ウェブには安直な批判をする人に対して「嫌なら読むな」「嫌なら見るな」といった決まり文句がある。こうした忠告には、ある程度、妥当なところもあると僕は思っている。特に作品の完成度が評価の対象にならないような制作物を批判しているような場合はそう思うことが多い。

 つまり、そのような作品というのは、皆に認められるような客観的に優秀な作品ではないかもしれないけれど、その作品を楽しんでいる人たちというのは、その作品を媒介にして、そこにある雰囲気や、そこで生じるコミュニケーションを楽しんでいるわけです。

 そういった付帯的な状況がその作品の価値を高めているような場合、「嫌なら読むな」「嫌なら見るな」という忠告はもっともだなと思う。まあ、もっとも、売り言葉に買い言葉の煽り合いに使われているだけのときも多いように思うけれど。

 しかし、「嫌なら見るな」という決まり文句を偏狭に感じることもわりとある。というのも、それが妥当な批判であっても、その作品の擁護者は「嫌なら読むな」「嫌なら見るな」という忠告でもって、そういった批判を封殺していることもけっこうあるように感じるからだ。

 むしろ、僕としては「嫌でも見てみなよ」と言いたいことのほうが多かったりする。僕が楽しめている、あるいは大勢の人が楽しめている作品には、(よほど興味がかけ離れていないのなら)あなたがちょっと無理して観てみるだけの価値がある。そう言いたいことが多い。

 そのあとで文句を言われるのなら、その感想には興味があるし、どうして楽しめなかったのにかにも関心がある。どうも、賛否の両方の意見を受けとめる姿勢というのが少ないように思う。それは批判の仕方が下手で、感情的になりやすいという理由もあるかもしれない。

 ただ、言葉による作品の理解よりも、その作品を取り巻いている場の雰囲気を重視して、批判者をその場から排除しようとする傾向が強いからという理由もあるかもしれない。批判をすると、「あの人は敵だから無視しよう」といった具合に内輪を形成してしまう傾向があるかと思う。

 けれど、そうした場から与えられる心地良いだけが面白さではない。苦々しい批判であっても(その評価が良いものであれ悪いものであれ)、その批判はたしかにもっともだなと「作品の理解」に貢献するものであるなら、それはそれでまた違った楽しみ方ができる。

 「面白い作品」に「面白い!」「神!」と主観的な称賛をするのは大切なことだと思うのだけれど、その作品の完成度を客観的に評価する、説得的に語るということも興味深いことじゃないかと僕は思う。ただ、そういった批評は個人の人格、品性に依るところが大きそうではある。
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by kourick | 2007-09-28 00:00 | ネット
 「神曲!」「国歌!」みたいな賛辞はどうにかならないだろうか。僕はこれらにいまいち馴染まず、そういった感想に気持ち悪さを感じてしまう。そもそも、「神」という賛辞が僕はいまいちで、それを見かけるたびに白々しい気持ちになってしまう。

 ただ、日本人は昔から、このノリで神様を称えてきたのかもしれないと思うところもある。「ちょwww怨念とかwwww平将門、神!」みたいなノリ。神道のノリだろうか、「わたしは祀るのも祭るのも好きですよ」みたいなあっけらかんとした現世主義的なノリ。

 岡田斗司夫さんが「萌え」という言葉に関して似たことを言っていたが、「神」と言われても、その作品がどこがどう素晴らしいのかがわからない。おそらく、「神」というのは純粋な賛辞なのだろう。だからこそ空虚だ。内容があるようにみせて形式的でしかない。

 僕は人に誉めるときに、相手を不必要に高めることは避けるようにしている。同じ人間でありながら、こうこうこういうことをしている、敬意とはそこに生じるものだろうと思う。僕が誉めたい人は「神」ではない。むしろ、そこで人間扱いしないことは失礼にあたる。

 あるいは、もし相手が「神」であるのなら、僕のような一介の人間が「神を誉める」というのは不敬だろう。やはり、同じ地平にいる人間を特別に感じる、ここに畏敬の念というものは育まれるものだ。ただ、もはや生存していない場合は、その限りでもないのかなとは思う。
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by kourick | 2007-09-27 00:00 | ネット
 唐突だけれど、人を愛するというときの「愛しさ」には、おおまかに二種類あるのではないかなと思っている。ひとつは、相手を特別な存在にする場合、もうひとつは、相手の存在を特別扱いする場合です。これらは似ているようでいて、異なっている。

 前者は「僕が君を愛するのは、君が特別な存在だからだ」ということになる。運命の相手と巡りあう場合などは、こちらになるだろうか。これはドラマティックな愛し方ということができる。自分にとって特別な存在である人を愛するのだから、これは必然的な愛ということになるだろうか。

 後者は「君は決して特別な存在ではないけれど、僕は君を愛するし、僕は君を特別に想うのだ」という場合である。こちらはリアリスティックな愛し方ということができる。自分にとって、決して特別な存在ではない人を特別に想い、その人を特別な存在として扱い、愛するわけです。

 すなわち、前者は「その人は特別な人なのだから、特別な人として受容する」という考え方であり、後者は「その人は特別な人ではないからこそ、特別な人として扱う」という考え方になる。一般的には、前者のほうが好まれるようだけれど、僕は後者を好む傾向にある。
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by kourick | 2007-09-27 00:00 | 考察
・ 来週で「精霊の守り人」が最終回かと思うと寂しすぎます。中盤からはもう、30分アニメを観ている気分ではまるでありませんでした。この水準の番組というのはアニメ以外を探してもそうないのではないかとおもいます。正直、最初の6話くらいで一度挫折したのだけれど、そのあと15話くらいまでを通して見直して、完全にはまりました。

・ 見逃した回はニコニコ動画で観ていたのだけれど、再生数はどの話もけっこうあって、ちょっと意外なほどコメントも多いです。 各話、再生数が約20000で、コメント数が約7000付いています。特に第10話以降の視聴が多いですね。ID も確かめたのだけれど、特定の数人によるコメント爆撃はありませんでしたから、やはり観た人の評価というのは高いのかなと思います。

・ 「精霊の守り人」はニコニコ市場での DVD や原作の購入者もけっこういるし、もっと I.G. の中の人は自作自演のコメントを投下したらどうかなと思います。今週分の動画は来週の最終回が終わるまでは泳がせるのが得策ではないでしょうか。NHK で再放送が始まるらしいから、それまでには消されるのでしょうけれど。

・ ちなみに「東京ゴッドファーザーズ」は再生数が約700で、コメント数は約50程度です。萌え系、燃え系、和み系といったエンタメ系の作品の視聴率は高いのに、作家性の強い作品になると極端に再生数が落ち込むというのは興味深いです。

・ Kourick SuBlog はできるだけ長持ちするちょっとマイナな動画を紹介したいから、権利者との兼ね合いで消されやすいアニメはあまり紹介しないようにしているのだけれど、今週はやや連投しています。

・ ニコニコ動画や YouTube に上げられた動画の紹介というのは、微妙に悩むところでもあるのだけれど、最終的にはやはり紹介してしまいます。つまり、著作権的に黒いネタを「紹介してはいけないかどうか」というのは悩むところだけれど、結局は「紹介できるものは基本的に紹介する」というスタンスでやっています。もし、著作権的に黒いネタを紹介することが著作権侵害幇助になるというのであるなら、もちろん僕も紹介しないのだけれど、いまのところそうはなっていないので紹介します。

・ 宇仁田ゆみ 『うさぎドロップ』 を読みました。泣きました。よもや宇仁田ゆみさんに泣かされることになろうとは思っていませんでした。
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by kourick | 2007-09-23 00:00 | アニメ
 今敏さんの映画「パプリカ」を観ました。二回通したあとに、何箇所か部分的に見直す。監督の過去の作品や国内外のアニメ、そして、映画のオマージュや原作ネタが多かったですね。

 わりと集大成的な作品といえるのではないでしょうか。複雑な構造のわりに場面の展開は爽快で、さまざまな要素の詰め込まれた作品だったと思います。

 終盤の展開は明らかに説明が足りないのに、お構いなしで魅入ってしまうのはすごい。そのあたりの強引さは宮崎駿さんの「千と千尋」に近いものがあるかなと思ったり。

 今敏監督がアニメギガのインタビューに「連想でいこうと思った」と応えているのには「なるほど」と思いました。虚実の入り混じった現実感こそが人間の認識する現実であるというような設定は観ていて面白い。

 ただ、夢と現実を存在論的にかなり等価に扱っているのには、やはり違和感を覚えてしまうところもあって、個人的にはややジレンマを感じるところだろうか。

 妄想代理人に引き続き、音楽は平沢進さん、大好きですね。シネマ通信によると、先に平沢さんに音楽を作ってもらっておいて、それを聴きながら制作したのだとか。

 なににせよ、あまり「わかろう」としすぎると純粋に楽しめない作品かと思いました。作品自体、ないし、作品全体を直感的に受けとめて楽しまないとちょっと混乱しそうではある。

 少し話は逸れて、声優さんの話。実力派で有名な人が大勢出演されているのだけれど(僕が虚心坦懐に観れなかった理由のひとつ)、主人公の CV 林原めぐみさんはかなりいいなと思った。

 これはアニメ特有の表現手法かと思うのだけれど、この作品では登場人物の人格の同一性を声優の声(正確に言うと声質かな)で担保している。それがとても面白かったし印象的だった。

 考えてみると、ラジオやラジオドラマが成立するのも、これが可能だからなのだ。たまに声優は2.5次元の存在と言われたりするけれど、これはけっこうなるほどなと思うところ。

 有名な作品の声優が変更になるというときに賛否の声が挙がるのも、声というものの同一性がキャラクタの同一性にとって大きな要素だからでしょう。アニメのキャラは設定以上に受肉している。

 ちなみに千葉敦子のときはフェイに近い声で、パプリカのときはリナに近い声になっている。そして、どちらも林原さんの声であり、二人は同一人物だとわかるところが面白い。

 そして、それらが本当に同一人物なのか、というところは考察の余地があるかもしれない。とりわけ、「パプリカ」という存在をどう理解するかというところは重要なところかも。

 虚構の存在者と実在する存在者の存在論的身分は明らかに異なるけれども、彼らのキャラクタとしての面だけをみたときには、それはやはり、等価なのだろうと思う。
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by kourick | 2007-09-22 00:00 | アニメ
 「ファン」が煮詰まると「マニア」「フリーク」「カルト」「キチ」などになるわけだけれど、「オタク」というのがどこか独特のニュアンスをもつようになったのはどうしてだろう。きっと、「そもそもオタクってさ」などと話を始めると「いや、違う」と否定するオタクは多いでしょう。

 もちろん、その人の言っていることがレッテル貼りでおかしいということもあるかもしれないけれど、一方で、いわゆるオタクといわれる人たちが外側から「オタク」を規定されるのを嫌う、つまり、内側にいる人間にしかオタクは理解できないと考える傾向にあるのではないかなと思う。

 ある種、密教的性格をもった思想がそこにはあります。そもそも、規定されること、言語化されること自体を嫌っているということです。このような「内側感」は不思議なものだけれどそう珍しいものでもなく、日本語圏のウェブでは全般的にその傾向があります。

 先日書いた、「ネット/リアル」の二項対立も「ネット」を内側とする現代的なリアリティです。村上隆さんがオタクに嫌われる傾向にあるのは、オタク的な燃料にならない仕方で、すなわち、オタクの文脈から逸れた「外側」でオタク文化を利用しているからだろうと思います。

 「オタクはなるものではない、なっているものだ」という奇妙な説得力をもった格言も、こういうところからきているのでしょう。オタクはなろうと思ってなることはできず、気付いたときにはなっているという自然さが求められます。これはまあ、理解の難しいところです。

 だからこそ、「理解は求めていない」という傾向もでてきます。さらに、「外側からの理解などされてはならない」という自閉的な傾向もでてきます。そして、「どうせ理解などできないのだから、するな。ただ、受容はしてほしい」という独善的なジレンマも派生してきます。

 理解などできない、共感があるのみ。これは内側性の論理といえるでしょう。だからこそ、共感によって結び付られた同士としての仲間意識は強いですね。こういったところに、僕はやはり「オタクはオタクにならないと真に理解できない」という宗教性を感じてしまいます。

 理解されること、規定されること、言語化されることで抜け落ちてしまうものがあるという不完全性を嫌っているところもあるかもしれません。メタな視点から「まやかしの理解」をすることを嫌い、共感という作用によって充溢された「真の理解」のみを認めるといった神秘性があります。

 きっと、外国人にとっていまの日本のオタク文化はカオスでしょうし、だからこそ、日本のオタク文化の言語化は海外のほうがはるかに明快です。読むと「ちょっと違うかな」と思うことあるけれど、「じゃあ、どういうことなの?」と訊かれても、的確に説明できる人はそういないでしょう。

 外国人の説明は、それが不充分だとしても、曖昧な部分は削いでちゃんと人に伝わる仕方で言語化するのでとても説得力があります。というよりも、そもそも自分の興味の対象を言語化して「相手を説得しよう」するという態度の違いがあります。これは見習うべきところです。

 しかし、カオスな状況というだけで「程度が低い」というわけでは決してなく、これこそが新しい文化のカタチなのかもしれないなとも思います。戦後日本の文化はある面でサブとメイン、アマとプロの境界が消失する歴史を紡いできたように思います。

 おもに快楽原則で動いてきたこの潮流は、理論的な後ろ支えをもたずに無秩序なまま、さまざまな問題を抱えつつも独自の展開を遂げてきたのだと思います。こうした奔放さは貴重であるし、今後、どういう仕方で残るにせよ、その多様性には凄まじいものがあると感じるのでした。

 地域にもよりますが、海外では「自分たちの権利は自分たちで求め、守る」というのが基本です。日本においても「オタク」というレッテルでもって「オタク的なもの」が迫害されてきた歴史がありますが、大勢の日本人がそのことに無頓着なのにオタク文化が成熟したのは奇跡です。

 逆に、「オタクとは」という定義をうやむやにして、自分たちの立場と権利を明確にしなかったからこそ、ここまで成熟できたというところもあります。「奇妙なオタクの定義」をされて困るのはオタクたちであって、本来なら、オタクの立場を守るためにオタク自身による定義が必要です。

 けれど、オタクたちはそんなことはしなかった。それは単に、オタク的活動のほうが重要でそんな面倒臭いことはしていられなかったとか、そもそも言語的に規定する能力がなかったとか、迫害する連中など無視すればいいと卑屈になっていたからとか、理由はさまざまでしょう。

 ただ、結果的にはそれで良かった。それによってライトな層すら「オタク」圏内に収めることができ、勢力の拡大というか、文化的な浸透を果たすことができた。商業的な思惑もあるでしょうが、巡り巡って、「おおむね保護したい」というポジションに着くことができた。

 こうなると、もはや「オタク」は存在しないのではないかとも感じられてきます。つまり、はっきりしない。もはや個人の属性ではないし、定められた条件があるわけでもない。じゃあ、いったいなんなのだろうか。わからない、もうすでにそんなことはわからないのです。

 大勢の人たちがそれぞれに少しずつ「オタク的」な要素をもっていて、しかし、具体的にはおのおのの趣味嗜好でしかないというようなところに落ちている。それでも、マスコミやメディアに「オタク」をレッテルされて仮想敵のように仕立てられるというようなこともあります。

 そしてそれを受けて、2ch 等の掲示板や個人サイトで「オタク的な自覚のある人たち」が冷笑するというようなさまは、攻撃しているほうにとっても攻撃されていると感じているほうにとっても、どこか滑稽です。もはや意味のない構図のなかで言い争う虚しさがあります。

 それでも、その争いになにか意味があるように感じ、そうした争いに感情を動かされることもあるというのは、なんとも呪いめいたところもあります。「オタク」という言葉にかけられた呪いが解かれる日は、はたしてくるのでしょうか。まあ、きてどうするという感じもしますが。

 さて、ここまで「マンガ・アニメ」といった「オタク趣味」を念頭に話してきましたが、他のジャンルではどういう事情にあるのでしょうか。僕が最初に触れたオタク文化は「SF」だったし、その次は「ミステリ」でした。それらは栄枯盛衰があるものの、そう迫害されているようにも思いません。

 この違いはどこにあるのか、それを考えるのも面白いかもしれません。また、代表的な「オタク文化」としてレッテルされることの多い「萌え文化」はどこまでもつのでしょうか。もしかすると、それも一時の流行であって、いまはバブルだとしても文化としては定着しないのかもしれません。
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by kourick | 2007-09-11 00:00 | ネット
さあ、白球 くんと会ったときの話を書こうと思ってエディタを開いたのだけれど、おもいっきりなにを話したのか忘れている。ただ、いろいろな話を聴けたので面白かったです。同人業界はいまや独特の雰囲気をもった大きな文化なのだなと感嘆しました。また、そういう文化の余韻に触れて憧れるとともに、非常に冷静になる自分もいて驚きました。

セミマル さんの「どうしたら白球さんみたいに友達一杯の人気者になれますか」という質問に、白球さんが「セミマルさんには無理です><」と応えていたのが印象的でした。当サイトは一部、誇張した表現が含まれることがあります、ご注意下しあ。しかし、僕にしてみると、白球くんもセミマルさんも人気者なのでまいってしまう。

とまあ、そういう流れで、2007年現在の地球表面上で、もっとも 「個人ニュースサイト」自体を愛し続けてきた男 に電話をする。「ゆらめき雑記、覗いているよ」と言われ、「あれ大丈夫かな?」と僕が質問をすると、「大丈夫だと思うよ」と「あまり大丈夫じゃなさそうな感じ」でいわれたのが実に心配です。
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by kourick | 2007-09-11 00:00 | ネット
 「リア充」という言葉を聞いた。「リアルが充実している」という意味らしい。これは「モテ」ということで表現されていた状況と同じのかなと思ったのだけれども、言葉が変わっているのだから、まあたぶん、なにかが変わっているのだろう。

 ただ、「モテ」「非モテ」ということが、もっぱら、その人の属性についての用語であるのに対して、「リア充」「非リア充」というのが、その人の置かれている状況、ないし、その人の実感に依存した用語であるのは大きな違いかなと思う。

 ちなみに、ネットが使えるほどには生活が充足しているのに、自分のリアルは充実していないと自虐していることと、大学に行けるほどには裕福な生活を送っているのに、いまのような社会はいかんと暴れていたことは、どこか似ているなと思ったり。

 ところで、「ネット/リアル」という二項対立はわりと普通に通用するものなのだろうか。僕は意図的に「オンライン/オフライン」とか、もう少し穏当な言い方をするようにしているのだけれど、そういう使い方がすでに慣用になっているのなら、ちょっとどうなのかなと思う。

 というのも、「ネット/リアル」という分類は一見したところ存在論的区分に見えてしまうからです。しかしもちろん、これは明白な誤解である。「ネット空間」等というのは比喩的表現であって、そこになにかしらの実体があるわけではありません。

 現代におけるリアルとフィクションをどう把握するかという問題や、近年の若者の有しているリアリティの考察(なにをリアルと思うかという感性の考察)はとても興味深いなと思う。きっと人格の同一性の把握方法とかの変化もあるだろう。
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by kourick | 2007-09-07 00:00 | ネット
先日、鬼速 さんみたいなやり方って流行るのではないかと思っていたと書いたけれど、それと同時に せいちにっぽん さんや お茶妖精 さんのような感想翻訳サイトも流行るのではないかと思っていました。しかし、例によって、見事に予想は外れました。自分でやろうかとも思ったのだけれど。
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by kourick | 2007-09-07 00:00 | ネット
宮台真司さんが最近使っている「内在」と「超越」による比喩が興味深い。東浩紀さんの言葉でいうと「動物的なだけでは幸せになれない」ということのようです。違う言葉遣いをすると、相対主義ないし多元主義が浸透した結果、物事の判断基準が過剰に崩れ、個々人のよって立っていた岩盤が非常に不安定なものになったということだろうか。この手の主題は哲学や倫理学、または論理学のなかにも含まれているように思います。

2005年の『SIGHT』という雑誌で、江口寿史さんがインタビュに応えて、80年代に入ってから、「おもしろい/つまんない」から「心地いい/よくない」に漫画読者の感性がシフトして、それを自分自身も感じていることに戸惑っていると言っているのだけれど、BS マンガ夜話でいしかわじゅんさんも、読者の判断基準が「上手/下手」「善い/悪い」から「快/不快」という風にシフトしたと喋っており、やはり客観的な基準といったものはその時期に一度瓦解したのだろうなと思います。

話し変わって、先日、アニメのポルノ化という話を友人に聞きました。アニメというものがオタクというマーケットだけで市場を形成できるようになった結果、制作サイドが消費者の欲望に忠実にアニメ作品を作る傾向がかなりでてきたという指摘で、こうした快楽原理に従った作品の乱立というのは、実にポルノの作られ方と似ているという話でした。僕はなるほどなと思ったのだけれど、このことの評価はまだ保留しています。
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by kourick | 2007-09-07 00:00 | アニメ