横山やすしの物真似をしている太平サブローを見るたびに人類の奥深さを感じています。物真似を職業にする人の心境というのはどのようなものなのでしょうか。いわゆる、写経や曼荼羅を描いている心境に近いのでしょうか。
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by kourick | 2003-06-30 00:00 | 日記
 登山とは、最大の慎重さをもって
 最大の危険に立ち向かいつつ、
 山を歩きまわる技術である。
 ここで技術と呼ぶのは、
 ある行動を通じて、ある知識を遂行すること。

 いつまでも頂上にとどまっていることはできず、
 また降りなければならない……
 では、
 そんなことをして何になる?

 こうだ――

 高所は低所を知っており、低所は高所を知らない。
 登りながら、いつも道の険しさをよく確かめておけ。
 登っている限り、その険しさが見える。

 降りるときには、もう、それが見えないだろう、
 でも、君がすでによく観察していれば、
 そこに険しい道があることを知っているだろう。

 登る、見える。
 降りる、もう見えない。
 だが、すでに見ている。

 より高い場所にいたときに見た記憶によって、
 低所を進む技術がある。
 もはや、見ることができないとしても、
 少なくとも、まだ知ることはできる。

 頂上への道をしっかりと見つめつづけ、
 だが、足もとを注視することも忘れるな。
 最後の一歩は最初の一歩に左右される。

 頂上が見えたからといって、到着したつもりになるな。
 足もとに気をくばり、つぎの一歩をしっかりと支え、
 だが、もっとも高い目標から目を逸らすな。

 最初の一歩は最後の一歩に左右される。

Rene Daumal 『 Le Mont Analogue 』
ルネ・ドーマル 『類推の山』 (巖谷國士訳)

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by kourick | 2003-06-20 00:00 | 翻訳
 「あなたとわたしのGAINAX」は読みましたか。とても面白いですよ。というわけで、第1章「庵野秀明」 : 第一回「現代」 : Scene3 「世界において日本がアニメを独占している」のところで、庵野さん、こんなことを言っています。
もちろんすべての作品が稚拙だというわけではありません。どれだけの確率かはわからないですけど、良いものもあると思います。僕がいっているのは一般論です。99%、まあいってしまえばクズみたいなものがあって、その上で1%の良いものがあるバランスで文化は成り立っていると思いますから。それはアニメに限らず、すべてにいえると思います。けど残念ながら、その良いものを自分の感性で感じられる人があまりに少ないと思います。そういう人に限ってあまり声に出さないんですね。だから偏った言葉だけが閉じた世界にはびこってしまう。
 注目すべきはここです。
99%、まあいってしまえばクズみたいなものがあって、その上で1%の良いものがあるバランスで文化は成り立っていると思いますから。それはアニメに限らず、すべてにいえると思います。
 いわゆる、スタージョンの法則ですね。あの世代の人たちはSFにも詳しいので、もちろん庵野さんも知っていて言っているのだと思いますが、気になるのはそのパーセンテージです。とりあえず、「スタージョンの法則」を確認してみましょう。
【スタージョンの法則】 (Law of Sturgeon)
 SFの90%はクズである。
 ただし、あらゆるものの90%はクズである。
 これはセオドア・スタージョン(Theodore Sturgeon, 1918-1985)というSF作家があるSF大会のおり、質問者との掛け合いのなかで言ったとされる言葉です。この法則の面白いところは、これを聞いた人に「その通りかもしれない」と納得させてしまうところです。

 さて、庵野さんの発言に戻ると、お分かりの通り、スタージョンの法則のパーセンテージが90%から99%に引き上げられているんですね。法則として考えたときに「90%」と「99%」のどちらの値を採用するべきかということが問題です。
【スタージョンの法則】 (Law of Sturgeon)
 SFの90%はクズである。
 ただし、あらゆるものの90%はクズである。
【庵野の法則】 (Law of Anno)
 アニメの99%はクズである。
 ただし、あらゆるものの99%はクズである。
 このダブル・スタンダードは問題です。どちらかを消去する必要がある。ただその前に、これらの法則の違いを挙げることもできます。それは庵野さんの発言から読み取れます。それは次の一言です。
1%の良いものがある
 そうです。庵野さんは99%のクズがある一方、1%の良いものにも触れています。これがスタージョンの法則とは決定的に違うところです。むしろ、そのパーセンテージよりも、そのバランスが重要だということが庵野さんの本意だったでしょう。

 他方、「スタージョンの法則」では、残りの10%については触れていません。つまり、残りの10%にクズが含まれている可能性は論理的には十分にあります。ということは、任意の集合にスタージョンの法則を二度適用すると「庵野の法則」とクズの値が一致します。

 しかし、これを三度、四度と適用を繰り返すなら、スタージョンの法則から「クズではないもの」を取り出すことはきわめて困難なことになります。スタージョンの法則は「良いもの」の存在を許容しないようなところがある。それゆえ、これらの法則を次のように言い換えることができます。
【スタージョンの法則】 (Law of Sturgeon)
 SFの90%はクズである。残りの10%は不明だ。
 そして、
 あらゆるものの90%はクズで、残りの10%は不明だ。
【庵野の法則】 (Law of Anno)
 アニメの99%はクズである。残りの1%は良いものだ。
 そして、
 あらゆるものの99%はクズで、残りの1%は良いものだ。
 そうなのか! 「スタージョンの法則」と「庵野の法則」は似ているが、違う! 「スタージョンの法則」は良いものの可能性の範囲は広いけれど、しかし、良いものの存在自体は確定していない。

 一方で、「庵野の法則」は良いものの可能性の範囲は1%程度に過ぎないが、しかし、たしかに良いものがあるということは確定している。ところで、ここで最初の問題に立ち返る必要があります。

 【果たして、このふたつの法則は両立するのだろうか?】

 両立しないのだとしたら、どちらかを切る必要がある。これは、なかなか難しい問題に思えます。残念なことですが、いまのところ、僕には説得的にこれらの法則の是非を問うだけの手駒がありません。

 単純に考えると端的な両立は難しいようです。なぜなら、「庵野の法則」の適用後に「スタージョンの法則」を適用するのは困難に思えるからです。しかしながら、その逆は可能であるように思います。

 それは上記した通り、「スタージョンの法則」を二度適用するとクズの領域が「庵野の法則」と一致するということからも想像できます。一方から他方を導出できるような但し書きを付け加えられたら良いのですが。

 あるいはこれらの法則をまとめたような、「第三の法則」が存在するのかもしれません。というわけで、新しい法則の誕生を目の当たりにしたため考察を進めてみました。庵野の法則には希望がありますね。
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by kourick | 2003-06-15 00:00 | 考察
 よさこいソーラン祭り。札幌のは正確には「YOSAKOI」というみたいです。好きか嫌いかといわれると、僕はまあ、好きではないのだけれど、実際には、それほど気になってはいません(期間中は街に近寄らない)。しかし、道民ないし札幌人の誰しもが YOSAKOI に賛同しているわけではないことは知っておいていただきたいと思います。

 ところで、内地の人たちは札幌の YOSAKOI をどのように見ているのでしょう。「北海道の晩春の楽しいお祭り」というイメージでしょうか。TV 番組のリポータは「日本一、いや、北半球一のお祭りです」などと言っていたのだけれど、それはどういう意味なのだろう。集客数、参加者数、それとも規模や経済効果? あるいは楽しさということだろうか。

 しかし、そもそも、YOSAKOI を「祭り」として把握している人が、どれだけいるかは疑問です。はっきり言って、YOSAKOI は祭りではありません。むしろ、「大会」といったほうが的確だと思います。路上パフォーマンスの大会です。だから、審査もあるし、練習も過酷になるし、参加するには資格も必要になるし、多額の資金も必要になる。

 けして、市民や旅行者の誰しもが参加して楽しめる「祭り」といった代物ではありません。ただ、その大会という限りにおいては、YOSAKOI はなかなかのものです。是非一度、納涼をかねて札幌に見学に来られると面白いと思います。開催時期の札幌の平均気温は25度前後、道民にとってはちょっと暑い季節ですが、内地と比較するなら涼しいでしょう。

 そういったわけで、参考ばかりに こういった視点からのYOSAKOI というものも、YOSAKOI 参加者や関係者は頭の片隅に置いておくと良いと思います。思っている以上に YOSAKOI を楽しんでいる人というのは少ないのではないかと僕は思っています。どちらかというと迷惑です。もちろん、だから止めろといった極論を言いたいのではありません。

 たしかに YOSAKOI は地域に密着した「お祭り」であって、それは素晴らしいことでしょう。各地にチームがあり、特色を生かした振り付けやテーマがあり、感動する場面や斬新な演出に興奮する場面もあります。札幌の大学だったら、たいてい YOSAKOI サークルがあるでしょう。そこでは、いろいろな物語も生まれているのだと思う。

 参加者にしてみたら、やりがいのあるイベントなのだろうし、楽しいのだとも思う。しかし、その一方で、それは集団的な自己満足でしかないのではとも思います。というのも、基本的に YOSAKOI は観客と共有されるような祭りではないからです。いまのように大規模化すると、多少の文句はノイズとして無視されてしまうかもしれないけれど、これはたしかです。

 もともと、YOSAKOI は北海道大学の学生が大通に場所を借りて始めたものでした。けれど、回数を重ね、大規模になるに連れて、学生の自治を離れ、そこに行政とメディアが介入し、次第に YOSAKOI は公的なものになっていきました。料金を取る代わりに良い席で踊りを楽しめる「桟敷席」が問題になったのもこの過程でした。

 いまでは、そういった野暮な問題を取り上げると白眼視されかねません。最初は学生が始めた遊びかもしれないけれど、いまやそれは全国に誇れるような札幌を代表するイベントなのだから。そうした広報的な側面が強化され、運営が実質的に公的な手に渡ったあとも、学生の自治で運営されていた会場は「やはり一番楽しい」と言われていました。

 こういった段階になって、参加する人たちと参加しない人たちは完全に分断されたような印象を受けます。もはや「演者」「観客」という以上に離れてしまっている。演劇でもそうだけれど、こうも一体感が損なわれてしまうと見させられている人は急速に冷めてしまいます。見せている人はもちろん楽しいのだろうし、当初は見ているほうだって楽しかった。

 そこにはなにかしらの共有があったし、見ている人たちにもどこか参加しているという意識がありました。そして、それを共有しない人たちに対する遠慮もありました。それはもしかすると、いまは馬鹿騒ぎしているけれど、その騒ぎのあとにはきちんとあそこに戻らなければならないという刹那感の共有だったのかもしれません。

 しかし、いまは違います。演者と観客の間には深い溝がある。そして、一度そう感じてしまうと、YOSAKOI を押し付けられる人たちの目に映るのはその嫌な部分です。参加者のマナーの悪さ、騒音の酷さ、地方車の場違いさ、そもそも、YOSAKOI のために道路や公園や施設の利用が制限されるのだから、興味のない人には迷惑でしかありません。

 もちろん、どんなイベントだってそういったことはあるけれど、YOSAKOI の場合はそう感じる人が多いのではないかと思います。市民の潜在的な反発がこれだけあるものを、経済効果や参加者の理屈で止められないからといって続けているということに一抹の疑念は感じるものです。ただ、それでも YOSAKOI は終わらないでしょう。

 しかし、いまのような状況がずっと続いて、いつまで経っても変わっていかないのなら、どこかで不意に破綻してしまうのではないかと思います。こうした文章を書いておいてなんですが、別に YOSAKOI を頭ごなしに否定したいわけでも、暴言を吐いてすっきりしたいわけでもありません。ただ、誰もが楽しめるお祭りにしてほしいと思うだけです。


【関連リンク】
YOSAKOIソーラン祭り>日高晤郎の視点
「YOSAKOIソーラン祭り」腐敗の源泉
YOSAKOIソーランの取材は不自由
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by kourick | 2003-06-07 00:00 | 考察
 諸君、私はヨサコイソーランが嫌いだ
 諸君、私はヨサコイソーランが嫌いだ

 諸君、私はヨサコイソーランが大嫌いだ

 唄が嫌いだ
 踊りが嫌いだ
 衣装が嫌いだ
 メイクが嫌いだ
 動きが嫌いだ
 叫び声が嫌いだ
 旗が嫌いだ
 ライトが嫌いだ
 笑顔が嫌いだ
 鳴子が嫌いだ
 笑い声が嫌いだ
 制度が嫌いだ
 意識が嫌いだ
 感性が嫌いだ

 歩道で、車道で
 公園で、盛場で
 バスで、電車で
 駐車場で、地下鉄で
 舞台の上で、観衆の前で

 この札幌で行われるありとあらゆるヨサコイが大嫌いだ

 隊列を組んだ踊り子の一斉発狂が爆音と共に民衆を威嚇しだすのが嫌いだ
 空中高く放り上げられた衣類が突風に煽られて頭上に舞い落ちた時など心が弾け飛ぶ

 地方車に載る奇怪な装飾物など目にするだけで虫唾が走る
 轟音を立てて騒音を撒き散らす地方車の上から、和太鼓の不躾な振動と共に礼儀知らずで奇天烈な煽り声が聞こえてきたときなど胸がむかついて堪らない

 衣装を揃えた踊り子の隊列が意図的に編隊されているのが嫌いだ
 恐慌状態の踊り子が既に失望した人間を何度も何度も笑顔で屈服せしめようとしている様など戦慄すら覚える

 経済効果と物珍しさだけで市中を我が物顔で闊歩する様などはもう堪らない
 泣き叫ぶ子供達を目の前に悪辣にして辛辣窮まる薄弱な規範意識と共に金切り声を上げながら公共空間にたむろにする狂乱人など最悪だ

 哀れな幼い、年老いたあるいは静けさを求める通行人達を雑多な公害道具で都市の印象と道徳と理想もろとも木端微塵に粉砕する時など悪魔とすら感じる

 無知な行政機関に祭りを滅茶苦茶にされるのが嫌いだ
 必死に守るはずだった人々の意志が蹂躙され女が男が子供が感化され洗脳され何の疑問も抱かずに受け容れている様はとてもとても悲しいものだ

 情報と艶やかさの物量に押し潰されて楽しみが殲滅されるのが嫌いだ
 テレビカメラに追いまわされ害虫の様に地べたを這い回るのは屈辱の極みだ

 諸君、私はヨサコイを、この地獄の様なヨサコイを嫌悪している!
 諸君、私に付き従うアンチ・ヨサコイズム諸君!
 君達は一体何を望んでいる?

 更なるヨサコイを望むか?
 情け容赦のない糞の様なヨサコイを望むか?
 贅沢豪奢の限りを尽くし、一般市民の平穏を穢す嵐の様なヨサコイを望むか?

『無視! 無視! 無視!』

 よろしい、ならば無視だ!

 我々は渾身の力をこめて今まさに目を瞑らんとする小市民だ
 だがこの暗い闇の底で12年もの間堪え続けてきた我々に
 ただの無視ではもはや足りない!!

 全無視を!!
 一心不乱の全無視を!!

 我らはわずかに数百数千に満たぬ敗残者に過ぎないのかもしれない
 だが、諸君は一騎当千の古強者だと私は信仰している
 ならば我らは諸君と私で総力100万と1人の小市民となる

 我々を忘却の彼方へと追いやり踊りこけている連中を落ち着かせよう
 笑顔に応じず黙って見つめ眼を開けさせ思い出させよう
 連中に無視の味を思い出させてやる
 連中に我々の静寂の時を思い出させてやる

 北区と南区の狭間には奴らの哲学では
 思いもよらない事があることを思い出させてやる
 一千人のアンチ・ヨサコイズムの小市民で
 札幌を冷やし尽くしてやる
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by kourick | 2003-06-06 00:00 | 考察
 いやー、眠いなぁ。とっても眠いね。だから、寝ようと思うんだ、パトラッシュ……僕はいま、とっても幸せなんだよ、パトラッシュ……お、おっとっとっと、これはこれは皆さんこんばんわ、香陸です。ほら、パトラッシュ、キモイから向こうに行っといで、クサイ! クサイよ! おまえはクサイんだ、パトラッシュ! ニオウ! いいから、わかったから、おまえは大通公園の鳩とでも遊んでおいで、はとぽっぽしておいで、クルックるーるー。あーあ、じゃあ、気を取り直してこんばんわ、エブリバディ、エブリマインド、元気かい? 僕は不健康です。

 寝不足なんだよね。慢性的にさ。仮眠しかしてないんだ。たぶん、あれ、寝てない。当たり前ー! クぷぷぷぷー! 爆笑? 悶絶? あー、死にてー。いま、なんだか猛烈に飛ぼう!って思ったよね。飛翔しよう、とね。だからさー、もう、タンでもカットしちゃおっかなーとか思う。あれだよあれ、タン・カット。巷で大流行だよね。伝説のタン・カッター「駒巌田雄二」とか懐かしー! あれらしいよ、コマさんとかインタビューに来た女性レポータに「あなたのタンはどこにいったんですか?」って訊かれたときに「天国に行きました」ってヘブライ語で即答したらしいよ。かっこいー! 意味わかんねー! 日本語喋れ!

 本当は食べちゃったらしいけどね。

 コマさんとか自分のタンを食べ終わった後に岸田今日子を呼びつけて、「美味しゅう御座いました」ってうそぶいたらしいよ。レジェンド!! 伝説だよねー! タンとか食べちゃう以前に岸田今日子を呼びつけることがレジェンド。伝説。まあ、その伝説とかいまでも続いててさ、この前なんかコマさん信者たちにこう呟いたらしいよ。「ベッカムにサッカーを教えたのは俺だ」ってね。すごいだろ、コマさん。伝説だよ。その後にこう続けたらしいんだ。「何を隠そう……」ってね。

 倒置法。

 そんで懲りずに言うわけ。「窪塚洋介に倒置法を教えたのは俺だ」ってさ。もうね、何を隠そうレジェンド。伝説の男だよ、コマさんは。もうね、周りの信者もみんな一人残らず頷いたらしい。「だから、窪塚の喋りは……そうか、やっぱりね……そうか、むしろ、そうじゃなきゃあの喋りは……」ってさ。非常に納得。時折、コマさんとかすごい説得力のあることを言うんだよね。

 タン、ねーのによー。
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by kourick | 2003-06-05 00:00 | 随想