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友人と斉藤ファームに珈琲を飲むに向かう。四時頃に行ったのだけれど、意外と混み合っている。ハンバーグステーキを食べている人もちらほいるし、ああ、こういう早めの夕食(しかも外食)っていうのには日曜日的な情緒があるなとか思ったり。突き当たりの階段を昇り、二階の席に座る。相変わらず良い雰囲気が漂っており、別れ話を切り出すにはもってこいの環境だと思われた。

「マイルド斉藤Aブレンド」と「フレンチ斉藤Bブレンド」の「A」と「B」は要らないんじゃないかという、斉藤ファームに珈琲を飲みに来た人は全員しているだろう会話をしたあとに、「Aブレンド」「Bブレンド」と「ケーキ(チョコレート)」を注文する。「A」「B」に分かれているのは注文しやすさのためじゃないかと思うのだけれど、すると、「ソフト斉藤ブレンド」はなぜ「Cブレンド」じゃないのだろうか。

照明(赤いの)の真下にケーキを移動する。わりと暗いなか、温かい光に包まれるケーキ。ちなみに今日は雨からミゾレな天気、店内はストーブに薪的なにかが焚かれていた。たぶん、薪だろう。ケーキにかかっているのはキャラメルソースとチョコレートソース。ブルーベリーが乗っていて、スポンジと数種類のクリームが微妙なバランスで積まれている。食う、甘い、美味い。

あっという間に倒壊したケーキをちまちまと突きながら、珈琲を飲む。時事、文化、葬式、教育、子供、結婚、恋愛、女性といった話題を喋る。僕は普段あまり人と喋らないから、喋りだすとけっこう勝手にいろいろ喋っている。ただ、人の話を聴いているほうが好きだ。さておき、僕はケーキを完食するのが遅い。あまり意識してしないのだけど、どうも味や食感の組合せを試しているみたい。

斉藤ファームURL
北海道札幌市西区発寒8条13丁目
電話番号 011-661-8111
営業時間 11:00-24:00
駐車場 約10-20台
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by kourick | 2009-04-26 00:00 | 画像
珍しい人はお酒に強い。僕もそれなりに強いし、僕の酒飲み仲間にも強い人はいるけれど、ちょっと彼女は図抜けている。それは「酒豪」というような表現を通り越しており、翌朝、陽光に向かって悠然と歩む彼女の後ろ姿はもはや菩薩を思わせた。彼女は酔わないのだ。たまに、彼女はどうして酒を飲むのか、と疑問に思う。水よりも酒のほうが量を飲めるからだろうか。不経済な人間だ。

この場合の「強さ」というのは「アルコールの分解能力の高さ」にとどまらない。彼女の場合、酒量もそうとうなものだけれど、酒を飲むという行為に対する油断や慢心、迂闊さというものがない。つまり、自己を統制する能力に長けているのである。あらゆる環境や状況に合わせた持久戦を日常的に想定しているのかもしれない。だとしたら、飲酒に際して、彼女は理路整然と狂っている。

「女は怖いよお」
 彼女はソファの背もたれに寄りかかりながら、そう言った。
 僕は「知ってるよ」とか「だろうね」とか言おうかと思ったが、それらの言葉は胸に押し留めた。
「そう?」
「…………」

彼女は僕のほうに目線をちょっと向けると、そのまま黙った。どうしようもないので、僕はグデッとしたままシメイに口を付ける。それにしても、僕が夜中に酒を飲みたいとき、珍しい人はたいてい起きている。起きている時間が僕と似ているのか、あるいは彼女は寝ない生物なのだろう。少し気になるから質問してみたいけれど、睡眠時間を尋ねる僕に、内心、彼女は辟易するだろう。

「それを訊いてどうするの?」

うわあ、言うなあ。そのあとに「馬鹿みたい」とか言うのだ。こういう場合、正面から応じる、早急に茶化す、言葉を被せる、冗談を言う、撤回する、謝ってみる、粛々と後悔する、はらりと涙を流す、さあ、どれが適切な応答だろう。これは実に難しい。大体、女性の機嫌を損ねたとき、もはやそこに正解はない。やれやれ、あれこれと勝手な想像を働かせることだけが、僕の自由なのだ。

「あなたは本当に変わらないよね」
「まあ、そうだね」
「正確に言うと、変わっていないように見せるのが、かもしれないけど」
「ああ、それもあるだろうね」
 僕はシメイを飲む。
「こういう話題に興味はない?」
 そう言うと、彼女はソファに座りなおした。
「あまりないかな」
「あそう」
「そういう消化試合みたいな会話はね、危険だから」
「…………」
 彼女はわかりやすい溜息を吐いて、ギネスをグイッと飲んだ。なかなか頼もしい仕草だ。
「こうしてさ、ひとりで酒を飲んだりしてるとさ」
「ひとりで?」
「わたしだって酔うわけよ」
「えぇっと、僕、いちおう、ここにいます」僕は左手をふわふわと左右に振る。「眼中になかった?」
「たまになんで見えてるんだろうって思うことがあるよ」
 なかなか面白いジョークだ。クスリとも笑えない。
「点数にすると?」
「0点」
「何点満点中?」
 僕がそう尋ねると、彼女は苦笑して「煙草ちょうだい」と僕に手を伸ばした。
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近頃、いろいろな音楽を聴いている。主に作業用BGM(安息時)としてだけれど、大いにネットの恩恵を与っていると言うほかない。民族音楽やアンビエントはまだしも、ハウスやテクノ、エレクトロニカ、ミニマム、あとノイズなんて、それこそネットになかったら生涯聴かなかったかもしれない。ノイズはもう、大変なことになっている。もはや音楽の枠にあるのか判然としないほど原初的だ。

僕はもともと音楽に興味のある人間ではないのだ。幼い頃からピアノをやっているからクラシックやジャズにはそれなりに親しんでいたし、もちろん、アニメやゲームの音楽は聴いていた。ただ、その範囲に留まっていた。それは結局、僕の生活圏内に漂う音楽がそういうものだったというだけの話だ。僕は自分の好みの音楽を選ぶという段階を思春期に踏まなかったのである。

邦楽ロックに流されることもなかったし、洋楽ロックに目覚めることもなければ、愛や青春、それに平和を歌うものには妙に覚めていたし、昭和の音に耳を傾けることもなかった。もちろん、クラブミュージックなんて知りもしなかった。僕は当時、どういう服装をしていたのだろうか。その記憶もない。それはたぶん、僕が自分の好みの音楽を選択しなかったということと無関係ではない。

僕はそういう仕方でアイデンティティを育成するということをしなかったし、そういう事柄に自覚的でもなかった。自分は人にどう見られたいか、どう見られるような自分でありたいかということに、それほど関心がなかったのだろう。もしかすると、それはいまだにそうかもしれない。どこかで、自分が何者かであること、自分はこういう人物だと特定されることを恐れているようなところがある。

自分の底の浅さを露呈させないために常に解放区を残し、ふらふらと彷徨っているのである。
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by kourick | 2009-04-14 00:00 | 日記
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友人と倫敦館にふらふらと珈琲を飲みに向かう。螺旋階段を登り、二階の席に座る。なにを目的にどういう設計思想のもと作られた建築なのか相変わらず謎だけれど、年季の入った内装と昔を懐かしむような雰囲気がえもいわれぬ情緒を漂わせている。喫茶店、ないしはサロンという感じ。

ちょっと文学的な匂いがする。火災が発生した場合、どのルートで脱出したら良いか少し考えた。前に来たときと同じようにケーキセット(750円)を注文する。今回はチーズケーキ、美味しい。他の食事も美味しそうだなと思う。わりと遅い時間まで営業しているから、長居する人もいそう。

喫煙者の僕としてはありがたいかぎりだけれど、店内は禁煙にしたほうが良いのじゃないかなと思う。時間帯によってはそうなのかもしれない。吹き抜けになっているから換気すると寒そう。北海道だしね。あと、もう少し丸みと厚みのある淡色系のコースタのほうが合いそうだなと思った。

Cafe倫敦館
北海道札幌市中央区北四条西11-75
電話番号 011-271-7730
営業時間 10:00-23:30
駐車場 11台
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by kourick | 2009-04-12 00:00 | 画像
同一の時空間で起きた出来事であっても、それは視点によって多様に把握され、正当性を付与される。かように言語論的に転回するとき、存在の水準は持ち上がっている。問題とは語りの現場にこそあり、わたしたちが語ることによって始めるのなら、「実在の出来事」は人が認識し言語化することによって共有しようとする出来事という対象を存在させるための前提にならざるをえない。

わたしたちは「実在の出来事」を語りに用いることはできない。語りに用いることができるのは、広い意味合いにおける言語のみだからである。しかし、それは出来事が客観的には存在しないということではない。むしろ、「存在する」と言うとき、それは任意の解釈を通して言語的に対象化された出来事に関して語っているということであり、客観性もその次元において問われているのだ。

怠惰な学生を定義によって勤勉にすることはできないけれど、言語による対象化を経ずに事態を語ることもまたできない。認識論的な直観を脱するなら、主観と客観というのは二項の対立ではない。それらは緩やかに変動する。極端な主観性の排除と適切な方法論による伐採ののち、客観性は鍛えられ、客観的な存在は実在に漸近する。わたしはほどほどの客観性に満足する。

わたしたちは存在において対立するのではない。認識において対立するという言い方も正確ではない。言語において対立するという言い方も誤解を招いてしまうかもしれない。わたしたちは語りにおいて対立する。そして、そのときに用いられる言葉に認識の張り付いていることが要求され、それが対象の存在を予感させるのだ。人は多様な語り方を習得することにより現実を拡張する。

人は現実に感染する。語り方において対立するとき、その対立は語りの態度に還元される。
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by kourick | 2009-04-06 00:00 | ○学
歴史の繰り返しは歴史のうちにはない。それは歴史を語ることのうちにのみありうる。こうした理解は実証史学こそが歴史学に他ならないという見解とバッティングしない。歴史を特定の立場に都合の良いものとしないように、因果関係のほか価値判断なども排除し、可能な限り、確証バイアスのかからないように客観的事実を羅列する。そういうものこそ、歴史の名に相応しい。

およそ近代的な歴史観はそのようなものだし、実際、そのようなものとなるように歴史は語られることを望まれる。多様な歴史認識や歴史解釈は、そのリソースがあってこそできるというわけだ。僕も基本的にはその見解に賛同するけれど、しかし万能でもない。文献史料は十全なものではないからだ。結局、それも実証主義的な歴史の語り方という態度の次元に回収される。

しかし、だとすると、歴史とはその語り方次第で、いかようにもその相貌を変化させてしまうのではないか。それは、ありもしない過去を作為的に仕立てることをも可能にし、肯定すらするだろう。すると要点は歴史製作の過程に移され、ときに歴史の正統性は歴史の語り方の多様性のうちに霧散してしまうのではないか。たしかに、「歴史は勝者によって作られる」とも言われてきた。

実際、そうなのかもしれない。理神論者が、理性によって受け容れられる真実のみを集めて合理的な宗教――自然的宗教を作ろうとし、いまとなっては大局的に否定されているように、客観的事実のみを集めて歴史を俯瞰しようとすることも、結局のところ、素朴な意味合いにおいては否定されることになるだろう。近代的な宗教概念と同様にして、実在的な歴史観もまた相対化される。

求心的な暴走は遠心的に制御される。ただ、それによって破壊してしまうのなら元も子もない。
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by kourick | 2009-04-04 00:00 | ○学
歴史は繰り返す。厳密に言うと、これは誤っている。だから、用心深い現代の歴史家や歴史研究者は、この言葉を口にしない。歴史の一回性を過小に見積もると、訂正の面倒な誤謬を引き寄せてしまいやすいからだろう。ある歴史的出来事の発生する直前と同じ条件が仮に未来に揃ったとしても、その歴史的出来事と同じ帰結が立ち現れるとは限らないというわけだ。

そもそも、その「出来事」や「条件」というのを選出しているのは歴史を眺めようとしている人物であって、そうした条件は多分に恣意的なものである。かように歴史のなかに因果関係を読み込もうとすることには慎重になる必要がある。それは必ずしも客観的なものとは限らないからだ。これは「歴史」という語を用いて、ヒュームの指摘した因果連鎖の不確定性を言い直したもの。

しかし実際、わたしたちは歴史から、「歴史は繰り返す」という教訓から、なにかを学ぶことができるのではないか。たしかに、その通り。「温故知新」「二度あることは三度ある」というように、過去に起きた出来事同士の間に一定の傾向を見出し、今後の憂いに備えるということをわたしたちはする。それは確実な未来を保証しはしないけれど、過去の記憶とはそれで充分なのではないか。

個人誌や歴史にわたしたちは各々の経験を重ね合わせ、そこに習慣的に「繰り返し」を読み込む。自己や共同体を安定させ、その蓄積を応用するため、過去を「歴史」として叙述し直す。そこに繰り返しを読み込むとき、むしろ、その不確定さゆえに、人は「繰り返さないため」に語り、「見守るため」に黙る。それこそが共有される記憶、歴史という財産の価値なのかもしれない。

歴史は繰り返すとは限らない。しかし、だからこそ、人は歴史の繰り返しを語る。
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by kourick | 2009-04-02 00:00 | ○学