ゴディバのショコラをいただきました、アゥンマァーウマー。
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by kourick | 2005-02-24 00:00 | 日記
webの情報は話半分に。コーヒーを片手に.

とても面白い話題で、「Webの情報は胡散臭いから疑ってかかれ」という文句を再提起されているところなど共感できました。ただ、僕の考えと違うところもあるので、少し書いてみたいと思います。僕が気になったのは以下のニ点です。


1.どれほどの人が「流れ」による「信憑性」を感じているだろうか

ひとつは、個人ニュースサイト論よりの文章を書こうとする人がしばしば陥る罠ですが、「普通の人はそれほどニュースサイトを巡らない」ということです。「なえふ」さんが
いろんなサイトで取り上げられているんだから本当のことなんだろう」という意識が閲覧者には芽生えているような気がしてならない。
と言うとき、そのような広い視野を持つということで問題意識が芽生えるのはわかるのですが、それが、どこまで個別の閲覧者と互いに共有できる問題なのかというのは難しいところです。むしろ、複数のサイトを覗いて「流れ」を感じているような「情報に敏感な人」は安易に信じたりしなさそうです。これは ネタの流れ のときにも書きました。そういう問題意識の提起によって、

  • 取り上げる記事の信憑性に関してニュースサイタに注意を促す
  • 取り上げられた記事の真理性の判断に関して閲覧者に注意を促す
というのだけならわかるのですが、そこに、

  • 閲覧者のチェック機能による運営者への情報のフィードバック
  • 検索したときに怪しい情報が上位に来るのは困る
といったことを問題にしようとすると、それは話の広げすぎではないかと思います。そういった点で、話題の方向を絞る必要があるのではないでしょうか。これらを同じ土俵で一緒に解決しようとすると違和感が生じてしまう気がします。あるいはもっと抽象度を上げた話題にするかですね。


1-1.意識まで検索エンジンに支配されてはならない

また、検索したときに間違った情報が記載されたサイトが上位にきてしまうということを憂うのなら、それは「検索エンジンを恨む」のが筋だと思います。検索の上位になにがこようが、それは個人ニュースサイトの運営者としては「知ったことではない」わけです。

検索エンジンの上位にきてはまずいからといって、個人ニュースサイトの運営者が目の前の面白いネタを更新から省いたりするのもおかしな話でしょう。つまり、サーチエンジンの上位に信憑性のない情報がきてしまうことがあるというのは確かに「結果」としてあるでしょうが、それが「原因」になって個人サイトがネタを選ぶというのは変な話です。逆転しています。

ちなみに僕は、信憑性のない記事、ないし、僕が個人的に取らない立場を啓蒙している記事などにはリンクを張りません。しかし、それが良いことなのか悪いことなのか、適切なのか不適切なのかは不明です。なえふさんは端的に「情報が間違っている」場合に限って話を進めていると思いますが、情報というのは「不足していても」「過度でありすぎても」読み手に誤解を引き起こすものです。


1-2.情報は間違っていると気付かれて初めて「間違った情報」になる

僕は情報を右から左に流すだけですから、その情報を価値付けているのは仲介役にすぎない僕ではありません。それは個々人がすることです。しかし、たしかに僕も情報の受け手なので、僕を通ることでなにかしら価値が付加された情報を流しています。または、僕が扱ったというのがその情報の付加価値になります。そういうフィルタを何枚も通して情報には価値が上乗せされていきます。

「間違った情報」が「流れ」に乗っては大変だと言いますが、しかし、「間違った情報」こそ「流れ」に乗って初めて「是正されうる」のではないでしょうか。流れに乗った時点で、その情報は「間違った情報」ではなかったはずです。流れに乗って誰かに「間違っている」と指摘されて、そのとき初めて、それは「間違った情報」になるのではないかと僕は思います。


2.信憑性のない情報がはたして一人歩きするか

そして、もうひとつ、なえふさんは、
信憑性のない情報が一人歩きしてしまうことになりかねない
とおっしゃるのですが、僕は「信憑性のない情報が一人歩きするようなことはない」と考えています。一人歩きしたのであれば、それは「信憑性があったから一人歩きしだした」わけです。およそ、誰からも信用されないような情報が一人歩きするというようなことがあるでしょうか。なまじ信憑性があるからこそ、疑惑の対象になるのですし、そのこと自体に問題はないでしょう。

ところで、もしかするとなえふさんは、「信憑性はあるのだけど、実はまだ十分な正当化が与えられていない情報が、まるで真実であるかのように人の目に付いてしまう」ことを危惧しているのかもしれません。そういうことであれば、僕も注意が必要だと思います。


2-1.実は中間が一番少ないということ

わかりやすい説明をすることと、事実を記述することの間には差異があります。そして、ウェブでは前者が好まれる傾向があります。そして、そこには少なからず間違っている(ようにしか読めない)説明もあります。概略としては便利だけれども、必ずしも厳密ではない情報です。けれど、わかりやすいためにそちらが好まれます。

つまり、そこで満足する人というのはそもそもファッショナブルな「雑学」としての話の種が欲しいのであって、そこに「知識」を求めているわけではないだろうということです。逆に、厳密に証明された、ないし、正当化が与えられた「知識」を求める人は、最初から Web の情報など話半分に読んでいるはずです。つまり、志向性として人の態度は二極化しており、中間でその温度差を感じてしまう人は実は少ないように思います。


2-2.信憑性があることと、真であることの区別

繰り返しになりますが、ここに区別しなければならない点があります。ある情報に信憑性があるかないかということと、その情報が真であるか(真であることの正当化が与えられているか)ということは別のものだということです。なえふさんは、

情報が「流れ」に乗ることで、どこかに「信頼感」という付加価値が生じている。
と言われ、そこをやや否定的に把握されているようですが、僕はむしろ、そこを省いてしまったら「Web が台無しだ」と思います。情報が「流れ」に乗り、その過程を通して、疑われたり、修正されたり、注目されたり、もちろん、大勢の人が正しいと情報として扱うことによって信頼されたりするといった、付加価値が生じること、それこそがウェブの醍醐味ではないでしょうか。

情報の真偽というのは当然、そこに関係してくるでしょうが、それ以上に、大勢の人に注目されているという付加価値が Web においては特に価値を持つのです。いろいろな情報がいろいろな人に関わって、しかも、それが自分のところにも繋がっていて、やろうと思うなら、自分からも情報を送り出せるというダイナミズムにこそウェブの価値があります。

ウェブを流れることによって、まだ「真である」かどうかはっきりしてはいないけれど、大勢の人に「真であると見なされる」ことによって、ある情報の「信憑性」は次第に高まります。沢山の個人ニュースサイトで取り上げられるというのはそういうことの価値です。そして、そのような過程のなかで無視されたり、正当化が与えられたり、反証されたりして情報は鍛えられるわけです。信憑性が高まり、大勢の人に影響を与えるという段階になって初めて「真偽」が問題になるのでしょう。


2-3.ニュースは、やはり、ニュースである

やや余談になるけれど、以上のように考えることによって、個人ニュースサイト界隈でときおり話題になる「嘘ニュース」に関して、その「嘘のニュース」を「普通のニュース」と別種のものと考えないでも良いというメリットが生じます。「嘘ニュース」は真理値として「偽」を持っていて、「普通のニュース」は真理値として「真」をもっていて、いずれにしても、その情報は人に「真と見なされる」ことによって伝播するわけです。

最初に持っている値がどうであっても、情報が伝播するときには「真である」と見なされて伝わるはずです。基本的なこと以外はなにも変わりません。その情報は「新しい情報」として人に伝わり、受け手になにかしらの態度決定を迫るでしょう。そして、「普通のニュース」に虚偽が含まれていたりするように、「嘘ニュース」が真実になったりすることもありうるのです。「嘘ニュース」という「実は普通のニュースと同じ構造を裏返しにしただけ」というパロディが威力を持つのはこのせいです。


3.後書き

終盤はなえふさんのテキストのなかにあった論点から少しずれてしまいました、すみません。また、「閲覧者も気を付けなきゃならないんじゃない」という提言は、僕も閲覧者の立場から同意できます。個人ニュースサイトの運営者も基本的に一介の閲覧者にすぎないわけです。でも、そういう点を無視して指摘に徹してしまったことはお詫びしておきます。
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 弓の精神性ということで少し話をしましたが、正直なところ、それは些細なことです。むしろ、些細なことだからこそ大切にされているといっても良いように思います。より一般的に興味を惹かれるのは和弓の形状の歴史的・機能的な発展のほうではないでしょうか。

 実際、これはとても面白いところで、和弓の各部の名称の由来や、射法に関わる実践的な事柄も含めて話すと、なかなか終わりのこない話題です。ですから、ここでは和弓と洋弓との差異という観点に絞って、少し話をしてみたいと思います。

 以前、お祭りか遊園地のアトラクションで洋弓(といっても、おもちゃのようなものなのではないかと思うのですが)を射る機会がありました。そのときは四本打たせてもらったのですが、実にその四本ともが左下方にいってしまいました。

 このときは、僕の狙いが悪かったのだろうと思ったのですが、後々、他の部員にも話を聞いてみると、みな左下方に矢がいっていました。範囲は限定されていますが、なにかしら有意な結果であると判断できました(矢所も安定していたし)。そして、これには理由があります。

 和弓を使っている人は洋弓を通常通りの仕方で射ると左下方に矢が飛ぶのです。これは和弓が「非対称形」で、洋弓が「対称形」であるということと(前者は対称軸が一本、後者は二本)、和弓が「弓返り射法」で、洋弓が「打切り射法」であるということによります。

 和弓はその「非対称性」により、矢は構造的に上方に飛び、「弓返り射法」をしないと、矢は構造的に右方に飛ぶことになります。和弓は「弓把」(握るところ)が下のほうに付いているので、矢を番えた位置より下方の弦の返りが速いです。そのため、上方に飛びます。

 これはまさにベクトルで考えてもいいです。そのために射法においてやや上押し気味の力を弓にかけて矢飛びを制御します。これは練習をするうちに無意識的にされるようになります(もちろん押手の手の内が上押しになるのは駄目なのですが)。

 また、和弓は弓の右側に矢を付けます。弓を持っている左手親指の上に矢を乗せるわけです。しかし、弦は当然、弓の対称軸である中心に戻ろうとしますから、必然的に矢は右側に飛ぶことになります(弦を張る位置を多少調整しようとあまり関係ありません)。

 それを制御するために、やはり射法において、やや左方にひねりをいれることになります(これは射る瞬間に弓を左に振るということではなく、左手親指を的に押す感じとともに「離れ」において「胸を割る」ので適切な射法をしていれば勝手にひねりは入っていることになります)。

 またこのとき、弦は曲がる軌道を描きながら弓に戻ろうとするので(これにも理由があります)、弓(弦)の力をフルに矢に乗せるために矢が離れるときに手の内で弓を回転させます。いわゆるフォロースルーです。これは弓の力がすべて矢に乗る射法で「弓返り射法」といいます。

 そのため、射る前は左腕の右側にあった弦は、射た後は左腕の左側にあることになります(これもやはり適切な射法によって自ずからそうなるものであって、意図的に弓を手の内で回転させると「それは弓返りではなく、弓返しだ」という指摘を受けます)。

 他方、洋弓であれば、弓は対称形になっているので、まず的の正面に構えれば的に向かって矢が飛びます。また、矢受けが弓幅の中心になるように弓が加工され、弦もそこに返るので、左腕と弓は的の正面で固定した状態が望ましいことになります。

 しかし、この場合、弓を持っている腕に弦がもろに当たることになってしまいます。したがって、洋弓では「アームガード」と呼ばれる腕を保護する防具を付けます。このような射法を、左手で持った弓の位置まで弦が返り、それ以上は弦が動かないので「打切り射法」といいます。

 ちなみに和弓でも、速射が要求されるときは弓返りしないように手に「クスネ」という滑り止めを付けます。これがいわゆる「手薬煉(テグスネ)をひいて待っている」状態です。戦闘準備オッケー、いつでも来いという状態ですね。

 実戦(いわゆる武射。一般的に、現代のは礼射)においては、いちいち弓返りなどさせていたら矢数が打てないので、あまり弦を引き絞らずに強い弓を用いることで威力をだしつつ矢数を増やしていたようです。「五人張り」あたりが有名でしょうか。

 以上のことから、普段和弓を使っている人が洋弓を使うと左下方に矢が飛んでしまう理由がわかっていただけたのではないかと思います。つまり、僕は洋弓を打つときに無意識的に「上押し」をかけて「ひねり」をいれてしまっていたのです。

 黙って左手に持って的に照準を合わせて素直に打てば狙ったところに飛んだはずなのに、打つときに「余計なこと」をしてしまったので狙いがずれたわけです。これは面白い違いだと思います。このあたりが「和弓は機械ではなく道具だ」といわれる由縁かもしれません。

 ところで、なぜ和弓は非対称形なのでしょうか。改めて考えてみると、和弓の形態の美しさとは裏腹に不合理なように思います。しかし、これにもちゃんと理由があるようです。というのも、日本人が最初に用いた弓というのが「丸木弓」だったからではないかと言われています。

 丸木弓というのは、手頃な木の皮を剥いで作った簡単なもので、したがって、根元部分が太くて硬く、梢部分が細く柔らかくしなるといった不均質な弓材になります。このような不均質な材料で対称形の弓を作ると、根元部分の反発が強いので上方に飛ぶことになります。

 よって、弓把を下に取り、上部と下部の力の均衡を保つことで矢が直線的に飛ぶように加工したと思われます。このように理解すると不合理に思われた「非対称形」にも合理的な理由があったのだとわかります。むろん、長弓のほうが扱いやすいという理由もあったかもしれません。

 しかし、その後、弓の材質や形態の発達にもかかわらず、どうして日本人は非対称形という弓の形状を維持したのでしょうか。それは寡聞にしてちょっとわからないのですが、現代に伝わる弓術の完成度を考えると、その選択肢は間違ってはいなかっただろうとは思います。

 また、和弓の形状を美しいと感じる感性を歴史を通じて弓に親しむ人たちが持っていたのかもしれないなと思うと、その説明もいらないように思います。そして、その和弓の美しさに見合うように弓術は発展して、弓道になっているのです。
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by kourick | 2005-02-07 00:00 | 考察
 なんだか、生きているという感じがしなかった。身の周りにあるあらゆるものたちが、ただそこにあるということだけを主張してどこまでも遠ざかり、僕とはまるで無関係を装い、冷ややかな目で、僕が叫びだすのをこころ待ちにしているように感じた。

 僕はそのような場所で生きていて、そして、まるで生きていないようだと感じているのだった。せめて、たったひとりの人だけでも僕の身体に触れていてくれたら。そう思うことは何度もあった。けれど、僕はそれほど都合の良いことを他人に求めるほど傲慢ではなかったし、素直に助けを求めるほどの強さも持ち合わせてはいなかった。

 しかし、別に僕はそうやって孤独な自己に陶酔するわけでも、客観的に分析した自分を否定するわけでもない。むしろ、そうやって生きている感じがしないということがとても現実的に感じられて、そうやってゆらゆらと揺れながら、揺られながら、それでも生きているということは、たぶん、格別に贅沢なことで、幸福なことなのではないかと思っていた。僕はもう、そこに僕がいるというだけでなにを埋め合わせる必要もないほど満足していたのである。

 ただ、そのようにして、それ以上なにも望むことのない幸福を得てしまうということは結局のところ、なによりも死に近いということなのだ。だから、周りのあらゆるものたちの僕に投げ付ける暗黙の視線は、僕が強情に黙り、そして関わりを求めもしないことによって、次第に単なる沈黙に変化していったのだ。あとには静かな濃淡の模様が、少し残念そうに壁に張り付いているだけなのだった。

 僕は触れることも触れられることも求めずに、語りかけることもせずに、ただ語りかけられることを待っていた。すでに満たされ、沈黙のなかで目を見開いていただけなのにもかかわらず、僕はなぜか、そのような望みを抱いてしまっていたのである。あまりにも危険なその望みは、どこからきて、そして、僕をどこに連れ去るつもりだったのだろう。

 しかし、僕はその願望を叶えるということのために、なにかを失うということをあまりにも恐れた。得るために捨てることも、奪うために与えることも、鏡が光を返すように美しいものではなかった。だから、そうしてできあがった哀れな存在は、陽光の下で踊ることができないばかりか、太陽に魅せられた月光を浴びてなお、穏やかにそれを眺めるということすらできなかったのである。

 僕が空隙のまるでない笑顔を、どの瞬間に、どのようにして失ってしまったかということはすでに忘れてしまった。もう、それを忘れるという表現で言い表すことが妥当なのかどうかすら定かではない。いずれにせよ、僕が再び笑顔を取り返したときには、もう、素直に笑うことなどできはしなかったのだ。どうして、そのような不気味で奇妙なことが自然にできると信じることができるだろう。そして、そのようなことを信じる必要などないということも、僕は信じることができなかったのだ。

 どこまでも僕は弱い。だからこそ、僕は強さを身に纏うのだ。生き続けるために。
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 弓道の良さということは個々人がそれぞれに見出すことであって、究極的にこれというようなものはないでしょうが、それでも、ある程度は共通して惹かれるところというのはあるだろうと思います。

 僕が思うに、それは「道具としての合理性」と「自然との調和」です。ただ、この「合理性」というのは多義的な言葉で、どこまで考えを拡げるかによって意味合いが変わってきます。

 たとえば、的に矢を当てるための機械的合理性という点では、きっと洋弓のほうが合理的でしょう。和弓と洋弓の違いとして、和弓は「道具」であり、洋弓は「機械」であるということがときおり言われます。

 機械というのは、その機能を発揮するために、その目的を果たすメカニズム以外はできるだけ省いてデザインされます。それが機械としての機能的な洗練といえるでしょう。

 目的はできるだけシンプルに設定し、無駄を削ぎ落とす。そして、その機能を十分に活かすために補助装置が必要なら、土台となる機械にオプションを付け加えていきます。

 そのため、洋弓は「的に当てる」性能を高めるために照準を付け、反動を吸収する装置を付けという具合に、科学的な合理性にしたがって変化してきました。これはたしかに理に適っています。

 一方、道具というのは、その機能を十分に発揮するためには人間の側でその道具を使いこなす必要があります。たとえば、和弓は単に機械的に弦を引っ張って離すと「右上方」に飛んでいきます。

 和弓というのはそういうデザインで完成されており、それがデフォルトなのです。これを人間が使いこなすことによって、性能をきちんと発揮することができるようになるわけです。

 弓と身体を一体とするほど鍛錬を重ねることによって十分に弓の性能を生かすことができます。そのため、弓は使う人と共に育つ、他人の弓に勝手に触れてはならないと言われます。

 その弓にはその持ち主の癖が付いていて、持ち主以外の人が使うと癖が混ざってしまい、射が崩れることがあるからです。ひとつの美しい射には、その人と弓との鍛錬が現れます。

 そして、射法というのは、それ自体完成しているのだけれど機能としては不完全な和弓という道具を十全に活かすための方法として、理に適ったものとして洗練されています。

 もちろん、だからといって洋弓というのは精神的に無味乾燥な代物だと言いたいわけではありません。むしろ、目的に対する不安定な要素が少ないだけ純粋になれるともいえるでしょう。

 「合理性」ということで向かうさきが異なっているということです。機械として構造を洗練するのか、道具として手法を洗練するのか、といったところでしょうか。どちらも良いところはあります。

 ただ、身も蓋もないことをいうと、単に的に当てることが目的なら、弓である必要はありません。ライフル射撃などのほうが容易で精確でしょう。肉体的な鍛錬もそれほど必要なく、射程も伸び、精度も高いです。

 しかしながら、弓道を始めようという人は、そういうこととはまた違うものを求めて、弓を始めるわけでしょう。そこにはやはり、また別の魅力があるに違いないのです。武道とはそういうものです。
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by kourick | 2005-02-05 00:00 | 考察
 「弓を射る」というと、右手で弦をグイッと引っ張るのをイメージする人が多いと思います。けれど、実際には左腕や背筋など、身体全体を使うので右腕の負担が大きいかというとそうでもありません。逆に言うと、右腕の筋力だけで引けるというものでもないわけです。

 とはいえ、細い弦を引いている右手にはそうとうの力がかかるので、生身で弦を引いては危険です。なので、右手には「かけ」というグローブ状のものを装着します。かけには「かけ紐」という1メートルほどの紐が付いており、それを手首に巻いてかけを固定します。

 たとえば、弓を引き分けるときに力が入ってしまって手首が内側に曲がることを「タクる」というのですが、こうなると、かけが弦から離れるときに手首が素直に後ろに逃げないので危険です。こういう事態を防止するためにも、長いかけ紐を手首に巻きつけて固定するわけです。

 関節というのは横方向の力に弱い部分なので、それを補強しているわけです。不合理に感じるほど長いかけ紐にも、このように理由があります。また、高価な鹿皮を使うのも「緩みづらい」という利点があるからです。しかし、練習の際、毎回、かけ紐を締めるのは面倒なものです。

 そこで、かけ紐を手首に巻いて止めるときにかけ特有の締め方をせずに「かけピン」と呼ばれるクリップのようなものでかけ紐を固定します。もちろん、正式な場、射会や審査のときには使わないですが、練習のときは重宝するアイテムです。

 このかけピンには無地のものもあれば、絵や文字が書かれているものもあって、「一射絶命」「正射必中」「心技体」「真善美」などと書かれたものもあり、どれを選ぶかによって個性の現れるところで、こういう遊びもなかなか、面白いところです。
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by kourick | 2005-02-04 00:00 | 考察