個人ニュースサイトとして個性を出すには日記を目立たせたらどうだろうか?俺乙

書かれている通りだと思うのですが、それを前提にして持論を。「自分の個性」をだしたいのなら、もっとも楽なのは「日記サイト」です。当たり障りのない日常だとしても、それは「自分の日記」ですから絶対に「自分の個性」があるはずです。そして、次に「自分の個性」がでるのは「テキストサイト」です。「テキストサイト」は自分の日常のなかからネタを用意して、調理して、読ませる、というテクニックが必要になりますが、これも「自分の個性」がでます。「日記+創作」ですから。

他にも「文芸サイト」という手があります。「小説」などを載せたサイトですね。これは「自分の個性」の塊です。でも、読まれることは少ないです。なぜなら、これは書き手と読み手の共有する部分が少ないからです。ひとまず文章を読むということにおいて、読み手は書き手の思考を追体験したり、書かれたことに共感したり、刺激を受けたり、または作者と同じ問題を考えるということにおいて「面白い」と思うわけですから、そういう部分が少ない、ないし、それに時間がかかる場合は読まれないことが多いと思います。

この構造を反転させたのが「ニュースサイト」です。ニュースサイトは不特定多数の人と問題を共有するのに非常に優れています(双方向的なやり取りがないので「提供」といったほうが正確かもだけど)。なぜなら、文章の長さが減る代わりに、記事の数が増え、そしてその記事はしばしば時事問題を扱うからです。時事問題を取り扱うというのはもっとも読者と問題を共有しやすいので、優秀なサイト戦略です。しかし、そういったことの代わりに「自分の個性」というのは出辛いです。というのも、「自分の文章」以外の要素が加わるからです。

これは必然的な変化です。サイトの隅から隅まで「自分が作っている」ほうが「自分の個性」がでている、つまり、受け手が個性を見て取りやすいのは当然なので「ニュース」を扱ったりすると「自分の個性」は減ります。ただ、ここはギヴ・アンド・テイクなんですね。ニュースサイトをやる上で「自分の個性」と引き換えに「なにを得ているか」というほうが大事です。

端的に言うと、それは例えば「情報」です。「自分の個性」をだしたい人は「テキストサイト」やればいいんです。ただ、ニュースサイトをやろうという人は「自分の個性」を表現することよりもウェブに漂う「情報」に価値を見出しているわけです。そのように割り切ります。すると、ニュースサイタという生き物は「どのような情報を選択して載せるか」ということで「自分を表現しよう」としだします(もちろん、これ以外の方法もあるとは思うけれど)。

つまり、「自分の個性」と「サイトの個性」というのは、「日記サイト」や「テキストサイト」や「文芸サイト」、あるいは「フラッシュ・サイト」の場合、かなりの部分がかぶっています。しかし、それが「<羅列型>個人ニュースサイト」とかいうことになりだすと乖離しだします。「自分の作品」以外の要素が入ってきてしまうからですね。ただ、実は、自分以外の「情報」を通じて、ニュースサイタだって自分を表現しているのです。

それぞれのサイトを「日記サイト/役者」や「テキストサイト/脚本家」や「文芸サイト/作家」や「フラッシュ・サイト/監督」とするなら、個人ニュースサイトは「演出家」といったところではないでしょうか。こういったことが「自分の個性」とは別の「サイトの個性」というものです。そして、そのようにしてサイトを眺めるとき、どれひとつとしてつまらないサイトなどないのです。それはただ、楽しみ方を知らないだけなのです。
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暴風雪です……えーと、春は……春はどうしたのっ!? 今年の春の裏切りっぷりは例年にないものがあります。こう裏切られると、「いや、もう無理しないでこのまま冬に戻ってもいいよ、ほんと」みたいな感じなってきます。冬好きだしね。というか、雪が好きなので、ぜひ、暖かい雪を開発してもらいたいと思うんです、ええ。
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by kourick | 2005-03-31 00:00 | 日記
ついに雨が降り始めました。この時間帯に雨が降るということはぼちぼち完全に雪融けかなと思います。ああ、やっと春が見えてきました……こうなるとコートをいつまで着ているかが問題です。
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by kourick | 2005-03-29 00:00 | 日記
サイトのどこかで、北海道では「丸井今井」や「そごう」に「さん」を付けて喋るという話をしたのだけど、これはやはり北海道限定なんでしょうか。ちなみに「東急」「ダイエー」「イトーヨーカドー」などには「さん」は付けないわけで、10人に訊けば、まず間違いなしに10人ともが「付けない」というわけで、どういう基準で「さん」が付いたり付かなかったりしているのか不明です。
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by kourick | 2005-03-26 00:00 | 日記
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三月とは思えない吹き荒れっぷりを見せています、上に向かって雪が吹いていて視界がないです。一月中旬とか冬まっさかりな感じ。そして何気に天気図がすごいことになっていて、真中の低気圧が「俺が、俺が!」って自己主張しすぎ。追い込み漁みたいに高気圧に追いやられる格好で暴れまわってます。この調子だとサハリン上空あたりで捕獲されそうな感じ。
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by kourick | 2005-03-25 00:00 | 画像
吹き荒れてます。だんだん、黒いアスファルトが見えるようになってきたんだけど、その黒と溶け出している雪の灰色と、この季節特有の濁った灰色の空がなんともいえない陰鬱な景色を構成しています。

また、樹とかも当たり前のように枝だけなわけで、細いバオバブみたいな感じで完璧な演出です。うーむ、春だなって気がします。なんか、春っていわゆる「再生」の季節というイメージが一般的にあるみたいなんですが、僕のなかではそれって夏だよなあって印象です。

春はまだまだ「混沌」って感じです。それで夏が「再生」「息吹」だとすると、秋は「成熟」「落日」で、冬は「静寂」といった感じかな。北海道は一年の半分が冬だから、季節のイメージもずれてるのでしょうか。

生態系というか生命のサイクルも違えば、見える景色の植生も違うから、当たり前のずれというとそうなのかもですが、たとえばテレビなどで、「日本」とまとめた形で印象が同期されているとこの辺りの季節感ってすごい狂いそうですね。実際「旬のもの」なんてもう意識してないもんなあ。
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by kourick | 2005-03-18 00:00 | 日記
【サイト名+さん】の起源はどこにあるか というエントリに ちょいりす のゆつきさんからコメントをいただいて、ふと思いました。そもそも「中の人」という用語を個人サイト界隈的な使用として流行らせたのは「ちゆ12歳」さんではなかったでしょうか。(ちなみに、一般的な「中の人」の使用の歴史は もなみ9歳 さんの 中の人などいない!の歴史 に詳しいです)

つまり、「中の人」という用語が、被りものや戦隊ものの「中の人」という使い方ではなく、「サイトの中の人(=運営者・管理人)」という使われ方をされだしたのはいつ頃からだろうという疑問です。これが、いつ頃からなのかというのは非常に興味深いことです。サイトというのは 【サイト名+さん】の起源はどこにあるか で触れているとおり、「誰かの書いたものが載せてある場所」というように把握されていて、サイトと執筆者は分節化されていたのです。

だから、「サイトの中に人がいる」というような感覚ではありませんでした。サイトは服を着るようにしてまとうものではありませんでした。書いたものが張ってある掲示板のように、あの場所にいけば、あの記事が読めるというように、言ってみれば、サイトは公共的な場所だったのです。決して、サイトが中の人を直に表現しているというような見方はされていなかったように思います。このあたりの変化には興味があります。
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  • 春:ほこりが舞う季節です。もう少し待ちましょう。
  • 夏:窓を開け放て! 家にいるときは日差しが強いのでカーテンを閉めましょう。
  • 秋:もう少しの辛抱です。雪が降れば窓はきれいになるはずです。
  • 冬:窓は凍り付いて開きません。
僕もね、理由さえあればね、拭こうとは思うんだよ、うん、そうそう。
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by kourick | 2005-03-16 00:00 | 日記
ウェブサイトの記事志向化RERO!!

【サイト名+さん】という呼称についてのテキストです。この起源は難しいですね。ひとまず「Blog は運営者がはっきりしているから、サイトと中の人を同一化できる(サイトを人格化できる)」というのは難しい設定だと思います。

たしかにそういう部分もあるとは思うけれど、「Blog は」という境界条件も気になるし、こういう場合は端的に「著者名よりサイト名の方が認知度が高いだけ」と考えたほうが素直だと思います。むしろ Blog というブラウザで更新できる仕組みはマルチユーザでのサイト運営を容易にするので、これからは Blogだからこそ、サイトと中の人(たち)と記事の書き手を意識的に分ける必要が生まれだすでしょう。

というより、運営者がはっきりしている場合こそ「【サイト名】の【運営者名】さん」と呼ばれるような気がします。テキストサイト全盛期やそれ以前はそうでした。「侍魂の健さん」「POPOI の入江さん」「ろじぱらのワタナベさん」「斬鉄剣のナミ」といったように分けて呼ばれることが多かったと思います。サイトというのは「だれそれが文章を載せている場所」であり、そこに閲覧者はアクセスするというような、ある種、分節化された意識があったように思います。

「ダークマターの濁(ダーク)さん」はサイト名と名前がかぶることもあって「濁又」とか単体で呼ばれることもあったとは思うけれど。まだ 2ch が特殊で独特の空間だった時代ですね。パソ通時代の「名前@所属」もそうでしょう。

いや、ダークマターは個人ニュースサイトでしょうか。すると、テキストサイトと個人ニュースサイトの差というのはこのあたりにあるのかもしれません。つまり、どのように呼称されるかというところにです。閲覧者の意識が「中の人」にあるのか、「サイトの情報」にあるのかということです。

テキストサイトのように「中の人」にある場合は、必然的に「中の人が書いているサイト」だから「【サイト名】+【運営者名】さん」になるでしょうし、「サイトの情報」にある場合は、基本的に「サイトさえあればよい」のだから「【運営者名】は【サイト名】と同一視される」というか「運営者はサイトと溶け合っている」というか、そもそも、そういった「区別をする必要がない」ということでしょう。だから、個人ニュースサイトの閲覧者が中の人に興味を持ち出したら、その人はその個人ニュースサイトの「常連」になっていると言えるだろうと思います。

ということで、その起源というのを考えだすとなかなか難しいのですが、僕の仮説としては「VNIサイト」の御大「ちゆ12歳」起源説と「羅列型個人ニュースサイト」起源説、ないし、その両方ということが言えるのではないかと思います。

「ちゆ12歳」起源説であるなら、こういう具合になります。「VNIサイト」には「中の人などいない」ため、「サイト=キャラクタ=中の人」という見方を閲覧者に要請します。そこから、閲覧者の意識として「サイト名≒運営者名」と把握することにあまり抵抗を感じないようになったのではないでしょうか。

そして、もう片方の「羅列型個人ニュースサイト(具体的には「俺ニュース」等)」起源説ですが、これには「情報元表記」という個人ニュースサイトの伝統が関係してきます。個人ニュースサイト界隈では、通常、「情報元表記」というのは「サイト名」を表記することになっているのです。掲示板やメールでタレこみの情報でももらわない限り、情報元表記が「人名」になることはありません。

これはつまり、「誰がこの情報をもっていた(作った)か」ということよりも、「どこにこの情報が(まとめて)あったのか」ということのほうが個人ニュースサイトとしては重要だということです。どちらが情報として高級かということは見方によって変わると思いますが、この違いはたしかにあります。だから、テキストサイトと個人ニュースサイトとでは「価値のありか」「価値のあり方」が違うわけですね。

そういうわけで「情報元表記」は「サイト名」になります。そして、羅列型個人ニュースサイトの扱う情報量が尋常ではないことからもわかるとおり、子ニュースサイトにせよ孫ニュースサイトにせよ、他のサイトに対する依存度は高く、こうした情報元表記というのは日常的に頻繁に行われているのです。

しかし、読売新聞のような公式なサイトから記事を引っ張ってきたときには「読売新聞さん」とは表記しません。これはたぶん、そういうサイトの場合は「中の人が透けて見えてはいない」からでしょう。逆を言うと、個人ニュースサイトのように「個人」がサイトの向こうに透けて見えている場合は「サイト名であっても、さん付けしようか」という気にもなります。

つまり、羅列型個人ニュースサイトの「情報元表記」という作法と、他サイトへの依存度の高さ、そして、中の人が前面に現われはしないけれどもサイトの向こうに透けて見えてはいるという存在感、こうした個人ニュースサイトの構造が【サイト名+さん】という呼称に違和感を感じさせていないのです。

こうした、個人ニュースサイト界隈の文化における伝統的な作法が、その周辺の Web に浸透しだしており、【サイト名+さん】といった表記に抵抗を感じないようになってきているのではないでしょうか。
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サイを買い、胃を食べた。
回廊でルター、胃を食べた。
老眼増したか、いっぱいでるタイを食べた。
労苦慕うガン、混ぜた。
胃を足した、得た。
胃を称う。
河童でる高い廊下。
河童ら無駄。
でる、太郎。
イオ、太郎。
怪異を絶えたかい?
おう、怪異を絶えたぜ、太郎。
河童か言え、太郎。
河童。
河童でる高い廊下、癒えた。
おめぇが得た串ら無駄。
ロープ、妻子いたら無駄か言えた。
ぷ、妻子いたら、無駄。
パイパイをみゅにゅみゅにゅ。
絶対オタ。
パイパイをみゅにゅみゅにゅがンマイ、オタ。
乳でる太郎をみゅにゅみゅにゅしたいオタ。
オー!
ぷ、最下位。
思惟絶えた……。
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by kourick | 2005-03-08 00:00 | 言葉