珈琲でも淹れようと四月の冬眠明けの熊のようにがさがさと棚を漁っていたらペーパフィルタがなかった。やれやれ。大体が四月の冬眠明けの熊のように棚を漁ったとき、そこにわれわれの求めるものはないのだ。

 こういった事態というのは心底、寝起きの身にはこたえる。仕方がないからネルドリップでいこうとネルを探したけれど、ネルもない。これは困ったことになってきた。もしかすると僕は寝起きなのにもかかわらず珈琲を淹れることすらできない可能性が出てきたのだ。こうなると俄然、さまざまなことが可能性の領域に身をやつし始める。たとえば「珈琲豆というやつは本当のところカラスの実を炒ったものである」といったような可能性である。

 やれやれ、よりにもよってペーパフィルタがないなんてカップ麺はあるのにお湯がないというようなものだ。それは「カレー」と注文したらご飯が付いてこなかったときと同様の困惑をわれわれにもたらす。はっきりいって、それはきわめて注意して避けなければならない天災のひとつなのだ。

 夕方、仕事場から電車を乗り継いで自宅に帰ってきたときに、妻がなんの断りもなしに大型の淡いモス・グリーンのソファを購入していた場合などがその典型である。もしあなたがその女性を愛しているのならば、そのときあなたは迷わずに「どうしてよりにもよって大型にしたんだい?」と、そのように言う必要がある。そういった行為が愛と呼ばれるものなのだ。

 しかし、愛があっても、それだけじゃ珈琲を淹れることができないのは事実だ。やはり美味しい珈琲を淹れようと思ったときはペーパフィルタが必要なのだ。しかしいま、僕の手の内にペーパフィルタはない。しかも、愛もないときている。

 ペーパフィルタもネルも愛も持ち合わせていない四月の冬眠明けの熊のような寝起きの人間がこの世に存在しているということがなんらか不思議なものであるとすれば、その原因はやはり僕にあるのだろう。こうなると僕はなんとしても珈琲を淹れて飲む必要があるように思えてきた。これで珈琲も飲めなかったら、ただの珈琲も飲めない寝起きの人なのだ。

 仕方がないからメリオールで淹れようと北極のアザラシのように食器棚を覗いてみたのだが、メリオールがない。1回で六人分の珈琲が淹れられてたいそう重宝していたメリオールがなかった。そういえばその1回で六人分の珈琲が淹れられるメリオールは割れてしまったのだ。

 なぜ、割れてしまったのかはあまり人様に言うようなことでもない。それすらも天災のようなものだったのだ。メリオールが不倫の末に不当に慰謝料まで取られ哀しみの内で泣き伏して割れたとか、そういう理由ではない。それはそのような理由で大澄賢也が割れてしまわないのと同じことなのだ。

 そんなときに僕の目に飛び込んできたのはエスプレッソマシンだった。なるほど、エスプレッソというのはなかなかいいかもしれないと思った。そもそもメリオールで淹れるような類の豆の挽き方ではないのだ。僕はカフェインをまったり摂取するために極細な豆の挽き具合なのである。これはエスプレッソに白羽の矢が立ちそうだった。

 そんな時だった、ほとんど使われている気配のない荒れた風体のメリオールが僕の目に飛び込んできたのは。紅茶用のメリオールのように思えたが、別に大差はない。細身の未亡人といった感じのメリオールであった。そのメリオールはあろうことか直立していなかった。倒して置かれているのだ。それはなにかしら不吉な予感を僕に与えた。

 やれやれ、甲斐性のない人間に使われるサイフォンとメリオールほど可哀相な道具もない。ともに扱いが繊細で彼らを理解して洗わないと汚れが気になって使い物にならないのだ。そこでは方程式の問題と方程式の解という同値のことがらをひとつとして感じることのできるといったような人間的な包容力が試されているのだ。

 そんなわけで僕はいま珈琲を飲んでいる。もし珈琲を淹れることができなかったなら、この文章は存在しなかったに違いない。そして、このようにして出来上がっているものだけが事実なのである。僕は普段使われていないメリオールを使って珈琲を淹れた。そして飲んでいる。そしてそれは四月の冬眠明けの熊には決してできない所業なのである。
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by kourick | 2003-11-11 00:00 | 随想