荒涼とした大地が見渡す限りに広がっていた。
 空があり、大地があり、私がいた。
 基本的にはそれしかなかった。

 世界があまりにも大きく、儚げに横たわっていた。

 天に青、地に黄色、その狭間にあるべき緑は小さく、その身を茶色に変化させていた。
 私はそれらの色を見て、はたして私の色は“なに”なのかと思考した。
 しかし、その時、私に色は必要なかった。

 何者もいなく何物もなく、私は私の意思のみによって空をも飛べるはずだったのだ。

 しかし、私は空を飛ぶことには魅力を覚えなかった。いや、空を飛んでしまっては、私は降りるべき場所を定められないのではないかと思ったのだ。つまり、正確には魅力がないわけではなかった、ただ、それ以上に不安があっただけである。

 だから、私は歩くことにしたのだ。

 そのことを決めたとき、私はとっくに自分が歩き出していることに気づいた。
 それははっとするほどに唐突でしかし、瞬間に身体に馴染みこむほどに当然だった。
 私はとっくに地の上を歩いていた。

 私は空をも歩けるはずだった。

 しかし、私は大地を歩んだ。
 地を踏みしめ、哀しくなるほどに広大な平面の上を、坦々と私は歩んだ。
 そこでは、私が進んでいるのか、大地が私を通り過ぎていくのか、わからなかった。

 とてもではないが、そんなことは私にわかりようもなかった。

 もしかすると、私はただ、ばたばたと同じ場所で足踏みをしているだけなのかもしれなかった。そして、突き抜けるほどに高い青空と、大地、私の立つ大地とだけが、飛ぶように過去へと過ぎ去っていく。ただ、それだけのことかもしれなかった。

 私は歩きたかった。

 私は歩きたかったのだ。
 空を飛ぶのでも地を駆け回るのでもない、ただ、自分の意思のままに歩きたかった。
 しかし私は、私の意志と希望を置き去りにしてとっくのとうに歩いていたのだった。

 私は歩いていた。

 いつから、私は歩いていたのだろう?
 何故、私は歩いているのだろう?
 私はいったい、どうして歩いているのだろうか?

 私は歩きたかった、けれど、歩いていたくなかった。

 私は立ち止まった。
 それ以上は決して、歩けなかった。
 私の意志は空高く舞い上がり、はるかに遠くから私を見下ろし、私をせせら笑った。

 私は、私の意志によって、歩かなければならなかった。

 私はもう、歩きたくなかった。
 私は歩きたいのに、私はとっくに歩いていたのだ。
 私は歩きたいのに……、歩きたい……歩きたいのに……。

 すでに、私は歩いていたのだ。

 なぜ、どうして、いつから、どのようにして、誰が……私を歩かせていたという?
 私は私の意志によってのみ、歩き、進み、歩み、空をも飛べるはずだったのに。
 どうして、私はもう、歩いている?

 私は私の意志によってのみ歩き、そして何ものも私を歩かせることなどできない。

 できないっ!
 私は、歩かない。
 私は歩けない……私は歩きたいのに……、私は、歩きたかったのだから。


 そこは不思議な世界になった。


 私の頬を生暖かい風がなめるように滑り、私の身体がじとっと湿った。
 いつの間にか太陽が、高い位置から無表情に私を照りつけている。
 私の周りには、たくさんの人がいて、たくさんの人が歩いていた。

 私は独り、立ち止まっていて、たくさんの人は、足早に私を過ぎ去っていく。

 私は発狂しそうな頭を抱え込み、ただ黙って、すべてが過ぎ去るのを待った。
 しだいにすべての音は薄まって、しだいに私も薄まって……。
 しだいに世界は不思議さを落ち着かせた。

 そして気がつくと、私はまた歩いていた。

 私は歩いている。
 私は最初から、ただ歩きたかっただけなのだ。
 そして、そう思ったときには、私は、不幸にも、歩いていた、ということなのだ。

 私は立ち止まった。

 いま、私は歩いていないのか?
 いま、本当に、私は立ち止まっているのか?
 それは、決して、どうやったところで、私にわかることではなかった。

 そこは、不思議な世界だった。

 私は右足を前に向かって踏み出した。
 すると、私は一歩、後へ進むのだった。
 私は混乱する頭をぶんぶんと左右に振りながら、右足を前へと踏み出した。

 私は一歩、後へと進んだ。

 私は前へ前へと進むたびに、一歩、また一歩と、後へと進んでいった。
 私は脇目もふらずにどんどん前へと足を出した。
 そして、どんどん後へと進んでいくのだった。

 ………………?

 私は左足を背後へ向かって踏み出した。
 すると、私は一歩、前へと進むのであった。
 私はぐるぐると錯綜する思考を上下に収納しながら、左足を後へと踏み出した。

 私は一歩、前へと進んだ。

 私は後へ後へと足を出し、一歩、また一歩と、前へと進んでいった。
 私は地平線だけを求めてどんどん後へ足を出した。
 そして、どんどん前へと進んでいくのだった。

 そこは、ただそれだけの世界だった。

 私が足を前へと踏み出すと、私は一歩、後へと進む。
 そして、私が足を後へと踏み出すと、私は一歩、前へと進むのだった。
 そう、ただ、ただただ、それだけの不可解さで、この世界は成立していた。

 じゃあ、私がここで跳ねたらどうなるのだろう?

 埋まるのか?
 ふふふ。
 私は、笑った。

 じゃあ、私がここで横に足を踏み出したらどうなるのだろう?

 どこに行く?
 右に出したら左、左に出したら右?
 ふふふ、右と左はどうやって決めようか?

 どちらも横だ。

 私は、笑った。
 私はもう、私が歩いているのか、歩いていないのか、わからなかった。
 私はとっくのとうに歩いていたし、とっくの昔に歩くことなどやめたのだから。

 私はもう、そんな些細なことに迷うことなどやめたのだ。

 私はこの不思議な世界の真ん中で考えた。
 右足を一歩前へと出し、私は一歩、後へと進んだ。
 左足を一歩後へと出し、私は一歩、前へと進んだ。

「まて、ということは……」

 左足を一歩後へと出し、前に一歩進んだのだとすれば、
 前進したときの一歩は、いったい右足と、左足の、どちらが歩んだものなのだろう?
 私の左足は後にあり、私の右足は前にあった。

 なんだ。

 結局は、同じこと。
 大事なのは、そんなところにはなかった。
 理屈などはわからなくとも、私は歩んでいくことができた。

 そして、いつも、そのようにして私は歩んでいて、そのようにして私は休んでいる。


No thanks, I will walk it.

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 彼女に話しかけられるのは、それが三度目だった。

 彼女は火曜日に限って僕が大学を遅く帰ることを知っていたし、その時間には僕が音楽棟の34号室でピアノを弾いていることも知っていた。ややもすると彼女は僕のことなら何でも知っているという人間かもしれなかった。

 しかし、実際ところ、まあまず彼女は僕についてほとんど何も知らなかった。そんなだから、彼女が僕の名前を知っていて、しかも僕の性別をも判断できたというのは僥倖だと言えた。そうでなければ、その時の出会いというのは根本からしてわけのわからないものになっていたに違いない。

 付け加えると、僕の方は彼女について、からっきし何も知らなかった。

      *      *      *

「ねえ、いいかな?」
 練習室のドアを開けて黙って部屋に入ってきた女性に、僕は言った。
「何かしら? 口説こうっていうんなら無駄よ。私、こう見えてもそういうの嫌いなの」
 彼女は短い髪を指でねじりながら、僕を見ずにそう言った。
 いったいどういう了見なのかわからないがいやはや良い度胸をしている
 僕は出会って十数秒の不躾な女性を目の前に怒りや苛立ちを通り越して感心していた。

「いや、そういうんじゃなくてさ」僕は年下と思えるその子にしても、礼儀をわきまえて質問した。「あなたはいったい誰なんですか?」
 僕のその質問に彼女は「ああ……」と、さも、やり忘れたどうでも良い仕事を自宅の風呂場で思い出した人のように数回、頷いた。

「知らない?」
「知らないね」
 僕は言った。まぎれもなく彼女は知らない人だった。記憶にない。
「失礼ね」彼女は言う。「前にも二回話しかけたのよ、だからこれで三回目」
「それは失敬……」

 僕は彼女に頭を下げた。
 僕は確かにそういうところがあるのだ、何回か会ったことがある人のことでも特別重要なことでもない限りは忘れっぽいところがあったし、顔などで認識することも少ないので名前を言われてはたと過去の出会いを思い出すことがあるのだ。

 それにしても、なぜ、僕のピアノの練習中に突然押し入ってきた不躾な女性に対して、僕がすまない気持ちで頭を下げているのか、客観的に状況を見返してみるといささか理不尽なところがあった。ほとんどが未知といえる人の名前と存在を忘れてしまうことはそれほどの罪だっただろうか。

「もしかして、また、忘れたりする?」
 彼女は小首を傾げてそう言った。
 それがちょっと女性らしい仕草だったので僕はどきりとする。
「いや、忘れないと思う。こんな出来事はハロウィン並に滅多にないよ」
 僕は両手を上に向けて少し笑うと「日本のハロウィンね」と付け足した。

「それは、光栄だな。意味はわからないけど」
 彼女は微笑んだ。そして自分の名前を言って「忘れないように」と言った。
「それで、なにか僕に用事でもあるのかな?」
 僕はそう言って、彼女に部屋の奥にあるパイプ椅子をすすめた。

 練習室はピアノがあるだけの三平米ほどの空間だ。入り口付近で立ったままというのはやはり幾分窮屈だった。まあ、座ったら広くなるのかといわれれば、確かにそんな事はない。けれど、そのまま立たせておくのも失礼かと思った。

 彼女はすすめられるままに部屋を移動し、ピアノのすぐ横の壁にある窓から外を眺め、その暗さに目を細めるとパイプ椅子に座った。そして、「本当に失礼な人なのね」と呟いた。

 僕はよっぽど「君ほどじゃないよ」と言おうか言うまいか、本当に悩んだけれど、そんなことを言っては「本当の本当に失礼な人」にされかねないなと身の危険を感じ、その言葉を飲み込んだ。しかし、僕はどうして彼女にそこまで「失礼な人」にされなければならなかったのだろう。女性と二人だけの世界というのはどうやら、どうしても男性に理不尽になるようにできているように思えてならなかった。

「どうして、いつも同じ靴なの?」

 彼女は唐突に言った。それは状況から考えて間違いなく僕に向かって言われた言葉だったし、「僕に言ったの?」と尋ねると「それ以外に誰がいるの?」と彼女は微かに笑って言った。そこで「誰もいない?」と僕が尋ねると「そうね、私には何人か見えてるけど、普通はそういうのはいないものとして扱うわね」と言った。

「いまって普通の状況かな?」
 僕は辺りを見回しながら、彼女に訊いた。
「普通じゃない、これ以上ないほど普通よ」彼女はさも当然のように言った。「死体もないし、死骸もないし、敵も獣もいないじゃない。これ以上、何を望めば普通になるって言うの?」

 僕はよっぽど「普通の人」と言おうか言うまいか悩んだけれど、結局はその言葉も飲み込んだ。僕自体が「死体か、敵、あるいは両方」にされる危険性が彼女には潜んでいた。そうだな、その通りだと思うと僕は頷いた。
 彼女はにっこり微笑んだ。それは、まさに子供のような笑みだった。

「それで、なんであなたって毎日同じ靴をはいているのかしら?」
 彼女は一寸前とは打って変って大人びた口調でそう言った。
「毎日毎日黒い革靴、かかとも磨り減ってるじゃない」
「そうだね」
「知ってる? 靴ってね、何足かを順番に変わりばんこに履いたほうが全体的に長持ちするのよ」
 彼女は当然とした表情で言った。

「知ってるよ」
 僕は簡単に頷いた。
「じゃあ、なんで、毎日その同じ黒い革靴履くのよ? なんかその靴に怨みでもあるわけ?」
「いや、怨みどころか大好きなんだよ、僕はこの靴がさ。かかとが磨り減るくらいにね」
 僕がそう言うと、彼女は呆れたといった面持ちで首を横に振った。

「あなたがその靴を好きでも、その逆はどうかしら。あなた、嫌われてるわよ」
「この靴に? 本当?」
 僕は驚いた。彼女は靴の気持ちが理解できる人間のようだった。
「本当よ。どうしてそれしか履かないのよ?」
 彼女は質問を繰り返した。
 僕は正直戸惑った。
 それがあまりにも悪いことのような気がしてならなかったからだ。

「いや、これしか持ってないからなんだけどね」僕は言った。
「それしか?」彼女は目を丸くさせて、僕のかかとの磨り減った黒い革靴を指差した。
「これしか」
「信じられないわ……」
 彼女はまた首を振った。
「信じなくても良いよ」
 僕は言った。彼女はそれを無視して愕然としていた。

 それにしても、靴を一足しか持っていないことをここまで人に驚かれる日が来るとは夢にも思わなかった。どうしてどうして、それはこれ以上ないほどの罪悪に思われた。つまりは貧困は罪ということになるというのか。なんということ。まったく理不尽だった。

 しかし、彼女の質問はそれで終わる事はなかった。

「ところであなた」
 彼女はふと思い出したかのように顔を上げて言った。
「なんでしょう?」
 僕は微笑んで彼女を見た。
 彼女はその僕の表情を見て少しむっとするとこう言った。

「なんで、毎日同じジーンズなの?」

「え?」
 僕はまたも戸惑った。彼女と僕のジーンズの関係を考え出すと、どこにも接点は見つけられそうになかったし、そもそも僕と彼女と僕のジーンズという三角関係に何の意味があるのかわからなかった。

「あなたって毎日同じジーンズよね? そうよね?」
 彼女は前髪を捻りながら言う。
 僕は頷いた。
「それって、良くないわよ」彼女は言う。「だって汚いじゃない。靴は、そうね、まだわかるような気がするわ。だけどね、ジーンズが汚いっていうのはちょっと問題よ。下手をすると他人にも害があるじゃない?」

「汚くないから安心して」僕は言った。「それにたとえ汚くっても、いま僕のジーンズが君に害を与えているなんてことはないだろう?」
「そういう問題じゃないわ」彼女は断固として言った。「あなたのジーンズが私に害を与えている?そんなことなくって当たり前だわ。そんなの、ほんとにあったら困るわよ。そういう問題じゃないのよ。わかるでしょう?そういうことって、そういう問題じゃないのよ」

 その彼女の言い分はわかるような気もしたし、わからないような気もした。
 実際のところ、ちょっと言葉が足りなすぎるだろうなと僕は思った。
 ただ、そういう問題じゃない、その言葉だけは実に明快な理屈として僕にも聞こえた。
 なぜなら、僕がいま言いたいことも、それとまったく同じ言葉だったからだ。

「あのね、本当のことを言うとね……」
 僕は幾分の迷いを滲ませつつ彼女に言った。
 それが悪いことのような気がしてならなかったのだ。
「これしか、まあ、大体穿けるようなジーンズって持ってないんだよね」
「え?」
 案の定、彼女は表情を固まらせて、その動きまで止めた。
 そのままの状態で彼女の頭からチューリップでも生えてこれば実に面白く、愉快な一時が満喫できるだろうと思ったけれど、実際には彼女の口から思わぬ一言が飛び出した。

「馬鹿じゃないの?」

「…………」
 これにはさすがの僕も黙ってしまった。
 僕はそれほど馬鹿ではないと思うけれど、確かに馬鹿じゃないとも言い切れなかった。そもそも、なんで僕は一本しかジーンズを持っていないからという理由で「馬鹿」にされなければならないのだろう。そして、それは当の「馬鹿」にも悪いと思った。古今東西の馬鹿を集めてこれば、いかに「馬鹿」といえどもジーンズを二本持っているような馬鹿はいるような気がした。

「じゃあ、あなた」
 彼女は僕のジーンズについてはそれ以上何も言わず、次の質問をした。
「なんで、毎日同じ黒いジャケットなの?」
 大体、もう僕もどんな質問がくるのか予想がついていたのでことさらに驚かなかった。
「ジャケットはさ、いいじゃない。害も与えないと思うし」僕は言った。「まあ、これしかないんだけどね」
「それしかない?」
 彼女は取調室で容疑者から重要な発言を珍しく頭を使ってひねり出した警察官のように、確かめるようにそう言った。

「これしかないね」
 僕はこくりと頷いた。
「もしかして、そっちの鞄も?」
 彼女はピアノの上に置かれた僕の鞄を指差して尋ねた。
「そうだね。それしかないんだよね、五年使ってる」
 僕は言う。
「もしかして、その眼鏡も?」
「そうだねぇ、使えるのはこれしかない。何回も壊しちゃってね、これしかないんだ」

「あ、あっ、それじゃあね」彼女は思わぬ展開に動揺したのか、不測の事態に困惑しているのか、口調が上ずりだした。「その……もしかして、そのジャケットの中に着てるシャツなんかも、もしかしてさ……」
「いやいや」僕は彼女の戸惑い気味に言い煩っている台詞を制して言った。「さすがに、これは一枚なんてことはないよ」

「そう、そうよね……」
 彼女は落ち着いたように肩を落とした。
 けれど、僕の次の一言のせいでがくりと頭が垂れた。
 言わなければ良かったと僕は後悔した。

「中に着るのは、さすがに二枚持ってるんだよね」
「二枚? それしかないの? 本当に?」
「それしかないね。本当に」
 僕は言って、彼女の肩をぽんぽんと叩いた。別に特別な意味はないけれど。
「はぁーあ……」
 彼女は深い溜め息をついた。

「ダイジョウブ?」
 僕は気を使った。特に使う必要もないと思ったけれど、彼女を落ち込ませたのは状況から考えてやはり僕だった。それはどういう状況で考えてみてもやはり、あまりうまくないと言えた。
「大丈夫よ。それよりも……あなたって、かわいそうな人なのね」
 彼女は僕の目を見て、潤ませた瞳でそう言った。

「可哀想? 僕が?」
「そう」
 彼女は目を逸らさずに頷いた。
「そう?」
「そうよ」

「…………」僕は数秒考えて、結論を出した。「そうでもないと思うよ」そう彼女に言って、僕はふいとピアノの方を向いた。漆黒のピアノのボディには僕の「可哀想」な顔が映っていた。僕はそれをじっと見てみたが、さしあたって「可哀想」を強調するほどの人間はそこにはいなかった。街に出ればその辺にごろごろしていそうな普通の顔である。

「かわいそうよ……」
 それでも彼女は食い下がって、僕にかわいそうだと言い続けた。
 そこにはもう、言葉以外の何ものも存在していなかった。
 そういうものが、世界には落とし穴のようにしてごろごろとそこら中に転がっているものなのだ。

 彼女は一種の病気のようなものだった。
 それは別に悪いことではないのだ。
 そして、僕はそういうのには慣れていた。

「そうよ、そう」彼女は突然ぱんと手を鳴らして、僕を漠然と見た。「あなた、なにか私に訊いてみたいことはないの?あるでしょう? いままでで一番楽しかったことってなに、とか、好きなテレビ番組はあるの、とかね、そういうの……そういうのって、私、結構好きよ。訊いて、訊いてよ、なんでも良いのよ?」
「…………」
 僕は、その彼女の悲痛なまでの笑顔を前に無表情で黙り込んでしまった。

 その瞬間、僕は無上に哀しい気持ちになった。ぽっかりとまた一つ、僕の中で大事だったパーツが抜け落ちて、どこかへ行ってしまったのだ。
 わけもわからず泣き叫んで、狂ったように走り回って、辺りのものを手当たり次第に壊して周って、いつの間にか自分の部屋にあるすべての本の真ん中の30ページくらいだけが真っ黒に塗られていて、本当に大事なものが何だかわからなくなってしまったような、そんな気持ちだった。

 彼女はぼろぼろと泣き出していた。
 そして、同時に笑っていた。
 そんな状態から、彼女の何らかの感情を推測することなどもはや不可能だった。
 それは、やっぱり異常だったし、そういう異常に早いうちに気づくことは大事だった。
 僕は彼女の隣に椅子ごと移動すると、彼女の身体に身を寄せた。

「そうだね……」
 僕は彼女の肩を抱いて、ゆっくりと話しかけた。彼女は表情ばかりが張り付いたように引き攣った笑みを浮かべ、目からは涙が零れ落ちていた。ぶるぶると身体を震わせて、放っておいたら取り返しのつかないほどに薄暗く冷え切った谷底へと落ちていってしまうのではないかと思われた。
 彼女は僕の一枚しかないジャケットに顔をこすり付けるように身を寄せながら、うんうんと頷いた。

「僕はさ、なんというか、人様に申し訳ない気分になるくらいしか、本当にものって持ってないからね、なんというかさ、君みたいな子に問い詰められると、その、まあ、まったく恐縮なんだよ、ほんと」僕は彼女を覗き込みながら、笑いながら言った。意味は自分でもよくわからなかった。「それで、質問だったよね、質問。良いかな、質問しても?」僕は彼女の肩にくっと力を入れて抱き寄せた。

 彼女はうんうんと鼻をすすりながら、ごしごしと僕に頭をこすり付けるように首を振った。そして、かすかな泣き声で「もちろんよ、なんでも良いのよ」と言った。「大丈夫?」と尋ねると、「大丈夫」と言った。どう考えても大丈夫とは言い難い状況ではあったけれども、僕は彼女の頭を撫でるとよしよしと口にした。意味は自分でもわからなかった。

「質問は?」
 彼女は気になっているのか、僕の質問をせかした。
 そういうことって、よくあることなのだ。
「うん」
 僕は頷いた。
 彼女の方も僕の台詞をちゃんと聴くためか、少し冷静になったようだった。
 僕は質問した。
「君はさ、いったい、どのくらいたくさんのものを持っているの?」
 僕はゆっくりと彼女の目を見ながら訊いた。
 彼女はぼぅっと僕の顔を眺めて、すぐに俯いた。

 僕も黙って、彼女の肩を抱いていた。
「なにか弾こうか?」とピアノを指差して彼女に言ってみたが、彼女はふるふると首を横に振った。断られてから気づいたことだったのだけれど、もしその時弾いてと言われても、弾けるような曲のレパートリィなど僕は持ち合わせていなかった。僕はピアノ自体はよく弾くが、これといって目的があって弾いているわけではないのだ、気まぐれなのである。つまりは上手くもないし、下手でもない。聴かされる側としては厄介なレヴェルに僕はいた。そのことを正直に彼女に言うと、彼女はがしがしと僕の腕を掴みながら笑った。

 彼女は微笑んだまま、僕の頬に右手を伸ばすと「私……本当にたくさん、もう、理解できないくらい、たくさん……いろんなものを持ってるのよ」と言って、僕の顔を撫でた。僕はずっと彼女の表情を眺めていて、彼女はずっと僕の目を覗き込んでいた。僕の瞳には彼女が映っているはずで、その彼女の表情は可哀想なほどの笑みを浮かべたものだっただろう。彼女は僕の瞳の中に何を見ただろう。

 僕は彼女にキスをした。
 彼女は身動きしなく、僕の唇が触れた瞬間に身体の緊張の糸が緩んだかのように脱力した。
 しんとしていて、あたりは暗闇に包まれていた。
 数秒か、数分か、まどろんでいた時間がいつもどおりの流れを取り戻すと、僕はゆっくりと彼女との身体に距離をとった。そして、「可哀想なんだね」と彼女に言った。彼女は一瞬だけ首を傾げ、困ったなといった表情のまま、曖昧にこくりと頷いた。

 そして、やっぱり微笑んで、こう言うのだった。
「だけど、あなたほどじゃないのよ」
 僕は間違ってもそんなことはないだろうとは思ったけれど、黙って顔をしかめて笑った。
「じゃあ、来週までにはもう少しまともな人間になっておくよ」僕は彼女に約束した。「僕だって君くらいには幸せになりたいしね」

 彼女は微笑んで言った。
「良い心がけだわ。だけど、私ほど幸せになれるかどうかは難しいところよね」
「そうだと思ったよ」
 僕は頷いた。そして、唐突に思い浮かんだことを彼女に訊いてみた。
「ねえ、僕と君の平均っていうのは、どんな風に思う?」
「あら、それってもしかして、私と子供を作りたいって言ってるの?」
 彼女は冗談っぽく言った。

「違うよ」
 僕は一応きちんと否定した。
「あら、残念」
 彼女は肩をすくめた。
「僕と君の平均のような人がいたらどうなのかなってね、思ったわけさ」
「あなた、結構漠然としたこと人に訊くのね。意外だわ」
 彼女はぽんぽんと僕の肩を叩いた。
「なんでも質問してって、さっき泣きながら言ってたのは君じゃない」
 僕がそう言うと、そういえばそうね、といって彼女は頷いた。

「あなたと私の平均ねぇ……なるほどね」彼女は顎に手をやり、きっぱりとこう言った。「そんなの一番可哀想に決まってるじゃない、そんなに可哀想な人って滅多にいないと思うわよ」
 僕は苦笑して、彼女を見つめた。
 こうやって見直してみると、彼女はなかなか魅力的な女性だった。

「だけどね、平均やら普通やら常識やらなんてね、人間にはこれっぽっちもないのよ」彼女は舌をぺろっと出しながら、僕を見て言った。その瞳には心なしか活力がこもっているように思えた。「私はいろんなものを、本当にたくさんのものを持っているけどね、その中に平均のものやら、普通のものなんてね、ひとっつもないのよ。これ本当なのよ。あなたにはわからないかもしれないけど、どんなにたくさんのものを持っていたって、どれ一つ、そういうものってないのよ」

「それって、どうなのかな?」僕は言った。どちらかというと平均やら普通やらといったものは、人間にしかないように感じられたし、彼女がそもそも、そういう言葉を使って表現しようとしている物事をはっきりと掴めていなかった。しかし、彼女にとって、とにかくいまは「話すこと」が重要なのだと結論して僕は話を促した。

「ある意味では、哀しいことよ。そう、だけどね、そういうものなのよ。そういうのを受け止めなきゃ人間ってどんどん悪いほうに悪いほうにって知らず知らずに進んでいっちゃうものなのよ。だから、私がいま、こういう風にあなたに平均やら普通やらって言って聞かせることができるっていうのは、これはこれで幸せなことなのよ」

 そう言って、彼女はちっちっと指を振った。
 僕はそうだねと頷いて、もう一度キスしても良いか彼女に尋ねた。

「惚れたの?」
 彼女はそう言った。
「いや、そういうわけじゃないんだけどね」
 僕も馬鹿正直に答えた。
「してみたかった?」
「そうだね」
「そういう気持ちって、嬉しいわ」
 彼女は両手を胸の前で合わせて言った。学芸会の演技のようだった。
「それは良かった」僕は笑って言った。

「そうよ、私、そういう風に、いつも誰かに必要とされているような人生が送りたいのよ」彼女は僕にキスしながら言った。「君がいなかったら僕は死んでしまうんだ、一時も君を僕のそばから離れさせたくないんだ、できることなら僕と一緒の棺桶で毎日一緒に眠ってくれないだろうかって、そう言われたいのよ、このくらい、いくらあなたでもわかるでしょう?そういうのって大事なのよ」
 僕はとてもよくわかるよ、と大雑把に言って彼女に同意した。

「あなたはどんな生活が理想なの?」
 彼女は僕から離れて、服や髪型を気にしながら訊いた。
「僕は静かで普通の平均的な生活がしたいね」
 僕は本当のことを言った。

「あのね、あなた、世の中ってもうちょっとはマシなのよ」彼女は僕の顔を両手で挟みながら言った。「そんなに悲観的にならないで、私たちを見捨てないで」
「考えとくよ」

 そこまで話すと彼女は「来週も現れるわ、たぶん」と僕に告げ、さっさと出て行ってしまった。
 僕は彼女のその演技がかった最後の台詞に苦笑して、彼女を見送った。
 彼女の後姿は魅力的だったし、遠ざかっていく足音は力強かった。
 僕はピアノに向かって、そこに映る「可哀想」な顔を眺めた。

 しかしもう、そこには、どこにも、何者も、いなかった。
 可哀想なものも、可哀想じゃないものも、何者も。

 それにしても、来週もまた、彼女に会うのだ。
 僕はそう思っただけで笑ってしまった。

 世界の何かが平均されていた。


He had the world of averages at his back.

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「なんで誘ったの?」
 彼女は微笑みながら、僕の答えを楽しむかのように言った。
「酔ってるの?」
 僕は彼女をちらりと横目で見て、言う。
「酔ってるのよ」
 彼女は笑った。本当に酔っているようだった。
「こっちを向いて」
 僕は言われるままに彼女の方を向いて膝を揃えた。
「これってお遊びなんでしょう?」
 彼女が僕の目を見据えて、そう、言った。

 彼女の目は少々不安げだったが、それを忘れるほど彼女の口元が可愛かった。
「仕事じゃないね」
 僕はそう言って身体をカウンタに戻すと、マティーニを口にした。

「面白いわねぇ、あなた……」
 彼女はそれ以上何も訊かずに、僕と同じようにゆるゆるとその可愛い口元へとグラスを傾けた。彼女は一杯目と、いま飲んでいる六杯目にジャック・ダニエルのストレートを注文していた。僕はそんな女性にはいままで出会ったことがなかったので、実のところ、少し緊張していた。

「おいしい?」
 僕はちょっとした好奇心から、そう、彼女に尋ねてみた。
「おいしい、ですって?」
 彼女はけらけらと笑いだし、そのまま1分ほど笑っていた。
「大丈夫?」
 大して心配ではなかったけれど、僕はいちおう、彼女に気を使った。
「『ダイジョウブ?』」
 そう言うと彼女はまた笑いだし、最後にはかすれた声で「まあね」と言った。

「なにが、そんなに面白かったの?」
 僕は彼女が落ち着くのを待って訊いた。
「だってあなた、考えてもみてよ、なかなか面白い男の人とバーに飲みに来てるっていう清楚な女の子がよ、はじめの一杯と頃合の一杯にジャック・ダニエルのストレートを注文して飲んでいるのよ。ここまでわかる? 理解できる?」
「うん、清楚な女の子、なるほど」
 僕の「そうだね……」という怪訝そうな呟きを無視して、彼女は続けた。

「おいしいわけがないじゃない」
「そういうものなのかな?」
 僕は本当に興味があって、彼女に訊いた。
「そういうものなのよ。まあ、いわばジャック・ダニエルは女の敵ね」

「へぇ……」
 僕は彼女のその言い草に実に感心して、少しの間、その台詞の語感に酔いしれた。
「他にご質問は?」
 彼女は親の仇かのようにジャック・ダニエルを飲み干すと、僕を下から覗き込んだ。
「じゃあ、なんで君はジャック・ダニエルを飲むのかな? 好戦的なの?」

「それは、なかなか良い質問だわ」
 彼女は微笑んだ。
「だってあなた、そういう女の人って嫌いじゃないでしょう?」
 しれっとして彼女は言った。
 まあ、確かにそれはその通りだった。

「そうだね」
「あなた、変よ」
 彼女は口を尖らせて僕を睨んだ。
「そうだね」
 僕は頷いた。
「だからなんだけどね」
 彼女はそう言って、ブラックルシアンを店員に注文した。

「君も変だよ」
 僕は彼女に言った。
「変な女って、嫌いじゃないでしょう?」
 彼女はそう言って、笑った。
 まあ、確かにそれもその通りだった。
「まあね」

「それで、なんで私を誘ったの?」

 今度は僕がけらけらと笑った。


He chuckled at the child's mischievousness.

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「はい、コーヒー」
 先生がそう言うと、まるで、魔法のように僕と友人の前には珈琲がふたつ並んだ。
「頂きます」
 僕は言う。
「有難うございます」
 友人が言う。

 僕はその珈琲を一口啜ると、ジャケットの内ポケットから饅頭をみっつ取りだした。
「饅頭ですが、いかがです?」
 僕は先生と友人に饅頭をひとつずつ手渡した。

「これは、饅頭だね」
 先生は言った。
「はい、いかにも」
 僕は大仰に頷いた。
「饅頭は怖いですか?」
「怖かったとしても食べるよ、美味しいからね。これは、頂いても良いのかな?」
「ええ、そのつもりで渡しました」
 僕はまた頷いた。

 僕と先生のその会話を聞いて、すでに饅頭を食べきっていた友人は苦笑した。
 先生は「いやあ、饅頭か」と呟き、フィルムをはずして、一口食べた。
 僕も、それを横目に見ながら、一口で饅頭を食べた。

「うん、甘い」
 先生は言った。
「ええ、僕のも甘いです」
 もしゃもしゃと饅頭を咀嚼しながら、僕も言った。
「僕のも甘かったよ」
 友人は少し遅れて言った。

「だろうね」
 僕と先生は一緒に頷いた。
 ずずず……。
 三人がコーヒーを啜り終わると、勉強は始まった。

 幾つかの問題を解き、数十分後。

「あ、では、僕からも問題を出しても良いですか?」
 僕は手を挙げて言った。
「良いよ」
 先生は即座に、簡潔に許諾した。
「えっと、実はですね、実はですよ……」
 僕は二人をじらした。

「じらしてるんだね」
 友人は笑いながら事実を口にした。
「そのようだね」
 先生もそれに同意した。
「じらすことに、何か意味はあるのかな?」
「あるんですよ、あるんです」
 僕は、ふんふんと二人の無碍な言葉をはたきで叩いた。
「これが伏線になっているんですから……」
 僕はそう呟き、懐に手を入れた。

「あ」
 友人は「あ」と言った。僕はそれを驚きと解した。
 僕は懐からおもむろに饅頭を一個取りだすと、それを静かに机の上に置いた。
「饅頭だね」
 先生は言った。
「はい、いかにも」
 僕は頷いた。
「実はもう一個、饅頭を用意していたんです」

「なるほど……」
 先生は腕を組んで呟いた。

「どうするんだよ?」
 友人は言う。
「何を考えてるんだい、君は? そんな饅頭なんかないほうがましだよ、なに……一個だって? 三人いるのに? 信じられない、考えられないよ、悪魔かなにかかい、君は?」
「さあ、この饅頭、どうしましょうか?」
 僕は問題を口にした。
「どうする、と言うと?」
 先生は訊いた。

「ええっと、そうですね、じゃあ、ここに饅頭を置いてみましょうか」
 そう言って、僕は三人からちょうど等距離になる机上のポイントに饅頭を置いた。
 三人は数秒間、じっ、とその机上の饅頭を見つめた。

「困ったね……」
 先生は、本当に困ったといった表情で呟いた。
 友人はすでに困っていた。
「この饅頭を誰が食べるか、または、この困った状況を打破できる明瞭公正な回答を、僕はおふたりに求めます」

 僕はそう言って、珈琲を飲んだ。
「そうだな……」
 そう言って友人は数秒考えると、ぱちん、と指を鳴らした。
「こういうのはどうでしょう? じゃんけんで勝った人がこの饅頭を食べられるというのは」
「食べられる、というのは勝った人が食べる、という意味かい?」
 先生が訊いた。

「はい」
 友人は頷いた。
「二人が勝ち残ったらどうするの?」
 僕は友人に訊いた。
「そりゃあ、残った二人でまたじゃんけんするのさ」
 友人は当然といった具合にそう言った。
「どうですか?」

「僕はその意見には反対だな」
 僕は言う。
「私もだね」
 先生も僕に同意した。
「え? なんでですか?」
 友人が心底意外だといった具合に驚いた。

「困ったとき、なにでもじゃんけんに頼るというのは日本人の悪い癖だ。そもそも、じゃんけんで勝つことと、饅頭を食うこととはまるっきり別のことじゃないか。じゃんけんで勝ったって戦争は終わらないんだ」
 僕はインテリっぽい演技をしながら、ちっちっ、と人差し指を振った。

 友人は苦笑しながら「先生は?」と珈琲を飲む先生に尋ねた。
「私はじゃんけんが嫌いなんだ」
「はぁ……」
 友人の苦笑は失笑に変わった。
「しかし、この場で公平を規すならばじゃんけんをして決める、というのが無難なんじゃないでしょうか?」
 友人は問題提起をすると満足そうに珈琲を啜った。

「いや、それは違う」
 僕は言った。
「じゃんけんが公平なのはその勝敗の決定手続きであって、いや、僕はそれすら公平ではないと思うけれど、結局のところ、饅頭は勝者の一人しか食べられないじゃないか。それは全然、全体的な公平とはいえないよ」
 友人はまた苦笑し、先生は顎に手を当てて「ふぅむ」と唸った。

「じゃあ、この饅頭を三等分するかい?」
 友人は饅頭を手にとって、それを三等分する真似をした。
「公平にできればね」
 僕は目を細めて、友人を見つめた。
「できるさ」
 友人はそう言って、先生の方を向いた。同意を求めたようだった。

 そこで、友人にとって意外なことが起きた。
「いや、それは無理だね」
 先生が首を振った。
「そう、無理なんだよ」
 僕は後を続けた。
「そんな、馬鹿な」
 友人が嘆息する。
「まさか、哲学的な考察ですか? そんなのはいりませんよ、おふたりとも」

「いやいや、哲学的でもなんでもないよ」
 僕は首を振った。
「じゃあ、何さ?」
 友人は意地悪そうに笑った。
「ただねぇ……この部屋にはナイフが無いんだ」
「え?」

 先生も頷いた。
「なるほどね……」
 友人は即座に解したようだった。
「ナイフがない、たしかにそりゃあ、無理だ……」
「ナイフなしで、公平に饅頭を三等分する方法を考えようか?」
 先生は問題提起する。
「うーん、僕には、とてもそんなことができるとは思えないですけれど」
 僕は先生に言った。

「じゃあ、やめよう」
 先生は即座にその問題を荼毘に付した。
「じゃあ、こんなのは、どうだろう?」
 友人はそう言うと、ちょっと考えこみ、また僕らに話しだす。

「饅頭の量的な公平を考えだすと、これはもう、実に難しい問題になるということが、いま、わかりました。ですから、ここはひとつ、質的な公平を求めてみてはいかがでしょうか?」
「そんなことができるの?」
 先生が面白そうに目を光らせた。
「えっと、つまりですよ、公平は平等とは異なるわけですから、それぞれが満足する形で、この一個の饅頭が分配されれば問題はないわけです」

「なるほどね……」
 先生は小声でそう呟き、僕は黙って友人の意見を聴いた。
「ですから、まず饅頭を価値が理解できないような、パーツにわけます」
「へえ……」
 僕は小声でそう呟き、先生は黙って友人の意見を聞いた。

「饅頭を一口食べる人、残った皮を食べる人、残った餡子を食べる人の三人にわけるんですよ」
 友人が最高の笑顔でそう言った。
 僕はその友人をそろそろ無視して、先生の方へ向き直った。
「ところで先生の意見を聴きたいんですけれど、妙案はありますか?」

「その前に、」
 先生はふぅむと唸ると、僕に訊いた。
「この問題に解答はあるのかな?」
 友人は無視されたことに「はは……」と苦笑していたが、その先生の質問に「その通りだよ、うむ、君は理解でけんよ、やれやれだよ」と僕に毒づいた。
 僕は「ええ、もちろん、用意してますよ」と微笑み、とんとんと机を指で叩いた。

「先生、なにか妙案はありますか? 哲学的にこう、ずばっ、といかないんですか? この饅頭は?」
 友人は先生に詰め寄り、こぶしを作って唸っていた。
「そうだねぇ……」
 先生は数十秒間考え込むと「そうだねぇ」ともう一度呟いた。

「私はね、やっぱり、君の優しさに答えがあるんだと思うな」
 先生は顔をあげると僕をみて、不敵な笑みを作って、そう言った。
「はい?」
 友人は疑問の表情を浮かべた。
「優しさ、ですか」
 僕はちょっと引き攣って笑った。

「じゃなかったら、君、性格悪いよ」
 先生はそう言って、「じゃあ、珈琲、もう一杯づつ入れるからね」と薬缶を取りに立ち上がった。
「さすがですね、先生、正解です」
 僕はぽりぽりと頭を掻いて、友人のほうを向いた。

「僕は、わかんないんだけどねぇ、教えてもらえるのかなぁ、どうなんだろうね?」
 友人は机の上に身体を伸ばして、目の前にある饅頭に話しかけていた。
「饅頭って喋ったっけ?」
 先生は笑った。
「寡黙なだけで、本当は喋るんですよ」
 友人は目だけで先生を見て、そう言った。

 僕は笑いながら、二杯目の珈琲が出来上がるのを待った。
 そうして、また、魔法のようにして僕と友人の前には珈琲がふたつ並んだ。
「頂きます」
 僕はそう言って珈琲を一口飲み、友人は珈琲を睨んで沈黙していた。

「んー、わからんな」
 友人は両手を開いて、ハングアップした。お手上げらしかった。
「近かったんだよ、とても惜しいんだ」
 先生が椅子に座りながら、そう言った。
「三等分できない、というところがポイントなんだよ。つまり、三等分ができればこの問題は解決するんだ。それで良いんだね?」
 先生は僕を見た。
 僕は頷いた。

「あー、悔しいなあ……わからん、わからんよ……」
 友人は背筋を伸ばして、完璧に思考を止めたらしかった。
「ラストチャンスだ、友人」
 僕は友人に言った。
「これはメタな問題なんだ」

「わからんよぉ、そんなこと言ってもねぇ。この饅頭を公平に三人で分ける方法なんて思い浮かばん」
「いや、そんなことは言ってないよ」
 先生は友人に言った。
「『この饅頭を誰が食べるか、または、この困った状況を打破できる明瞭公正な回答を二人に求めます』と彼は言ったんだ、この饅頭を三人で公平に分けるとは一言も言っていない」

「同じことじゃないですか、そのふたつはぁ……わかりませんよ……」
 友人はまるっきり自堕落なほど、問題を放棄していた。
「わかったよ、じゃあ、この饅頭は君にあげるから、それでも食べて機嫌を直したら?」
 僕は友人のほうに饅頭を寄せて、そう言った。

「はい? それじゃあ、全然、公平にならないじゃないか?」
 友人は首を傾げて、眉を寄せていた。わかりやすい疑問の表情だった。
「いや、実はね」
 僕は微笑んで、ジャケットの内ポケットに手を入れた。
「実は、もうふたつ饅頭があるんだよね」
 そう言って、僕は饅頭をふたつ、懐から取りだした。

「あ!」
 友人は、その瞬間にすべてを理解したようだった。
「いやぁ、実は、今日は最初から六個の饅頭を買ってきてたのさ」
 僕はそう言いながら、先生に饅頭を一個手渡した。

「これは頂いても良いのかな」
 先生は言った。
「はい、そのつもりで渡しました」
 先生と僕は饅頭のフィルムをはずし、饅頭を一口食べた。

「甘いね」
 先生は言った。
「そうですね」
 僕は頷いた。
 友人も苦笑しながら饅頭を一口食べて、「確かに甘いわ……」と呟いた。

「ですけどねぇ、先生」
 友人はもしゃもしゃと饅頭を食いながら、言った。
「結局のところ、先生も完解はできなかったっていうことなんですよ」
「あれ、そう? どうして?」
 先生は疑問を口にする。
「彼は、全然、優しいんじゃないんですよ」
 友人は僕をちらりと横目で見た。
「性格が悪いだけです」

「ああ、なるほど」
 先生は曖昧な返事を残した。
 僕は「いやぁ、それほどでも」と言って、珈琲を飲んだ。

「それにしても、饅頭、というのはなかなか良かったね」
 先生はうんうんと頷いた。
「ええ、そうだと思います」
 僕も頷いた。そう、その通りなのだ。
「あれ、どうしてです?」
 友人はしかし解さなかったようだった。どのような物語に踏み込んでも、このような役回りを与えられた登場人物は悲劇だということができるかもしれない。

「だってね、団子じゃこの問題はできないだろう?」
 そう言って、僕は珈琲を飲んだ。
「なるほどね……」
 友人はそれ以上何も言わずに、同じように珈琲を啜った。

「饅頭は甘いけれど、珈琲は苦い、そして人生は辛い」
 先生がそう口にした。
「なににせよ美味しいですね」
 僕は先生に訊いた。
「その通りだ」
 先生は僕に言った。

 友人は呟いた。

「やれやれ、複雑だよね、君らの会話って……」


The questions were all difficult.

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「あの、先生……全然、わかりません……」
「それは、わからないことだけが物凄い、わかってるってこと?」
「あ、はい……」

「じゃあ、わからないところを考えよう」
「あの、先生……わからないところが、全然、わからないんです……」
「それは、わからないところがわからないということが物凄い、わかってるってこと?」

「あの、はい……すみません」
「いや、別にすまないことないよ、厄介だけどね」
「厄介ですか……」

「う~ん、まあ、一日たったら、全部、わかるようになってるんじゃないかな」
「え、なんでですか?」
「君は、それを本気で言ってるの?」

「え……その、はい……」
「これから君が勉強するからに決まってるじゃないか。それとも、他に方法があるの?」
「あの、私の脳みそを少しの間、取り出して、ブドウ糖果糖液糖を1リットルほどかけ」

「ても、わからないと思うなぁ、僕は……その前に死んじゃうよ、たぶん」
「そうでしょうか?」
「そうでしょうね」

「じゃあ、どうしようもないわっ!」
「いや、だから、勉強しようよ」
「先生、じゃあ、活きの良いライオンをつれてきて、私の頭をかぷっとかませ……」

「ても、わからないと思うよ、僕は……わかるかもしれないけどね、可能性はあるよ」
「それしかないわっ! もう、それしかないのですねっ! 先生!!」
「いや、そういう問題じゃないよ……」

「じゃあ、どういう問題なんですかっ!! 説明してくださいよっ!!」
「えっと、良いのかなぁ……。あのね、これはわからない問題なんだ」
「えっ?」

「じゃあ、今日の授業はここまで、以降の問題は宿題にします」

 がらがら、ぴしゃん。


She's the life of this project.

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「どこにもいない男、須田。それが彼の名前だ」
 背の高い男は言った。
「それで、いったい須田さんはどこにいるんですか?」
 もう一人の男が言った。
「いや、だからどこにもいないんだよ」
 青い空間。
 白い時間。
 飛行機の飛び去る音だけが聞こえた。

「ひとつだけ教えておこう」
 背の高い男は人差し指を立てる。
「なんでしょうか?」
 もう一人の男は、遠いところにあるティーカップを見ていた。
「あのティーカップは浮かんでいる」
「それは見ればわかります」
「そうか……」
「はい」

 非常に不思議なことではあるが、遠いところにあるティーカップは浮かんでいた。
 とても不思議だ。

「しかし、須田の関節は逆に曲がる」
「え!」
 もう一人の男は驚いたような声を上げた。驚いたのだ。
「見ればわかると思うがな」
 背の高い男は遠いところにあるティーカップを眺めている。

 不思議なことだが、その遠いところにあるティーカップは浮かんでいた。

「失礼ですが須田さんは人間ですか?」
 もう一人の男は懐からティースプーンを取り出して、そう言った。
「君は須田を馬鹿にしているのか? むしろ、侮っているのか?」
 背の高い男はそのティースプーンを取り上げ、遠いところにあるティーカップに投げつけた。
 不思議なことに、そのティースプーンは遠いところにあるティーカップに見事に入り、

 ちりりんっ、と鳴った。

 それは、とても不思議だった。


I am not surprised that The teaspoon has passed the test.

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 冬みかんを食す。

 冬みかんと灰色の空というのは、たいがいセットになっている。
 冬みかんを食すと急速に空の色が変わりだす。
 薄いながらも、なんとか青かった空が、あっという間に灰色だ。

 自殺者が増える。

 危ない人はできれば、冬みかんだけは食さないほうが良い。
 冬みかんを食すと青空はまっさかさまに灰色の空になる。
 その灰色の空は、青かった空である。

 これがいけない。

 冬みかんは空の色を変える。
 自殺者はみな、冬みかんを食しているのである。
 家には食しかけの冬みかんが、ダンボールで残っているはず。

 もしかすると、それを踏み台にして首を吊った人もいるかもしれない。

 冬みかんのダンボールは頃合なのである。
 炬燵に入って、冬みかんを食す。
 テレビを観て、笑う。

 あまりにも……。

 僕は、冬みかんが好きだ。
 テレビも観ないし、炬燵もないけれど、冬みかんは食す。
 冬みかんは小さいのが良い。そもそもが冬みかんは小さいのだ。

 冬みかんの小ささこそが、すべての不安の種なのである。

 冬みかんは幸せだ。
 冬みかんは優しい。
 冬みかんは温かい。

 そういうものは、いつだって、大勢の人を殺しているのだ。
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by kourick | 2002-10-12 00:00 | 随想
 今朝、犬が一匹、ワンと鳴いた。
 尻尾を左右に振りながら、列車に乗り遅れそうな僕にたいして、
 はぁはぁと舌をだしながら、ワン!

「馬鹿だな」

 飼い主がいるにもかかわらず、僕は犬に話しかけた。
 多少、むっとした飼い主がその犬を連れ去ろうとしたが、
 そこでまたその犬が、ワン!

 その犬はほとほと可愛げしかない犬だった。

 飼い主も、ちょっと本当のことを言われてしまった、という顔つきで僕に頭を下げた。
 僕は微笑んだ。
 いえいえ、犬は好きですから。

 だが、そうして歩いていると次はごみを漁っていたカラスが、クアァ!

 僕は立ち止まってカラスを見た。
 トンッ、トンッ、トンッ、とカラスが跳ねるように歩くと、クアァ!
 僕がそれでも様子を眺めているとカラスはいい加減呆れたのか、クアァ!

 クァ?

 僕はカラスに、いや、すまなかった、邪魔をしたと謝ると駅へと急いだ。
 そのカラスは怒っていた。
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by kourick | 2002-10-04 00:00 | 随想
 寒い。
 窓の外をふいと見る。
 台風が吹き荒れていた。

 ところで、僕は風邪をひかない。
 どうしてかというと、年がら年中、風邪をひいているのだ。
 つまり、風邪をひかないというよりは、常に風邪をひいているのである。

 しかし、風邪をひかない人間といえども風邪のような状況に陥ることがある。
 そんな時、風邪をひかない人間がどうなってしまうかというと、
 風邪をひかない人間は「酷い風邪」をひいてしまう。

 これが結構大変だ。

 まず、立てない。
 ぷるぷると震えて、さながら生まれたばかりの馬である。
 そういう意味で、風邪をひかない人間はときおり、生まれたばかりの馬になる。

 しかし、この日は凄かった。
 目を覚まし、身体を起こすととりあえず倒れた。
 台風が頭の中に入ったのだろうか、視界がグワングワンと揺れる。

 これは立てないほどの台風が来ていると思い、そのまま眠ることにした。

 うとうとと夢見心地のまま、目を覚ますと台風は過ぎ去っていた。
 空は青いし、雲は白かった。
 鳥は普通に飛んでいたし、部屋はいつも通り汚かった。

 僕はいまになっても、あの時の揺れが台風だったのか、
 酷い風邪だったのかわからない。
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by kourick | 2002-10-02 00:00 | 随想
 家庭教師の帰り道、雨にであった。
 ざあざあと降り注いでいる雨はあからさまに質よりも量を強調している。
 品がないとはこのことだが、雨に品を求めるのもどうかと僕は思った。

 傘を借りて、傘をさす。

 だが、もし、この傘が唐傘だったとしたら、どうだろう?
 僕は言い知れぬ気分で唐傘を握り締めながら、
 もしかすると、唐傘をささないかもしれない。

 雨の日に、雨の中、雨の下で、雨に濡れ、
 台風が来ても、それでもなお、さされない傘、唐傘。

 それは、もしかすると唐傘の存在理由に関わる事かもしれなかった。
 唐傘はそれで良いのだろうか?
 ようよう、さされない傘、唐傘。

 そういえば、唐傘お化けなんてのがいた。
 唐傘お化けでも雨の日には雨宿りをするのだろうか?

 するのだろう。
 だって、雨に濡れるのは嫌だし。

 そうか、そういうことなのか。
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by kourick | 2002-10-01 00:00 | 随想