「あのさ……」

 気だるい声で、ソファに横になって、私の顔も見ずに那美君は言うのです。

「なんでもいいからさ、僕の知らない音楽かけてよ」
「どうして?」
「聴きたいから」
「私が歌ってあげようか」
「歌嫌い」
「あそう」

 私は横目で彼をむっと睨むと、読みかけの小説に目を戻すのでした。
 そうしたら那美君が黙るわけだ。
 それ以上なにも言わないの。

 ちっちかちっちか時計の音するし。
 本当そういうのってずるいよね。
 私は立ち上がってすたすた歩いてぽちっと機械の電源をいれました。

「ありがと」

 ソファから投げだした右手を挙げて那美君が言いました。
 手の先で缶ビールがふらふら揺れてるわけだ。飲みすぎだよ。
 そしてそういうのとか放っておけない私っていうのが、また可愛いわけだ。

「知らない音楽聴きたいときってあるよね」
「あるね」

 私は棚からCDを取りだし、おもむろに機械に食わせました。
 ウィーンとかいって食ってるの。本当機械って可愛いわ。

「酔い覚ましにビール飲みたいときもあるよね」
「悪いけどそれ発泡酒だから」

 私って貧乏だからさ、悪いね。

「いいよ別に、どうせまずいから」
「水あげようか」
「怒った?」
「いや、まずいものよりはいいかなと」
「水もまずいよ」

 まあ、確かに。

「でも、美味しい水もあるよ」
「そう、だから、美味しい発泡酒もあると信じたいよね」

 はあ、だめです、神様、私はこの子を理解できません。

「それともサトさんは毎日美味しいもの食ってるの?」
「感謝はしてるよ」
「誰に?」
「お百姓様がた」

 ははっと那美君は笑って「薔薇様がたみたいだね」と言った。
 地味にマニアックだよな、那美君ってさ。

「それにしても、傷付いちゃうなあ」
「どうして?」

 私がまた横目で彼を見ると相変わらず那美君天井見てるの。
 天井見上げてみたけど、それってやっぱし天井だし。
 やれやれ、私はいったい誰と話してるのでしょう。
 人形みたいだよ、那美君それ。

「あれかな、那美君?」
「はあ、なんでしょう」
「発泡酒のまずさがわからない女っていうのは、どうなの?」

 違いのわからない女、といって那美君は発泡酒をすすりました。
 悪気はない、悪意はないと、そう信じたい。

「寂しい女、のほうがいいかな?」
「どっちも悪いと思うよ」
「ああ、なるほど」

 そういうと那美君は私のほうを見てにこっと笑うのでした。
 ああもう、そういうのに弱いんだよなあ、私ってば。
 こう、なにかその、特別扱いされたというか、その……ね。

「これ、マック・ザ・ナイフ?」

 那美君が呟きました。
 いまかかっている曲の名前ですね、はい、ご名答です。
 食事を終えた機械君は順調に音楽を吐きだし続けています。

「知ってたか。違うのにしようか。ていうかさ、歌嫌いらしいね」
「わざとらしいなあ」
「違う違う、わざとだから」
「まあ、いいや、もうちょっと音絞って」

 那美君、エラ・フィッツジェラルドの声にたじたじです。

「はいはい、しょうがないな」
「エルトン・ジョンとかかけられたらどうしようかと思ったよ」

 その手があったか!

「ああ……」

 なにかわからないけどすごい負けたって感じがするなあ、もう。
 私は冷蔵庫を漁りに台所に立ちました。
 うーん、われながらきれいに整頓されてるね。

「那美君、なにか飲む?」
「ウィスキ」
「だめ、っていうかない」
「えっと、じゃあ、なにかだめじゃないやつを」
「芋焼酎いける?」
「芋と焼酎だされたほうが嬉しいけど、芋焼酎もわりと嬉しいほう」

 那美君さ、そういうのはせめて笑っていってほしかったな。

「おけおけ、上等だぜ」
「サトさん、強いよね」
「なにが?」
「お酒」
「ぼちぼちです」

 あ、チルド室に鮭いやがりましたよ、はっは、捌いちゃおっかな。

「那美君さ、鮭食う?」
「むさぼり食っちゃうよ」
「おけおけ、熊なみだね」

 私は包丁を取りだすとどんっと鮭に落としました。
 塩・胡椒を少々、バターを少々、醤油を少々、で焼け、焼いちまえ!

「でけたよー」
「はやっ、ていうか、芋焼酎まだだよ?」
「いま、燗してるから、こっちおいで」

 私が呼ぶと、ダイニングに那美君がふらっと来るわけ。
 こういう風に言うと、ちょっと「紐」みたいかな、あるいは子どもというか。
 まあ、なにをやっても噂にできるし、詮索できる世の中だからなあ、あはは。

「ワイルドの『獄中記』読んでたんだ」

 那美君、テーブルの上の本を発見したようです。

「うん」
「面白かった?」
「まだ読みかけだけど、嫌いじゃないね」
「どういうところが」
「なにかさ、熱中できることがあると、人ってものを残せるんだなって思った」
「それって本当に本の内容と関係あるの?」
「私にとってはね。読書ってそういうものです」

 妙に偉そうな口調になってしまうのは、自分でもなぜか不思議です。
 那美君がそうするように仕向けているのか、どうなのか。
 頭も良いし切れるのに、どこか飄々としてるんだよな、那美君て。

 こうやって私が心配するのも杞憂なのかなとかたまに思う。
 気楽な者同士というか、でも、どこか不安を抱えた者同士というか。
 ただ、こう漠然としてるのにある種の信頼があるのっていうのは、嬉しい。

「ファイト・クラブ、知ってる?」
「プラッド・ピットの?」
「そう」
「あれでそういう場面があるよ」
「どういう?」
「熱中せざるを得ない状況に追い込まれる、幸せな人のお話」
「それ本当に映画の内容と関係あるの?」
「あまりない」

 私は那美君が椅子に座るのを見計らってどんっと、料理の皿をおきます。
 どうだ。

「見るからに鮭だけど美味しそうでしょ」
「感動的なまでにまごうことなき鮭だね」
「味付けもシンプルだから、鮭を堪能せよ」
「きっと美味しいんだろうね」
「そう思いたいね」
「サトさん、独り身なのに家庭的って切ないね」
「独身っていうか過程的家庭だね、つまり、花嫁修業さ」

 とかいいながら、こう料理がうまいのも食う人がいるおかげです。

「鮭久しぶりだな」
「最近なに食って生きてたの?」
「食わないでも生きてけれるもんだよ、以外に」
「那美君、さすがにそれは死ぬよ、愛や恋とは違うんだから」
「だから、サトさんとこに来るわけ」

 ちっ、こいつめ、だめな奴だな。

「まあ、食ってけよ」
「お酒飲むとさ、いろいろなことが忘れられるよね」
「まあ、そうだね」
「逆にさ、美味しいもの食うと生きようって思うんだよね」
「便利な体質だね、それ」
「そっか、サトさんにそうずばっと言われると、うん、斬新かも」
「あはは、ども」

 でも、それって、年の功ってやつだと思うなあ。
 違ったらいいなあ、私の発想が褒められたと信じたいなあ。

「じゃあさ、美味しいもの食いながらお酒飲むとどうなるの?」
「それはもちろん、複雑だね」
「どういう風に?」
「どうして美味しいものを食いながら、お酒を飲んでるんだろうって」

 うわー、複雑だなあ、それ。

「ねえ、サトさん、それが美味しいお酒だったりしたらどうする?」
「私だったら泣いちゃうかもしれないね、神様ありがとうって」
「なんていうかさ、信じられないよね、そういうのって」
「慣れてないだけだよ」
「なにに?」
「そういう場にさ」
「うん、でもね、僕はそういうのにずっと慣れないんじゃないかとも思うよ」

 私は煙草に火を付けると、台所の換気扇を回しました。

「煙草吸うときは?」
「ん?」
「那美君は煙草吸うとき、なにを思うの?」
「なにか思うのがいやだから吸うんだよ、煙草は」
「それでもなにか思うことってあるでしょ」
「そういうときは、煙草ってなんなのかなあって思ってるよ、僕は」

 煙草は煙草じゃなかったですか?

「それで、煙草ってなんなの?」
「煙草だね」
「あれ、煙草だった?」
「そりゃそうさ、煙草は煙草でしょう?」

 そうだね。

「いろいろ思いようはあるけどね、それでも煙草は煙草なんだ」
「あはは、結局意味がないというか、意味しかないって感じ」
「そういうこと」
「那美君少し変わったかな」
「そう?」
「大切にするものと、大切にする仕方がちょおっと推移した」
「まあ、やや拡張されたところはあるかな」
「どうでもいいことだけどね」
「そうだね」

 私は煙草の煙を吐きだしました。
 無粋な会話をしちゃったなと後悔をしながら。
 だって、どうでもいいことならさ、喋らないほうがいいに決まってるじゃない。

 那美君も馬鹿じゃないから、なんか微妙な雰囲気になっちゃった。

「あれだ、嗜好品の時制の話、覚えてる?」
「ん?」
「あれ、忘れた? 酒は過去、煙草は現在、食は未来」
「それ誰が言ったの?」
「君が言ったの」
「食とか、嗜好品と違うじゃん」
「知らないよそんなの、ただ、それぞれにかかわるらしいぞう」

 あれは面白かったなといって立ち上がると、私は換気扇を止めました。
 うむ、我ながら下手な話の変え方だな、感心してしまう。
 でもいいや、別に。

「燗できたんじゃない?」
「そうね、ぼちぼちだね」

 うーん、これは那美君に助け舟だされちゃったよね。
 優しい子だなあ、まいっちゃうよ、お姉さんは。

「そのお酒は美味しい?」
「黒霧島だよ、美味しさは君の舌で決めて」

 鍋ごと熱燗をテーブルに乗せると、はい、食卓ができました。
 もう、こういうときはさすが那美君としか言いようがないな。
 さっきのいまなのに、ちょっと私の気も晴れました。

「さて食おうか」

 私はしめしめという感じで手を合わせました。
 お腹減ってたんだよね、実はさ。

「実に複雑な状況だね」
「ルービック・キューブみたいにね」
「それって複雑?」

 那美君が真正面で不思議そうな顔をしています。にやっとしちゃうね。

「状態による」
「だろうね」
「どうしてもさ、私、最初に青揃えちゃうんだよね」

 とか言いながら、私たちは食事を始めたのでした。
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 ライブドアの堀江さんが「お金で買うことができないものはない」という発言をして非難を浴びたそうだ。といっても、「非難を浴びた」というのは後付けの認識で、初めて耳にしたときは「そりゃそうだ」と思ったのを記憶している。言われてみると、たしかに非難を浴びそうな発言ではある。

 堀江さんがどういう意図で発言したのかは知らないけれども、およそ「買う」という行為は「お金で買う」ということが前提されているので、買うことができるものはお金で買うしかない。だから、「お金で買うことができないものはない」と言われても、それは当然だろうということになる。

 売買というのは、お金でするしかない。「物々交換」まで遡るなら解釈の余地はあるかもしれないけれど、それはやはり「交換」であって「売買」とは異なるものだ。むしろ、金銭を物やサービスと交換することを「売買」と定義するだろう。

 堀江さんの発言が非難を浴びるのは、その発言が「なんでも自分の思い通りになると思っている」という印象を聴き手に惹き起こして嫌悪感を生じさせるからだろうけれど、(その感覚のもっともらしさはさておき)言っていること自体はそれほど変なことではない。

 むしろ、この発言を非難する側が、暗黙のうちに「愛情」とか「友情」とか「信頼」といったものを売買の対象と見なしているのだとすると、そちらの意識のほうが汚いという印象を受けないこともない。いわゆる、下衆の勘繰りと言われるものでしょう。

 買うことができるものはおよそ、あらゆるものがお金で買うことができて、お金でしか買うことができないのだ。その他に「そもそも、お金で買うことのできないもの」があるのだろう。あらゆるものを売買の可能性の範疇に置いて思考しているという発想の汚さこそ、たまに反省したほうが良い。
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by kourick | 2005-01-22 00:00 | 考察
僕と 鴎庵 の wavesll さんとのやり取りをまとめました。

僕は日頃、なにか好き勝手なことを書いては納得したり唸ったりしているわけですが、そういうテキストのひとつに 鴎庵 の wavesll さんが反応してくれて、それに僕が返答して、そしてまた反応をいただき……という具合に展開して、いろいろと面白い内容のやり取りをすることができました。

今回は wavesll さんの承諾をいただいて、それらのテキストをまとめなおしました。これまでに僕が書いてきたテキストも、関係のありそうなところにはぶら下げておいたので、興味を持たれた方は覗いてみて下さい。今回のやり取りだけを読む場合は、左端のタイトルだけを辿って下さい。
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鴎庵 さんから前回の 名前に積み重なる信頼と道義的責任web人格のIDについて というエントリで反応をいただきました。やや往復書簡のような雰囲気が漂っていて楽しいのですが、これを読まれている閲覧者の方々はどう思っているのでしょう。少し気になるところです。

それでは、「名前」と「サイト」を分離する必要性に関して、あと少し触れたいと思います。正直、鴎庵の wavesll さんの指摘でこれは悩みました。僕もオーソリティということに関しては 以前に書いたテキスト の映画評の件で触れているとおり、軽視しているわけではありません。むしろ、僕もそこがとても重要だと思っていて、「個人孫ニュースサイトは大手サイトの劣化コピーだ」という攻撃に対しては、「どれだけネタがかぶっていても、別々の人がサイトを運営しているということ、異なるサイトが異なる人によって続けられているということには意味があって、それが面白い」という反論をしてきました。

オーソリティを積み重ね、ある種の人格(サイト)を形成するということ、そして、それこそが、そのサイトの発言力になるということに関しては、僕もおおむね了承します。だから、実質的には「名前」と「サイト」の機能は重複するところが多分にあると思います。「ゆらめき雑記の香陸」が言っていたというのと、「ゆらめき雑記」が言っていたというのは、それほどの違いはありません。「ゆらめき雑記」というのは「香陸」という名前の延長にあるものと考えられます。したがって、「名前」と「サイト」の区別をさしあたり強調する必要はないのではないかと一瞬、思ったのですが、やはり区別する必要があるだろうなと思い直しました。

というのも、この場合のオーソリティというのは「サイトのオーソリティ」ですね。そして、掲示板などで「名前」が発言するときの影響力は「名前のオーソリティ」です。ここにある違いは、「名前」の発言は、よほどのことがない限り、その名前の向こうに「特定の人物」がいるのに対して、「サイト」の場合は、そうとは限らないということです。往々にして、「サイトの人格」ないし「キャラクタ」というのは「名前」や「中の人」から乖離します。これは名前の発言がダイナミックであるのに対して、サイトの発言がスタティックであることにも関係すると思います。

wavesll さんも上記のエントリで「webでは1人で複数のIDをもてたりする」と言われているので気付いていることだと思いますが、逆に「複数の人でひとつのIDを形成する」ことも可能なわけです。名前とサイトが一対一に対応していれば、「名前」と「サイト」の区別を強調する必要は実質的にはないと思いますが、実際には、しばしばそれを逸脱することもあるので、僕としてはやはり「名前」と「サイト」の区別は必要だろうと思います。

このとき、「名前」が特定の人格に到達するための入口であるのと同様に、「サイト」が特定のキャラクタに到達するためのものになることもあると思います。「サイト」が「名前」の拡張だとすると、「サイト」と「名前」は同じ「中の人」を指し示すわけですが、「サイト」が固有の「キャラクタ」を指し示し、中の人を指し示さないという場合もあります。「VNI」サイトがこれに当たると思います。逆に言うと、閲覧者の意識を「サイト」から「キャラクタ」を飛ばすことができなかった「VNI」サイトは軒並み潰れていったように思います。

これらのことは「名前」の拡張が固有の「サイト」になるのと同じようにしては、「サイト」の縮小が固有の「名前」を指し示すわけではないという事情を表しています。つまり、書き手としては、自分と名前とサイトというのはリニアに繋がっているものですが、読み手にとっては、サイトと名前と中の人というのはリニアに繋がっているわけではないのです。そして、「サイトの影響力」を「サイトを運営する人の影響力」ということではなしに、「サイトの人格の影響力」であると表現することができるとするとき、ここで「サイト」と表現されているものと「名前」と表現されているものは、同じ機能を果たすものであるだろうと思います。
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前回の サイトと名前と中の人鴎庵 さんから感想をいただきました。ご指摘の点は僕も納得できます。たしかに「名前だけ」か「名前+サイト」かには明白な差異があると思います。期待される責任の大小は以下で検討するとして、その影響力は明らかに「名前+サイト」のほうが大きいだろうと思います。

そのことは以前 小生にうず に書いた サイトを継続することによってサイトの個性は現れる というテキストで少し触れています。サイトを持っている場合、新しいテキストの評価というのはそれまでに書いてきたテキストの積み重ねの上でされるので、閲覧者の判断材料が多いという点で、より信頼性の高いものになるだろうということを書いています。

というわけで、今回のテキストと共通するファクタは「責任」です。まずは、この「責任」の意味をはっきりさせる必要があると思いますが、僕はこれを常識的に「義務に付随するもの」として把握しています。これは法律学の脈絡に沿います。基本的に「義務を果たさなかったときに受ける制裁」が責任です。しかし、「責任」という言葉が使われるときには、「規定されるような義務はないけれども、請け負うことが暗黙に了承される」ような「道義的責任」というものもあります。ウェブの発言に求められる責任として了解されているのは、こちらのほうが多いように思います。

また、「義務」には「権利」が付随しており、「権利なき義務」も「義務なき権利」も空虚であるということ、そして、権利と義務のバランスが不安定でどちらかに偏っている場合も不適正だということにも、いちおう触れておきたいと思います。そういう風に見たときに、ウェブ上の発言に対して、各人がどのような責任感を持ったほうが良いのかということを、以下で多少はっきりさせたいと思います。

まず、「道義的責任」を自らに科すことの効用はあるでしょうか、あるのならどこにあるのでしょうか。これは世代間倫理の難しさに似ているようにも思うのですが、絶対的に科さなければならない根拠というようなものは、どこにもないわけです。実際、ウェブにおいては(主に匿名の人物による)散々な暴言がまかり通りわけですが、それに対して「そういう行為はしてはいけない」「そういう言語使用はいけない」と彼らを叱責する根拠はありません。

しかし、このように忠告することはできるのではないでしょうか。「暴言は君の名前にとって損になるから止めなさい」という具合です。これは「道義」というあやふやなものに準拠した注意ですから、忠告ないし示唆に留まります。さらに名前を持たない存在にとっては通用しない忠告です。しかし、どうして損になると言うことができるのか。それは、その暴言によって、その名前に積み重なる「信頼」が損なわれるからです。ここで「道義的責任」と「信頼」は繋がっています。

逆に言うと、人は「信頼を得る」ために「道義的責任」を自らに科すのです。ここにおいて、人は自分の名前のために生きると言うことができます。ですから、奇妙に聞こえるかもしれないけれども、「科される同義的責任」と、そこから生じうる「信頼」というのは、「名前」に積み重なるのです。実質的に、「名前」に「信頼」が宿るのです。

実社会を相手にしているのなら、この話はここで終わります。通常、「人物」と「名前」というのは不可分のものとして結合しているからです。名前に信頼が積み重なると言うとき、それは実際に信頼を獲得していることを意味しています。しかし、ウェブを相手にするとき、この話はここでは終わりません。ウェブにおいては「中の人」と「名前」は乖離する傾向があるからです。名前に信頼が積み重なったところで、その信頼は中の人に積み重なっているとは限らないのです。そこで、中の人は、その名前に積み重なった信頼をどこかに固着しようとします、その試みが「定住地の確保」であり「サイトの構築」なのだと思います。

したがって、「「何某」のみでも続けて使っていれば責任は発生しますが、どこどこの何某といったときは更に高度な責任が発言に求められるのではないか」という見解は僕とは少し違っていて、僕は基本的に、中の人に求められる同義的責任は「名前だけ」でも「名前+サイト」でも同じだと考えています。

ただ、サイトを作ること(一定の場所に「信頼」を固着させようとすること)によって、定常的なアクセスが発生します。それは「信頼感が高まる」と表現してもよいと思います。そして、信頼が高まるということを肯定的に評価する人にとって、それは「期待される道義的責任の増大」を意味しているだろうと思います。

ちなみに、この話で面白いのは、「期待」も「信頼」も読み手の認識であって、書き手は基本的にそれを把握できないということです。したがって、ウェブの発言というのは、自分の名前に対して読み手の信頼を得たいと考える人に限って、道義的責任を要求するものであると思います。そして、ウェブサイトというのは、その要求を増幅させるものであると僕は把握しています。
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鴎庵 さんに昨日の 開かれたネット的誤謬 に感想をいただきました。ありがとうございます。というわけで、少し返答したいと思います。面倒なら、さらっと読み流して下さい。お互いのテキストの差異は基本的に表現の差異であって、内容に大差はないと思いました。だから、きっかけをもらったという感じで、反論をしたいというわけではありません。そういうわけで、今回は「定住化と名前」です。

鴎庵さんで指摘されているとおり「定住化」の流れというのはあったと思うし、いまでもあると思っています。これは「名無し」であることの安息が日本語圏におけるウェブの専売特許であったにもかかわらず、昔からずっとあるというのが面白いと僕は感じています。

それはたぶん、自分の業績から生まれた利潤に見合う報酬を企業から得られずに逆に権利を搾取される科学者や、自分の作った音楽の著作権を企業に搾取されて本来的に妥当な主張もできずに報酬も得られないゲーム音楽の作曲家と同じようなもので、それまでにはなかった価値のある独創的な発想や、ある程度のクオリティを持ったものには自分の名を刻印したい、ないし、それによってなにかしらの権利を主張したいという願望が人間にあるからだろうと思います。

この問題は、ウェブというフィールドで考えるなら、ふたばちゃんねる という場が、しばしば非常にクオリティの高い作品が投下されるのにもかかわらず、どうしてあそこまで商業的な雰囲気を漂わせずに成り立っていられるのかという、日本式文化の不思議さに直結すると思います。どのような素晴らしい作品であっても、自分のサイトも自分の名前ももたない製作者(たち)には、その作品を自分たちの作品として主張することができないのです。厨雑誌として名高い ネトラン にネタを搾取されたときも、憤慨することはできても権利を主張することはできませんでした。それでも、名無しによる作品発表は尽きることはありません。

こうした職人気質の内輪主義とも言える状況は、実際、不安定なところもあって、去年の四月頃に ぁゃιぃ(*゜ー゜)NEWS さんを起点に勃発した とらぶる・うぃんどうず祭 などは、こうした不安定さを露呈する象徴的な事件だったと思います。この祭は 電脳遊星D さんが妥当なまとめを早めに書かれたこともあって早々に終結しますが、二次創作作品の取り扱いに関することについて、また、個人ニュースサイトの運営に関して、さまざまな問題を差し出す興味深いものになりました。

こういった事柄から、僕がなにを言いたいのかというと、別に名無しでの作品発表という姿勢が悪いということではなく、勘違いをして暴走してしまう一握りの人を除けば、自分のサイトをもたない、つまり、定住化をしないような名無しであっても、ウェブ上で自分の居場所を見付けて安息を得てことはできるだろうということです。つまり、「定住化する」ということと「名前を持つ」ということは切り離したほうが良いだろうと思います。

サイトを構築するということから名前を掲げるということは帰結しますが、その逆は違います。名前はあるけれどサイトはないということは、しばしばあります。「あのサイトの何某」ではなしに「何某」であることが重要なのです。「あのサイトの」といったような「何某」の固有の発言の場があるかどうかということは、重要さとしては次点になるだろうと思います。
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そろそろ、ウェブの話をするときに、その議論領域に<ウェブ全体>を取るような議論というのは成立しないのではないかと思います。それは実社会を語ろうとするときに「社会というのは」と始めるのと同じようなもので、議論として冗長になってしまいかねない気がします。また、「個人的な社会観」が「普遍的な社会観」として提示されてしまうという危険性もあるでしょう。

いままでは、「ウェブ」や「ネット」ということで把握される事柄は、曖昧ではあれ、その利用者の全員によって暗黙のうちに了解されていたのだと思います。むしろ、それを了解している人たちがウェブに参加してきて、ウェブで他者に言及できて、ウェブという場を活性化してきたのだと思います。それには技術的な素養も大いに必要だったでしょう。そして、翻っては、それらがウェブ独自の価値観を構成してきたものだったでしょう。

けれど、いまはもう違うのではないかと僕は思います。いや、違うというよりは、十分ではないといったほうが良いかもしれません。ウェブという場はたしかに技術者だけでも成立します。けれど、事実として、いまウェブを使っているのは技術者だけではありません。

ウェブはより公共的なものになってきています。ネットワークがどういう仕組みで成立しているかなど気にすることなく利用することができ、驚異的な利便性があって、実社会に与える影響力も大きい、そういう場にウェブはなりました。そこには、ウェブを支える根底的な価値観を瓦解させない限りにおいて、多様な価値観が持ち込まれることになるだろうし、それに伴ってコミュニティだって細分化しないわけがありません。

ウェブはオープンであると、ときおり言われます。たしかにこれはウェブの理念を表現したわかりやすい上に魅力的な表題ですが、いまやこれでは少し言葉足らずではないかと僕は思います。ウェブはたしかにオープンかもしれないけれど、むしろ、もはやウェブはパブリックなものになりだしているのではないでしょうか。そういう点で、ウェブというのは以前ほどフリーではありません。

これまでは、基本的に価値観を共有した人たちが集まる建物のなかにウェブはありました。そこでは通りかかる人の全員が、いってみれば意識的に友人であったり、同僚であるようなものだったかもしれません。しかし、いまはもうその建物のみならず、その建物を含む街のようなものにウェブはなりだしているのではないでしょうか。そこでは道で出合う人が皆、同様の価値観を共有しているなどという気持ちの悪いことはありません。

ネットは開かれています。公共の施設を利用したり街を歩いていても、誰に咎められることもないように。しかし、だからといって、人々の気持ちまで開かれていると考えるのは明らかに誤謬です。了承を得なければ立ち入れない領域は生じるだろうし、雰囲気を把握することのできない人が、いわゆる、空気の読めない人が、そこにいる人たちに無闇に嫌悪感を抱かれてしまうような場所もあるでしょう。でも、それは仕方のないことです。

たぶん、まだまだウェブは開かれていきます、より拡張されていきます、そして、相対的にクローズドな領域を、技術的にも、意識の上にも生みだすことになるでしょう。つまり、より実社会に近付いていっているということです。いまはまだ、それらを区別することはできるけれども。
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個人ニュースサイトの更新というとそれはもう、タグを切ったり張ったりの繰り返しで、毎日毎日沢山のネタを羅列して、あろうことか感想まで付けてしまおうということになると、これはもう想像するだけで絶望的にやってられないぜという方は多いのではないでしょうか。

それは個人ニュースサイト運営者も同じようなもので、ネタ集めがどれだけ生活に根ざしていても、ふと徒労感に襲われてしまうことはあります。ただ、それ以上に、更新しようという奇妙な意欲が湧き上がるからこそやっていられるのです。しかしまあ、それでも、できるだけ楽に更新をしたいと試行錯誤もするわけで、まっさきに思い浮かぶのは タブブラウザ の導入です。これはもう個人ニュースサイト運営者に限らず、必須としかいいようのないツールで、僕は Sleipnir を使っています。

次に必要かなと思うのは「便利なエディタ」です。僕は「HomePageBilder」を使っていますが、これはたまたま最初に触れたのがそれだったというだけの話で、もちろん、なにでもいいです。そして、こういったソフトを使うと時間の短縮にはなります。時間をお金で買うわけですからタクシーみたいなものだと思って下さい。時間よりお金が大切な時期の人はフリーウェアで頑張るのも面白いかもしれません。

ちなみに、いまになってみると 小生にうず のような簡便なデザインをしているとなにを使っても同じだとわかるのですが、ひとまず初心者は使ったほうが楽です。これはこれで勉強になるでしょうし。というわけで、これだけで頑張ることも充分にできるのですが、慣れるともっと楽をしたいと思ったりするもので、そういうときに便利になるのが


オートアンカー です!


はーい、うだうだと四段落も前振りがありましたが、つまり、これがなまら便利ということをいいたかったのです。実は以前 クロノス・クラウン さんの ニュース・コレクター を使おうと思って導入したのですが、どうも相性が合わずに使いこなせなかったのです。というわけで、半ば諦めかけていたのですが、駄目元で オートアンカー を使ってみたところ、これがはまりました。

実に便利です。あまり長々と説明しても仕方がないので個人ニュースサイトを運営している方とか、これからちょっと始めてみようかなという方は是非試してみると良いのではないかと思います。確実に便利です、これは信じてもらうしかない。一日で使い慣れたからなかなかすごいツールです。

いままでであれば、「ネタのリンク先を開き」(ネタにこころを惹かれたら)「タブを右クリック」「タイトルとURLをコピー」「エディタに貼り付け」「URLをコピーして同じURLにリンク」「タイトルを太字」(ネタ元ないし)「参照元をコピペ」(少し気を使いつつ)「感想を付ける」、これでひとつのネタが完成していました。つまり、
小生にうず
http://kourick.net/
   ↓
小生にうず
http://kourick.net/
   ↓
小生にうず
http://kourick.net/
   ↓
小生にうずゆらめき雑記
http://kourick.net/
   ↓
小生にうずゆらめき雑記
http://kourick.net/
タイトル・URL・参照元・感想でワンセットというわけなのです。
という風に、ネタがひとつ完成するわけです。FLASH等の作品にリンクするときは制作者さんのサイトにも情報中継サイトから矢印を延ばしてリンクします。ああもう、これは面倒臭いですね。これを面倒だと思わない人がいたら、さあ、レッツ・ニュースサイト。こうしたことが、もし、一度にできてしまったらどれだけ楽でしょう。

でもっ! この「オートアンカー」なら大丈夫、そういうフォーマットも、あらかじめ設定しておけば軽々と最終形で出力します。素晴らしい。佐野さん、ありがとう。僕は最小の機能しか使っていないと思うので、もしかしたらもっと便利な使い方があるのかもしれないですが、とても便利なツールなので導入してみて下さい。
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by kourick | 2005-01-04 00:00 | ネット
 僕にとって、「個人を尊重する教育」と「個性を育成する教育」は矛盾している。とまではいわないにせよ、不整合なところがあるか、前提としているものがかなり異なっているかなと思います。というわけで、それら両方の言明を主張する人はちょっと信用できません。

 たとえば、「まるっきりなにもかも似ている二人の人」を想像してみましょう。厳密に言うと、時空的な位置もまるっきり同じということになると、そもそも「二人の人」を想定できないことになってしまうけれど、いまはそこまで厳密にならず、きわめて似ている双子を想像してほしい。

 その二人は遺伝子はもとより、性別・体型・髪型・服装・性格・言動なにもかも判別困難なほど似ていて、二人並ぶと気持ち悪いほど似ている。ただ、どれだけ似ていてたとしても、それはもちろん別個の生命です。このとき、その個々を尊重するのは「個人を尊重する」ことでしょう。

 いわば、むしろ「双子である」ということを無視してそのひとりひとりを相手にすることこそが「個人の尊重」になります。では、「個性を育成する」とはどういうことでしょう。もしかすると、ある人はこの双子を評して「いまだ、とりたてて個性はない」と言うかもしれない。

 いやまあ、この場合は「きわめて似ている双子である」という強烈な個性はある。しかし、「双子である」という人は大勢いる。この子たちはたしかに「双子である」という個性をもってはいるが、一般的に「双子である」ということはその個々人の個性ではない。

 やはり、もっと異なる個性がほしくなる。歌が上手い、足が速いのなんてのはどうだろう。いや、その程度なら大勢いる。なにかその子の好きなこと、人とは異なるところを伸ばし、自信をもたせたい。それがその人の個性になる。そういう教育こそ大切だと思う人もいるかもしれません。

 こうなると僕はちょっとどうかなと思う。僕は「そのままの生活」を継続するだけで、勝手に特徴的な現れはするものだと思っているので、個性を企図するのは蛇足としか感じられません。その人のあるがままを受け容れるだけで充分なのに個性を強調すると強迫的になるでしょう。

 個人の尊重というのは憲法の理念として本来的にあるので、教育の領域でも「個人の概念」は常識としてあるはずです。そこにどうして「個性」という誤解を招きやすい概念をさらに導入したのかがわかりません。なにか特別なことをしないと「教育」に自信をもてないのだろうか。

 けれど、それをやりだすときりがない。むしろ、公教育は教育を受ける人の全員に対して、平等に同じ機会を与えるという原点こそが重要視されなければならないでしょう。公教育は基本的に教育水準の底上げこそを目指していてもらいたいものです。学校教育は保守的で良い。

 たしかにその子たちの好きなこと、得意なことを伸ばしたいというのは気持ちとしてはわかります。そういったアプローチももちろんあって良いでしょう。けれど、基本的には、個々人の趣向に立ち入ってはならないと思います。それは思想教育に片足を突っ込む危険性もあります。

 そうした子供の興味の育成はまずもって家庭教育においてされるのが筋であるし、教師が関わるのだとしたって、課外教育の範疇でおのおのの教師のできる範囲で意識されたら良いのであって、それをお題目として掲げるというようなことは不粋というものです。

 むしろ、大切にする必要があるのは「受容」ではないかと思います。「そのままでいいよ」と受け止めてあげて、強迫的に焦らせないことのほうがいまの時代にはありがたいものです。みんな同じように異なる道を異なる速さで進む。焦らずにきちんと悩む時間が子供たちには必要です。
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by kourick | 2005-01-03 00:00 | 考察