ニュートンが「私がさらに遠くを見ることができたのだとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです」と言ったというのは(胡散臭いけれども)有名な話ではある。一見、当たり前のことを言っているように思われるかもしれないが、よく読むとやはり当たり前のことを言っている。

 僕はこうした格言めいたものをみると「どうしてこの格言が残り、語り継がれているのか」という意図のほうに意識が向かってしまう。このニュートンの言葉の場合だと(それを本当にニュートンが言ったかどうかは別にして)二通りの読みかたがあるだろう。

 ひとつは、天才に「当たり前のことを言わせる」ことでその天才性を強調したいというものである。当たり前のことでも「天才」が言うと一味違うという効果を狙っている。また、天才という異常が常識を口にすることで懐の深さとでもいうものが感じられるだろう。

 もうひとつは、ニュートンのような天才ですらこのように謙虚なことを言っているのであるから、およそ天才ではないようなわたしたち(という場合、「君たち」に言っている場合が多いと思うけれど)も、謙虚になりましょうと主張しているものである。

 前者はニュートンを神聖視したいという願望があるだろうし、後者は神聖視したいという願望をスケープゴートにして自分の不満を語りたいという願望が透けて見える。いずれにしても、どうも取って付けたような不自然さがあるのは否めない。大きなお世話である。

 おそらく、これは「格言」というものの本質にかかわる。本来であれば、格言を保持する努力というのは、自分を戒める格言が残らないように現実に改良を施すという作業に向けられるべきだろう。普段から注意しているのなら注意書きは必要ない。格言というのは余分なのである。

 したがって、格言はむしろ、「戒め」というよりも「ここを洗練せよ」という指針として働いていると考えられるだろう。それゆえ、格言を暗唱することで自分が落とし穴を回避できるようなったと錯覚してしまうことは虚しい。格言とは捨てられてこそ価値のあるものだからである。

 そのようなわけで、僕は格言は好きなのだけれど、「格言を言う」「格言を使う」ということには抵抗がある。同じように街中に標語などがあると不躾だと感じるし、他者の言葉を自分の脈絡で掲げるのも浅ましいと思う。成功談や失敗談を人に語るという行為にも価値を見出せない。

 端的にいうと「無駄」である。もちろん、無駄が悪いといっているわけではない。無駄を好む人は大勢いるし、場合によっては有益だろう。ただ、そういう人は大勢いるのだから、僕がそうなる必要はないだろうと思うことはわりとある。僕ならしない、という程度のことだ。
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by kourick | 2006-08-30 00:00 | 言葉
 「まなぶ」と「まねぶ」という言葉がどういう関係にあるのか詳しくは知らないけれど、これらが表現している行為の接近する対象が「人」の場合、それらはきわめて近い内容をもっているだろう。

 こうしたことは求道的だったり芸術肌だったり職人気質だったりする作業の場合に典型的になるようで、経典の写経や芸術作品の模写、伝統芸能の習得・伝達といった例で好意的に語られる。

 これは当然の事柄で、そうしたことがなければ、どのような分野においても「発展」と呼ばれるような蓄積は生まれなかっただろうし、文化や風俗も成立しなかったに違いない。

 自分の属する社会の文化に貢献しようとするのであれば、(良いにせよ悪いにせよ)模倣というのはそうぞんざいに扱うことのできない行為だ。むしろ、だからこそ、剽窃という行為はもっとも恥ずべき行為になる。

 受け継いだものを維持する、ときには批判的に展開し、洗練し、蹴り飛ばす。「古いものを知らなければ、なにが新しいものなのかわからない」という意味で「温故知新」という四字熟語を理解することもできるだろう。
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by kourick | 2006-08-29 00:00 | 言葉
それは研究室で投稿用論文の資料を整理しているときだった。そろそろ15時といった頃合で、僕は買ってきたチョコレートケーキをちまちまと時間をかけて味わいながら作業をしていた。

散らかった資料の上に置かれた甘いケーキを砕きながら作業をしていると、僕はふと、自分の人生に足りないものがわかったような気がした。それを隣に座っていた友人に言うと「それは紅茶だろうね」と即答された。いや違う。いま、僕の人生に不足しているのはたぶん、珈琲だ。

僕は論文の上の余白をあと5pt削り、620ptで全体を整えようと思った。僕がエディタを立ち上げていると「女というのは基本的に男を好きになるものだよね?」とモンブランを銀のスプーンで掬いながら、友人が言った。僕が「まあ、そうだろうね」と答えると「私はその時点で女というものが理解できないよ、信じられない」と言って、友人は悲壮な顔をして首を振ると頭を抱えた。

僕は「理解が必要?」と友人の後頭部に訊いてみた。するとその後頭部は「不合理だからこそ信じようと思うほど、君だって宗教的な人間じゃないだろう?」と反問してきた。テルトゥリアヌスだ。理系のわりに難しいことを知っている。「恋はね、頭でするんじゃないんだよ、心でするのさ」と、僕は艶やかな声色を装って呟いた。

友人は鼻で笑いながら頭を上げると、モンブランを掬って口に運びモグモグとした。これはなにかあるなと思い、黙って見ていると、友人は銀のスプーンを僕に突き付けて「恋はね、するんじゃないんだよ、落ちるのさ」と挑戦的な眼差しを僕に向けた。

友人は朝からウカシェビッツとフレーゲの、昼にはラッセルとヒルベルトの、午後からはメレディスとウカシェビッツの公理系が同値であることの証明に取り組んでいた。ウカシェビッツから始めたせいか、ポーランド記法で書かれた証明がクネクネと踊っている紙が、何枚も机上に散乱している。なにかの儀式だろう。蟲を封じ込めているのかもしれない。

僕は友人に突き付けられた銀のスプーンを受け取ると自分のフォークと一緒にお皿に乗せ、それを友人のお皿に重ね、モンブランの収まっていた型紙をゴミ箱に捨て、彼女の頭をポンポンと撫でると台所に立った。

紅茶でも淹れよう。
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下の話題に関して、「個人」という個の水準にあるものと「人間」という種の水準にあるものを混同しているとお叱りを受けるかもしれない。確かにそうかもしれない。

個の水準にある個人(あるいは個体)の複製であるクロンを造るということと、種の水準にある人間を模して機械や人形を造るということは違う話かもしれない。

しかし、だとすると僕は逆にこう反論したいと思う。そもそも「原型と複製」という関係は「個の水準」に当てはめられるべき構図なのであって「種の水準」に当てはめられるべき構図ではないのだ。

人間を模すとはいったいどういう意味なのか。これはより詳細に語られなければならないことだろうし、いわんや、神を模すとはいったいどういう意味のことを言っているのか、僕にはさっぱりわからない。
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by kourick | 2006-08-27 00:00 | 考察
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by kourick | 2006-08-27 00:00 | 画像
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 一度も行ったことがなかったモエレ沼公園にとうとう参る。左の画像は「モエレ山」というらしい。やあ高い、雪が積もると滑りがいがありそうだ。他にもいろいろな建築があるが、そのひとつひとつが遺跡に近いものを思わせる。神殿という感じだろうか。大きさもいい(つまり、でかい)。

 快適と言い切れる場所ではないけれど、これはこれで正解に近いように思う。ここは憩いの場として機能するのと同時に、もっとなにか別の目的のために用意された施設なのだ。そういう意思を感じさせる。最後に「海の噴水」を観る。夜になり少し肌寒かったけれど、十分に面白かった。
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by kourick | 2006-08-27 00:00 | 画像
 「人間/機械(アンドロイドやレプリカント)」「人間/人形」の関係を取り上げて、そこに「原型(オリジナル)/複製(コピー)」という構図を当てはめて話題を展開することはわりとある。

 こういった発想はそれほど目新しいものではなくて、古いところでは一神教における「神/人間」の関係がこれにあたる。いわゆる「人間は神を模して創られた」というものだ。

 といっても、さらに遡ってギリシャ神話になると「神々は人間を模して創られた」という様相を呈しており、似通った物語の枠組では語れない動機や目的、社会的役割の違いがあるように感じられる。

 ただ、僕は「人間/機械」「人間/人形」という関係を「原型/複製」という構図で理解するのには違和感があって、ある個体をオリジナルとしたとき、その個体の複製はやはり、その個体のクロンだろうと思う。

 だから、人間を機械に喩えるのも、機械を人間に喩えるのも、それらはやはり類のメタファであって、いまいちリアリティを感じられない。むしろ、その構図の性格上、実情に漸近していかないように感じる。

 それはむしろ、あるオリジナルから近縁のオリジナルを創るというテーマである。ただ、たしかにそうしたテーマは「原型と複製」という構図の物語のなかで成立するものなのかもしれないとも思う。

 もちろん、こうしたレトリックは現実的には問題にならない。ただ、そうした構図のなかにある物語がどのくらい現実を説明してくれるのかということについて、僕はとても懐疑的だというだけの話である。
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by kourick | 2006-08-26 00:00 | 考察
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地下鉄北二十四条駅裏手にあるタイガーカレー。あそこにスープカレー屋が入っていたとは知らなかった。文化的な雰囲気の漂う体育会系なお店という印象。こういうスープカレー屋はわりと珍しい気がする。注文したのはスタンダードにチキンカレー、味はこってりかな。左の白いのは長芋でわりと珍しい具材だけれど、美味しい。チキンも柔らかい。つまり、美味しい。当たり前だ。

しかし、若い道産子はラーメン以上にスープカレーにうるさい傾向があるので一筋縄ではいかない。一緒に行った友人は「たしかに美味しいけど、もう一度来るかどうかはわからない」と言っていた。なるほどスープカレー通は含蓄のあることを言う。僕はそもそも二度来ることを想定していなかった。
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by kourick | 2006-08-26 00:00 | 画像
彼女の住まいは僕の自宅から近い。僕の調子にもよるけれど、歩いて向かうと大体、煙草を一本吸いきる距離にある。約九分。だからかどうだかわからないけれど、彼女はけっこう頻繁に僕を呼び出すし、時間を気にせずに呼び出すものだから、その日も僕は23時をまわった頃に煙草を一本吸いながら彼女の住まいに向かうのだった。

コオロギが鳴いているなかカンカンと彼女のアパートの階段を上っていると、あまりの情緒に僕はドキドキしてしまう。僕がそれを言うと「じゃあ、一緒に銭湯に行こうか」と彼女は言う。パリッとした白いシーツの布団の脇に蚊取り線香を焚いて金魚の風鈴の音を聞きながら弱で回した扇風機に首を振らせてスイカを食みつつ巨人戦でも観ようじゃないかと彼女は言うのだ。そんなことになったら多分、僕は彼女の住まい以外のなにも信じられない人間になってしまうに違いない。

僕がそう感じているということを彼女は知っているから、彼女は僕を土曜日の18時に呼び出すということはしない。金曜日の23時なのである。僕が彼女の住まいの扉を開けると彼女はドビュッシーの「雨の庭」をベッドに寄りかかりながら聴いていた。ああ、これは普通じゃないなと彼女を見ると着ているシャツが濡れていた。

僕が「どうしたの?」と尋ねると「これ、買ってきたばっかり」と、諦めた口調で彼女はスーパーマーケットの袋を指差した。「なのにさ」と彼女は続けて言う。「クッキーは湿気ってるし、ビールは凍ってて爆発するし、がっかりしてたら親から電話かかってきて泣かれちゃったよ。君さ、こういうことって信じられるかい?」と僕のほうを漠然と見ながら言うのだった。僕は靴紐を緩めながら「まずクッキーでビールを飲むっていうのが信じられないよね」とかなんとか言って彼女の住まいに足を踏み入れた。

僕はおよそ信じられないことでも信じることのできる人間なのだ。
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前回の話と関連して「impression」「expression」という、より一般的な語の話をしよう。動詞にすると「impress」「express」です。各々の標準的な訳語としては「印象」「表現」があります。

もとの語を割って訳を取ると「内側に押し込む」と「印象」になり、「外側に押し出す」と「表現」になるということになります。これはわりと直感に即しているように思う。まあ、なにが「押し込まれたり」「押し出されたり」しているのかを考えるとやや不思議ではあるけれど、単に情報を「内側に置いたり」「外側に置いたり」するという機械的な作業を思わせる単語と比較すると、情緒的な単語に思われます。デジタルとアナログ(という語から受ける印象)の差といっても良いかもしれません。

そのようなわけで英語らしからぬ情緒を感じて調べてみたら仏語辞書に同じ単語が載っていました。発音もほぼ同じです。おそらく「impression」と「expression」は仏語が起源でしょう。そう考えると、どちらの対の単語にも各国特有の雰囲気を感じないこともありません。ちなみに「input」「output」は英語が起源のようです。
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by kourick | 2006-08-24 00:00 | 言葉