猫の手も借りたい。たしかに、僕もときおり猫の手も借りたい気持ちになることはあります。そりゃあそうです。長い人生のさなか、二度や三度、猫の手も借りたいと思うことがないのなら、僕はその人の好奇心の欠如を心配しないわけにはいきません。ただ、僕はこうも思うのです。じゃあ、猫の手も借りたいと思うとき、僕は他にいったいなにの手を借りたいのかということです。

もし、苦楽を共にしてきたアリクイとの親交が僕にあるのなら、やはり、そのアリクイの手は借りたいのじゃないかなと思います。それはそうでしょう。苦楽を共にしてきたアリクイの手を借りないのなら、僕はいったいなにの手を借りたら良いのかという話です。

じゃあ、モモンガは? もし、余暇の安らかな一時を共にしてきたモモンガとの親交が僕にあるのなら、僕はそのモモンガの手を借りたいだろうか。これはとても難しい問題だと思います。僕はモモンガの手も借りなきゃいけない瞬間に、モモンガの手を借りたいと思うだろうか。いや、できたら、モモンガには向こうの涼しいところかどこかで休養していてほしいと思うのではないだろうか。

このとき問題になるのは、僕はこのモモンガにいったいなにを期待するのかということでしょう。アリクイにはアリを食っていてほしい。これは当然のことであるし、できたらアリ塚なんかも壊してほしいと僕は思うのです。アリクイが爪をクイッと立てる雄姿を横目に「わ、すごいですね」と驚いたり、長い舌を駆使する技術を横目に「僕がアリだったらたまりませんね」とか言ったりするのです。まあ、こうしたことは簡単に想像できます。

じゃあ、モモンガにはなにをしてほしいのか。モモンガはなにができるのか。僕としてはモモンガに無理強いするのもちょっと気が引けるものですから、モモンガにできることをモモンガなりにやってほしい。ただ、猫の手も借りたいようなときに、向こうのちょっと高いところからこっちのもうちょっと低いところにふわっとやってこられても、「おっ」とは思ったところで、正直、反応に困るなというのはあります。

なにかしらの作業のさなか、モモンガがふわっとしている姿態を横目に「おっ」とは思っても、それに対してあまり過剰に反応するのもうそ臭いですし、じゃあ、気の利いたことを言えますかというとそれもちょっと難しい。しかし、だからといって、無視することもできません。だって、モモンガはふわっとするものですから、モモンガがいてモモンガがふわっとしているのにモモンガを無視するというのは、空気があって空気をすっているのに空気なんてないよと言うようなものです。

だから、結局、僕がモモンガになにを期待して良いのかということを真剣に熟慮するなら、モモンガの手は最初から借りないほうが良いし、モモンガにふわっとされるようなことはあってはいけないのじゃないかなと僕は思うのです。そもそも、モモンガがふわっとしているのに「おっ」とかなんかそんな反応しかできないなら、人間ってどうなのかなって僕は思うし、モモンガがふわっとしている姿に対して「おっ」とか「おっ、モモンガ」とかそんなことじゃ、僕らにとってのモモンガの存在ってとても希薄なものになってしまうのではないだろうか。

僕がそういう反応しかできないってことはモモンガとしても不本意なことだと思うし、せっかく高いところから低いところに向かってふわっとしたのに「そんなんじゃなんだかなあ」という気持ちはモモンガとしても拭いきれないでしょう。僕たちの一生において、どうしてこういうことになってしまったのかと反省するような事態があるのだとしたら、こういうところに問題の欠片はあるのではないかと僕は思います。

緩やかだけれど持続的な関係を、そういう一時の不注意な関係性によって上書きしてしまう行為は、人間とモモンガとが気を使いあうからこそ招いてしまう不運だと思うし、そういう不運は事前に避けるようにするのも大人の嗜みなのではないかと思う。少なくとも、人間とモモンガの関わりのうちに、そういう事態はあってはならないことだろうと僕は思うし、モモンガがふわっとするとき、やはり、僕たちはすでに「おっ」と言うだけでは済まされないような立場に立たされているのである。
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by kourick | 2008-05-01 00:00 | 随想