別に大してそれをする気もないのに「次はこれをします」と宣言することほど、人に息苦しい思いをさせるものはない、ないな! あえて言おう、後悔したと! 僕は後悔した! だが、むしろ僕はこう言おう、もっと後悔したい……後悔よこんにちは! いや、正直にいうと、もっと後悔したいとはさすがに思わない……そこは嘘、やはり嘘です。

なにはともあれ、後悔したことに後悔してはいけないぞ。後悔をネタにテキストを書き残す、たまにはそういうのもよい。もっと後悔していこう、だが、後悔を表現し続けるのはよそう。なによりタチが悪いのは、自分の後悔をグズグズに茶化してしまうことだ……これはいただけない。それは、まさに愚か者のすること! ああっ、後悔することが多すぎて、後悔を表現している余裕がない!

後に悔いると書いて、後悔! 過去を悔いる……後悔とは後ろ向きにするものだ。だから、一見したところネガティブに感じるかもしれない。だが、後悔にも良い後悔というものはある! 悔いてラッキー、後悔よ、ありがとう! そう、思わず後悔に感謝してしまう、そういう後悔をしていこう。ま、まあ、こういうのは通常、あまり「後悔」とは言わないかもしれないが。

そう、ときには後悔を背景に、未来の自分の姿のうちに後悔を想像してしまうこともあるかもしれない。あぁあ、後悔するかもしれないな(うじうじ)。この、後悔するかもしれないという気持ちに囚われている状況、これもたしかに後悔のあり方だろう。もしかすると、これこそが正しい後悔なのかもしれん。しかし、ときには後悔を飲み込むことも、正しい後悔との付き合い方なのだ。

もし後悔しているのなら、そのときは全力で後悔する。へいへいへい、中途半端な気持ちで後悔しているんじゃあ、ないのかい? そんなことはお天道様が許しても、後悔マイスターの人たちが許しちゃおかないぞ! そう、君の後悔は君のためにある……だから、君の後悔を人のために使おうと思う必要はない。あと、開き直るな、鬱陶しい……それと、暑苦しいし、感嘆符が多い……

クッ! こ……後悔した! 書いたそばから後悔した!!
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by kourick | 2008-11-24 00:00 | 日記
 というわけで、ベネディクトの「恥」の話題の続きです。しかし、最初に言っておきたいのだけれど、僕はルース・ベネディクトという人を20世紀における第一級の文化人類学者だと思っているので、これから説明することを本当に彼女が主張しようと意図していたのかについては、ちょっと疑問符を付けたい。ただ、その帰結としては、たしかにそう読めます。

 そもそもベネディクトが 『菊と刀』 を執筆することになったのは日本の敗戦後の処理、日本(人)の統治計画を周到に進めるために米国政府から日本(人)の文化を研究せよというお達しが下ったからです。そこから彼女は先行研究や諸々の文献、日本人捕虜・日本人移民などに聞き取り調査を行い、訪日することなしに一冊の報告書をまとめるのでした。

 それが『菊と刀 ~日本文化の型~』です。この副題にある「型 pattern」というのが重要で、この「pattern」というのは「ある文化をその文化たらしめているような特徴」のこと。これを強調するのがベネディクトの文化様式論の特徴のひとつです。実際、『文化の型』という著書もあります。とまあ、こういう背景があるというのは、やはり大切なところです。

 ベネディクトは日本文化の「pattern」のひとつを「恥」と考えました。そして、この日本的な「恥の文化」というのを、欧米的な「罪の文化」との対比として語っています(必ずしも対立概念として提示しているわけではないことには注意)。すなわち、日本人は他者の目を気にして行動する一方、欧米人は神の目を気にして行動するという具合です。

 日本人は他者の目に配慮することで自身の行動を律する。つまり、日本人の道徳は、内面的な強制力よりも外面的な強制力のほうが優位に立っているとしたわけです。罪の文化に生きる人は、どのような状況にあっても常に神の目のもとにあるため、罪を犯したと感じるときには、その罪を包み隠さず告白することにより、自身の罪の重みを下ろそうとする。

 じゃあ、恥の文化に生きる人はどうだろうか。簡単に言うとこうです。そうした人たちは他者の目を気にして行動するのだから、他者の目の届かないところであるなら道徳的に動かないこともありうる。むしろ、悪行が世間の人々に露見しないのなら、そのような行動を気にすることはない。そこに罪の重みはないので、その行為を他者に告白することもない。

 ベネディクトはそう特徴付けた。この読みは、まあ、なかなかなことになっている。しかし、全体として説得力のある知見となっているため、ナンセンスと切って捨てるわけにもいかない。これに対して、作田啓一さんは 『恥の文化再考』 において、次のように反論した。この反論は(いまいち知られていないけれど)およそ妥当なものだと思われる。

 ベネディクトのいう「恥の文化」というのは他者の目、世間の評判に重点を置いている。しかし、恥というのはそうした環境においてのみ感じるものではない。というのも、私たちは自分自身を恥じるということをする。つまり、私たちは自分自身を自分の目により監視している。すなわち、「公恥」に対する「私恥」というものに、もっと注目しなければならない。

 みなさん、今日日、恥じてますか、恥じらってますか。
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by kourick | 2008-11-23 00:00 | ○学
歳をとると、経験を積むと、いろいろなことを許せるようになる。続きもののテキストみたいだから明日も更新あるのかな……あるわけないよな……いや、もしかしたら……あぁあ、やはりなかった……ないよねそりゃあ……だが、許せる! 許せます。それが大人、駄目……ではないけれど、それほど立派じゃない普通の大人! 等身大の大人!

ある人は妥協だとか手抜きだとか言うかもしれない。しかし、前回のテキストのラストの段落、最初は「明日、書こう」としたところを、咄嗟に「次回、書こう」に変更した……この機転! どうせ更新しないなという先読み! そして、あまり更新しすぎるとテキストが流れてしまい読者を置いてきぼりにしてしまうかもしれないじゃないかという言い訳! 大人です……これが大人のゆとり。

ただ、真の大人は「これが……これが大人のゆとり!」とか言わない、かもしれない! そこは差し引け! むしろ、その子供的な発言に対する差し引きこそ、大人の所業! 大人になる、そうすると他者の気持ちを慮ることも、感情移入を制御できるようにもなります。そして、あ、この人、許せると言って欲しそうだなというときに「ええ、許せますとも!」と言うこともできるようになります。

大人になる! それは大事なことだが、大人になることによって、駄目な子供になってはいけないぞ! 大人と子供の両立! 人はその両面がわかってこそ、初めて、大人になるのだ! いつの間にか子供の気持ちを忘れてしまう、子供になれない、そんな大人しか知らない大人に、どうして自分が大人だって言うことができる!? 子供があってこその大人! 子供をやめるな!

前回の続きは次回!(誰も待っていないかもしれないが書きます。次回は感嘆符少なめだ!)
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by kourick | 2008-11-18 00:00 | 日記
ちょっと中途半端な昨日のメモに愕然としたので、似たようなことを上乗せして書き残そうと思う。いや、メモに中途半端もなにもあったものじゃないような気もするけれど、そこは自分との闘いである。いかに文章の端々に情報の小包を引っ掛けているか、自分の記憶の引き出しを喚起するかどうか、それがメモのメモたらしいところなのだ! その開示には適切な手心が必要である。

それはさておき、ウェブのスラングとして「自重しろ」というのを近頃、頻繁に目にする。真・三國無双の登場人物たちの台詞が起源とも言われているけれど、これが普通に馴染むというのは日本的だなと思う。「自重しろ」というのは主に「落ち着け」という意味で用いられるのだけれど、必ずしも否定的に使われるわけでもない。

どちらかというと「ちょっと落ち着け(いいぞ、もっとやれ)」という含みがある。建前的には止めました、ただ、本音としてはもっとやれ、こういうことである。好意的な否定といったところ。いや、厳密に言うと「否定」でもない。そういう意見ではない。すなわち、「自重しろ」というのは換言すると「空気読め」である。いいな、わかるな、説明しないけど、わかるな?

このような場の雰囲気による人の統制、空気を基調とした同質化圧力は、日本においてはやはり根強い。「自重しろ」というのは、他人の行動のなかに看取される暗黙のメッセージに気を配り、他人が自分の行動を批判するかもしれないということを意識して行動せよということである。それができない場合、その人は批判されることなしに「排除」される。

こうした日本社会の隣保組織の強固さと外面的強制力による道徳の形成といったものをルース・ベネディクトは「恥の文化」として特徴付けた。日本人は恥辱感を原動力にして善行をなす。恥を感じやすい人こそ、善行をなす人であり、「恥を知る人」というのは「良心のある人」と同義である。そして、そういう社会において人は自己の行動に対する世評を気にしやすいというわけだ。

うーむ、なるほど、うまいことをいう。実のところ、この説明は『菊と刀』の第十章「徳のジレンマ」のなかの数頁が割かれただけの一節であり、どれだけ前面に打ち出される見解なのか定かではないのだけれど、日本人自身としてもなかなかお気に召した理解だったのか、やけに有名になっている。次回、この理解のもたらしたと思わしき結論と、それに対する批判をちょろんと書こう。
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by kourick | 2008-11-14 00:00 | ○学
 英語圏の Japan Forum に「日本に来て気付いたこと」という項目があって、日本では「異なっている」と「間違っている」が同義であるとコメントされていた。これは、なかなか鋭い観察だと思う。

 いわゆる、日本人の内輪気質だとか、ある種の排他性と思われるところが、言語使用の場面を通しても表出しているといったところだろうか。やはり、外国人にはそう映りがちなのである。

 公私に渡って意見の対立を避け、人間関係の距離感に神経質という日本人の傾向性はどのように説明すると適切なのかというのは、わりと昔から論じられてきた。

 日本人の著作として有名なのは、中根千枝さんの 『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書,1967年)だろう。これは 『Japanese Society』 として翻訳もされており、いまなお国内外において影響力をもっている。

 一時期、外務省の役人も「これが日本の社会構造ですよ」といって諸外国の役人に配っていたらしいので、これはなかなかである。ただまあ、そこにどういう意図があったのかはわからない。

 重要なのは差異を把握しようとすることであって、差異を消失させようとするのは相対的にリスキィなものだ。近寄るにせよ避けるにせよ、互いに把握しうる不一致がそこにあるという理解こそが重要だ。

 そこにあるのは壁というよりも、溝なのである。壁を壊して大きな平野を志向するより、溝に橋を掛けて互いの平野を尊重することのほうが、どれだけスマートなことだろう。
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by kourick | 2008-11-13 00:00 | ○学
11月21日に OVA の五巻が発売されるせいか、ニコニコ動画に HELLSING の OVA が上がっている。二話と三話はいちおう偽装されているけれど、一話は偽装されておらず、どれも消されていない。11月04日に第二話、11月08日に第一話、11月10日に第三話。再生数は40000弱、70000弱、20000弱といったところ。ただ、発売直前の全滅は必至ですね。

なにがどう面白いのかを説明するのは骨が折れる(し、ちょっと危険かもしれない)けれど、面白い。「平野節」といわれる独特の台詞回しと豪華声優陣も良いけれど、カメラワークが地味に凝っていて、映画を意識しているような感じ。もちろん、アニメーションも良い。僕は倉田英之さんを無闇に信頼しているのだけれど、ああ、やはりいいなと思った。しかも、黒田洋介さんとコンビ。

倉田英之さんというとタイムリィな話題の「かんなぎ」ですが、ヤマカンさんがインターネッツの某巨大掲示板のスレでやたら嫌われていて笑った。どうして、あんなに嫌われているのかわからないけれど、なにか原因があるのだろうか。第五話に本人が出演しているシーンがあるけれど、そのあとに倉田さんも出演しているし(笑)、楽屋落ちが多いのは倉田さんの影響のような。

それはさておき、やはし、かんなぎの OP はすごいなと僕は思った。ああ、こういう動きって目を奪われるんだなという発見。らき☆すたの OP もそうだったけれど、ああいうのがセンスなんだろうと思う。らき☆すた放映当初、僕は完全にノーチェックだったのだけど、友人から「話題になってるよ」と紹介されて見たのがあの OP で、最初はドン引きしたけど気付いたら繰り返し観ていた。

そして、そのまま本編も見た。まさに思う壺! 動きの面白さというか、おお、こういうのも格好良いという新しい発見はガイナックスの作品に感じることが多かったのだけど、ああいう OP にも感じるとは! 京アニから追い出されちゃったみたいだけど、どこかに腰を落ち着けてこれからも楽しませてほしいなと思う。というか、倉田さんとのコンビはけっこう合ってるような。
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by kourick | 2008-11-11 00:00 | アニメ
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テキストを書いたあとに、それと呼応するような他の人の書いた、自分のテキストよりも時間的に先行したテキストを見付けて、うおぉおお!となることはある。まあ、いいや、仕方ない。そう、あっさりと受け流せるようになったのは成長だろうか。記憶が飛ぶほどの二日酔いをしても落ち込まないようになったのは成長だろうか。うーむ、それは……どっちでもいい! 本当にどっちでもいい!

ちょっと内容的に微妙なテキストのとき、感嘆符を連打することによって勢いで読ませようと画策すること、これは成長か! これは……これは……うっ、うおぉおお! こ、これも……どっちでもいい! 本当にどっちでもいい! どっちでもいい、と、いうことに、する! 成長だとか、成長じゃないとか、そういうことじゃあ、ないんじゃないか!? 感嘆符っていうのは!!

とまあ、そういう感じで(こういう感じではない)、前回、英語がどうこうという話をしたのだけれど、日本の義務教育をちゃんと受けた人はなんだかんだで英語をある程度できるよねと思う。それは英語以外の自然言語の勉強を始めると顕著にわかる。仏語や独語を勉強しようというとき、あるいはラテン語やギリシャ語を勉強しようというとき、あなたは次の一句を使うようになるだろう。

「ううぅん、これは英語だったら~~という感じ?」

英語で……例える!! たしかに、似ている単語はある! 特に仏語! そして、独語! まあ、もちろんラテン語にもある! しかし、どうして、英語で例えるのか! 仏語を身に付けようと思ったら、仏語のまま学ぶしかない! 独語なら、独語! ギリシャ語なら、絶望的なまでにギリシャ語! もちろん、日本語を通して学ぶのだから、日本語は使う! それは当たり前!

だが、あなたは「ううぅん、これは英語にしたら~~みたいなもん?」と言うだろう。次にお前は「えぇっとね、これは英語だと~~だよ、わかった?」と言う。どうして……こういうことが起きるのか! それは、日本人がそこそこ英語を使えるからに他ならない。そう……そうなのである、知らず知らずのうちに、僕たちは……英語に侵食されているのである!!(*一所懸命勉強したはずです)

Yes, We Can! But, I Can't! (←言語以前の問題)
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by kourick | 2008-11-10 00:00 | 日記
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寒い。暖房のかかせない季節、冬にただいまといった具合になっています。そろそろ初雪かなと思っていたら、今日の夜半頃から白い雪がうっすらと。太陽の昇らない日のほうが体調が良いというのは……自己分析すると落ち込みそうな理由に裏付けられていそうなので解説は、しない! ただ、僕は日の出が遅いほうが、できたら、太陽が昇らないほうが活動的になります。

いないな、厳密に言うと、持続的に活動できるといったところでしょうか、相対的に活動的になります。三時に朝陽を感じるときの失望感たるや……もう。三時にカァ、四時にチュン、これが大自然のセオリーですが、このカァチュンの時間を目安にすると、僕としてはアフター・チュンがベター。ビフォア・カァともなると、ガイアの囁きに頭がおかしくなるレベルです。文化レベルが高すぎます。

それはさておき、「英語ができない理由」に関するタイトルのテキストを読みました。僕はもう、この「英語ができない」という表現にひっかかるわけで、これは「流暢な英語を喋ることができない」ということか、それとも「日常英会話に疎い」ということか「英会話に臆する」ということか「英文法を理解して使うことができない」ということなのかと思いを巡らし、ああ……と思います。

ただ、いずれにせよ、日本人の英語のできなさの根底はわかります。それは「使わないから」「使う機会がないから」「使う必要がないから」です。これは明らかなことです。それ以外の理由も間違ってはいないでしょうけれど、副次的なもの、テクニカルなものにすぎません。日本の英語教育ということに関しても、決定的な現実的障壁がここにあります。

「どうしても必要になる」「使うことができないとこれからは苦労する」「国際的に取り残される」とさまざまに高級な建前はあれども、実際に「必要になったためし」も「苦労した経験」も「国際的に取り残されている実感」もなにもない、危機感がない、実質的に求められていないのだから、英語が身に付いたりするわけはないのです。当たり前のことです。

逆に言うと、仮に喋れるようになったとしても日常的には役に立たないでしょう。そして、忘れるのです。地味な盲点ですが、あとになって身に付けた言語というのは使わないと忘れます。それゆえ、忘れないためには、その手段を生かすための目的を探すことになります。翻訳家・英会話教師・海外に旅行などなど、英語を使う環境に身を投じるわけです。それは良い! それは別に良い! むしろ、けっこうなこと……! ただ、それって、まあ、貧乏根性だよね。

結局、なにを言いたいのかというと、動機付けが必要だということ。すなわち、なにのためにそれを学ぶのかという具体的な目的が必要なのだということ。それさえ、はっきりと自分のうちにあるのなら、あるいは、止むに止まれぬ事情・抜き差しならぬ事態・差し迫った環境に自分が置かれたのなら、できるかできないかというよりも「やらなきゃならない」という状況に追い込まれたなら、手段は必然的に上達するだろうということですわい。じゃあの。
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by kourick | 2008-11-08 00:00 | 日記
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びっくりドンキー! びっくりとドンキーの間にどういう関係があるのか、僕らはびっくりとドンキーになにを感じればいいのか本当に意味のわからない名前だけれど、それはともかくびっくりドンキーの珈琲である。僕は常々、「珈琲はビールみたいなもの」と思っているのだけれど、その観点からするとかなり遠い位置にある珈琲ではある。びっくりドンキーの珈琲は安い、そして、量が多い。いや、この時点ではまだ珈琲は見えてないけれど、器からして大きいのだ。

というか、これは本当に珈琲だったろうか、もしかしたら違う飲み物かもしれない。いやむしろ、これが本当に珈琲だったとして、それはどのくらい通常「珈琲」と言われる成分を含有していたのだろうか。いあいあ、それを言い出すと、びっくりドンキーのハンバーグに使われている肉は、なにの肉でどのくらい肉なんだろうか。これが「もちろん、ドンキーの肉です」ということになってくると、ドンキー次第でかなりびっくりなんだが、やはりロバか。にっこりロバのびっくりドンキーなのか。

ちょっとアメリカンなサイズのわりに安いから、値段のリーズナブルさに合わせて生産過程もリーズナブルなことになっているのだろうと思うけれど、いったい、どんな魔法を使って大きくしているのか少し気になるところではある。そんなことを追求しすぎると、びっくりドンキーで本当にびっくりドンキーしてしまいそうだから、自分が小さくなったんだと思って素直に食うのがびっくりドンキーしすぎないために必要な第一の心掛けであるようなそうでもないような。

まあ、育ちの卑しい雑食の僕にしてみると一円当たりの美味しさが高けりゃ文句はナッシン。
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by kourick | 2008-11-03 00:00 | 画像
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 札幌駅地下の南方面の奥にある水出し珈琲を出すお店のモンブランだと思うのだけれど、名前を忘れてしまった(コージーコーナーかな?)。場所は覚えているから、今度、また行ってみよう。札幌駅の地下だと PASEO の東口方面の奥にある玉光堂の横にあるカフェ(Tom's Cafe)をわりと使っていたのだけれど、こちらも良いなと思った。むしろ、テーブルもわりと広いから、だるーんなときはこっちかもしれない。

 ちなみに、Tom's Cafe は珈琲専門店なせいか値段もそれなりにする。珈琲の好きな人といかないと「珈琲一杯にこの値段かよ」と引かれてしまいそうで悩む。男なら「奢るから黙れ」と言うこともできるけれど、相手が女性だと奢るのもどうかなと思い、気を使ってしまう。それなら、紀伊国屋の二階のイノダコーヒーでケーキセットを頼むほうが気楽なのかなとか思うのだけれど、こういうときにそういう選択をしてしまうことは、僕にとって完全に誤った判断なのだと気付いた。

 この場合の誤り、そして、失敗というのは必然的とすら思う。すなわち、もう、その状況に立たされている時点で、客観的には成功しているよと誰がどれだけ僕を励まそうとも、僕にとっては完全に失敗でしかないということなのだ。その判断をしたことでも、そうした選択肢しか用意していないことでも、むしろ、その選択肢を用意しなきゃいけない状況に置かれていることですらなく、想定可能な回避したい事態を回避していない僕自身に、僕は完全に敗北している。

 負けるとわかっている事態に向かって用意周到に負けにいって、案の定、負けるどころかきっちり後悔して、まんまと「やはり、こうなるか」とか確認していることが絶望的に失敗なのだ。そうは言っても、このケーキはなかなか美味いし、たまにはこういうこともあるよね、そりゃあ、とザッハトルテを食っている場合ではないんである。そういうときに限って、うっかり、失敗防衛ラインを後退させてしまったりしているのだ。みんなも注意したほうが良い。自分に負けることを安易に許すな。
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by kourick | 2008-11-01 00:00 | 画像