の疑念に、彼はそう答えた。滑らかに答えた。

「とすると、私は幸運なのでしょうね。私にとって単純と感じられる営為が、私を生かし、私の楽しみにもなっているのですから。これはもしかしたら、稀有なことかもしれません。実際、誰にでもできることなのかと訊かれたら、私もそう容易には首肯しかねます」
 そこで彼は、静かに息を吐いた。滑らかに息を吐いた。
「そして、私自身、このように考えないわけではありません」

「はたして、私のこの滑らかさは、この世界に、この社会に必要とされているのだろうか」
 肩の力を抜いて背筋を伸ばすと、滑らかな男は僕を正面から見据えた。じっと、滑らかに、僕を見据えた。

「・・・・・・・・・・・・」
 僕はぞっとした。いや、ぎょっとしたというほうが正確かもしれない。そのタイミング、その発言、それは、滑らかな男が言うようなことではないような気がしたのだ。なにかがおかしい、なにかがひっかかる。このように判断するのが適当なのかどうかわからないが、それは「滑らか」ではない、そんな気がした。

「まあ、必要とされていないだろうな」という素朴な直感と、「しかし、本当にそうなのだろうか、それはどうしてだろうか」という曖昧な疑念とが、好奇心旺盛なげっ歯類のように僕のなかを駆け巡った。急激に思考が加速し、脳内評議会が端的な言語表現を阻む。適切に言語化せよ、僕の理性に指令が下る。悪い癖だ、煩悩と言ってもよいかもしれない。それに、いったい、なにが理性に指令を下せるというのか。本能が? まさか。

 そうやって僕がぼうっとしているうちに、滑らかな男は僕の目の前でおもむろに背景に溶け込みだし、じんわりと滲むように視界から消えた。完全に、どこにいるのかわからない。なんて純粋で、不安定な存在なんだろう、と思った。

 僕は目を閉じて、両手で顔を覆った。
 指先で目蓋を押さえると、両目を冷やす。自動的にそうしていた。
 無駄だとは思ったが、同時に耳を澄ました。
 壁掛け時計の秒針、換気扇のファン。
 それ以外の存在を暗示する音はなかった。
 ほとほと僕の耳は頼りない。
 僕にとって存在を聞こうとする試みは無意味だと再確認しただけだ。
 そして僕は、おそるおそる、目を開けた。
 そこはやはり、僕の部屋でしかなかった。

 いや、しかし、本当にこういうものなのだろうか。こういうことが本当に、自然に、ありうるのだろうか。それはやはり、ちょっと、そう、できすぎた感じがした。演出? そう、これは演出されている。そんな気配を感じた。いずれにせよ、滑らかな男に溶け込まれた部屋にそのままいるということは、あまり気持ちの良いものではないような気がした。釈然としない。

「ふぅむ、ちょっとわからないな」
 僕は部屋中を見回し、目を凝らした。
 いるはずだ。まだ、このどこかに、いる。
 ギザギザだ、ギザギザのはずなのだ。
 僕は腕を組んで、少し後ろにのけぞった。
 椅子の背もたれに身を任せ、首を左右に動かすと正面に戻した。
 いるのにいない、いないのにいる。
 滑らかな男に関して、それがいま僕の置かれている状況だ。
 僕はまず、確信する。確信することにする。
 これが重要なことだ。
 探すな。
 探す必要はない。
 探すと、失敗する。
 そんな予感がした。
 僕はもう一度、目を凝らす。

 視界の端が、歪んだ。歪んでいる。
 そう、そうなのだ。
 そうじゃなきゃおかしい。
 いる。そこにいる。

 黒い本棚の側板が、少し、歪んでいる、ように感じた。僕はその歪みに集中し、じっと目を凝らす。手探りで煙草とライタを手に取り、一本咥えて火をつける。

「なるほど」と思い、僕は煙を吸った。「たぶん、そうなのだろう」と思い、僕は煙を吐いた。「わかってきた」と僕は思う。だとすると、僕がいま想像しているようなことがそうなのだとすると、「自分を滑らかにする」ということは、もしかすると、わりと容易な、面白いことなのかもしれない。

 滑らかな男は本棚から何冊かを選び出すと、ソファに座って欠伸をした。
 そして、僕と目が合った。

「・・・・・・・・・・・・」
 滑らかな男は、ぞっとしたような、ぎょっとしたような表情をした。
 肩の力を抜いて背筋を伸ばすと、僕は滑らかな男を正面から見据えた。
「いると思いました」
 僕は言った。

「ええ、御明察です」
 少し間をおいて、滑らかな男は観念したように言った。滑らかに言った。「謝ったほうが良いでしょうか」と言うので、「その必要はありません」と僕は言った。なかなか変わった人格をしているが、いやな感じはしなかった。

「たまに、あなたのような方に出遭います」
 彼はソファに座りなおして、背筋を伸ばした。そして、座禅でもするかのように両手を握り合わせた。滑らかに握り合わせた。そして、続ける。
「それはやはり、多少、珍しいことで、嬉しいものです。ですが、」
 そこで彼は口ごもった。滑らかに口ごもった。

「ええ、はい、たぶん、おっしゃりたいことはわかります」
 僕は応じた。
 滑らかな男がそうであるように、滑らかな男を排斥しようとしない人間も、いまいち社会に適応できない素質を持っているのだろう。彼はそのことを懸念しているのだ。彼は口ごもったふりをしていた。

「そうですか」
 彼は少し安心したように、少し残念なように言った。滑らかに言った。

「はっきり言って、僕は少し感動しました。身を以てなにかを体現するということは、そう容易なことではないと僕は思いますが、あなたの滑らかさは人間の器において完成されていますね」
 僕は灰皿に煙草の灰を落とし、火種を整形した。
「ありがとうございます」
 彼は静かに頭を下げた。滑らかに頭を下げた。

「圧倒的な現実の生々しさに遭遇しているうちは、象徴的な思索に肉付けする気は失せるものですが、それらを同時に成立させることも、やはり可能なのだろうと思いました」
 僕は思ったことをそのまま口に出した。
 
「ちょっと、難しいことになってきましたね」
 彼はそう言って、微笑んだ。滑らかに微笑んだ。
「具体的なこと、具体的な表現には荒々しい魅力があります。しかし、具体性とは艶めかしい肉体のようなものです。やはり、場合によっては、それに服を着せてあげることが適切なこともあります。そして、服は人間にとって必要不可欠なものなのです」

「なるほど、勉強になります」
 僕は頷いた。
「そしてまた、服も人間を必要としていますね」

「そうです」
 彼は頷いた。滑らかに頷いた。
「良い服の条件は人によって変わりうるでしょうが、人に着られることを目的としない服はありません」

 滑らかな男の話に耳を傾けながら、僕は煙草の火種を灰皿の底で静かに潰した。

「私は滑らかさを探究していますが、しかし、どうしてもあるところで妥協しなければならない。これもまた摂理であろうと私は思います。
 極端な例を挙げるなら、私は死ぬときに、その探究を諦めなければなりません。こればかりは受け容れなければならないし、その瞬間に向かって現実と折り合いをつけなければなりません。そうした妥協を肯定的に認め、その方策をも体現できるとき、人は滑らかになれるものです」
 彼は滑らかに言った。

「人は滑らかになるべきだと思いますか」
 僕は尋ねた。

「いえ、そうは思いません」
 彼は言い切った。滑らかに言い切った。
「それは多くの場合、そうあってほしいと願われるものなのであって、そうあるべきと求められているものではないのです。そこを誤解すると歪みます。実際、私もまだまだ、修練の足りないところです」

「それは、そうあってほしいと願われるものが、必ずしも本当に、人に求められているわけではない、ということですか」
 僕は訊いた。

「おそらく、それと同義でしょう。それが自然なのです」
 彼は頷いた。滑らかに頷いた。
 そして、僕たちはそのまま黙った。
 もう、語ることに意味のある言葉はなかった。

 換気扇が低い唸りを響かせ、僕の煙草の煙を部屋の外部に吸い出していた。僕は三本、煙草を吸い、三回、腕を組みなおし、二回、脚を組みなおした。ゆっくりと、時間をかけて、この状況を整理した。そう難しいことじゃない。僕は滑らかな男と出会い、話した。それはちょっと面白いことだった。それだけだ。

 僕は煙草を灰皿で揉み消すと、組んでいた脚を床に下ろした。

「あの、」
 そのとき、静かに、少し申し訳なさそうに、滑らかな男が言った。
「え、なんですか」
 僕はちょっと驚いて、身を乗り出した。
「えぇっと・・・この本、二冊なんですが、貸してもらえませんか」
 そう言うと、滑らかな男は歯を見せて不器用に笑顔を作った。
「ああ・・・いいですよ」
 僕は脱力して椅子に身体を戻すと、笑いながら言った。
 滑らかな男の歯はやはり滑らかなのだな、と思った。めでたし。
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by kourick | 2011-04-20 00:00 | 夢峰