熱せられた大気に潜む意思があらゆる物体の表面に執拗なほどに吸着し、じっとりとその触手を私の身体にも絡めつかせていた。右手で左腕を撫でると流れ落ちる自分の汗でぬるぬるとする触感が与えられた。

 四六時中放出し続けている気化熱のおかげで、その肌は異常に冷たい。手のひらの温もりが腕に伝わり、内側で血管が融けるのを感じた。たぶん、左手で右腕を撫でても同じ結果になるだろうということが予測できた。

 近年まれに見る酷暑だった。夏、ならまだわかる。しかし、いまは冬。本来ならば小雪舞い降りる季節だというのに、この暑さだった。真夏日。人間の体温を八割引でセールに出せば、これと同じような温度になるだろう。だが、本当にきついのはその気温よりも、その酷い湿気にあった。

 息を吸うたびに入り込む細い水蒸気の塊たちに、喉は焼けるような刺激を与えられていた。まるでサウナだ。これで冬なのだから、次の夏までもったとしてもそれを乗り切る自信は、実はもう私にはない。むしろ、今年の夏を越せれるとも思っていなかった。

 もう、駄目だと思った。高温のスチームがじわりじわりと生物達を取り囲み、このまま、生物のエキスを飲み込みながらあらゆるものが溶けてしまうのだと思った。こんな馬鹿げた妄想も、この状況下にいると決して笑えない連想だった。人前で口に出せば十分すぎる人数がこの世界に絶望し、終わる世界を再認するだろう。いまや神は人間を救う存在ではなかった。

 いまや、人間の過ぎた行為がこのようにして神に罰を下させるに至ったのだと解釈されている。そして、神こそが自然にして全体、そしてガイアである。地を這うウィルスの駆除、それがいま、地球に与えられた使命だ。それこそが救済。それこそが大いなる火。神の御手により人類は滅び、新たな段階に移行するのだ。神の意思たる、ホメオスタシス。

 私はそんな言説をいまさら否定はしない。たとえそれが自虐的な信念を不当に正当化しているだけの妄念だとしても、そうやって理由を得ることで、それで安らかに死んでいける人たちがいるなら、それでいいだろうと思う。私が否定したところで何かが変わるわけじゃない。もう、そんな段階の話ではないのだから。

 熱射病、日射病、まず最初に現れたパニックは太陽の光と熱による、偉大なるラーの鉄槌であった。それは突然われわれに降りかかり、夜と月の膝元で彼が眠るまで続き、人々を死に追いやった。いや、眠った後でさえ、その残影が人々を解放することはなかった。致命的な打撃はあらゆる組織の対策を次第に食い破り、社会の実質的な崩壊を待つのは、夕立が過ぎ去るを待つよりも速かった。

 実際の条件を加味して整えられた人類の救済策は、すでに最悪の事態に対する応急策でしかなかった。後手にまわされた手は幾つかの方法を提示し、それを施すことであとは何もすることはなかった。これは後ほど、私にまだ時間が残っていれば、話そうと思う。

 なんにせよ、最先端の科学者たちの真実味を帯びた予言はすでに五十年前に与えられていたのだ。そして、それがいま、現実のことになった。予言から七十年後のことだった。しかし、その余分の二十年は人類の成果というよりは、来たる瞬間までの助走といったものだった。われわれの科学はわれわれが滅びる時をほぼ正確に言い当てたのだ。

 私にはこれが人類の勝利のように感じられた。私が生きているのは、まだ死んでいないからに他ならないが、私が死んでいないのは、私が早い時期に「私が死ぬとき」を予測できたからに他ならない。それは結果、私を生に繋ぎとめた。私は、あの「最後の日」の前日に不遇の、しかし、幸運な死を遂げた父のジョークをいまでもはっきりと思い出すことができる。

 彼は科学者だった。私の愛しい父は、私の母も、人類も救うことはできなかったが、人類を勝利に導き、私に生き残る使命を与えることはできた。私は彼のために生き残り、彼は私のために死なない術を用意していた。私が急いで研究室に駆け込み、寝室のドアを開けたとき、彼はいままでに見せたことのない優しい顔で微笑んだ。

「どうせ、あと五十億年で地球は太陽に飲まれるんだ」

 私は父の手を握り締め、それを聞いた。

「それがちょっと早まったところで、大した違いじゃないさ」

 そう言って、父は死んだ。安らかな寝顔だった。
 私は溜め息をつき、父の言葉に対してしみじみ思った。

「だけど、あなたにあと五分急いで死なれていたら、ええ、それは大した違いだったわ」

 私、そのジョークを聞けなかったじゃない。
 その瞬間、私はこれでいつでも死ねると少し安心した。
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 四時きっかり。

「暗っ!」

 鍵の開けられる音、続いて、玄関の方で声がした。

「ねー、いるー?」

 彼女の声。いないだなんてさらさら思っていないのだと思う。
 複雑な思いが僕の中に湧き上がる。嬉しいけれど、どこか辛い。
 彼女に会いたいと思う。けど、それだけに会ってはいけないとも思う。

「うわー、暗い」

 部屋のドアを開けながら、彼女は言う。
 部屋の窓は閉まり、カーテンがかかり、部屋の中は真っ暗だ。
 空気も濁ってるはずだし、微光は陰気さを演出するためにしかない。

「僕の心のようでしょう?」

 大体が僕はこんなことしか言えない。自分でも辟易する。

「何言ってんの?」

 彼女はぱちんと照明をつける。
 部屋の中に白光が煌き、一瞬にして陰気さがヴィジョンになる。

「眩しい……」

 僕は布団に頭から包まり、無慈悲な光線から逃げた。

「いや、僕は君が今日もちゃんと生きてて嬉しいよ」
「死ねなかっただけだよ」
「まあまあ、そんなもんじゃない。私は嬉しいって言ってんの」
「うん……」

 彼女はどさりとスーパーの買い物袋を床に下ろす。

「食う?」
「なにを?」
「美味しいもの」

 彼女はけらけらと笑うと、汚いなー、と部屋を見回した。

「僕の心のようでしょう?」
「いや、関係ないから」

 その言葉は冷たい。彼女は決して優しいわけじゃない。

「よーし、じゃあ、しまっちゃうよー、どんどんしまっちゃうからねー」

 だけど彼女は部屋を掃除する。毎日、そうやって掃除する。
 だから、僕は毎日部屋を汚しておいた。ごみを投げ、物を散らかす。

「あー、腹減ったー」

 掃除が終わると彼女は料理をする。毎日、そうやって料理する。
 だから、僕は毎日、何も口に入れることなしにその時間を待っていた。

「どうしようもない気持ちに、させられる……」
「なに? どうした?」

 僕が何かを喋ると、彼女はしっかりと聞こうとした。

「なんでもない」

 だから、僕は黙った。

「もう、帰っていいよ」
「ん、そう?」
「うん……」
「わかったわ」

 テレビの音が静かに響いた。
 僕は布団に包まり、彼女を見つめた。
 彼女は立ち上がり、ガスや電気を確認して、僕のそばに来る。

「大丈夫?」

 僕は何も言わずに頷いた。
 彼女はそれを見て、微笑んだ。
 優しそうでいて、寂しそうな、切なそうな笑顔。

 本当の、本物の笑顔だ、と僕は思う。
 いろいろな要素が混ざりすぎていて、混乱しそうになった。
 僕の胸の中では膨張したなにかがひしめき合い、少し息苦しかった。

「あ、あの……明日、は……」
「明日も来るけど、いや?」

 僕は首を振った。
 自分でも情けない表情をしているのがわかる。
 だけど、それでも良かった、この人にだったら良かった。

「じゃあね、僕がでた後はしっかり鍵は閉めてね」
「うん」

 彼女は立ち上がり、部屋を出て、靴を履き、ドアノブに手をかける。

「それじゃ、また明日の四時に来るからね。なんかあったら電話して」
「うん」

 鍵を開けられ、重そうなドアが開かれる。
 僕は外に誰かが待ち伏せしているんじゃないかと不安になる。
 しかし、少しだけ開かれたドアの向こうには、やはり誰もいなかった。

 冷たそうなコンクリートの壁に白い光が反射し、無表情に黙っている。
 彼女はドアの外に身体を潜り込ませると、すっとドアを閉めた。
 隙間からは彼女の手がぱたぱたと僕に振られるのが見えた。

 僕は咄嗟にそれに手を伸ばしたけれど、寸前でドアが閉まった。
 音もなし、彼女と僕はドアに阻まれた。
 僕は鍵を閉める。音のせぬように。

 彼女に僕がドアに鍵をかけたのを知られるのが嫌だった。
 僕が何の考えもなしにドアに鍵をかけたように思われるのが嫌だった。
 僕は部屋に戻り、ドアを閉め、照明を切り、布団に潜り、テレビを見た。

 つまらなかった。
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 ばーん。
   どすーん。


 ばーん。
   どすーん。


「今日もまた、次々と人が殺されていますね」
「ええ、そのようですね」

 貴婦人は純白の日傘をふりふりそう言った。

「座られたらいかがですか?」
「あら、そういうときは黙って椅子を引いてもらえませんこと」
「はい?」
「座ればどうですかなんて、普通、言葉にすることではありません」

 僕ははあ、と頷いた。

「紳士は微かな態度で椅子を勧めるものです」
「じゃあ、僕は紳士ではありませんね」
「誰でもわかることも、口にするべきではありません」

 僕は黙って立ち上がり、椅子を引いた。
 貴婦人は優雅にその椅子に腰掛け、窓の外に目をやった。
 僕は紳士ではないので悪戯してやろうかとも思ったが、やめた。

 思いついたのは紳士じゃないだけにあんまりな悪戯だったからだ。

「あの、日傘をお閉じになられたらいかがですか?」
「ええ、私もそうしたいのですが……」

 貴婦人は恭しい仕草で言葉を切り、窓の両脇に視線を向けた。
 僕は黙ってレースのカーテンを閉め、貴婦人にかかる陽光を遮った。

「これは、ありがとう」

 貴婦人はそう言って、日傘を閉じた。
 そもそも、カフェに入った後にも日傘を差しているとは、これいかに。
 僕は恨めしい仕草で店の奥にいる店員を見た。

 見ざる、聞かざる、言わざる。

 三者三様の態度で傍観を決め込んでいた。
 端正に黒服を着込んだ男達がなにをふざけた真似を。
 僕は嫌がらせに手をさっと挙げて、ウェイタを呼んだ。

 聞かざると言わざるが顔を見合わせ、なにかを相談し始めた。
 その静かな、しかし、激しい争いは終わることがなかった。
 結局、テーブルにやって来たのは、見ざるだった。

「こちら、当店自慢のレモン・ティで御座います」
「あら」

 僕の前に座る貴婦人は窓の外から顔を戻し、目を輝かせた。

「是非、ご賞味下さいませ。もちろん、代金は頂きません」
「まあ」
「では、ごゆるりとお楽しみ下さいませ」

 ウェイタは有無を言わせず、説明をすると去っていった。
 僕が言うのもなんだが、素晴らしい手際だった。
 最小限の接触で貴婦人を回避するとは。

 もちろん、ウェイタは僕にウィンクをすることも忘れなかった。


 ばーん。
   どすーん。


 銃声と、何かが倒れる音。


 ばーん。
   どさり……。


 銃声と、人間の崩れ落ちた振動。


「まあ」

 貴婦人は可愛らしい小動物でも見つけたかのような声を上げた。
 窓の外、数メートルの地点でみすぼらしい男が脳みそをぶちまけていた。

「僕の国では、」

 僕はレモン・ティを飲み飲み、貴婦人相手に独りごちた。

「人の生命は大事にしなければならないと教えられます」
「この国でも、同じです」
「そうなんですか?」

 僕は少し驚いた。
 この国、この環境にいると、そんな当たり前のことにすら驚いてしまう。

「ええ、生命とは尊いものです」
「ということは、つまり、教えられているが実行されていないわけですね」

 僕は窓の外を見た。
 人が次々に殺されていた。
 とても、人の生命が大事に扱われているとは思えない。

「いえ、違います」
「失礼ですが、ではどういうことですか?」
「人の生命は尊い、彼らもそのことを理解しています」
「じゃあ、なぜ?」
「あなたは、この国を根本的なところで誤解なさっているわ」

 貴婦人はそう言うと、レモン・ティを一口飲んだ。
 僕の飲んでいるレモン・ティよりも美味しそうに見えた。

「彼らは簡単に人を殺します」
「ええ、間違いない。それは間違いありません。大変なことです」
「しかし、彼らは人の生命を軽んじているわけではありません」

 理解しがたい。

「この国では、あらゆる生命の価値は平等なのです」
「…………」
「一切の差別は、この国では許されないことなのです」

 僕は押し黙った。

「むしろ、差別という言葉を知っているのが、」

 貴婦人はレモン・ティを飲む。

「私だけです」
「…………」
「他の人たちに、そのような概念はありません」
「だから、この国の人たちはあなたを恐れる」
「その通りです。その他にも理由は幾つかありますけれどね」

 貴婦人は微笑んだ。

「しかし、無駄に人間の生命が奪われている」
「無駄?」
「ええ、その通りです。この国ではこうも唐突に死が訪れる」

 窓の外でまた、銃声が鳴り響いた。

「いえ、違います」
「なにがですか?」
「まず、死とは唐突に、理不尽に、絶対的に訪れるものです」

 僕は憮然として、頷いた。否定はできなかった。

「そして、彼らは共に理性と節度のある人間です」
「そうでしょうか?」
「会ってみればわかります」
「残念ですが、会おうとは思えませんね」

 まあ、と言って貴婦人は驚いた。その目は大きい。

「あなた、それでいて、そんなことを……?」
「ええ、まあ、そういうことになりますね」
「呆れました」
「そうかもしれません」

 僕は苦笑した。

「しかし、それは死ぬとどうなるかを知るために死のうとするようなものです」
「詭弁です」

 半々で、否定できなかった。

「あなたは無駄と言いましたが、彼らは無駄に人を殺したりはしません」
「そうなんですか?」
「ええ、その証拠に彼らは私を殺しません」

 貴婦人はやや高めのトーンで笑った。
 どうやらジョークのようだ。
 笑えない。

「国にはルールというものがあります」
「ええ、確かにそうでしょう。国ごとにいろいろなルールがある」
「この国では、彼らがルールです」
「どういう意味ですか?」

「彼らがルールを破れば、彼らはルールによって殺されます」
「ええ」
「彼らが死なない限り、この国のルールは守られている」
「…………」
「つまり、彼らのルールこそが、この国のルールです」

「そのルールは誰が最初に決めたのですか?」
「この国の国民の総意でした。いまは昔、三十年前のことです」
「ルールに反発すると、ルールに違反したことになるのですか?」

 貴婦人は優雅に笑う。

「なにをおっしゃるんですか。それでは専制ではありませんか」
「ということは」
「ええ、当然、そんな馬鹿なルールはありません」
「反発するのは自由ということですね?」
「ええ。しかし、ルールを覆そうとした人はいまだ現れていません」

「つまり、ルールがあり、彼らはルールに従っている」
「そうです。そして、彼らがルールを破れば、彼らは死ぬ」
「彼らが生きている限り、この国のルールは守られている、と」
「そうです。国民はルールに従い、そのルールに満足しています」
「それだけの恩恵がある、と?」
「ええ。どちらかというと、損失がない、というほうが正確ですが」

 論理的には確かに正しい。
 ただ、

「現実的ではありません」
「現実的? その言葉になにか意味がありますか?」
「人々は理不尽な死を恐れて生活しなければならない」

「いえ、ルールを守っている限り、死は訪れません」
「ルール違反に訪れるものが死だというんですか?」
「そうです。死は常に我々のそばにあります」

「そんな……」

 僕が驚いたのは、それが厳密に間違ってはいないことだ。

「この国から、逃げることはできるんですか?」
「ええ、当然、それは国民の自由です」

 ますます、確かなシステムではある。

「あなたはいま、逃げる、と言いましたね? それは偏見です」
「ええ、そうかもしれません。僕が逃げ出したかったものですから」

 貴婦人は笑った。

「この国は平和な国です」
「見た目からは、そうは思えませんけれどね」
「そうですか? あなたの国にだって死体や死骸はあるでしょう?」
「ええ……」

 僕は言いよどんだ。確かに、僕の言葉に嘘はない。
 しかし、それらは隠されていて、普段目にすることはないのだ。

「この国には、乱暴も窃盗も詐欺も、犯罪はほとんどありません」
「…………」
「人々はルールを守り、穏やかに、幸せに暮らしています」

 僕はレモン・ティを飲んだ。冷えていて、舌にざらっとした。

「ただ、明確な死が時折、無法者に訪れるだけです」
「しかし、殺された人にも家族がいたはずでしょう?」
「いた人もいるでしょう」

「家族に怨みは残るはずです。復讐は復讐を駆り立てる」
「それで?」
「殺し合いはいつまでも止まらない……」

 貴婦人は声をあげて笑った。

「あなたの国はなんて殺伐なんでしょう!」

 僕は幾つかの感情を通り越して、貴婦人の言葉に呆然とした。

「本当にそんなことが起きているのですか? 信じられない」
「……ええ、特別、変な考えではないと思いますが」
「そうですか、ここで互いの国の価値観をぶつけあってもしょうがないですね」

 僕は頷いた。その通りだ。

「では、少しアプローチを変えて、あなたの国に死刑はありますか?」
「ええ、あります」

 ないところもあれば、あるところもあるとは言わなかった。

「死刑囚の家族は国を怨み、国を殺そうとしますか?」
「正確にはわかりませんが、そういったことは聞いたことがありません」
「それと同じではありませんか」

 僕は頭の中でまた、貴婦人の話を展開しなおした。

「しかし、それはそれだけのことを死刑囚がしたからです」
「あなたは自分の言葉を自分の立場でしか見られていません」
「…………」
「あなたの国でなにをすれば死刑になるのか知りませんが、」

 貴婦人は窓の外を眺めた。

「この国では、ルールを破るという行為は死に値します」
「だから、恨みは残らず、復讐も起こされない、と?」
「その通りです。同じことなのです」

 ぱーん。
   どさり……。

「しかし、殺されすぎではありませんか?」
「そうですか?」
「確かに矛盾はないかもしれない、ただ、これでは国として成立しません」
「それは一面的な見方です」
「そうは思えません」
「まず、この場所、ここが比較的その頻度の高い場所であるということ」

 僕は窓の外を見た。普通の街角に見える。
 カフェテラスが広がり、その向こうには茶色い土のストリート。
 雑貨屋や飲食店、そして、高層ビルが雑然と目を賑わせている。

「あとは、あなたの相対的な視点による感じ方の問題でしょう」
「どういうことですか?」
「質問のお好きな方ですね?」
「ええ、曖昧で知らないことが多いものですから」

 貴婦人は苦笑した。貴婦人らしからぬ態度だった。

「あなたの国では過剰に人が大事にされているのでありませんか?」
「どうでしょうか? 過剰に大事にするだけの価値はあります」
「この国では、そのような差別的な見方はしません」

 僕はまたも憮然とした。

「あなたの国でも、たとえば病院では沢山の人が死んでいるはずです」
「ええ、そうだと思います」
「しかし、大勢の人はそんな事実を気にしていない」
「かもしれません」
「しかし、ここから見える景色、それは世界の真実を持っています」

 貴婦人の言葉が急に飛躍し、抽象的になったように感じた。

「この国でもっとも大事なものはこの景色なのです」
「…………」
「そして、この国の人たちはそれを隠そうとはしません」
「しかし……」
「大事なものが、常に、しっかりと受け止められている」

 貴婦人の表情は複雑だった。

「この国は、真摯なる精神に満ちているのです」
「ええ、怖いほどです」
「人間的であろうとすると、ある面では人間から遠ざかるのです」

 貴婦人の言葉はなにかを包み込んで発せられた。

「この国はきわめて自然と調和した美しい国です」
「その点では、同意できます」
「でしょう。豊かな緑と、時には危険ですらある動物たちとの共生」
「ええ、同時に人工的な建物も自然と共に立ち並ぶ光景」

「相反するものどうしの雑然とした美です」
「僕は、懐かしい、という感覚を最初は受けました」
「最初だけですか?」
「ええ。いまは、恐ろしい……とても、耐えられるものではありません」

 貴婦人は窓の外を見つめた。
 数人の男達が道端で死んだ男の死体を処理していた。
 子供達が野次馬で集まり、犬が男の飛び散った脳みそを嗅いでいた。

「僕は自分がこの国を何故、これほど恐れているのかわかりません」
「私にはわかります」
「何故でしょうか?」
「慣れていないからです」

 貴婦人は優雅に微笑む。
 冗談とも、真実とも思える表情。
 僕はテーブルに視線を落とすと、溜め息をついた。

「慣れてしまえば、恐ろしいものも恐れられない。そういうことですか?」
「これは、一本取られましたね」
「それでは、国民を騙しているようなものだ……こんな、危険な国……」

 貴婦人はふふふと笑った。

「赤ん坊は産まれると同時に泣きます。世界がそもそも怖いからです」
「…………」
「恐怖を感じない人間などいるでしょうか?」

 僕の身体は小刻みに震えだしていた。

「この世界に産まれた以上、どのような恐怖に慣れているかが問題なのです」
「しかし……」
「それは、どの国においても似たようなものでしょう」
「この国はおかしい! 違う! 絶対に間違っている!」
「国民はみな静かに、幸せに暮らし、満足しています」
「しかし、僕の国は安全です。みな、自由に生活しています……」

 窓から差し込む陽光は以前よりも柔らかい、優しいものになっていた。
 それとは対照的に貴婦人の表情は強張り、目付きは鋭いものになった。
 随分、長い沈黙だった気がする。貴婦人は口元だけで笑った。

「安全に、自由、ですか?」

 僕は黙って、彼女の言葉を待つしかなかった。
 極度の集中と、張り詰めた緊張……、どうにもできなかった。

「そのような言葉を吐けるのが、あなたのような立場の人間達なのでしょうね」

 怖い……。
 恐ろしい……。

 この時の僕の気持ちを言葉で表現すると、馬鹿みたいだがたぶんそうなる。

「その言葉の意味を、あなたは形作ることができますか?」

 なんなのだろう?
 この、僕の目の前に座る、白いドレスの貴婦人はいったい、なんなのだろう?

「もう、あなたとお話しすることは御座いません」
「え?」

 貴婦人はすっと立ち上がり、店を後にした。
 からんからんと、ドアに付けられた小さな鐘が鳴る。
 店の中に、すい、と外の風が流れ込み、僕の足元をなめた。

 あっという間の出来事だった。
 僕はあっけにとられて、動けない。追えない。喋れない。何も、聞こえない。
 あとに残された僕は、本当にいま、自分は貴婦人と話していたのかと疑った。

 窓の外。僕の張り付いた視界の隅に変化があった。
 白いドレスの貴婦人が、白い日傘を差して優雅に歩いていた。
 通りの人、動物、植物、音、光、時間も空間も、ぴたりと静止したようだった。

 止められた世界。

 そして、僕も、同じように、貴婦人が視界から消えるのをじっと待った。
 信じられない出来事だった。僕の背中はじとっと汗で湿っていた。
 なんだったのだろう? なんだったのだろう?

 いま、僕はいったい、なにをしていたのだろう?

「ああ、わからない……、わからない……」

 なんだろう? なんなのだろう?
 僕がいままで把握していた世界が崩れ落ちて笑っている。
 僕はいまなにをしていたのだろう? わからないぞ? なんだ?

「お下げします」

 見ざるがいつの間にかテーブルに寄り、僕の目の前のカップを片していた。
 ふと、思い立ったように僕が彼を見上げると、見ざるはふいと顔をそむけた。
 カウンタを見ると、聞かざると言わざるがお互いの口と耳を押さえ、抱き合っていた。

 僕は立ち上がった。

 ここにいてはいけない……動かなければ、ああ……。
 自分の国に帰りたい。僕の国はやはり、僕のためにあったのだ。
 いい経験だった。僕はいい経験をしたのだ。だから、そう、帰ろう、帰りたい。

「帰ります」

 僕はカウンタに寄りかかり、その向こうで微笑を浮かべる「見ざる」に言った。

「ええ、それがいい」

 こともなげに「見ざる」は言った。
 僕は溜め息をついた。

「あなたは、不思議な人だ」
「ええ、その通りです。私は不思議です。しかし、あなただって不思議だ」

 不思議な男だった。
 僕は右手の奥に備え付けられた洗い場を見る。
 聞かざると言わざるが、粛々とカップを洗っていた。

「このお店に裏口はありますか?」
「ええ、ございます」
「そちらから出たいんですけど、大丈夫でしょうか?」

 ふふふ、と「見ざる」は笑う。

「ええ、大丈夫ですよ、比較的安全ですし。そこからは西門が一番近いです」
「わかりました、ありがとう」

 僕は頭を下げた。

「最後に幾つか、質問にしてもいいですか?」
「ええ、構いません。どれが最後ですか?」

 それは、どこかで聞いたことのある喋り方だった。
 もう、思い出せないけれど、僕の知っていたものに似ている口調だった。

「僕が出逢ったのはいったい、なんだったのですか?」

 その質問に「見ざる」は僕の目を見つめ、静かに首を横に振った。

「わかりました」
「あなたは素晴らしい経験をなさいました、それは確かです」
「ええ、それは僕も実感するところのものです」

 「見ざる」は丁重に頷いた。

「それと、もうひとつ……あなたはいったい、何者ですか?」
「…………」

 彼は黙った。

「あなたは何かを知っている。他の人たちとは違う、なにかを」
「ええ、知っています」
「なにですか?」

 僕の確信的な緊張とは裏腹に、彼はすんなりと応えた。

「過去です」
「過去?」
「そうです。私は三十年前という革命的な過去を知っているのです」

 僕は目を凝らした。

「あなた、何歳ですか? 若いですねぇ」

 ははは、と彼はおおらかに笑った。
 聞かざると言わざるがこちらを向いて、目を見開いて驚いていた。

「そう、しかし、これで結構な歳なんですよ」
「なるほど、確かに」

 言われて見るとそのようにも見えるから、年齢とは表現である。

「私には思い出があります。婚約者だっていたんですよ」

 僕は黙った。
 実に唐突な話だ。

「優しい、頭の良い、そして、美しい人だった」
「過去形なんですね」
「ええ、それは過去、思い出の中で生きているのです」

 いや、すいません、と僕は謝った。
 いえ、と言って、彼は受け流す。

「まあ、私にとってはただの可愛らしい女の子だったんですけどね」
「その方はいま、どうなさっているんですか?」
「さあ、わかりません」
「そうですか」

 僕は振り返って窓の外を見た。
 男達が頭のない死体を運んでいる。
 どうやら、頭を打ち抜かれるのが神の罰のようだった。

「でも、たぶん、時折、紅茶とか飲んだりするんでしょうね」
「かもしれません」
「心配ですか?」
「そうじゃない、といえば嘘になりますが……」

「私が心配できるようなところで、彼女は生きていませんからね」

 彼はそう言って、目を細めて微笑んだ。
 僕は天を仰いで、首を振った。

「いやはや、この国は信じられないことで満ちている」
「?」
「すみません、少し、安心したんです」

 僕はそう言って笑った。

「神もまた、人間に然り、ともに死ぬ運命にあり」
「面白い詩ですね」
「稚拙ですが、そういってもらえると幸いです」

 彼は溜め息をついた。

「これは僕の願望を込めた、貴方のための詩です」
「ありがとうございます」

 僕は荷物を持ち上げ、彼に言った。

「レモン・ティ、美味しかったです、驚きました」
「特別製ですから」

 彼は笑った。
 僕は裏口に向かう。
 暗い厨房を抜けると突き当たりの壁に小さい窓のようなドアがあった。

 ほぼ正方形の小さい軋む木製のドアから、僕は身体を押し出した。
 そこは路地裏、茶色い地面とコンクリートの壁だけがあって、薄暗い。
 僕はそこに立つと明かりのあるほうに、馬鹿みたいに単純に進んでいった。

 たぶん、そっちになにかあるはずだ、という期待と確信。
 僕はあっという間に、自分の国の地を踏むだろう。
 途中でこの国のルールを侵しさえしなければ。

 僕がドアを出る直前、彼は、僕にこんなことを訊いた。

「あなたの国は美しいですか?」

 恭しい態度で、彼は私を見据えた。
 僕は片足をドアに突っ込んだまま、彼に振り返る。

「国って、なんですか?」
「なんでもいいんですよ、平たいことをいえば、あなたの帰る場所です」

 彼は微笑み、僕は、うーん、と頭を捻った。

「忘れちゃいました、帰ってから考えます」
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「すごい……」

 思わず、僕は呟いていた。
 その言葉は、すっ、と空気に馴染んで消えた。
 あまりに当たり前のことでしかなかったからだ。

「そうだね、確かにすごい」

 おじさんは拡散した僕の言葉を、柔らかい態度で受け止めた。
 横に立つ、生きたおじさんという存在に僕は少し、ほっとした。
 おじさんにはそういった、どこか言いえぬ包容力がある。

「私もね、長いこと、ここに棲んでいるがね……」

 おじさんは僕の顔を見た。
 僕もその気配に気付いて、おじさんの顔を見上げた。
 うん、とおじさんは頷き、どこか晴れやかな表情で溜め息をついた。

「彼みたいに素晴らしい投身自殺をした人は、始めてだ」
「…………」
「芸術的ですらある」

 僕は愕然として、また、切り立った崖の下に目を向けた。
 ぽっかりと奇妙な形の穴が開いている。
 それはちょうど人間の大きさの穴だ。

 なぜなら、それは人間が落ちた後の穴だからだ。

「少年、見ていたかい?」
「はい」

 僕は丁寧におじさんの言葉に反応した。
 僕の目を見て、おじさんは頷いた。

「そうか。ならいい」

 おじさんは朝の太陽に目を細め、爽快な空気を吸い込んだ。
 僕もおじさんの真似をした。
 とても、気持ちが良かった。

「こういうのを、清清しいという」

 おじさんは口元に悪戯な笑みを浮かばせ、そう言った。
 太陽は高度を上げ、しだいに森は陽光に包まれだした。
 緑が色を湛え、葉露が瞬き、鳥が飛び、山が目覚める。

 逆光を浴び、不自然にそびえる崖が、黒い塔として浮かび上がる。
 この黒い塔のことを、ある人たちは神と呼ぶ。
 わかる気がした。

 毎日、そこからは人が降ってきた。

「おじさん」

 僕はおじさんを見て、おじさんと呼んだ。

「どうしたんだい?」
「僕はいったい、なにを見たのでしょうか?」

 おじさんは一瞬、きょとんとした顔をして、崖の下を見つめた。
 そして、それは難しいね、と言って、ふるふると首を振った。
 ただ、実に良い質問だ、と言って、うんうんと首を振った。

「君がなにを見たのかは、私にはわからないよ」
「ええ、そうかもしれません、おじさん」

 僕は丁寧に、敬意を損ねずに言った。

「ただ、僕にもわからないのです」
「それでいいじゃないか」

 おじさんは言った。

「ですけれど、僕は、確かになにかを見たのです」
「そう、我々はなにかを見た。ただ、それがなにかはわからない」
「はい。いいのでしょうか、それで?」
「どう思う?」
「わかりません。少しの焦り、少しの畏れ、そして、少しの喜びがあります」

 おじさんは笑った。

「君は実に頭のいい子だ。私などには及びもつかない」
「…………」

 僕は黙った。
 腹が立ったわけではない。
 なにか、恥ずかしかったのだ。

「君は頭がいい、だから、私はちょっといまから独り言をする。いいね?」

 おじさんは僕の反応を確かめずに喋りだした。

「我々はなにかを見た、しかし、それがなにかはわからない」
「ただ、我々はなにか見たんだ。それは事実だ」
「我々はなにかしらの事実を見た」
「我々はその中から、さらになにかを見ることができるかもしれない」

「しかし、そんなことになんの意味がある?」

 僕はおじさんの独り言を黙って聞いていた。
 意味はあるか?
 あるかもしれないし、ないかもしれないと思う。

「私はその問いに、わからない、としか答えない」
「わからない、という甘美な答えに逃げているのさ」
「そして、こんな誰も来ないような場所で暮らしている」

 おじさんは崖を見上げた。

「ここには、わからない、という問いを超克した人間がやって来る」
「私は彼らを見るたびに、自分の中途半端さを知るんだ」
「どうして、ここにはこれほどの落差があるんだろうか」

「ただ、私はどういうわけだか、哀しいほどに生きている」
「そして、私はいつしか微笑むことを覚えた」
「卑怯な人間だと思わないかい?」

 ふふふ、とおじさんは笑った。

「君はいつまでもここにいるような子じゃない」
「そうでしょうか?」

 僕は首を傾げた。

「そうだとも」
「でも、とりあえず、今日はまだここにいたいと思います」

 おじさんは笑った。

「ああ、君にはいつか明日が来る、それまで、ここにいればいい」
「はい」
「じゃあ、朝食にしようか」

 そう言って、崖を後にしようとした時、僕はおじさんを呼び止めた。
 おじさんはどうしたのかと不思議そうに振り返る。

「おじさん、あれを」

 僕は崖の下を指差した。
 そこには真新しい人型の穴が開いている。

「どこだい?」
「あの、ちょうど右手の指にあたるところです」

 場所を確認すると、おじさんはけらけらと高らかに笑った。

「我々が見たものは事実だよ」
「はい」

 深刻そうにそう言いながら、僕も静かに笑っていた。
 そこには、人差し指と中指だけを立てたピースサインの穴が開いていた。
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 ねぇ、あなた、わたしと一緒に暮らしませんかと彼女はすんなりそう言った。
 いえいえ、ご遠慮したいんですけど、いったいあなたは誰ですか?
 あらあら、わたしをご存じない? わたしは健康、あなたはなに?

 そんな、なにって言われても、僕っていったいなんだろう?
 それよりあなた、わたしと一緒に暮らしましょうよ。
 どうしよう、あんまりあなたに興味がないです。

 それって嫌って意味かしら?
 そう言われると困っちゃうよね。
 じゃあ、あなた、それってどういう意味なのかしら?

 困らず言うと、嫌って意味です。
 素直な方だわ、困らないのね。
 それって、しばしば言われます。

 だけど、わたしは健康よ。
 それはさきほど聞きました。
 一緒に暮らして損はしないと思いませんか?

 得もしないと思いませんか?
 得しかしないと思いませんか?
 損しかしないと思います。

 それってあなた、天邪鬼。ちょっとそれは言いすぎよ。
 ごめんなさいって謝りましょうか?
 ごめんなさいじゃすみません。

 すみませんでもすみません?
 すみませんならぎりぎりすみます。
 ならばいっそ、すいません、ちょっと僕って言いすぎました。

 すいませんではすみません。むしろ、あなたにすってほしい。
 君ってちょっと変だよね。
 ええ、あなた、それってときおり言われるわ。

 それっていいこと。だってあなたは健康だもの。
 あらまあ、あなた、わたしをちゃんと知っているのね。
 そりゃあもう、なにしろ僕は不健康。

 あなたとほとんど同じです。
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