「にしても、まさか、ファーストフードとはね」
「あのさ、君が選んだんだけど」
「そうだっけ?」
「そうでした」
「選ぶとか、そういう段階の話じゃなかったわけよ、私の食欲が」
「まあ、確かに、一番最初に目に付いた飲食店に迷わず入ったよね」
「そう、それがファーストフード店だったわけ」
「なるほど」
「だから、私を責めるというよりはここに店を建てたマックを誉めるべきなわけ」
「責めてないよ」
「そうだったのか……週四回はさすがにちょっと多いかと思っていたのだが」
「ファーストフード店利用者の鑑のような人間だね」
「うん。だけど、ドナルドは気持ち悪いと思う」
「関係ないよ」
「だけど、美味しいと思わない?」
「そうだね、なんていうか、理想に近い飲食形態をしているとは思う」
「速い、安い、美味い」
「速い、安い、コストパフォーマンスが良い」
「まったく、人間の味覚が失われる日も近いわね」
「必要ないから失われるんだよ、悲しむべきことではない」
「けれど、悲しむことは悪くはないとか言うのか、その口は」
「美味しい、という概念が変化していっているということだと思う」
「ソムリエやバリスタが特権化されているようにただの味覚も特権化するね」
「和食業界なんかではすでにそうなんじゃないかな?」
「ああ、秘伝の味とかもそういう部類に入るのか」
「そうなるかな」
「味も相対的ってことなのね」
「それでも、どんな人でも毒は毒だと判断できるんだから、不思議だよね」
「なるほど、味覚が異なっていても毒は毒だと判断できるか」
「まあ、厳密な真偽は措いといて、そんな気はするよね」
「そうね。ファーストフード店で話すにはもってこいの話題って感じ」
「しかしさ、ファーストフードって不思議な名称だよね」
「ファーストフードって別に正式名称ってわけじゃないでしょう?」
「そうなの?」
「だって、そうじゃなかったら明らかにおかしいじゃない」
「まあ、そうなんだけどさ」
「ところでさ、ファーストフードって出てくるのが速いってことじゃない?」
「そういう意味だろうね、レスポンスが速いというのかな」
「そう、つまり、ギヴ・アンド・テイクの部分が迅速なわけ」
「そういうことになるね」
「それを踏まえてね、君、スローフードって知ってる?」
「は?」
「遅い食べ物よ」
「それはなんだか、すごいアンチテーゼを掲げたね。よくわからないや」
「どうもね、ゆっくり食事を食べましょうということみたいなの」
「それだけ?」
「あと、地元の食材を使って地域の活性化みたいな」
「素晴らしい」
「まあ、生活スタイルを食から見直しましょうみたいな感じかな」
「いわゆる、あれ、現代人は時間に追われすぎているみたいなやつ?」
「そういうことになるかな」
「ふうん」
「それでって感じだよね」
「良いんじゃない、仕事でやってるんだろうし」
「いや、思想かもしれない」
「それなら、なおさら仕方がないね」
「需要があるものにケチつけても仕方がないとは思うんだけどさ」
「そういうこと。僕は好きだよ、そういうの」
「というか食事よりも職業を見直したほうが生活スタイル変わりそうだよね」
「それは人生が変わるなあ」
「スローフード、恐るべし」
「敷衍すると、なんのために生きるのかという問いになるだろうね」
「そんなのを諺でなんて言うんだっけ?」
「隣の家は何味噌を使っているかわからないじゃなかったっけ?」
「触らぬ神に祟りなしじゃなかった?」
「小さな親切、大きなお世話だと思う」
「大同小異なアリアドネの糸だよ」
「なんでもいいよ」
「ただね、ファーストフードって別にさ、急いで食べてるわけじゃないと思うんだ」
「そう? 結構、急いで食べてると思うけど」
「でも、お喋りしながら食べたりするでしょう?」
「普通はしないよ」
「普通って?」
「君といないとき」
「それってあなたひとりのときってことでしょう?」
「そだね」
「ああ、嬉しいような哀しいような……」
「そもそも、食事と会話は分離した方がメリットは大きいとは思う」
「なんでよ?」
「口はひとつしかないから」
「ははぁ、恐れ入ります」
「ふたつあったら、便利かもしれないけど怖いね」
「そうね。じゃあ、赤音の話をしようか」
「なんで?」
「ほら、だって、可愛いじゃない、赤音ちゃん」
「そういう理屈じゃないところ、好きだな」
「いや、理屈さ。私は可愛いものについて話がしたくなる人間なの」
「なるほど、それで」
「この紙の問題のことなんだけどね」
「ああ、赤音が解いたやつだ、これがどうかした?」
「なにこれ? これで本当に問題が解けてるわけ?」
「いや、解けてない」
「そうきたか」
「なにが、どうきたわけ?」
「いや、赤音のことだから、この記号の羅列で問題が解決したもんだと思ってた」
「だけど、今頃は解けてるんじゃないかな」
「どういうこと?」
「つまりね。結局のところ、なんでもかんでも記号化して推論規則に当てはめれば論理的に論証が妥当かどうかを判断できるのかというと、決してそう言い切れるわけでもないんだよ。そもそも日常言語の中から抽出した形式で成り立っているものなんだからさ、実は生の言葉で推論した方が明快だったり、むしろ、そうすることが本義なわけですよ」
「ふん、それで」
「だからね、赤音は記号化した振れ幅と同様の振幅で、素の論証を検討するでしょう。それで自力の論理力でガツンと一発かましてやるわけですよ」
「中休みと給食時間と昼休みを使ってね」
「いや、授業時間を使ってるんじゃないだろうか?」
「どうでもいいのよ、そんなところは」
「と、そんなわけだ」
「それで結局、この問題はどうなってるの?」
「なにが?」
「どうなったらこの問題は終わりなの?」
「そりゃもちろん、論証が妥当か妥当でないかが証明されれば終わり」
「へえ、ファーストフード店で話すにはもってこいの話題ね」
「間違いないね」
「それよりもさ、私はウソツキの問題がまだ解けてないんだけど」
「あんまり考えてもいないんでしょ?」
「まあ、率直に言っちゃうとそうなんだけどさ」
「そんなに考えることは多くないよ、条件と目的を明確に押さえればたやすいはず」
「そう?」
「だろうね、切頂六面体を赤の女王と呼ぶような人間だもの」
「にんげん、だもの」
「もしかしてにんげんじゃなかった?」
「内緒。えっと、だから、境界条件が曖昧になっているわけだ」
「さあ、僕にはわからないけど、たぶん、そうじゃないかな」
「まず、分岐点に立つ男がウソツキかホントツキかわからない、これがひとつ」
「そうだね。ウソツキじゃなければ、ホントツキなわけだ」
「次に、右の道と左の道のどちらに街があるのかがわからない、これがひとつ」
「そうだね。どちらかに必ず街がある。そして、君は街に行きたい」
「そして、私は一度しか質問できない」
「その上、男はハイかイイエでしか、その質問に応えることができない」
「さあ、私は質問しよう」
「なんて尋ねる?」
「なんて尋ねようか?」
「尋ねることは無限にある。けれど、目的を考えれば、かなり絞り込める」
「スーパー・チェス・マッシーン・ディープ・ブルーなら一瞬で答を弾き出す?」
「一秒間に二億通りの手があれば、数秒の計算で答は含まれているかもしれない」
「どういうこと?」
「けれど、その中から答を選び出すことができるかどうかはわからない。というよりも無理だ。基本的にコンピュータに未知の問題を解くことはできない。過去の膨大な量のデータを瞬時に参照できて、そこからの計算能力が尋常じゃないだけ。結局、答を与えるのは人間の意志だ」
「まいったな。街に行きたいだけなのに」
「そう、君は街に行きたい。だから、尋ねることも決まってくる」
「街はどっちにありますか?」
「いや、男はハイかイイエでしか答えられないからね」
「あ、そうね、街は右の道の先にありますか?」
「そうだね。街はどっちかにあるんだから、任意の方向について訊けばいい」
「だけど、これだと、全然駄目でしょ? ウソツキとホントツキの区別がつかないわ」
「だけど、基本的にはそう尋ねるしかない。だから、方向性は間違っていない」
「なるほどね」
「どう、あとはどうして全然駄目なのか、そこを考えれば、次の位置に到着」
「そうか、ウソツキとホントツキの区別をつけること、そこが問題なわけだ」
「そういうことになるかもしれないよね」
「…………」
「どうしたの?」
「いまの言い方、なに? すごい婉曲表現だった」
「うーん、さすが」
「言いなさい」
「はい。そこは厳密に言うとね、ウソツキとホントツキの区別がつかないことが問題なのであって、ウソツキとホントツキの区別をつけなきゃいけないわけではないんだ」
「ちょっと待って」
「うん」
「ちょっと待ってね」
「二回言った」
「…………」
「…………」
「あ、わかったかも」
「ほんとさすがだよね」
「これも逆転の発想というものかね、ワトスン君」
「僕にはわかりません、ホームズ先生」
「ひとりで考えると駄目なんだけど、話すとまとまるわね」
「書きながら考える人は手で考えているといってよい、と言った人もいたね」
「じゃあ、喋りながら考えてる人は口で考えているわけだ」
「考えるの定義というか、概念にかかわる問題だよね」
「面白いわ」
「身体も白い」
「……全身、真っ白だわ」
「ファーストフード店で話すにはもってこいの話題だね」
「その通りね」
「そう言えば、赤音の話をほとんどしてないんじゃない?」
「する必要がなかったのね。悲しむべきことではないわ」
「まったく、君には毎度のことながら、驚嘆させられるよ」
「うむ。じゃあ、帰ろうか」
「右の道と左の道と、どっちから帰る?」
「どっちにしようかな」
「どっちかには家、どっちかには死」
「なるほど」
「さあ、決断は一度。質問は一度」
「あなたも私についてくる?」
「イエス」
「なら、どっちでもいいわ。大して変わらないじゃない」
「じゃあ、帰ろうか」
「ええ」
「ところで君さ、もし僕がノーって言ったらどうするつもりだったの?」
「私があなたについていってたね」
「いやはや、何だか、世界が真っ白に見えてきたよ」
「あら、私なんて、ずっと前からそうだけど」
「すごいね」
「すごいよ」
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 どういう風に考えたって、人間はいつかは死ぬもんだ。

 中学生の頃に習った。いままでのどんな人だっていつかは死んだ、だから、人はいつかは死ぬ。こんなのを演繹的推論とかって言うんだ。高校に入ってから、もうちょっと複雑で難しいことを習った。仮説演繹だの帰納主義だのってやつ。カラスだのスワンだのが出てくるんだ。

 そして、もっと込み入った話を聞かされたのは「彼」にだった。それは退屈なものではあったが、いくつかの話題は俺なんかでも理解ができて、許容もできる現実性を持ったものだった。概して、専門的な話題というのは抽象的で駄目だ。それが強みではあるのだろうが、「一般人」の俺からすれば、言葉を入れ替えて遊んでいるようにしか見えない。

 高校卒業後、たいしてやることもないからといって気ままに生活していたところに、「暇なら酒でも飲もう」と頼みもしないのに彼は俺の家に押しかけてきては、俺にとって関心のない話題の説明を夜な夜な始めたのだった。パスカルの賭けだとか超心理学の科学性の検討だとかなんかは結構楽しめた。けれど、カーブ・フィッティングやらなにやらが出てきたところでノック・アウトだ。

 俺は彼の話を聴き、仕方がないから質問なんかもした。どういうわけか彼と飲むときが一番酔いがまわった。そして、非情な冷静さでそんな風に酔っている自分を眺めている自分がいた。数学の話題を話しているときに、何故か一番人生というものを考えた。不思議なものだ。

 彼は俺が質問をし終わるたびに決まって、「在野にいるには惜しい人材だ」と笑った。何時代に生きていればそんな発言ができるのかと唖然としたが、思うとあれは彼一流のジョークだったのかもしれない。ちょっと面白すぎて笑えない。

「人間は論理で動いてるわけじゃない、感情で動いてるもんだろ」

 俺は言った。

「実に論理的な発想だ。けれど、発想だけじゃ役に立たない」

 彼はそう言った。
 俺に理解できないという意味で、実に不気味な男だった。
 いまは「不気味」は「奇妙」に変わり、「理解」は奥座敷で寝転がっている。

 最後に彼と話をしたのがちょうど一年前の今日になる。夜中の一時頃だ。あと二時間も経てば、ぴったりその時間と重なる。そんな無意味な一致に感慨を得るほど湿った思考はしていないだろと自分自身を笑うけれど、やはり一時になるまでは眠れないなとも思う。

 そして、すでにその瞬間に飲むべきバーボンまで用意されているのだから、実に俺は馬鹿だ。

「僕はこのまま、終ぞ、死ぬことがないんじゃないかと思うんだ」
「は?」

 俺はウィスキをちびちびやりながら、彼の話に耳を傾けていた。

「人間ってのは誰でも、いつかは死ぬ」

 俺は言った。

「なぜ?」
「なぜって……本気で言ってるのか? おまえ」
「素直な疑問だよ。本気か、本気でないのかは、関係ない」
「あのなぁ……」

 とは言いつつも、内心、俺はその質問にどう応えればいいのか困惑していた。
 単純なことだ、誰でも知ってる。けれど、理由を聞かれるとちょっと困る。

「いままでの人たちはみんな死んできた。けれど、僕は死なないかもしれない」
「ありえないよ」
「そうかな」
「そうだって」
「そもそも、いままで人間はみな死んできただろうか?」
「はい?」
「生き続けている人間っていないと思う?」
「いないね」

 そうしてまた、ウィスキをちびちびと飲んだ。暇な時間だった。

「君は自分もいつかは死ぬと思う?」
「俺が思わなくても、いつかは死ぬさ」
「それはだいたい、僕でも予想できる」
「おいおい」
「違うのさ、君が思うかどうかということを聞いている」
「…………」

 やれやれ、こいつは複雑なジョークだ。

「思うさ」
「僕は思わない」
「けど、君だっていつかは死ぬ」
「どうだろう」
「簡単に確かめられるぞ」
「それは僕を壊してみるということ?」
「そう、俺が君を殺せれば、証明終了さ」
「…………」

 彼は黙った。このとき彼がなにを考えていたのかはわからない。けれど、俺の発言がまるっきり的外れだったのか、あるいは彼の思考の深層で、俺なんかにはわからない美しいタペストリの模様替えが行なわれていたかの、どちらかであるのは確実だったと思う。

 なんにせよ俺も黙った。そして、彼の次の台詞を待った。
 そういう、注意力がなければ見逃してしまうような魅力が彼の沈黙には内在していた。
 ふーっと細い溜め息を吐き出すと、彼は顔を上げた。

「結局のところさ、ミドリムシって動物なのかな、植物なのかな?」
「まあ、どっちにしろ、とりあえず生きてるな」

 時計の針が一時を指した。

「だけどいまは、俺もこう思うんだ」

 俺はバーボンをグラスに注いで、一口、飲む。

「もしかしたら、俺も死なないかもしれない。いつまでも」

 どこかでなにかが笑った、そんな気がした。
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『私が生きることにおいて、最も重要なことはなんですか?』

 俺がその質問用紙を読み上げると、瞬時に回答が与えられる。

「君が生きているということだ」
「なるほど」
「当然だろ」

 彼は無邪気に微笑むと人差し指をふるふると動かした。次の質問にいけという合図だ。
 同時に「あとはおまえがまとめろ」という意味でもある。

『なぜ、私は人を殺してはいけないんですか?』

「またかい?」
「悪いな、この手の質問って多いんだよ」

 俺は苦笑する。

「前のを使いまわせばいいじゃないか」
「何回も同じのを使うと新鮮味に欠けるだろ?」
「正直、僕は新鮮味の問題じゃないと思うけどね」
「頼むよ、おまえの発想に俺は期待してるんだぞ」

 そう言って、俺は菓子折りを彼に差し出した。
 ただ、中に入っているのは珈琲豆で、飛び切り上等なやつだ。

「あのね、それは君だけじゃないのかい」
「新鮮さってやつは大事なんだよ、皆新しい答えに飢えてるんだ」
「なんだい、そりゃ」
「いろんなもんがはっきりするときの感覚だよ」
「どういう意味?」

 彼は顎から右手を離し、俺に向き直った。
 俺みたいな人間に対して、感心するほど真摯な態度だ。逆に少し困ってしまう。

「綺麗な詩を見たときの感覚に近いかな」
「わかりづらいな」
「ああ、これだ!って感覚かな」

 彼は微笑んで俺の発言を手で制した。

「もういいや」
「安易なんだろ?」
「そうではあるけれど、君の感覚はわかるような気がするよ」

 わかるのか。
 俺の言うことがこいつに伝わるなんて奇跡的なことだ。

「まあ、知識も飽食の時代ではあるね」
「だろ。いまの時代、真に学問に価値を見出してる奴なんていないぞ」
「いや、それは別に良いんだ」
「そうか?」
「ああ、馬鹿が増えると研究の邪魔になるだけだ」

 彼は溜め息を吐いた。うんざりだ、とでもいいたげである。

「言うな」
「誰もが言いたいが言えないこと、そういうのが社会の真理だよ」
「そりゃ、どういう意味?」
「人間は自由じゃないということだね」
「なにに対して?」

 良い質問だ、と彼は言った。

「社会に、環境に対してさ」
「それは面白い話になりそうだな」
「その代わりに長いよ、誰も読まないだろうね」

 彼は笑った。

「社会の真理ね。そりゃ、面白い言葉だな」
「ドメインを付け足しただけだよ」
「そういうのがいいんだよ、マーフィーの法則みたいで新しいだろ」
「そうかい? 邪魔なだけだと思うけどね」
「おまえみたいな奴にはな」

 俺は笑った。

「あと質問は幾つ?」
「えーっと、100ってところかな?」
「じゃあ、あと30分で終わらせて、珈琲を飲もう」

 彼はうきうきとして、俺に言う。
 こういう人間がいることが俺は嬉しい。
 そして、俺の仕事に役に立つのがなお、嬉しい。

「いやー、まじ、助かるなー」
「いい記事は書けそうかい?」
「書けそうさ」

 俺は笑いながら言った。

「いい記事が書けそうじゃなかったことは一度もないね」
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「おはよう」
「おはよう。目覚めの挨拶はいつも、おはよう」
「そういうときに使う言葉だからさ、おはようって」
「それに、遅くても、おはよう」
「洒落? 起きたときが「おはようのとき」なんだから遅いも速いもないじゃない」
「おはようのときってなに?」
「コーヒー、淹れて」
「はいはい。いま、何時?」
「十時」
「朝? 夜? それとも、昼?」
「常識的には朝と昼の中間ってところだね」
「朝と昼に中間ってあったんだ、複雑」
「常識的な社会は複雑にできてるわけ」
「常識的じゃなくても複雑だと思うけどね」
「それはそれで真」
「なるほど」
「常識的じゃない社会は複雑ではないとはいってないからね」
「ごもっともです」
「あ、ついでにそんなに複雑なことでもないよね」
「そうだね。きわめて単純な部類に含まれるんじゃない」
「そうそう、私、今朝はスクランブル・エッグにウィンナーを焼きました」
「焼いてどうしたの?」
「赤音に食べさせました」
「食べさせたの、強引に?」
「いや、勝手に食べたんだけどさ。任意で。無理に食べさせたわけじゃないぞ」
「それで自分は?」
「自分て、私?」
「そう、私」
「ここにいる」
「いや、そういうことじゃなくて」
「食べてないよ。君と食べに行こうと思って」
「どこに?」
「料理屋さん」
「なにを?」
「なに、食べたい?」
「複雑な問題だね」
「きわめて複雑な部類に含まれるね。生肉とか生野菜とか生のものは食べたくないな」
「とりあえず、コーヒーでも飲もうか。時間の無駄だし」
「あー、だめだめ、今日は積極的に時間を無駄にしていくんだから」
「それは、また、贅沢だね」
「そう、今日は君と私で一日を贅沢に過ごすのです、オケイ?」
「スウェア・バイ・ゴッド」
「無神論者が神に誓うなよ。罰当たりな」
「無神論者だから神はいない。よって、神の罰は当たらない」
「そういうものかね?」
「さあ」
「じゃあ、有神論者だったら?」
「有神論者が神に誓うのは当然だから、神の罰は当たらない」
「よって、無神論者でも有神論者でも神の罰は当たらない?」
「そういうこと」
「本当?」
「なにが?」
「じゃあ、誰に神の罰は当たるわけ?」
「誰にも当たらない。世界が無神論者と有神論者だけなら」
「じゃなかったら?」
「無神論者でも有神論者でもない人には神の罰が当たる可能性があるんじゃない」
「なるほど……ふざけた神様ね」
「そう?」
「そうよ。つまり、関係ない人たちにだけ偉そうに罰を与えるわけでしょう?」
「そういうことになるかもね。関係ないの意味によるけど」
「あー、やだやだ」
「神様は優柔不断な人間に冷たいのさ」
「ま、所詮、神様も人間だってことか」
「いや、神様は人間じゃないと思うよ」
「無神論者のくせに。ところで、君は私と神様とどっちが偉いと思っているの?」
「僕の言葉がとどく距離にいるだけ、君のほうが偉いかな」
「なら、神じゃなくて、私に誓って」
「誓います」
「なにを?」
「なんだろう? もろもろ?」
「まあ、オッケイ、了解、ツィゴイネルワイゼン」
「ツィゴイネルワイゼン?」
「神様って何語喋るんだろうね?」
「さあ、いちおう、何語でも喋れるんじゃない?」
「キリスト教の神様がアラビア語喋ったら信者減りそうだね」
「エスペラント語を喋ったら笑うけどね」
「ああ、素敵ね、すっごい流暢に喋るのよ、たぶん」
「それで勢いあまって、最後にラヴ・アンド・ピースって言うわけ」
「神様、地が出ちゃった」
「アンド・オフェイリング」
「神様もお願いするよね」
「それで最後は親指と人差し指と小指だけを立てて、無言」
「手話だ!」
「神様も楽じゃないんだ」
「平和じゃないと儲からないもんね」
「神様会議で神様たちの神様を創ろうかみたいなことにもなるよね」
「そんなことできんの?」
「神様だよ? 当然、できるでしょ」
「神様に不可能はないのね」
「そんで神様の神様も、一階の神様たちがだらしないから疲れちゃう」
「神様の神様会議で、神様の神様の神様を創ろうって話になるわけ?」
「そういうわけ」
「大変だ」
「大変だよ」
「ところで、それ、なにを造ろうとしてるの?」
「これ? これは正四面体だけど。ちょっと、息抜きに」
「息抜きに正四面体を折るの?」
「これはね、ユニット折り紙といってどっちかってーと折るというより組んでるの」
「僕も以前、切頂八面体のスポンジを組んだことがあるよ」
「本当!」
「うん。やりだしたら止まらなくなってね、最終的には邪魔だったよ」
「ああ、スポンジだと埃も溜まりそうだしね」
「そうそう、酔っ払ったケムが煙草の火を紙に付けてね、火事になるところだった」
「ケムちゃんは昔から変わらないんだね」
「行動パタンと失敗パタンがほとんど同じなんだよね」
「そこまでのストーリィが想像できるわ」
「その後のストーリィも大体想像できると思うよ」
「で、君は多面体は折らなかったの?」
「面倒臭くなっちゃってね」
「致命的。ちなみに切頂八面体のスポンジはどのくらい組んだの?」
「机くらいかな」
「組みすぎだからそれ」
「止まらなくなっちゃって」
「それで飽きちゃったわけだ」
「飽きたというよりは、燃え尽きたといったほうが良いかも」
「は……もしかしてケムちゃんが……」
「そう、僕の部屋は燃え尽きた」
「ソフトじゃなくて、ハードが燃え尽きたわけね」
「そういうこと」
「あのね、そういうのは普通、火事になるところじゃなくて火事っていうんだよ」
「どっちでも大して変わらないよ」
「変わるって」
「それにしても、多面体は目がちかちかするね」
「そう? 可愛い多面体しか組んでないつもりだけど」
「可愛いとちかちかしないの?」
「そもそも、ちかちかするのがおかしいのよ。見て、この五角六十面体」
「五角六十面体……閉じるんだね」
「そう、近似形だけど」
「いや、すごいと思う、折るの大変だったでしょう」
「ガンダムっぽくない?」
「は?」
「わかるでしょ? 君だってその世代でしょ? 感じるでしょ?」
「うーん」
「わかんないかなー、常識人が見ればこれはガンダム形ということになるわけ」
「まあ、なんとなく……かもしれない部分は、あるかな」
「でしょ」
「それより、そっちに散乱しているクリーチャたちはなに?」
「ああ、そっちは立方体に立方八面体に斜方立方八面体たち」
「いや、個々の内容じゃなくてその数が問題だよね。見たところ百個はあるね」
「たくさんなきゃだめなわけよ」
「あの白い彼らの中でひとつだけ赤いやつはなんなの?」
「あれは唯一の切頂六面体にして彼らのボス、人呼んで赤の女王よ」
「君って最高だよね」
「ところで立方体と立方八面体と斜方立方八面体で空間充填できるって知ってた?」
「三種類で?」
「そう」
「いま、知ったよ。それでたくさんあるわけか。面白そうだね」
「でしょ。想像できる?」
「うーん、そうだね、ある程度は。立方体がどんな風になるのかがちょっと」
「想像力旺盛ね」
「想像できなきゃ、造れないんじゃない?」
「そうでもないよ」
「だけど、計算できないでしょ?」
「え?」
「いや、充填するのは良いけど、接する面の大きさとか計算しないと」
「あー、そこは造りながら調整するわ」
「すごいクラフトマンだね。コロンブスみたいだ」
「だから、とりあえず斜方立方八面体から造ってるわけ」
「あー、それはたぶん、立方体から造っていった方が良いと思うよ」
「なんで?」
「いや、良いんだけど。あとあと苦労しそうな感じはする」
「了解。コーヒー、良いんじゃない?」
「うん、お待ちあれ」
「なに、食べに行こうか?」
「僕がなにか作ろうか?」
「買い物に行かなきゃ」
「じゃあ、買い物に行こうか」
「よし、決定。でも、その前にちょっと仮眠したいんだけど」
「いいよ。一晩中折ってたの?」
「赤音が寝てからね」
「それはまた」
「止まらなくなっちゃって」
「なんで、赤音が寝てからなの?」
「赤音も眠れなくなるでしょ」
「……なるほど」
「それに君がまた問題出すから、赤音はもう暇なしって感じ」
「いや、まだまだ赤音の能力からしたら暇だと思うよ」
「能力的にはね。いまは時間的な拘束が問題なわけ」
「そう?」
「赤音に友達はいるのだらうかぁ」
「驚天動地の発言だね。いるいる、いっぱいいるよ」
「ま、いやいやってことでもないから良いとは思うんだけどさ」
「なに?」
「私が面白くないわけ」
「まあまあ、たぶん、お腹が空いてるんだよね」
「まあ、そうだね。美味しいものを食べよう」
「ところでさ」
「なに?」
「札幌駅のステラプレイス、わかる?」
「うん、新しくできたところね」
「そこのロゴマークがさ、いびつで変な星型をしているわけだ」
「それは知らないわ」
「僕はあれをロゴにする美的感覚は持ち合わせてないなぁ、美しくないよね」
「君が言うほどだから、それはなんだか面白そうなことになってるね」
「Star is Born とか書いててさ、Opera7.03 の売り出しかと思っちゃった」
「よし、じゃあ、それについてもなにか食べながら話そう」
「仮眠は?」
「睡眠欲は食欲に征服されました」
「おー、デンジャラス・アンド・エクセレント」
「死に接近する快感を、生きる欲望と衝動が跳ね除けたわけ」
「強靭だね」
「料理はやめて、やっぱり外食しよう。作ってられないわ」
「いいよ」
「さて、と……」
「どうしたの?」
「おはよう」
「目覚めたんだ」
「そう、大体、いまが「おはようのとき」なわけ」
「遅いね」
「遅いから、おはよう」
[PR]
 私は腕によりをかけて、四品の料理を作った。
 自分で言うのもなんだけれど、どれもこれもが美味しそうに見える。

「召し上がれ」

 私が得意げな表情で彼に言うと、彼は不思議そうに私を見上げる。

「なに?」
「さっきとは別人のようだね」
「別人なのかもしれないわ」
「なるほど」

 彼は「ふむ」と納得したように頷き、「食べていいの」と私に訊いた。
 私は「不思議な男だな」と思いながら、「待て」と言った。

「召し上がれって言わなかったっけ?」
「気が変わった」
「む」
「もしかして、むっとした?」
「いや、別に」
「ところで、この料理が食したいかな?」
「食したい」
「だめ」
「む」
「もしかして、むっとした?」
「いや、別に」
「食べたい?」
「食べたい」
「なぜ?」
「おなかが減っているから」
「面白くない」
「は?」
「面白くない」
「うーん」
「じゃあ、ちょっと、おなか見せてごらん」
「は?」
「いや、減ってるんでしょう、おなか?」
「うん」
「みせてごらん」
「じゃあ、こうしようか」
「なに?」
「どうして僕がキスしたときに君が泣いてしまったのかを、」
「ちょい、待ち」

 私はシウに包丁を突きつけた。

「泣いてない」
「泣いてたけどね」

 私はさらにシウの喉元に包丁を突きつけ、微笑んだ。

「泣・い・て・な・い……はい」
「泣・い・て・な・い」
「そうそうそうそう、ばっちりね、百点」
「ねえ、そろそろ、食べてもいいかな?」
「ああ、そうね、冷めないうちに食べちゃって」

 私もエプロンを外して、席に着いた。
 包丁はテーブルの脇に置き、果物ナイフで食事をする。
 箸を使うのが面倒くさいのでいつもそうしている。非常に便利だ。

「美味しい?」
「わからないけど、美味い」
「なにがわからないの?」
「表現」

 こいつは侮れないな、と思った。
 彼は私の揚げたジャガイモに悪戦苦闘していた。
 どうも食べなれていないようだ。ケチャップを差し出してやると子供のように微笑んだ。

 弟の世話をする姉というのはこんな感じなのだろうか。
 出逢って間もないけれど、どこか、なんでもしてあげたいという気持ちに私はなっていた。

「あんた、それつけすぎ。ケチャップはちょっとだけつけるのが雅なのよ」
「ミヤビ?」
「そう、なんていうの、粋っていうの?」
「イキ?」
「そうそう、適切な量をあえて少なめに設定することよ」
「それが、粋なの?」
「まあ、だいたいね。なんていうの、わび、さび? 遠慮っていうの?」
「知らないけど」
「恥の文化っていうやつ?」
「いや、知らないけど」
「まあ、だから、あんたはケチャップつけすぎってこと」
「なるほど」
「そうそう」

 私はポタージュ・スープを口にする。
 われながら、美味しくできている。
 本当に美味しい。

「頭、いいね」
「誰が?」
「君」
「あー、少なくとも、君に料理をご馳走できるくらいの知能は持っているみたいね」
「そうだね」
「そうね、ところでさ、美味しい?」

 私は彼の顔を覗き込んで、もう一回訊いた。

「美味しいよ。本当に美味しい」

 彼は私の目を見据えて、冷静にそう言った。
 私はそれが嬉しくて、嬉しくて、なんか、堪らなかった。
 ぶるぶるっと身体が震えて、気がつくと勝手に笑っていた。

「飲んでもいい?」

 私はビール缶のプルタブを押し上げながら、彼に訊いた。
 彼が「どうぞ」と言ったときには、すでに一口目を飲んでいた。

「襲わないでね」
「それ、僕の台詞」
「大丈夫。これでも、強いほうだから」
「なんか、ますます、心配」
「あ、ほら、ちゃんとサラダも食べてよ、トマトを食べなさい。トマトを」
「食べてます」
「じゃあ、きゅうり」
「はいはい」
「美味しい?」
「まあ、美味しいよね」
「ドレッシングはどうなわけ?」
「いける」
「でしょー。えへへ」

 そして、私は急速にアルコールに浸食され、気がつくとソファに横になっていた。
 薄暗い部屋の中で彼が食器を洗っていて、私はとても眠かった。
 彼が私の顔を覗き込んで「おやすみなさい」と言ったとき、私は涙を流していた。

 それだけは覚えている。
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 シウに会うのは久しぶりだ。

 昔はそれなりに仲が良かった気がするけれど、本当のところ、どうだっただろう? 暇があれば、二人で知合いの家を巡って酒を飲んだ。どちらかの煙草が切れたら、断わりなしに相手のを吸った。シウは大抵、ライタを持っていなかった。その代わり、適当な居酒屋のマッチを持っていることがあった。金の貸し借りはなかった。お互いの住んでいる場所を知らなかった。ただ、二人とも夜の11時頃には時間を持て余しているということは知っていた。だから、大体、俺らが連絡を取って遊びに繰り出すのはその時間帯からだった。

 シウの口癖は「寂しい」だった。真夏の夜、空が黒々としていた。湿った空気が俺たちを包みこみ、もうどこにも行かせないと俺たちをその白い椅子にがんじがらめに座らせた。ビア・ガーデン。足元の芝生。淡いライトの光。美しい夜の花壇。笑い声。喧騒。現実感がなかった。丸い、白いテーブルを挟んで、二人の女が俺たちの前に座っていた。きれいで、かわいい、けれど二人とも知らない女だった。四人でビールを飲み、なにを話したのか、笑っていた。馬鹿みたいに笑った。そして、三杯目のジョッキを空けたとき、シウは空だけを見て言った。

「寂しい」

 空はいつもの空だった。俺たち三人は笑った。けれど、かわいい方の女はシウの言葉に気付いていたのかもしれなかった。女は居心地の悪そうに笑った。その女はシウに届きそうだった。けれど、寸前で手を引っ込めた。それは無難な選択だったと思う。その女の微かな笑顔の違いに向かって、シウは最高の笑みを向けた。そして、四人で笑った。俺はシウを横目で見ながら笑い、これが「寂しい」ということなのか、と思った。

 シウは大人の雰囲気というものに憧れていた。けれど、決してシウは大人になろうとはしていなかった。俺が「そろそろ大人になんなきゃな」と言うと、決まって「大人なんて糞さ」と言った。シウがそう言うとき、その台詞はいつも棒読みだった。俺がそう入力すると、シウがそう出力するとプログラムされていたのだろう。そして、シウは言うのだった。俺は大人の雰囲気がほしいと。俺はある時、大人の雰囲気とはいったいなんなのかとシウに尋ねたことがある。シウはこう言った。

「もう、こどもじゃないってことさ」

 シウは言葉を使い分けることや、表現を選ぶことの下手な男だった。だから、シウの言うことを字面通りに捉えると、はっきり言って意味がわからなかった。実際、シウはそのおかげで人間関係では相当な損をしていたと思う。けれど、シウはそんなことには全然構わなかった。俺がそう言うと、シウは冗談めかした口調で「おまえがいるじゃないか」と言った。「俺はおまえのためにいるわけじゃないぞ」と言うと、シウは「いるだけで十分さ」と言った。数秒間、俺たち二人は黙り込むと「言葉って難しいよな」と言って、ウィスキーを飲んだ。会話のできない二人だった。

 しかし、シウの言うことには「力」があった。シウは理解できないことをしばしば言ったが、難しいことや複雑なことは一切言わなかった。いや、正確には言えなかったんだ。だから、いつもシウはそのことを悔しがっていた。「こういうのを頭が悪いって言うんだよな」とシウはウォッカを五杯も飲んだ頃には決まって言った。けれど、シウの言葉はその語の意味よりも、その「力」で俺にぶつかってきた。シウの言うことは破天荒だが、魅力的だった。なにより、嘘をつかなかった。いや、正確には嘘ってものがどんなものか知らなかったんだろう。だから、実のとこ、シウは人望が厚かった。そのことをシウは知らないし、知っても認めない。そういう男だ。

 シウはある日突然、俺の前から姿を消した。ぱちん。そこで、俺とシウの物語はおしまいだ。シウからの連絡はなかったし、俺もシウに連絡を取ろうと思わなかった。俺には俺の生活があったし、シウにもシウの生活があったはずだからだ。いや、素直にいうと、別にシウがいようがいまいが俺には関係なかったんだ。そういう、高尚な関係だったんだってことさ。気がついたときにはシウがいなかった。それだけだ。今日にもシウから電話があるかもしれない。その時にはまた、二人で酒を飲むだろう。そして、笑う。ただ、それだけだ。

 シウはそこにいた。
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 男を、拾った。

 私がこの町に帰ってきたのはつい、一ヶ月ほど前の蒸し暑い夜だった。田舎ではないけれどどこか閑散とした寂しい町。リンリンと鈴虫が鳴いていて、なにがそんなに哀しいのかと少しだけ気になったが、煩かったので草むらに石を二三個、投げ込んだ。

 コンクリートと奇妙なにおいというのが、私のこの町を思い浮かべるときのイメージだ。町外れにある工場の印象が強いのだろう。なにを造っているのか知らないし、もしかするとなにも造っていない工場なのかもしれないけれど、その、どこか世界とは隔絶された感じは私の中でなにかしらの位置を占めているように思う。

 灰色。

 そんな印象の強い町。そして、工場。私の住処はその工場が見下ろせる高台にあった。工場が見下ろせる高台に住処があるというのは、私の選択には関係ない。ただの偶然。帰ってきてみて気付いたのだ。その住処から工場が見下ろせることに。子供の頃は全然、気付かなかった。工場の存在すら、あまり覚えていない。私の子供の頃から、そこにはあんなにも大きな建物があったはずなのに。イメージだけが私の中に残っていた。

 なんにせよ、そんな工場の存在なんて別に大したことではない。工場なんてどこにでもあるし、私の生活にそんな工場なんてこれっぽっちも関係してこないからだ。私は朝方に寝て、夕方にはとことこと盛り場に出ていって荒稼ぎをするという、なんとも気楽な生活だ。お金もあるし、時間もある。度胸もあるから、これといって悩みごとも思いつかない。

 どうせだったら、悩みごとのひとつやふたつあったほうが暇をしないだろうと思う。淡白な性格というのは暇なのだ。まあ、そんな性格も手伝って、私がこの職業に向いているというのは確かだと思う。だって、すごい楽だもの。最低限の労力で最大限の効果を引き出せる職業。それが天職というものだろう。

 けれど、私がだらだらと疲れた、既にやる気の無い頭でハイヒールを引っ掛けて住処に辿りついたとき、最初に見える光景がいつも、なんの変化をみせない灰色の工場だということは、私にとってじわじわとなにかを馴染ませるようにして影響を与えている。まるで、アルコールと煙草の煙にまどろんだ暖炉の前で優秀な数学者になにかを語りかけられているように。

 ある日、私がいつも通り、住処に帰ろうと林道を歩いていたとき、道の端に人が倒れていた。とっさに私は死体だと思って近づいた。木に寄りかかるようにして倒れている。顔が俯き、長い黒髪が顔にかかっていた。最初は女かと思ったけれど、体付きががっしりとしていたので服を脱がせてみたら、やっぱり男だった。脈を取った。生きていた。生きているんだなと思った。

「君、だいじょぶ?」

 私は声をかけた。明らかに大丈夫そうに見えたし、まあ、生きているから大丈夫でしょと思ったけれど、体調はやっぱりちょっと悪そうだった。顔色が悪いし、やせ細ってる感じはする。面倒臭いから、あんまり関わりたくなかったけれど、私は手を差しだした。

「シウ」

 彼がそう口にした。可愛い声だった。見た目通りといった感じ。とは言っても、身体に切り傷やら、刺し傷があるのがわかっていた。そのギャップがまた、私には面白かった。自分でも、不思議なほど冷静にこの男に興味を抱き始めているのが理解できた。私の中の理性がこういった場合のもっとも理性的な対処の仕方を弾き出そうとしていた。難しい問題に思えた。

「シウ? 君の名前?」
「まあ、そういうことになるよね」
「そりゃまあ、珍しい名前だこと」

 偽名だと思った。そもそも、苗字がわからない。「シ・ウ」という名前だったら面白いなとか思ったけれど、たぶん違うだろう。けれど、名前なんてなんだって良かった。私だって、どれが本当の自分の名前なんだか忘れてしまった。本当の名前って戸籍上の名前なんだなと思うたびに「そんなもんなのかな」と思ってしまう。別に何だって良かった。私が決めたわけじゃないし。もし、彼の名前が偽名なんだったら、そのほうが良いなとすら思った。少なくとも、それは彼が自分で付けた名前だからだ。

「うちにおいで、それに、あそこを目指していたんでしょう?」

 私は林道を抜けた高台にある、小さい住処を指差した。
 彼はうんうん、あるいはそうそうといった感じで頷いた。
 私は彼を起こしながら言った。

「なんか、君のこと、わかりそうな気がするわ」
「そう?」
「ええ、なんで、あんなところで寝ていたの?」
「あ、寝てたってわかった?」
「もちろん」
「麓では警察に捕まりそうになったよ」
「物騒ね」
「かな」
「いや、そうでもないかも」

 私は笑った。久しぶりと言えたかもしれない。
 私はこのとき、部屋を掃除しておかなかったことを急速に後悔した。
 けれど、同時に私が部屋を掃除していたら、彼に会わなかったかもなとも思った。

「昨日、買い物しとけば良かったわ」
「僕の為に?」
「そう」
「そりゃ、無理だ」
「いや、なんか予感はしてたのよ」

 そのとき、彼が私にキスをした。
 なんだか、前にもこんなことがあった気がする。
 いつの間にか私は泣いていて、彼がそれを見て、微笑んだ。

「不届き者め……」
「予感はしてた?」
「ちょっとね」
「もう一回しようか?」
「したら殺す」

 怒りというか、やけに切なかった。
 自分はなにかを忘れている気がする。
 私は彼の腕を肩に担いだまま、黙って道を上り続けた。

「これが、ここからの景色よ」
「…………」

 彼は黙って、頂上から工場を見下ろしていた。
 不思議な男だった。魅力的、といえたかもしれない。
 私は住処の脇に彼を置いて、気付かれぬよう、急いで家に入った。

「ああ、忙しい……ああ、忙しい……」

 ばたばたと部屋を片付け、着替えなどをしながら、私は笑っていた。
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「洒落た喫茶店ですよね」

 例によって僕はそんなことを思案し、思わず口にした。

「こういうのは、オープン・カフェって言うんだよ」
「じゃあ、他のはクローズド・カフェってことですか?」
「うん、まあ、そういうことになるよね」
「開いてますよ」
「え?」

 先輩が本当に意外な顔をした。たぶん、思考は別のところにあるのだ。
 大して、愉快でもない洒落だった。僕は引き下がることにした。

「いえ、なんでもないです」
「ん、そう……」

 先輩は身体はでかいが、気は小さい。態度も小さいが、動作はでかい。
 幸・不幸は僕にはわからないが、奇麗にできてるなと思う。
 今日、そんな先輩に、僕は呼び出されたのだった。

「それで、今日は何の用でしょう?」
「もしかして、機嫌悪い?」
「いえ、どうかしました?」
「いや、急に呼び出したしさ」
「いえ、全然大丈夫ですよ。先輩にも会いたかったし」
「そう……」
「ええ、問題ありません。まあ、暇ではないんですけれどね」
「すまん」
「いえ、そういう意味じゃありません」
「どういう意味?」
「先輩に会うという予定がありますから」
「え?」
「つまり、先輩に会うために暇ではないんです」
「ああ」
「僕に暇な時間はありません。それは言葉の上の問題です」
「そういう奇妙な思考回路は僕にはないな」
「だと、思います」
「不健全だ」
「かもしれません」
「しかし、別に悪いことではないと思う」
「当然です」
「うん」
「先輩、切れますよね」
「褒めてるの?」
「ええ、そのつもりですけど」
「下手だね、止めた方が良いよ」
「あー、やっぱり。練習中なんです」
「暇なんだね」
「そうなんです」

 僕は吸っていた煙草を灰皿に押し付けた。

「身体に悪いね」
「煙草ですか?」
「うん。煙草の煙かな? ニコチン? タール? その他?」
「灰ではないでしょうね」
「そうなの?」
「僕にとっては。ちなみに煙草の灰って肥料になるんですよ」
「まあ、いいさ。健康が絶対善だとも思わないし」
「ええ、ええ」
「吸って、吐かない煙草があれば完璧だと思うよ」
「そうですね。吸うことよりも、吐きだすことが問題ですよね」
「そうだね」
「あと、副流煙」
「ああ……もっと、高温で燃焼するシステムにできないのかな?」
「難しいと思います」
「だよね」
「噛み煙草とかあるんですけどね」
「ふーん」
「嗅ぎ煙草とか」
「粉みたいなやつだよね、あれいいじゃん」
「そうですね。直接、口内とか鼻の粘膜から摂取するからなかなかいいんですよ」
「なるほどね、みんな、それにすればいいのに」
「しかしね、手に煙草を持つ手間が消滅してしまうんです」
「手間?」
「ええ、手持ち無沙汰の解消なんですよ、結局、煙草ってやつは」
「なんだいそりゃ?」
「喫煙者の質が低いわけです」
「ふーん、量の増加は質の低下につながる」
「そうですね。全体量の低下から、質の向上は望めませんかね?」
「無理だろうね」
「そうですかね?」
「そもそも、全体量が低下しないと思う」
「ごもっともです」
「それに、それって、そもそも質の向上とは無関係じゃない?」
「そうですね。詭弁ってやつですか」
「そうだね。意識の問題だよね、やっぱり」
「自分のコンプレックスは、他人にも適用して認知する」
「それ、心理学だっけ?」
「ええ、確か。太っていることを気にしている人は、他人が太っているか気になる」
「髪の少ない人は、他人の髪の量が気になる」
「あー、それわかりやすいですね」
「わかりやすいものは誤解も多い」
「わかりやすさと、誤解の少なさ、先輩ならどっちを選択しますか?」
「時と場合による」
「なるほど」
「君の場合は、誤解の少なさだよね」
「ええ」
「怖いなー」
「なんでです?」
「君ってさ、向いていないのにそういう方向に向かって行ってるんだよね」
「先輩、抽象的過ぎ」
「具体的に言えないもの」
「もうちょっと、なんとかなりません?」
「ならないなあ、面倒臭いしさ」

 殴ってやろうかと思った。ただ、先輩との会話は楽しい。

「だけど、吸いすぎじゃない?」
「え、そうですか?」
「もう、山になってるけど……」
「あー、そうですね、気がつけば、箱が空だな」
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないです。問題ありません」
「もしかして、場所悪かったかな? ずいぶん、賑やかだし」
「いえ」
「女の子が多いしね、この店」
「いえ、大丈夫です。それで、なんですか、今日は?」
「ホントに大丈夫?」
「どうしてです?」
「いや……大丈夫だって言うんなら、良いんだけど……」
「ええ」

  沈黙。

「やっぱ、止めよう。今日は」
「どうしたんですか?」
「悪いね。こっちから、呼び出しといて、ごめん」
「いえ」
「代金とかはさ、もちろん、僕が持つから」
「…………」

 そう言って、先輩は立ち上がった。

「もうちょっと、自分で考えてみるよ。やっぱり」
「はあ」
「なんか、会えてよかったな。うん」
「僕のほうこそ」
「近いうちに、また、会いたいんだけど、良いかな?」
「問題ありません」
「じゃあ、連絡するから」

 そう言って、先輩はしばし、悩むように直立した。

「どうしました?」
「いや、その……」
「なんですか、先輩。なんでも、どーんとオッケイですよ」
「ああ、じゃあさ、その、君、女性と、交際したこととか、あるよね?」

 交際って、先輩……素敵だなぁ。

「ありますよ」
「ああ、うん……どんな感じかな?」
「先輩、抽象的過ぎ。なにがですか?」
「うーん、それは、言えないな」
「言って」
「う」
「う、じゃない」
「あー、もう、ちょっと、考えることにするよ」
「ええ、たぶん、それが良いと思います」
「だよね」
「けど、先輩はなにも考えないほうが成功するタイプかも」
「え、どういう意味?」
「それを考えないって意味です」
「はあ、なんか、自分で自分が情けないよ」
「素敵ですよ」
「惚れそう?」
「惚れましたよ」

 笑った。

「じゃあ、また、次の機会に」
「はい、頑張って下さいね」
「え、なにを?」

 僕は苦笑して、無言で両手を上に向けた。
 先輩は笑って、去っていった。
 一人になる。
 笑い声。
 喧騒。

 ざわざわ、ざわざわ。

 自分の笑顔が、消える。

 空のグラスと誰もいない正面の席。
 いつか見た光景。
 またかよ。

 僕は煙草の空箱を開けて、中を覗いた。
 白い箱の底に、小さい煙草の葉がわずかに落ちている。
 なんの役にも立たない、英雄たちからこぼれ落ちた、見向きもされないゴミ。

 灰にも、煙にも、何にもなれなかった、煙草の残り葉。

「これが、僕だな」

 僕は笑った。
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 洒落た喫茶店だ。いや、こういうのはオープン・カフェって言うんだっけ? まあ、とりあえず洒落ている。賑やかだ。僕の印象を率直に言うと「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」みたいだ。ルノワールの不朽の一枚。モンマルトルの華やかな情景。しかし、あれはカフェじゃない、ダンスホールだ。ちょっと、素人の僕には踊るスペースを見つけだすのに苦労しそうな感じがする。

 僕は、目に写る模様に色がごちゃごちゃとあるというのは、あまり、好きじゃない。だから、僕は印象派の画家は素晴らしいし、その絵画も美しいとは思うけれど、長いことそれを観ていると哀しみを感じだすので、あまり、好きじゃない。いや、好きなんだけれど、毎日だと食し飽きる、そんな感じだ。その画風に反して、大事なものが、なにも隠されずにはっきりと映し出されているように感じてしまう。僕はそれを前にして立ち竦む。卑怯な絵画だといつも思う。

 それにしても、ここには久しぶりに来た。大勢の人がいて、女性がその大半を占めているように思う。それも若い女性だ。もしかすると、女性のように見える男性が混じっている可能性は否めないけれど、まあ、大体、見た目が女性ならば女性だろう。「女性」という言葉の定義などその程度のものだ。大した意味などないし、それで問題もなければ、障害もない。ちなみに、僕はそれほどのフェミニストでもない。思うがままなだけなのさ。

「頭の休まる暇がない。疲れるな、ここは……」

 僕は溜め息をついた。僕は時間通りについているのだが、僕を呼びだした側の人間が遅刻している。まあ、僕が遅刻したわけではないから別に構わないけれど、ここの代金は向こう持ちにしてもらおう(あまり知られた話ではないが、僕はそういう人間なのだ)。相手が到着したのは約束の時間から30分遅れた正午過ぎだった。

 僕はその間にクラブ・ハウス・サンドを食し、コーヒーを二杯飲んだ。相手が来たときにはさらに店内は混雑しだしており、端的に煩かった。この空間を絵にして擬音を書き込んだら、たぶん、このコマは真っ黒になってしまうだろう。そんな感じだ。逃げ出したいほどだった。

 ヒナは僕の対面の席に腰掛けた。昔の面影がある。幸の薄い顔だ。あまり変わっていない。何かしら疲れたような表情をしているが血色は良かった。咄嗟に手首を確かめたが、傷などもないようだ。まあ、いまどきリストカットは流行らない。見たところ薬をやっている雰囲気もないし、オーバドーズの心配もなさそうだ。つまり、端的に暗い男だ。それはそれで可哀想と言えるかもしれない。まあ、余計なお世話だと言われそうな感じでもある。あえて言うならば不眠症っぽい感じはするが、単に寝不足なだけかもしれないし、その可能性のほうが高い。

「久しぶりです」
「うん、そういうことになる」
「変な喋り方は相変わらずですね」
「ヒナでいいのかな?」
「ええ」

 ヒナは微笑んだ。それを見て、僕は少し落ち着いた。
 ヒナの笑顔は周囲の喧騒を少しの間だけ、僕から忘れさせた。
 初めて自分が緊張していたのだということを認識する。そして、微笑んだ。

「ちょっと、食べて飲む時間があったよ」
「ええ、すいませんでした、遅れて。もちろん、代金は僕が持ちます」
「俺が出すよ。俺が食べたものだし」
「いえ、僕が呼んだんですから。遅刻ですし」
「じゃあ、ご厚意に甘えて」

 ひととおりの常套句を交わして、僕は伝票をヒナの前に移した。

「それで、どうしたんだ、急に呼び出して?」
「ええ……」

 僕はヒナが喋るのをじっと待った。それが会話の定石だ。一般的なお喋りに慣れてしまっている人間はこれができない。僕がヒナに呼び出されたのだ、ヒナになにか喋りたいことがあるに決まっている。それを相手の調子でゆるゆると、さらさらと聞いてやらなければ、僕の価値は無いといえる。何にせよ、問題を解決するのはヒナなのだ。というわけで、

「まあ、とりあえず、なにか食う?」

 僕は息を吐いて、背を伸ばした。長い思考は逆に言葉を失わせる。ヒナが喋りやすい状況を作ってやらなければ、まあ、ヒナが僕を呼び出した価値は無いといえる。ヒナの悩んでいる問題は確かに重要なものかもしれないが、そこまで深刻なものではない、思考を変えれば方法はあり、気楽に物事にあたることが可能なのだと示唆することは相談のひとつのテクニックとして有効だ。付け加えるならば、これは詭弁なのだけれど、はは、問題じゃない。

「じゃあ、なにか、食べましょうか?」
「ちなみに俺はもう、食べたんだけどね」
「なにか食べませんか? おごります」
「じゃあ、ビフテキ、あるかな?」
「ビフテキ?」
「そうそう、ビフテキ」
「うーん、ないですね。すみません」
「いや、ヒナが悪いわけじゃないよ。アイリッシュコーヒーが飲みたいな」
「じゃあ、それにしましょう」
「ありがとう」
「いえ、そんな」
「ヒナは?」
「えーと、あんまり、おなか減ってないんですけど……」
「無理して食うなよ」
「はい。じゃあ、僕はアイス・ティ」

 僕が手を挙げるとウェイタが器用に混雑した店内を縫うようにやってきた。
 笑顔で注文を取ると、また、器用に人間の海の中へと乗り出していった。
 熟練された動作が美しかった。用は慣れなのだろうな、と思った。

「さて、それにしても、賑やかな場所だな」
「ええ、そうですね」
「人がいっぱいいる」
「ええ、僕たちもその中の一部なわけですね」
「うん、ちょっと、不思議な感じがするな」
「そうですよね」

 ちょっとした、沈黙。

「僕、もしかしたら、死んだほうがいいのかな、とか思うんです」

 ヒナが急にそう言った。ここでそんなことは言うもんじゃないなんて言ったら台無しだろう。絶望的に言ってはいけない言葉だ。相談というのは僕が相手になにかを諭すわけではない。僕を反射鏡にして相手自身が自分の言葉の、思考の整理をつける行為だ。相手が話し出したものをいきなり否定するなど、はっきり言って相手に死ねと言っているようなものなのだ。おまえの言っていることは間違っていると叩きつけるのだからね、まあ、そういうわけだ。

 相手の言うことは受け入れる。それが、こういった場合の定石だ。まあ、程度によるのだけれど。深刻な場合ほどこの傾向は強い。それにそもそも、僕にはそんなことを言う権利などないのだ。ヒナの選択する生と死とに、僕は責任を持つことなどできない。

「それで、ヒナは死にたいの?」
「いえ、なんていうか、そういうんじゃないと思うんです」
「そっか」
「はい」
「それで、死ぬのか?」
「迷ってます」
「そっか」
「…………」
「なんで死にたいと思った?」
「いや、それは……」
「言えない?」
「言えません」
「わがままだなあ」
「すいません」
「いや、別にいいよ。問題ない」
「すいません」
「だけど、ヒナ。これで勝手に死んだら、恨むからな」
「え」
「理由がないならないと俺に教えてから死ねよ。じゃないと目覚めが悪い」
「なんて、わがままな……」
「そんなこと、知ってるだろう?」
「まあ、そうなんですけどね」
「ああ、なんか腹が減ってきたぞ。減らない?」
「さっきよりは」
「なんか食べる?」
「でも、まだ、さっき頼んだものきてませんよ?」
「む、」
「まあまあ、気長にいきましょう」

 僕はこのとき、ほっと一息ついた。

「それとも、時間、ありませんか?」
「いや、全然大丈夫」
「よかった……」
「うん。まあ、暇なんだよね」
「そうなんですか?」
「そう、たまに外に出ないとね、やっぱし。ヒナにも会いたかったし」
「僕も、心配だったんですよ」
「なにが?」
「いや、先輩が」
「なんで?」
「いや、それは……」
「冗談だよ。だから、ここ、だったんだろ?」
「はい」
「露骨だよな、ヒナ」
「すいませんでした。いやでしたか?」
「そういうわけじゃない、ただ、来るのは久しぶりだった」
「会うのも久しぶりでしたしね」
「そうだな」

 ざわざわと空間にはノイズがひしめいていた。懐かしい、と思う。
 それは、僕をこのままどこかへ連れ去ってしまうのではないかと感じた。
 目に飛び込む数々の色、肌を打つざわめき、人々の発する輝き。変化するもの。

 いつか、どこかで僕はこれを鮮烈に感じ、そして、暖かい幸せに満ち溢れていた。
 今頃になってから、あの一瞬一瞬がかけがいのなかったものだと理解できる。
 しかし、もう、戻れない。そこには戻れないのだ。

 僕は、前に進むしかないのだ。

「ヒナ」
「はい?」
「ヒナは死なないよ」
「…………」
「なんとなしにね、そんな気がするのさ」
「そうですか?」

 ヒナが笑った。

「それと、俺はヒナに死なないでほしいんだ」

 僕は苦笑して、ヒナに言った。
 ヒナはきょとんとして、俯いた。

「それ、誰にでも言うんですか?」
「いや、死なないでほしい人にしか言わない」
「僕以外の人に、その言葉を言ったことはありますか?」

 ヒナが顔を上げて、僕の目を見て、僕の向こう側に向かって、尋ねた。
 その表情を見て、格好良いなと思った。僕にはもう、ないものだった。
 指先と両腕から力が抜けていった。

「いや、ない」

 そう言ったとき、やっと、ウェイタがアイリッシュ・コーヒーとアイス・ティを運んできた。
 テーブルの上にはふたつのグラスが並び、その情景を見て、僕はどきっとした。
 顔を上げると、そこにいるのはヒナだった。

「すいません」
「別に、なにも悪いことはしてないさ」
「…………」

 ヒナは考え込むように、再び俯いた。

「先輩。また、会えますか?」
「会えるさ」
「明後日の今日と同じ時間に、また、会いたいんです」
「それは約束した時間か? 遅刻してきた時間か?」
「11時半に」
「もちろん、いいさ。また、30分遅刻してきたって良い」
「感謝します」
「どういたしまして」

 そこでヒナは立ち上がった。そして伝票を引き抜く。

「じゃあ、これで失礼します。今日はありがとうございました」
「いや、こちらこそ。ずいぶん、ご馳走になった」
「それは当然です」
「そういうものかな?」
「そうなんです」

 ヒナが「それでは」と言って立ち去ろうとしたとき、僕は最後に声をかけた。

「ヒナ」
「はい?」
「嘘、ついただろ?」
「誰にですか?」
「自分の胸に訊けばいい」

 ヒナは小首を傾げた。そして、言う。

「ついてません」
「わかった、明後日、楽しみにしている」
「ええ」
「変なこと言って、悪かった」
「いえ、気にしないで下さい」
「うん」

 僕が頷いて微笑むと、ヒナは一瞬迷い、ためらいがちに言った。

「けど、先輩。僕だって、どこかで誰かには嘘をつきますよ」

 それは、その通りだと思った。

「そうだな」
「そうですよ。先輩らしさ減少です」

 そう言って、ヒナは笑った。

「先輩、煙草、我慢していたんでしょう? 僕が吸わないから」
「ん? さあ、どうだっけ?」
「ここ、禁煙席ですし。驚きましたよ、先輩が禁煙席にいたとき」
「そう?」
「ええ、昔は、あの窓際の、比較的静かな隅の席に座ってましたよね」
「もう、忘れた」
「そうかもしれません」
「だよな」
「けど、先輩……」
「なんだ?」
「僕も、いまは煙草吸うんです」

 そう言って、ヒナは懐からシガレットケースを取り出して、僕に見せた。

「研究、頑張って下さい。偉大な先輩。そして、無理をしないで」

 そして、ヒナは去った。
 僕は何も言うことができずに、数分後、やっと右手で頭を抑えることができた。
 そして、あちこちに散らばってしまったものを、必死に両手でかき集めた。

 もう、すべては手遅れだった。

 僕は、グラスから氷を一個取り出すと、左の手のひらに乗せた。
 じんわりと氷が溶け出し、やがて水分は溢れ、零れ落ちた。
 僕はそれをじっと見つめ、ただ、それをじっと見つめた。

 なにも感じなかった。
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