c0157225_1582347.jpg札幌駅前、紀伊国屋書店二階のイノダコーヒー。珈琲はミルクを入れて飲むのがおすすめですと言われたので言われたままにミルク入りを注文した。ミルクを入れた場合は砂糖も全部入れる、そう意気込んだ瞬間の画像。

手前にある長方体のなかに砂糖たちがいる。小さな立方体八個入り。さらにスプンの上にも一個乗っていて計九個の砂糖たち。頻繁に利用する人はケーキセットを頼むのがリーズナブルみたい。友人は「甘すぎる」と言っていたけれど、ザッハトルテも美味しかった。
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by kourick | 2006-07-29 00:00 | 画像
・ わけのわからないと思われる話を延々と続けているのだけれど、もう少し続けよう(わけのわからないことは前提にされているわけだけれど、前提にした以上のわけのわからなさは持ち込まないように努力している)。そこで、前回の文章で現れた「安心感がある」という句を考えたい。

・ 「感」と「観」はそれだけで使われる場合もある。手持ちの辞書には「不徹底の感が否めない」という用例が載っていて、この場合の「感」は「ある種の判断を伴った印象」らしい。この「判断」という語は真摯に受けとめなければならない。単なる印象と違って「判断」されているとなると、その判断が他人にも通用するだろうと本人が思っている程度の客観性は帯びていると考えられる(もちろん、その客観性の妥当性は考慮されなければならないけれども)。

・ ちなみに「観」の用例としては「地獄の観をなす」とある。これは要は「地獄みたいな状態だ」ということで「地獄の様相を呈する」等と表現しても良いと思う。「感」が印象や弱い判断に重点があるのに対し、「観」には状態や様子に重点があるようで、こちらのほうが客観性は高いように思う。五感で感じるものを「feeling」とすると「感」は「sense」に「観」は「view」に対応すると言えるだろう。

・ 例えば「混乱の感がある」と「混乱の観がある」はどう違うのだろうか。小学校の算数の授業を考えてみよう。四則演算も山場に差し掛かり、とうとう分数の計算を学習する時間である。教師もこればかりは仕方がないので、小学生には難しいと思われる抽象的な説明も少しする。すると連中は急に首を右に10度傾け、頭の上にウナギを咲かせる。そして教師は思うのだ。

「おお、混乱の感がある」

・ これはいけないと思い、今日はもう算数の授業は前半でやめることにして後半は体育の授業にしようと児童にその旨を告げる。するとどうだろう。子供たちは急に算数から体育になったものだからはしゃいでしまい、収集のつかない事態に発展。喘息を起こす子が現れ、あちこちで喧嘩が起こり、気分が高揚して嘔吐する奴まで現れる始末。もちろん体育は無理。算数も無理だ。そして教師は思うのだ。

「おお、混乱の観がある」

・ さて「安心感」の話に戻ろう。僕は以前から「安心感がある」はおかしいと思っていたのだけれどいまや少しすっきりした。つまり、この句は「安心の感がある」が正しいのだ。従って、前回までの話も重要な部分で修正を入れる必要がある。「安心感を必要とする安心」は「安心の感を必要とする安心」が正しくて、「安心感を必要としない安心」は「安心の感を必要としない安心」が正しいのである。
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by kourick | 2006-07-22 00:00 | 言葉
・ 僕の感じる気持ちの悪さはなにに起因しているのか。それは「安心感があること」と「人が安心すること」には隙間があるということだ。他の問題「『安心感』は変な語だ」とか「『安心する』と『安心できる』の差はどこにあるのか」とか「『安心感』は『あるから感じる』のか『感じるからある』のか」といったことは似て非なることのようだ。

・ 我が子のピアノの演奏に「安心できる」親というのはそもそも「なにを不安に思っていた」のだろう。自分の子供が演奏をとちることである。その可能性が少ないという保証がある場合、その情報や基準に信頼性がある場合、その親は安心できるだろう。しかし、安心できる(と傍目には思われる)のにもかかわらず、安心していない親は容易に想像できる。つまり、標準的に「安心できる」ことと当人が「安心する」ことの間には断絶があるのだ。だから、安心できる情報に安心していた親が無残にも裏切られるというのもまた容易に想像できるのである。

・ しかし、物事に「安心しない」というのはそれだけではどうでもいいことである。実際に事に臨んでいるのであれば、もはや安心していようがいまいが変わりはない。「安心しない」という態度、つまり「安心する」という状態を想定すること、それが効力を持つのは「予防」という考えを持つからこそであるように思う。したがって「安心する・しない」というのは行為の指針となるものであり、「安心感がある・ない」というのは評価の指針となるものといえるかもしれない。

・ 例えば「心配しているほうが安心できる」という人はどう把握すればいいだろう。どれだけ安心できても、結局のところ、その人は安心することはないのである。むしろ、最初から「安心する」という選択肢は排除されている。その上で「より安心できる」ほうを選択する。これはとても現実的だ。また、安心が「程度の問題」だとするとより実効的な思考でもある。以前にも書いたけれど「我々が完全に安心しているとき、我々は安心を感じていない」のである。はたしてその状況に安心できるか。そう問うことは決して無駄ではない。二階の安心程度は考慮にいれておかなければならない。つまり、我々が常に不安の付きまとう世界のなかにいるのだとすると、不安を排除してしまうというのは逆に危険なのだ。

・ 飛躍すると、こう言うこともできるかもしれない。理想的な世界に住むことは非常に危険である、何故なら、そこに住もうとしているのは理想的な人間ではないからである。
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by kourick | 2006-07-22 00:00 | 言葉
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JR琴似駅付近、山頭火。美味い、当たり前だ。琴似は飲み屋街でもあるので、嬉しいことにラーメン屋も遅い時間まで開いている。きれいなお店でおじんまりとしており、僕が店内にいる間に酔っ払ったおじさまも数人来ていた。

ちなみに山頭火は旭川ラーメンという分類になるのだそうだ。おじさまのひとりが「ここのは旭川の本店の味に近い」と連れのおじさまに講釈をたれていた。ラーメン屋も大変だ。
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by kourick | 2006-07-22 00:00 | 画像
・ 「安心した」と「安心感を得た」の話をもう少ししよう。前回は「安心感を必要としない安心」に関して書いた。しかし逆もあるように思う。つまり「安心感を必要とする安心」である。前回は主に「気になることを無視する、できるだけ忘却する」ことで安心しようとしていたのに対し、今回は主に「気になることに関する不安感を減らし、できるだけ安心感を増す」ことによって安心しようとする。

・ この場合、流れはこうなる。「安心感がある」「安心感を感じる」「安心感を得る」「安心感を持つ」「安心感が増す」「安心できる」「安心する」である。大事なのは最初の「安心感がある」のところだ。なにをもって「安心感がある」ということになるのか。例えば、誰かになにかを頼むとする。その人が本当に自分の頼んだことを完遂してくれるのか不安だ。そこでどうするか。その人自身の実績や性格の情報を得たり、その人に具体的な遂行の方法や過程を尋ねたりする。そのようにして得た情報が的外れではなく、ある種の客観性を帯びていると「安心感がある」といえるのではないか。もちろん、自分自身が客観的に信頼できると判断した情報なので、最終的には「賭け」という要素が入ってきてしまう。しかし、こうした情報を増やすことで安心感を得て、安心しようという気になるということは往々にしてある。こちらも「安心する」ための方法だろう。

・ 「自分自身が客観的に信頼できると判断した」という不思議な文章を書いたけれども、どうだろうか。より正確に表記すると「客観的に信頼できると自分自身が判断した」である。もっと正確にするなら「客観的に信頼できると判断した」になる。どういう意味を意図しているかというと「普遍化可能(ある程度の一般化を期待できるよう)な主観」は「客観」といっても良いだろうということである。つまり、ある人の能力を判断するのに誰にとっても有用である(と考えられる)ような情報に基づいて判断するということだ。これは別に人に限らない。安心できる建築の基準というのはあるし、安心できる理論の基準というのもまたある。むしろ人間を信頼するための基準というのはもっとも曖昧な部類にあるに違いない。

・ まとめよう。「安心する」ためには二種類の方法がある。ひとつは端的にいうと「忘れる」ことだ。自分に影響を与える事柄を忘れる。心頭を滅却することで陽の暑さにも無頓着になる(火の熱さに無頓着だと生命に関わるのでそれはいけない)。従って、この種の安心は常に過去形で語られる。つまり「安心している」かどうかは安心している最中にはわからない。こちらを重視する人は「安心」に対してネガティブな態度をとっているといえるかもしれない。

・ もうひとつはなにか。それは端的にいうと「知る」ことだ。自分に影響を与える事柄を知る。そうすることによって安心できるだけの情報を集める。それによって不安を減らし、主体的に身を守る用意をすることで安心感を高め、そして安心できるなら安心する(どれだけ情報を集めても安心できない人もいるだろう)。こちらを重視する人は「安心」に対してポジティブな態度をとっているといえるかもしれない。

・ そのようなわけで、人のこころに関する事柄が、心理学的なアプローチというよりは言語的なアプローチによって明らかになった。人が安心するということには二種類あり、そのためにどのような方法をとると効果的かということを検討できるようになったと思う。これは場合によって場面によって使い分ける必要がある。不安の源泉の規模や、その不安が影響を与える人数等が考慮されなければならない。単独の場合であれば(例えば、精神的に病んだ人を相手にする場合等)、情報を与え続けること、相談に乗り続けることが安心感を与えるとは限らない。一緒にいてあげるだけのほうがその人を安心させることになるかもしれない。
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by kourick | 2006-07-19 00:00 | 言葉
・ 「安心した」と「安心感を得た」はなにかが違う。見るからに違うといわれるとその通りなのだけれど、もう少し意味を読み込んで考えてもなにかが違うように思う。かなり近い事柄を表現しようとしていることは確かだけれど、同じ事柄を表現しているようには僕には思えない。

・ ところで「安心を感じた」は正しい表現だろうか。英語で表記するなら二重表現にしないために「安心」の「心」のニュアンスが失われそうだ。日本語で表記するなら普通に通用するだろうか。心が安らぐ感じ、つまり「ほっ」としたことを自覚したことを表明したいときにはこういう表現が使われるかもしれない。しかし、個人的には「安心を感じる」ことはできないように思う。これは「安心を感じた」とか「『安心』を感じた」なら許容できるとかそういうことではなくて、そもそも「安心」が「負荷の消失」によってもたらされるという印象が強いからという理由による。もちろん、「安心」が「保証の付加」によってもたらされると考える人もいるだろう。

・ では「安心感を感じた」はどうだろう。これは複雑だ。好ましくない二重表現と思われるかもしれないけれど、僕は「安心感を感じる」のは別に構わないと思う。ただ問題なのは、結局「安心感を感じた」人はいったいなにを感じたのかということだ。いや、当然「安心感」を感じたのだろう。しかし、そうすると「安心感」とはなにか。そこで「安心感がある」を考えてみよう。ないものを感じることはできなさそうなので、安心感を感じたときには安心感はどこかにあるのだ(「感じた」からこそ「ある」ということがわかったのだという反論はあり得るけれども、それは保留しよう)。具体例を端折るけれども、どうも「安心感がある」のは「不安(感)がない」場合であるように思われる。そのようなわけで「安心感」は比較的(僕にとって)消極的な語ということになる。ところで「安心がある」とはあまり言われない。「安心を感じる」はどうだろう、これもおかしい。要するに「安心感」がなにかしらの対象の記述であるのに対して、「安心」は状態の記述であるということだろう。

・ 「安心感を得る」話に戻ろう。「感覚を得る」とはどういうことなのか。むしろ、得られたものが感覚ではないのか。従って、ここで言っているのは個別のトークンとしての感覚ではない。なにかしらの感覚のタイプである。それならわかる。しかし、だとすると僕は不満だ。僕にとって「心が安らぐ」のは気にかけている事柄が僕に働きかけてこなくなるときなのだ。だから「嫌な感覚が失われたニュアンス」が表現に含まれていて欲しい。つまり「安心する」ほうが僕には好ましいのである。「安心感を得る」と、そのようにして得られた感覚が気になってしまって安心できない。つまり、僕は安心感には安心できない人間なのだ。どちらかというと安心感はいらないから安心していたい、安心感がいらないほど安心していたいという、そういう人間なのである。
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by kourick | 2006-07-18 00:00 | 言葉
「○○的」「○○性」「○○感」といった用法の例として空白の位置にとられる言葉(通常は名辞)には基本的に際限がない。しかし、実際にはかなり限定された使われ方をしているようで、早い話が抽象的な名詞をとる場合が多い。ただ、抽象的な名詞であれば上の全部に馴染むというわけでもなく、僕がいま挙げられるのだと「現実」くらいである。

「○○的」の濫用は指摘されて久しいけれど、僕的には、どちらかというと「○○性」という用法のほうが気になる。どうしても「それは性質なのか?」という安易な疑問がチョウチンアンコウなのだ。

ちなみに、僕は「○○感」という用法はそれほど気にならない。そもそも感覚は曖昧なものだと理解しているから、曖昧な用法もまた許しているのかもしれない。不可解ではあるけれど、許容できないわけでもない。

それでも、「○○感」というチョウチンアンコウ的用法に接したときには、「それは感覚なのか?」というチョウチンアンコウ性に対するチョウチンアンコウ感はやはり付きまとう。
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by kourick | 2006-07-17 00:00 | 言葉
ときおり、「理想的な現実」等と目にして、それは「理想」ではないのかとか思うのだけど、それを指摘すると「理想的な現実は『現実』であって『理想』ではない」とか言われるに違いないので黙っている。たしかにその通りだと思うのだけど、そういうレトリックは正直どうでもいいし、紛らわしい。同様に、「現実的な理想」という妙に妥協している用法を目にしたときも首を捻る。「現実的ではない理想」というのは理解できるのだけれど「現実的な理想」といわれると奇妙な感じを受ける。

これはつまり、自分も現実のなかにいるという自覚を固守して現実を対象化しているかどうかという差だろうか。ちなみに、自然科学と社会科学の差はここにあるといっても良いと思う。領域に現れる対象の各々が自己意識を持っているかどうか、さらにはその各々が自分のいる領域それ自体を認識しているかどうかという差です。より厳密にいうと、そうしたことを前提にして研究されているかどうかの差です。従って、物理学に究極の法則が発見(発明)されるということはあり得るかもしれないけれども、経済学に究極の法則が発見(発明)されるということはあり得ないように思われます。砕いた表現にすると「絶対に儲かる」法則というのはあり得ないだろうということです(追随者が続出するため)。

そういう意味では「必勝法」のあるゲームとないゲームではあまりにも大きな差がある。差というよりも、まさにその一点によって「まったく違うゲームにさえなる」といったほうが適切かもしれない。そこで、ルールによって「必勝法」を消去できるのであるならば、それを是正した上でゲームが始められるのが好ましい、と、思う人がいるかもしれないけれども、それは自分が「必勝法」を知らないからで、もし自分が「必勝法」を知っていたらどう思うだろうか、と、考えることは無益ではない。なにの話をしているのかというと民主主義の話をしているのです。

僕は「民主主義」という語が理解できずに、あれこれ「民主主義」について考えているのだけれど、「皆で民主主義を考えましょう」という態度と取るということがもっとも根本的な民主主義的な要素なのかと思う。しかし、この発想は比較的なににでも応用でき、少し便利すぎるのでそのうち撤回しなければならないかもしれない。
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by kourick | 2006-07-16 00:00 | 考察
夕方にランダマイザを食らう。もうどうしようもないので「朝からランダマイザ」を久々に熱唱。夕方に歌うと不思議な気持ちになるのは「あ~あ~朝にそうだよいま、レッツ・ランダマイ~ザ~♪」のところのせいだろう。なにがレッツだ。
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by kourick | 2006-07-14 00:00 | 日記