中央に寄せる、それは「中央に寄せる」ということだと思っていた時期が僕にもありました。しかし違った! 中央に寄せるというのは「右から寄せ、左から寄せる」ということ! 右から寄せ、左から寄せたとき、そこに谷間はあるのないの、どっちなの? おいそこ、うるさい。というか、お前ら、いま僕は人生の先輩として発言する。「谷間」と書いて「夢」と読め、現実に殺されるぞ。

いあいあ、それはおいといて、スタイルシートを使って Page全体をセンタリングしようとするとき、text-align:center; を使うのはバグを利用しているって知ってましたか。このやり方で中央に寄るのは Windows版 の IE だけなのだとか。text-align はインライン要素の位置を指定するもので、本来、ブロック要素の DIV には使わないらしい。

言われてみると「たしかに」という気もするから、まいってしまう……もしかすると、いや、もしかしないとしても、これは常識なのか、それが世界の選択か……とか思いながら、赤いキツネを使ってサイトを開いてみたところ、たしかに中央に寄っていない……! まじっすか。僕の周囲はもう「ざわざわ」のあめあられ。サイトを確認する。余裕の「そりゃないぜ、とっつぁん」のマルチヒット。

普段 Sleipnir を使っているから、ぜんぜん気付いてなかった。かなり恥ずかしい。いまこのテキストに目を通している人にも、「お、香陸、やっと気付いたか、長かったなあ」という人はいるでしょう、そうでしょう。まいった。ちなみに正しいやり方は、センタリングする要素の左右のマージンを自動にして(margin-left:auto; margin-right:auto;)、要素のほうに幅を指定するらしい。

実際、このやり方で直った。つまり、正しい中央寄せは、外側からの寄せよりも、内側からの張りによって行われるということ。内側からの張りこそ、大切なのだということ。いいか、男子たるもの見た目に騙されちゃいかん! そんなもの見方次第だぞ! しかし、視覚的な関係を重視することによって円満になるのなら、黙って騙されてみるのもひとつの Best な選択かもしれん。

そう、ときには、ドーナツの穴を重視するのもいいかもしれん。ただ、ドーナツは見るためにあるわけじゃないぞ! ありゃ食いものだ! たしかに、ドーナツの穴には未知の可能性があるかもしれない。だが、ドーナツの穴を食おうと思ったら、ドーナツを食う必要があるということを忘れちゃいけないぞ! ああ、今日もまた素晴らしいテキストを書いてしまった! じゃあの!!
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by kourick | 2008-08-31 00:00 | ネット
すっかり忘れていたけれど、2007年度版 『ニュースサイト読本』セミマル さんのテキストの全文を近々、Activica. に載せます。ああ、そういやそういうのもあったよねという感じかもですが、興味のある方は目を通すと良いよね。なぁんと後日談も付いています。お買い得かしら!
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by kourick | 2008-08-29 00:00 | ネット
もう少しホイホイ書き続けようかなと思っていたのだけれど、どうだろう、僕はいまホイホイしてるだろうか。僕としてはむしろ、自分の「ホイホイの感覚」の長さに気付かされている。もう、僕はホイホイしようと思っても、一般的なホイホイとはちょっと違うホイホイになっているということである。

以前は「こう思う!」ということを表出することにわりと積極的だったし、日常の些細なこともサックリ書いていたのだけれど、近頃は「まあ、いいや」と流してしまうことが多い。知っている自分を知ってほしい、という欲求の低下に起因しているのではないかと思われる。

他者からの視線や承認に鈍感になったということかな。それは僕自身、他者に興味や関心をもたないようになっているということの裏返しだろう。そこになにかを期待するということに価値を感じられないということ。これは僕の生命力の低下を示唆しているのかもしれない。
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by kourick | 2008-08-27 00:00 | 日記
人類学研究における他者理解を描き出すという行為そのものの危うさもあるだろうけれど、ちょっと簡単にまとめておこうと思う。ところどころ、さらに記述を接続したほうがよい箇所もあるけれど、ひとまず、僕なりの理解を一筆書きする。また、前半と後半は同様のテーマに沿って書かれているが、もしかすると、別のものとして読まれたほうが適切かもしれない。このテキストにおいては、「他者」と「異文化」はおおむね置換可能な用語として使われている。

ちなみに、以下に書かれることは適当に配慮されている。以下においては、恨みや怒りや拘りは失念ないし超克されているし、動物的な生存競争を免れているし、どうして人類は正義なるものを熟慮するのか、どうして人類は神や仏といった存在を必要としたのかといったことにも、さしあたり目を向けていない。したがって、以下に書かれることは、「なにはともあれ、わりと無難なこと」になっていると思われる。ただ、もちろん、それが誰にとっても無難なわけではないだろう。

これまでの他者理解

大航海時代以降、西洋の人々は世界各地で多様な文化や社会に出会うことになった。それによって、それまでに信じられていたような半人半獣のような怪物の類はどうやら存在しないということは判明したが、それと同時に、西洋人にとって奇妙で野蛮に感じられる慣習・風俗をもった人々に出会うことにもなった。

文化や社会の人類学的探究はこうして、西欧文明に生きる人々が自分たちとは異なる文化・習俗をもった未開社会に接したときに始まったということができる。すなわち、人類学的探求は、自己の文化とは異なる他者の文化を、いかにして自分たちの言語を用いて説明し、理解するかという探究心に端を発している。

18世紀半ばのイギリスに始まった産業革命以降、啓蒙主義的な合理性によって推し進められた科学技術の発展にともなって、西洋の思想界には進化論的人間観が広がり、近代西洋以外の世界を見下す傾向が強まった。社会の物質的/技術的な優越性をそのまま、その社会の精神的/倫理的な優越性にも適用してしまうという誤謬を背景に、近代西洋文明こそが人類の進歩の頂点を進む優等な社会であり、未開社会はその進歩の途上にある劣等な社会であるとみなされたのである。

こうした社会進化論的な理解は早い段階から批判されてきた。「アメリカ人類学の父」と称されるフランツ・ボアズによる歴史個別主義や、それ以降の文化相対主義などは、その際たるものだろう。文化相対主義的な考え方は、異文化と自文化との位置関係を修正しつつ、異文化の思考に寄り添って異文化を理解するという試みを促してきた。その潮流において、人類文化の多様性や複数性が強調して主張されてきた。

しかし、にもかかわらず、文化人類学における自文化と異文化という自己と他者の区別が、支配‐被支配という関係に裏付けられて把握されがちであったということは無視できない。事実、他者として分析される社会は、おもに植民地としての支配を受けている側の社会であることが多く、分析する側は支配する側の立場にあったのである。そして、人類学的研究成果は少なからず植民地統治に利用されてきた。

現在、植民地主義として批判に晒される権力差に無自覚な研究姿勢は、エドワード・W・サイードの1978年の著作『オリエンタリズム』における問題提起により決定的なものになった。もちろん、そうした事実を描き出すことによって、それまでに蓄積されてきた人類学研究における学術的成果を直接的に否定することにはならないが、サイードに指摘されたような他者理解の枠組みそのものの欺瞞を無視して、これまでの研究成果を受容するということは、もはやナイーヴなものになってしまっている。

第二次世界大戦(また、特に1980年代後半の冷戦の終結)以降、先進諸国の工業化→脱工業化と資本主義経済システムの世界的展開によって、世界各地を結ぶ情報通信・運輸交通手段は急速に進行し、経済活動のみならず、人口移動、情報流通、文化交流(思想、宗教、イデオロギー等)は国境を越えて活性化した。

こうした多面的なグローバル化の進行により、地球上の時間的・空間的な距離は縮小し、世界がひとつの社会的な場を形成し始めている。そしてまた、それに応じるように人間の生活環境は相対的に狭まってきており、各地域や各国民国家の相互交流や依存関係は強まる一方、政治的・経済的な自律性、文化的・社会的な自己完結性は低下してきている。こうしたなか、わたしたちの他者(異文化)理解もまた、再考を迫られているということができる。

ただ、学術的な観点から言うと、オリエンタリズム批判やポストモダニズム的言説は、新たな研究手法の提案ではなく、あくまで研究態度の変容を促しているにすぎないということには注意を払う必要があるだろう。十分な自省心をもった人間は、誤まる危険を冒してでも新たな構築を目指さなければ、そこからさきの展開は期待できない。わたしたちは書き続けなければならない。

これからの他者理解

それでは、これからの他者理解はどのようにあるべきだろうか。しかし、この問題に取り掛かるとき、わたしたちはもはや、そもそも「他者」とは誰なのか、その他者を「理解する」とはなにをすることなのかという根本的な問題に引き戻される。わたしたちは問い方を問うところから始めなければならない。

ジェイムズ・クリフォードは1986年の論文「部分的諸真実」において、統一された一貫性のある全体的な民族誌・文化を書くということを批判した。いまや、そのような部分性を強調する考え方は珍しくもなく、やや食中り気味でさえあるけれど、その主張自体はたしかに的を射ている。他者理解においてはまず、一貫性のある「他者」を一定の言語を用いて一面的に「理解する」という行為に慎重にならなければならない。結局のところ、わたしたちは断片的な理解の積み重ねとその重なり合いのうちに他者を理解していくしかないのである。

そして、これはまた、他者理解には程度があるということを示してもいる。とすると、冒頭の問いは次のように変更できる。より十全な他者理解に至るために、わたしたちは他者に「どう接するべきか」である。いや、厳密に言うなら、そのような積極的な主張も憚られるかもしれない。より慎重に言うと、経験上の失敗に基づいて、「あのように接しないために、どのように接するのが適切か」という消極的な提案に留まらざるをえない。これはつまり、より良い状態を目指すという志向性を、より悪い状態を避けるという志向性に反転させているわけである。

しかし、このように考えていくと、他者との交流というのは格段に面倒臭いものになる。実際、そこに至って他者理解を放棄するという態度はありうるだろう。そしてもしかすると、他者に無関心になるのではなく、関心をもってはいるのだが目を瞑るという「適切な無視」という態度は妥当なのかもしれない。ただ、そうした態度は不寛容になりかねないうえ、安全保障という観点からもあまり望ましいものではない。

それゆえ、わたしたちは他者理解に際して、そう簡単には理解できないというある種の諦念とともに、それでも他者を理解しようとする粘り強い思考力をもつ必要がある。そしてまた、理解の政治的正当性や論理性と同程度か、あるいはそれ以上に、日常的な生活態度――他者と接したときにどのような態度をとるかという個々人の姿勢が重要になる。

以上のような、他者認識の多重性は、翻っては、おおまかに次のような自己認識の単位の差異に起因しているのではないかと思われる。つまり、わたしたちは一方に、エスニシティやナショナリティといった文化的・心理的特性に基づいた集団(特に近代的な国民国家)としての自己をもち、他方に、原子的な個人としての自己をもつ。自己認識の単位の大きさに応じて、他者認識も変わり、そのようにして把握される他者との接し方というのも、自己の在り方に応じて変わる。

国家を単位とする政治的・経済的な交際と、個人を単位とする趣味的・交友的な交際は、互いに無関係ではないものの問題のステージを異にしている。にもかかわらず、わたしたちはどちらのステージの問題も、他ならぬ自己の問題として考えなければならない。ここに自他交流の難しさがある。これは過去の国家間の戦争のしがらみを抱えつつも、現在の個人間の友好関係は十分に築けるというような例に端的に現れているだろう。

今後、近代国民国家という幻想の共同体や原子的個人という幻想の主体はゆるやかに解体されていくのではないかと思われるが、いずれにせよ、他者との付き合い方というのは個々人の生活に位置付けて思考されるのが望ましいと思われる。グローバル化する時代において、自己のアイデンティティを多様なコミュニティによって担保し、自分の人生に多様な文化を選択して取り込むことは容易になってきている。

そうしたなか、もはや自己や他者というのは一枚岩の主体ではなく、(やや楽観的な見方ではあるにせよ)そのときどきの関係に相対的な主体であるだろう。自己とは異なるからこそ他者は他者なのだが、そうした他者を理解できるのは彼我に共有するものがあるからにほかならない。わたしたちは、ある観点において同じ自己に属しうるし、他の観点において異なる自己に属しうるのである。そこでは、多様な自己のチャンネルに応じて他者理解のチャンネルも開かれている。自己や他者を平面的に理解するという大時代的な展開は、もはやそこにはないのである。

とりわけ後半は散漫になってしまったけれど、こうした理解が穏当なところではないかと思う。
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by kourick | 2008-08-23 00:00 | ○学
最初に「フィアリティ」という言葉を特定の概念を示すために意図的に使ったのは、新婚旅行を済ませてコネティカットの新居に辿り着いたアメリカ人夫妻の奥さんのほうだったと言われている。しっとりと暗闇の湿る22時のガレージに自動車を停めると、彼らは荷物を抱えて新居に雪崩れ込み、そのまま肩を寄せ合ってソファで眠ってしまった。食事をとる気力はなかったけれど、眠りに落ちる前に何度かキスをした。

「その日の夜はもう、クテクテだったわ。慣れない土地の街灯の心許なさというのを、そのとき私は久々に感じたの」と彼女はのちに語っている。「もちろん、それを初めて感じたのは、私が彼の寝室に初めて立ち入ったときよ」と彼女は続けた。独特のユーモアを交えた応答になっているけれど、要はその日、その旅路の帰路、彼らは道に迷ったのである。そして、助手席から地図をチェックして道順を示していたのは彼女だった。

彼らはニューヨークから高速15号線をレンタカーで北上し、お喋りをしながら新婚旅行の最後のひと時を満喫していた。太陽の沈み始めた18時頃、法律家の彼は自分がヌナブト協定に関心をもっており、イヌイットの先住権と民族自治に関して自身の気持ちをまとめているのだという話を彼女にした。彼女はその話題に不意を突かれたけれど、次の瞬間には「そうね」と言って思考のモードを切り替えた。

黙るにせよ、喋るにせよ、彼の期待に応じたいと彼女は思ったのだ。というのも、どこか、嬉しかったのである。彼にとって自分は、そういう話題を安心して話すことができる人格であるとみなされているのだ。彼女の知っている男性のなかに、こういう種類の人格は少なかった。彼女はそのことに憤りを感じたことはなかったし、女性の尊厳を頭ごなしに否定されているとも感じてはいなかったのだが、ちょっとした虚しさのようなものはときどき感じていた。

だから、そのときに彼女が感じた嬉しさというのは「認められた」という高揚感よりも、むしろ「愛しさ」に近いものだった。そして、彼女は慎重に、彼の見解を黙って(たまに「うんうん」とか言いながら)聴いて、丁寧に頭のなかで整理すると、彼を否定しないように、異なる観点からの意見を提供した。それは、フランツ・ボアズのフィールドワークの話だった。彼女は学生時代に文化人類学を専攻したこともあり、彼の関心の向かう先に彼女は興味をもった。

彼女は父方の祖父がメキシコ系のヒスパニックで、彼女を除いた家族は人種差別や差別感情に敏感ではあったけれど、彼女自身はあまりそのことに理性的にも感情的にも執着はなかった。そういう観点からいうと、自分はたぶん幸運な人生を送っているのだろうと彼女は思っていた。彼女のアイデンティティは根本的なところで複雑さを許容しているということにおいて単純であったし、その手の理不尽さに見舞われることもなかったのだ。ちょっと鈍感だったのかもしれない。

一方の彼はイギリス育ちのアメリカ人でフランスに留学した経験があった。彼は彼女とは異なる種類の単純さと複雑さがアイデンティティに根を下ろしていたけれど、ふたりはふたりでいるときにもっとも「自分の人生が世界と噛み合う」という体験を何度もしていた。だから、新婚旅行は絶対に海に面した賑やかな場所じゃなきゃいやと言っておいたにもかかわらず、彼がサウスダコタに行こうと言い出したときも、少し眩暈を感じながらも彼女は彼に同意した。そして実際、それはそれで新しい発見のある楽しい旅だったのだ。

彼女がアメリカ文化人類学の成り立ちを話しているあいだ、彼はそれを黙って(たまに「なるほど」とか言いながら)聴いて、やはり彼女を否定しないように(少なくとも彼女はそのように感じたし、また、彼の配慮を確信もした)異なる観点からの意見を提出した。それは政治的理念と経済学的分析を折半したような見解だった。そうやって、彼女たちは椅子の複数あるシーソーの傾きを調整するかのように思考を繰り返し、意見を交換した。

だから、彼が「カナダやオーストラリア、それに日本なんかは、アメリカとは歴史も社会環境も違うから、どのタイミングでどういう政策を施行すると寛容な社会を形成しうるのか、そのためにどのような議論を重ねて、どのような思想的土台を作るのか、これは難しい問題だ」と曖昧な気持ちを吐露したとき、そこがすでにマサチューセッツのスプリングフィールドだったということは、たしかに彼女のミスだったかもしれないが、ミスと断じるには失ったものは少なかったと言うこともできた。

彼女は地図を開いて、それを眺めていたのに、すっかりコネティカットを通り過ぎていることには気付かなかった。そしてまた、彼は自動車を運転し、現実の道路と標識を眺めていたのに、すっかりコネティカットを通り過ぎていたことに気付かなかった。そんなことがありうるのか。いや、ありうるかどうかは別にして、その出来事は実際に起こったのである。彼と彼女の思考と表現行為の交わり合いは、ほんの少し、世界から乖離しないままに時間と現実認識の束縛を脱したのだ。珍しい体験をした、と彼女は思ったし、彼もまた予想以上の感応に驚いた。

だからもちろん、彼は彼女を責めなかった。ただ、そのような理性的結合を感じなかったとしても、彼は彼女を責める気はなかった。それは、彼女を責めても仕方ないと思ったからではなかったし、女性というのは地図を読めないものだと思ったからでもない。ただ、彼は、自分が助手席にいたら、やはり彼女と同じように道に迷っただろうと直感していたのだ。彼はそういう想像力を働かせることに長けていたし、実のところ、彼は極度の方向音痴だった。

そのような経緯の末、市街地でも迷いに迷いながら、ふたりが新居に辿り着いたとき、あたりはすでに真っ暗になっていた。ただ、ふたりは満足していた。ガレージに自動車を停めると、彼らは少しの間、ほっと息をついて互いの顔を見つめあった。

「鍵はある?」
 彼は彼女に尋ねた。
「ずっと握り締めていたの」
 彼女は答えた。

「そうだといいなと、ずっと思ってたんだ」彼は頷いた。「そろそろ、自動車を降りて、家に入ろう。そして、ソファに座って、キスを何回かして、今日はそのまま眠ってしまおう。たぶん、僕たちなら、いまやそれをすっかり完全に遂行できるはずだよ」
「道に迷わないようにしなきゃ」
 彼女は肩を竦めた。
「そうだね」
 彼は微笑んだ。

自動車を降りると、荷物を両脇と両手に持って、彼らは鍵を開けて、家に入った。そして、リビングのモスグリーンのソファに座ると、その脇に立っている円柱状の照明の電源を入れた。部屋中が淡いオレンジ色に染まる。ふたりの溜め息。肩が触れた。彼はソファにもたれかかりながら、彼女に身を寄せる。

「キスはどっちがするの?」
 彼女は下から覗き込むように彼に言う。
「さきに眠ったほうがされちゃうだろうね」
「そういうルール?」
 彼女は首を左に20度ほど傾けた。
「いや」
「わたしって、けっこう寝たふりが得意なんだけど、それは知ってた?」
 彼女は彼の様子をみるように言った。
「今度から、君が眠っていそうなときは眠っているかどうか尋ねることにするよ」
「ナンセンスだわ」
「ナンセンスじゃないさ」彼は彼女を抱き寄せた。「それでわかることもある」

ふたりはそのまま10分間、静かにソファで肩を寄せ合い、そのあと、彼は彼女にキスをした。身体に蓄積していた疲れが一気に溶けて、全身に染み渡るのを彼女は感じた。もう一歩も動けないと感じるほど、肉体から精神の底流に向かってエネルギィが沈みこむ。眠っているのか眠っていないのか、眠っているふりをしているのか、もう、わからない。彼の唇が、彼女の首筋から離れる。

「フィアリティね」
 彼女は呟いた。
「フィアリティ?」
 彼も尋ねるように呟いた。
 彼女はふらっと身を起こすと、彼に身を任せるように寄りかかった。

「あなた、スナークを知っている?」
「スナークっていうと、あの、ルイス・キャロルの?」
「そう」
「その名前なら、記憶にあるよ。子供の頃、その話を父さんにされて、恐かったな」彼は頭を横にふるふると振った。「ただ、幸か不幸か、会ったことはないんだ。だって、君、もし、そのスナークがブージャムだったら、どうなっちゃうか知ってるでしょう?」

「静かに消滅してしまうのよ」
「そう」
「だけどね、だからといって、スナークを無視して生きるわけにもいかないのよ」
「わからないな」
 彼は彼女の身体を引き寄せて、抱きしめた。
「わたしも、はっきりとはわからないけど、ただ、わたしはいままで、ブージャムを避けるためにスナークも避けてきたのよ」彼女は顔を上げて、彼の唇にキスをする。「だけど、スナークには、ブージャムじゃないスナークだっているのよ」

「うーん、つまり、君はスリルを求めている、ということ?」
「違う、違うの、それは違うわ。そういうことじゃないのよ」彼女は何度も否定した。「私は、ただ、無害なスナークもいるということを言っているの」
「わかったよ」彼は言った。「ところで、フィアリティはどうなったの?」
「良い質問ね」
 彼女は毅然とした調子で言った。
「無害なスナークに寛容な世界のことよ、それを受容するとき、私はフィアリティを感じるの」

 彼はもう一度「わからないな」と言った。
「今日、これ以上、そのことに立ち入るのは危険そうだね」
「そうかもしれない」彼女は彼の身体から少し距離をとり、彼の表情をうかがった。「ごめんなさい」
「いや、謝られるようなことはなにもされてないよ」彼も彼女の顔を見た。「ただ、僕たちは少し眠ったほうが良さそうだ」
「そうね」
 そう言って、彼女は再び、彼の唇にキスをした。

「もう、眠っているのか、眠っていないのか、わからないみたいだね」
 彼は微笑む。
「そんなの、わかる必要なんてないのよ」
 そう言って、彼女は彼の身体に身を寄せた。
 彼女の柔らかさ、体温、息遣い、鼓動とが、彼に伝わる。
 人間が二人もいるというのに、とても、静かだ。
「眠っちゃった?」
 彼は尋ねた。
 彼女からの反応はない。
「…………」
 彼は、寝息を立てている彼女にキスをして、ソファにもたれかかると、眠りに落ちた。
 だから、そのあとのことは記憶にない。
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