表現者であろうとなかろうと、表現をするということを意識した途端に表現できないようになるということはある。どうして、そういうことがおきるのか。それには表層的に多様な理由が考えられる。けれど、その躊躇の根底にあるのは、表現したいことと表現との間隙、そして、表現と表現の受け取られ方との間隙を過剰に自覚してしまうということではないか。

それらが一致しないかもしれないという不確かさを人は恐れる。その恐れは、自分が誤解されてしまうのではないかという不安に起因している。誤解されてしまう不安というのは、表現と人格の両方に向けられているだろう。自分の表現したいことが適切に相手に伝わらないのではないかという恐れと、その表現をした人格が肯定的に受け取られないのではないかという恐れである。

もちろん、表現と人格というのは弁別されるものである。しかし、まるで無関係なものでもない。むしろ、理知的な論証をしているのでもない限り、それらは大きな影響関係をもって成立していると考えるほうが自然である。光源に向かって影が伸びることのないように、一方が他者の視線に照らされるとき、他方はその影として、一定の傾向性をもってその裏側に伸びている。

人に誤解されることを恐れるというのは、その表現から人格に波及する他者からの不信に許しがたい悔しさを想像してしまうからだろう。それは積極的な意味合いにおいては、他者のなかの自己が当人の理想像から逸脱してしまうという想像に起因しているだろうし、より消極的な意味合いにおいては、肉体を守るのと同じように精神を守りたいという欲求に起因しているだろう。

しかし、精神に服を着せることはできない。外面に晒される部分に関して、精神を守るというのは肉体を守ることほど容易ではないのである。ところで、人はおよそ無価値なものを守ろうとは思わないものである。それゆえ、精神を防護するときに働いている意識は、自己自身の表出可能な内面の価値をどのように値踏みしているかという自己愛の強さと表裏一体ということができる。

自己の内面に渦巻きなす言語が常に同一のままに自己を現すと考えられるのも、自己愛のなせる業ということができるかもしれない。そして、自己愛という孤独に引き篭もらない限り、わたしたちは人格の肯定をも欲する。表現が内なる世界から外界に向かって自己の居場所を求めるために迸っているときは、なおさらそうである。そのとき、表現の繭は自己自身を幾重にも包み込む。

表現できなさの表現というのは自己愛の発露の境界面にある。そこにある矛盾は、重力に惹かれて落下するのでもなければ、宇宙に向かって解き放たれるのでもない自己愛の限界において揺れている。しかしいま、僕は循環する自己愛の弊害を指摘するのではない。むしろ、表現への躊躇が自己愛の空回りに起因していたとしても、それを恥ずべきではないとすら言いたいのだ。

表現と自己愛を天秤にかける必要はない。その裁量は自身のゆらめきの熱量に委ねたら良いのである。言い知れぬ息苦しさのなか、自信の欠如と能力の不足に塗れて産み落とされたのが不細工な表現でしかなかったとしても、それは無益ではない。だから、ただただ、僕は戒める。考えることだけは止めてはいけない。やはり、僕の深奥に残る言葉も、これに尽きてしまう。

表現のできなさを無闇に解消しようとすることはない。それは間違ってすらいる。暗闇に向かって叫び、虚しさのなかに想いを拡散し続けることは、傍から見ると魅力的でもあるからである。暗闇と虚しさに孤独が直面するとき、人は恐ろしいほどの脆さを引き寄せる。色を失った世界は、寄せては還す感情の波をすっかり吸い尽してしまう不毛な砂漠に変わり果ててしまうかもしれない。

しかし、不毛な砂漠に佇む人にしか見ることのできない星空も、きっとあるに違いない。
[PR]
by kourick | 2009-03-26 00:00 | 考察
感情は枯れる。僕はその幻を感じたことがある。しかし、最後の最後まで、それを自覚することは難しい。自分が愛していると思うほかない人物の制御のできない感情の激流に身を寄せているうちに、次第に自分の感情は圧壊し、それを受け止めていた器は縮退する。そして、あるとき、ふっと自分の胸の内から、なにかが消滅するのを感じるのである。気付きはそのとき、やっと訪れる。

あ、と思う。胸の奥のほうにあった空間が萎む。しゅうううっと縮まっていって、そのまま、そこから失われてしまう。感情の器、心というのは胸のあたりにあったのか、と思う。頭というは、その感情を理解しようしているだけだったのか。僕は言葉に頼る人間だから、さきに情念が犠牲になる。感情に直通していた経路が塞がれ、アクセスするのに回り道が必要になる。裏と表が乖離する。

胸に穴が開いてしまったみたいと言う人もいる。けれど、この場合はむしろ、感情があるとかないとかいうための場所が消滅してしまったというほうがよいのだと思う。実のところ、喪失感というのは非常に透明なもので、暗澹と晴れ渡っている。だからこそ、不自然なのである。本来、感情のなかにも言葉があるし、言葉のなかにも感情はある。縺れ合っているそれらが、同時に壊れる。

う、と一瞬苦しむ。あ、と思う。そして、ちょっとの間、茫然とする。それでおしまい。そうやって、人は壊れる。ただ、そうやって壊れるのだとしても、もし、そのとき、適切に壊れることができたなら、それは決してなにかを失うということではない。たとえ残骸しか残されなかったのだとしても、人はまた、それをそのまま残し、新しい季節を展望することも、新たに歩み出すこともできるのである。

完全な喪失は、それが失われてしまったことすら忘れさせてしまうものだ。
[PR]
by kourick | 2009-03-24 00:00 | 随想