雪の降る昼下がり、大学に向かう汽車のなかで「おぎ」に似ている高校生に出会った。やれやれ、なにの因果でこの寒いなか、やっと辿りついた暖かい汽車のなかで「おぎ」似の高校生に心奪われないといけないのかと少々うんざりしていたら、その「おぎ」がアルバイト情報誌を読みながら、「やーりーたーい、このバイト、やーりーたーい」と呟いた。彼の綽名は絶対「おぎ」だ。
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by kourick | 2004-01-20 00:00 | 日記
 比較的長いことサイトを運営していると「やれやれ、いったいなにをやっているのやら」と自分に辟易することや、「はたしてなにを書こうか、書かねばならぬか」と自意識過剰になったりするということはままあるもので、そのようなときはさすがにちょっと考える必要があったりする。

 続けるか、続けないか。

 ここで、「続けるのをやめたい」と思うのは基本的に精神的負担がゆえにである(なぜなら、肉体的負担が許容量を超えた場合は自分の意思にかかわらず、やめる必要が生じるからである。つまり、サイトを運営している場合じゃない、時間がない)。

 ではなぜ、精神的負担を強いられているのかと考えると、それはやはり自意識過剰だったりする。きつい言葉を使うなら、そのようなことを考えていること自体が「おこがましい」とすら思える。やめたければ、即座にやめれば良いのだから。自分はいったい何様になったのだろうか、と。

 基本的に個人サイトというのは「ノーリスク、ノーリターン」である。

 よって、まあ、僕は大体は続けることを選ぶ。なぜなら、続けても続けないでも、なにも僕に影響しないからである(逆に言うと、サイトを続けることで負の影響を得るのなら、僕は即座にサイトを閉じるに違いない)。もちろん、多少の肉体的負担はたしかにある。

 ただ、それがどうしたことだろう。なにもする必要のない時間を、人はどれだけ有意義に使えるだろうか。ただただ時間を無為に過ごすのではあるまいか。もし、無為に過ごすのであるのなら、無駄に過ごしたほうが幾分ましである。そう考えると、これはむしろ望ましい負担ですらある。

 サイトの構築に己の義務を感じることは、不健全ではあっても、決して益なきことではない。前向きに無駄を為そうとする精神はときに必要だ、と僕は思うからである。だから、続けても続けないでも同じとき、僕は続けるほうを選ぶ。そうありたいと思う。
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 黙っている人間は無能と思われやすいけれど、優秀な人間も頻繁に黙る。忍耐強い人間も頻繁に黙る。他者との相互理解の可能性を諦めている人間も頻繁に黙る。黙るということを表現として活用することのできる人間の足元には、軽妙な絶望とともに一片の重厚な期待もまた、常に転がっている。わかり合うことができるかどうかという判断は、こうした事態を見て取ることのできる人間にしかわからない。

 沈黙を理解しようとすることは常に有意義である。その人は沈黙できるのかできないのか、その人は沈黙しているのかいないのか、その人の沈黙はなにを意味しているのか。その理解には価値がある。そして、こうしたことは、翻っては、沈黙できない、沈黙しない、沈黙に意味のない人の理解にも繋がる。この相補性は必然的なものであるけれど、それほど明確に分けられるものでもない。

 こうしたことを理解するために、自分と似た視点の人が、自分の見解をどう表現しているかを学ぶことは重要なことであるし、自分とは異なる視点の人を把握して、自分との適切な距離に位置付けることは大切なのである。そして、もっとも重要なことは、そうした考察を行ったあとに、そのあらゆる見解を無視することである。他者を他者として把握したのなら、他者として無視することが必要なのである。

 なにも気にせず、生き易きに生きるのが良い。だからこそ、有能な人は黙らない。そうしなければ、黙ることすらできないことに気付いたからである。だからこそ、天才は黙る。天才は黙らなかったことによって天才になったからであり、黙っているうちに天才であるからである。そして、神は黙ることすらしない。なぜなら、神は一切の表現を必要としないからであり、神は神であるだけで一切に作用するからである。
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by kourick | 2004-01-17 00:00 | 考察