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さて、そういうわけで、ウィトゲンシュタインのパラドクスという変なのの話の続きを少ししよう。通常、アディションであると考える「+」を用いた計算を、懐疑論者は「いやいや、それはクワディションかもしれないよね」と言いだすという話を以前しました。

実のところ、この懐疑に基づいた議論というのは非常に強力でなかなか論駁できません。懐疑論者と縁を切って己の信じる道を突き進むのも良いけれど、ここではちょっと、別の解決策を提案してみよう。

というわけで、「そもそも本当にその懐疑は成立するのか」を疑おう。懐疑論者に「それちょっと疑りすぎじゃない?」と言ってみよう。

つまり、懐疑論者が「アディションだとは言い切れない、だってクワディションかもしれないじゃない」と言うとき、その人はアディションの代わりにクワディションの可能性を主張するわけですが、まさにその人の懐疑によって「アディションもクワディションも身分は同じ」なわけだから、その懐疑論者が誠実に「アディションを疑う」ときには同様に「クワディションも疑っていなければならない」ように思われます。

とすると、懐疑論者はアディションを疑うのと同時にクワディションも疑わなければならないから、クワディションの可能性を主張することもできないように思われる。

だから、結局どういうことかというと、誠実な懐疑論者は「そもそもアディションを疑うということもできない」のではないのかということ。むしろ、「アディションを疑う」ということが「そもそもどういうことなのか」ということすら、わからないのではないか。
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by kourick | 2006-06-30 00:00 | ○学
 夕方からえんえん事務作業。休憩時間にはサッカーを観戦している人たちの興奮をどうにかして電力に変えられないものかと思案していました。いろいろな案があるのだけれど、比較的有効な案を実現しようとすると「どうしてもエレキングが必要」ということになってしまい、「誰がエレキングを捕まえるか」ということがクリティカルな問題だということがわかりました。

 仕方がないのでうだうだに意見を求めてみたら、
「そんなの北海道にはたくさんいるんだからちょっとその辺から連れて来たらいいんじゃねぇの?」
 って言ってました。

 あのね、うだうだ、エレキングはホルスタインじゃないんだよ。
 大きさが違うんだ。

【今日うだうだが学んだこと】
 ・ エレキングとホルスタインは違う。
 ・ 大きさが違う。
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いわゆる「ウィトゲンシュタインのパラドクス」と呼ばれる変なのがあるけれど、あれは結局のところ、わたしたちの「+」を使った計算がアディションという規則に基づいてされているのか、クワディションという規則に基づいてされているのかは決定できない(どうとでも言える)ということだから、「アディションだとは言い切れない」という結論が「アディションだと思い切っていた人」には衝撃なわけだけれど、逆をいうと「クワディションだとも言い切れない」わけだからとんとん。

これはラッセルの五分前世界創造仮説と呼ばれる変なのでもそうで、「世界が五分前に創造されたわけないとは言い切れない」ということが「世界が五分前に創造されたわけないと思い切っている人」には衝撃なわけだけれど、逆をいうと「五分前に創造されたとも言い切れない」わけだから、やはりとんとん。ちなみに「論理的には言い切れない」という条件が付いているけれど、じゃあ、因果的には言い切れるのかというと経験主義者は言い切れないから、大体の人には言い切れません。

むしろ、このラッセルの仮説が 『心の分析』 という著作のなかでどういう意味をもって語られているのかということが大事だけれど、結局なにを言っているのかというと、「過去は実在的ではなくて構成的だ」と言っていると読めると思う。つまり、わたしたちはいま入手できる証拠に基づいて過去を知る(以外に方法がない)わけだから「過去は未来に向かって開いている」ということ。

ちなみに、わたしたちは世界のなかで思考するしかないのに「世界が五分前に創造されたとしたら」というような仮定を設けるのはそもそもありだろうか。世界が五分前に創造されたか創造されていないかは、世界であるところと世界でないところを識別できる立場にいる存在者でないと判断できない。そういう神の視点を密輸入して語るのは反則な気もする。

このことが野矢茂樹 『哲学の謎』 のなかで仄めかされていたことと関連があるのかないのかは僕にはわからない(多分、違うだろう)。僕は関連のあるところと関連のないところを識別できる立場にいる存在者ではないのだ。そういう意味では、神ではないかもしれないが、僕にとって神の視点を保有しているような存在者はけっこういるだろう。
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by kourick | 2006-06-27 00:00 | ○学
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青空なり夕焼けなり海なり月なりは、単純にきれいである場合が多いのであまり興味を惹かれない。つまり、大きいものをみたときに「大きい」と感じることに近い。逆に奇を衒った象徴的なものは、あざとさを感じてしまうのであまり関心を奪われない。

結局なにかというと、ありふれた視点には共感できないし、それでいて奇抜なものも好きになれないという天邪鬼さがここにも表れている。ありふれた・典型的な・平均的なものなどないというとそれまでだけれど、そういったものが求められる傾向にあることはたしかで、そのようなものに僕も典型的な感情を抱くのである。

そういった人間の感情のパターンが根源的なものなのか発展して形成されたものなのかわからないけれど、いずれにせよ、きれいだと思うものを「きれいだ」と断言することには、僕は迷わない。

ところで「きれいに撮る」ということが可能なのはそういった典型的なモチーフであることが多い。しかし、だからといって「これこそが美しい光景だ」とするのは誤りであろうし、至高の美しさを追い求めるということはときには非常に危険でもある。
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by kourick | 2006-06-21 00:00 | 画像
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 例によって例の煙草屋の自販機。ジャラムに続いてガラム・ヌサンタラが新規参入。もしかして意外と売れているのだろうか。15本、200円、タール18ミリ、ニコチン1.2ミリという内容になっています。

 白+赤+金という組み合わせで薄い縦縞が全体にかかっています。注意書きは「心筋梗塞+1.7倍」とのこと。ちなみに「ヌサンタラ」はインドネシア語で「諸島」を意味し、まさに「インドネシア」のことですね。
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by kourick | 2006-06-21 00:00 | 画像
クヌース博士のサイトを覗いたら、その名前の横に「高徳納」とあったのでなんなんだこれはと思ってリンクを辿ったら「1966年にチャイナにもらった私のチャイナネームだよ」と書いてあった。

予想はできていたけれど、チャイナのこういう感覚には良い意味でも悪い意味でも苦笑する(クヌース博士の場合はかなり良い意味での当て字)。場合によっては大きなお世話でむしろ失礼ではないかとも思うけれど、人に名前を付けてやるという感覚はチャイナには昔からある。

「匈奴」「鮮卑」もそうだし、「卑弥呼」にしたって、他国の指導者に対する敬いの欠片もないような名前を勝手に付けるということを平気でする。まあ、それはそれで別にいいとして、カタカナは便利だなとこういうときに思ったりする。ちなみに、こういう感覚は形を変えてアメリカやフランスも持っているように思う。

ところで「卑弥呼」の本来の意味はいろいろな説があるけれども、僕は「姫皇子」とするのが無難なところではないかと思う。つまり、そう解釈するならば、卑弥呼というのはもともと人名ではなく職名ということだ。紫式部や清少納言に近いだろう。

なににせよ僕が思ったところで仕方のないことではある。
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by kourick | 2006-06-20 00:00 | 考察
三色の信号機で「青」と「赤」のどちらかのルールしか説明できないとしたらどちらの説明をすることが安全側だろうか。ちなみに「黄」のルールの説明をすることはなにがいけないのだろう。

車道の信号機は三色あるのに歩道の信号機が二色なのはなぜだろう。

踏み切りの信号機が一色なのはどうしてだろうか。

一色で車道の信号機を作ろうと思ったときに「青」と「赤」のどちらの色を採用したほうが良いだろうか。そしてそのときのルールはどのようなものになるだろう。

車道は自宅生、歩道は一人暮らし女子、踏み切りは独り暮らし男子。
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by kourick | 2006-06-15 00:00 | 考察
いまだかつてないほどにブラウザのブックマークの中身が荒れていて、さすがにもうどこになにがどうなってこうなっているのかわや。わやっていうかほやっていうかもうわかめ。

殴り合いの喧嘩そして火事。むしろ江戸。
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by kourick | 2006-06-13 00:02 | 日記
c0157225_1455576.jpg今回は正12面体の双対、正20面体を紹介いたしますってあらら、シャクティさん駄目ですよ、そこ乗っちゃあ。ん?

(これなに?)

これなにって……なにかわからないものに乗るのは感心できないですね、ちなみにそれ正20面体です、気に入りましたか。ん?

(美味か?)

いや、美味ではないですよ、紙だし。ちなみにいまの台詞はぜひ榊原良子さんに言ってもらいたいですねってこら、今日は双対のちょっといい話を書こうと思ったのに、乳製品あげますからそこ下りて下さいよ、乳製品。え?

(牛を……)

あの……すみません、牛は無理です。
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by kourick | 2006-06-12 00:00 | 画像
札幌中心部がよさこっていることにさっき気付きました。白々しい祭りですが無駄に規模は大きいので知っている方も多いのではないかと思います。

ところで、三年前には アンチ・ヨサコイズム宣言 を掲げた僕ですが、二年前には「文句しか言わないような人間は下衆なのではないか」という思考の波に押されて黙っていることにし、一年前には「それでも自分の意見を主張し続ける人間は偉いのではないか」という思考の波に押されて息を吹き返しました。そのようなわけで、今年はどうなっているかというと、もうどうでもいいやという心境になっています。

それはそれとして、アンチ・ヨサコイズム宣言がグーグル検索に弾かれていることに気付きました。ちょっと切ないですね。ちなみに、その宣言の翌日に ちょっとだけましな日記 も書いています。ただ、文中でも紹介している 日高晤郎の主張 のほうが面白いかもしれません。
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by kourick | 2006-06-11 00:00 | 考察