カテゴリ:○学( 22 )

 以前、たしか映画「崖の上のポニョ」が公開された直後、宮崎駿さんがとあるテレビ番組のちょっとしたインタビューを受けていた。レポータがその番組のマスコットを横に置いて挨拶をすると、宮崎監督はおもむろにそのマスコットを手に取り、「これはもっと目を離したほうが可愛い」と言った。

 監督はたしか「目を離したほうが間の抜けた感じになって可愛い。それがいまの流行り」というようなことを言っていたと思う。イメージとしては「たれぱんだ」がド直球だろう。なるほど、と納得できた。似たようなことを動物行動学者のコンラット・ローレンツが1943年に言っている。

 1. 大きな頭
 2. 丸い頬
 3. 目が離れている
 4. 顔のパーツが下のほうにある
 5. ずんぐりむっくりした体型

 こういった特徴を備えていると保護本能が働いちゃうんだぜ、とローレンツは言った。どうして保護本能が働くのかというと「めろめろになってしまうから」であり、どうしてめろめろになってしまうかというと「可愛いから」だろう。これを「ベビースキーマ」という。赤ちゃんは可愛いのである。

 ニワトリよりヒヨコのほうが可愛いし、カエルよりもオタマジャクシのほうが可愛いし、メキシコサラマンダーだってウーパールーパーのままのほうが可愛いのである。さらに言うと、成犬よりも幼犬のほうが可愛く、成猫も幼猫も可愛い猫という存在は神に愛された奇跡的生物ということなのだ。

 しかし、それにしたって、ネコはどうしてあれほど愛らしいのか。まして、あの精悍な顔立ち。毛並みも良い。それに加えて、あろうことか鳴き声が「にゃあ」である。かなり可愛さを追及しているとみられる。もうちょっと言わせてもらうなら、ネコはもう、骨格がすでに可愛い。

 見たことのない人は一度、ネコの骨格標本を見ていただきたい。S字の背骨ライン、下半身の丸みから内股気味のしなやかそうな後ろ脚、そしてアーモンド型の頭骨、これは可愛かったなと思わさってしまう。また、猫の頭骨は成長しても変化しない。これも成猫の可愛さの理由だろう。

 イヌとネコの祖先は同じで「ミアキス」というが、イヌがその後、さまざまに特殊化し、特殊化させられたのに対し、ネコはその後、ほとんど変化していないと言われている。進化の最初のあたりで「あ、わたしネコだわ」と思ったミトコンドリア・イヴはかなり素敵な思い違いをしたとみられる。

 ネコになろうと思ったミアキスの生存戦略には脱帽せざるを得ない。
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by kourick | 2011-11-23 23:00 | ○学
同一の時空間で起きた出来事であっても、それは視点によって多様に把握され、正当性を付与される。かように言語論的に転回するとき、存在の水準は持ち上がっている。問題とは語りの現場にこそあり、わたしたちが語ることによって始めるのなら、「実在の出来事」は人が認識し言語化することによって共有しようとする出来事という対象を存在させるための前提にならざるをえない。

わたしたちは「実在の出来事」を語りに用いることはできない。語りに用いることができるのは、広い意味合いにおける言語のみだからである。しかし、それは出来事が客観的には存在しないということではない。むしろ、「存在する」と言うとき、それは任意の解釈を通して言語的に対象化された出来事に関して語っているということであり、客観性もその次元において問われているのだ。

怠惰な学生を定義によって勤勉にすることはできないけれど、言語による対象化を経ずに事態を語ることもまたできない。認識論的な直観を脱するなら、主観と客観というのは二項の対立ではない。それらは緩やかに変動する。極端な主観性の排除と適切な方法論による伐採ののち、客観性は鍛えられ、客観的な存在は実在に漸近する。わたしはほどほどの客観性に満足する。

わたしたちは存在において対立するのではない。認識において対立するという言い方も正確ではない。言語において対立するという言い方も誤解を招いてしまうかもしれない。わたしたちは語りにおいて対立する。そして、そのときに用いられる言葉に認識の張り付いていることが要求され、それが対象の存在を予感させるのだ。人は多様な語り方を習得することにより現実を拡張する。

人は現実に感染する。語り方において対立するとき、その対立は語りの態度に還元される。
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by kourick | 2009-04-06 00:00 | ○学
歴史の繰り返しは歴史のうちにはない。それは歴史を語ることのうちにのみありうる。こうした理解は実証史学こそが歴史学に他ならないという見解とバッティングしない。歴史を特定の立場に都合の良いものとしないように、因果関係のほか価値判断なども排除し、可能な限り、確証バイアスのかからないように客観的事実を羅列する。そういうものこそ、歴史の名に相応しい。

およそ近代的な歴史観はそのようなものだし、実際、そのようなものとなるように歴史は語られることを望まれる。多様な歴史認識や歴史解釈は、そのリソースがあってこそできるというわけだ。僕も基本的にはその見解に賛同するけれど、しかし万能でもない。文献史料は十全なものではないからだ。結局、それも実証主義的な歴史の語り方という態度の次元に回収される。

しかし、だとすると、歴史とはその語り方次第で、いかようにもその相貌を変化させてしまうのではないか。それは、ありもしない過去を作為的に仕立てることをも可能にし、肯定すらするだろう。すると要点は歴史製作の過程に移され、ときに歴史の正統性は歴史の語り方の多様性のうちに霧散してしまうのではないか。たしかに、「歴史は勝者によって作られる」とも言われてきた。

実際、そうなのかもしれない。理神論者が、理性によって受け容れられる真実のみを集めて合理的な宗教――自然的宗教を作ろうとし、いまとなっては大局的に否定されているように、客観的事実のみを集めて歴史を俯瞰しようとすることも、結局のところ、素朴な意味合いにおいては否定されることになるだろう。近代的な宗教概念と同様にして、実在的な歴史観もまた相対化される。

求心的な暴走は遠心的に制御される。ただ、それによって破壊してしまうのなら元も子もない。
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by kourick | 2009-04-04 00:00 | ○学
歴史は繰り返す。厳密に言うと、これは誤っている。だから、用心深い現代の歴史家や歴史研究者は、この言葉を口にしない。歴史の一回性を過小に見積もると、訂正の面倒な誤謬を引き寄せてしまいやすいからだろう。ある歴史的出来事の発生する直前と同じ条件が仮に未来に揃ったとしても、その歴史的出来事と同じ帰結が立ち現れるとは限らないというわけだ。

そもそも、その「出来事」や「条件」というのを選出しているのは歴史を眺めようとしている人物であって、そうした条件は多分に恣意的なものである。かように歴史のなかに因果関係を読み込もうとすることには慎重になる必要がある。それは必ずしも客観的なものとは限らないからだ。これは「歴史」という語を用いて、ヒュームの指摘した因果連鎖の不確定性を言い直したもの。

しかし実際、わたしたちは歴史から、「歴史は繰り返す」という教訓から、なにかを学ぶことができるのではないか。たしかに、その通り。「温故知新」「二度あることは三度ある」というように、過去に起きた出来事同士の間に一定の傾向を見出し、今後の憂いに備えるということをわたしたちはする。それは確実な未来を保証しはしないけれど、過去の記憶とはそれで充分なのではないか。

個人誌や歴史にわたしたちは各々の経験を重ね合わせ、そこに習慣的に「繰り返し」を読み込む。自己や共同体を安定させ、その蓄積を応用するため、過去を「歴史」として叙述し直す。そこに繰り返しを読み込むとき、むしろ、その不確定さゆえに、人は「繰り返さないため」に語り、「見守るため」に黙る。それこそが共有される記憶、歴史という財産の価値なのかもしれない。

歴史は繰り返すとは限らない。しかし、だからこそ、人は歴史の繰り返しを語る。
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by kourick | 2009-04-02 00:00 | ○学
 というわけで、ベネディクトの「恥」の話題の続きです。しかし、最初に言っておきたいのだけれど、僕はルース・ベネディクトという人を20世紀における第一級の文化人類学者だと思っているので、これから説明することを本当に彼女が主張しようと意図していたのかについては、ちょっと疑問符を付けたい。ただ、その帰結としては、たしかにそう読めます。

 そもそもベネディクトが 『菊と刀』 を執筆することになったのは日本の敗戦後の処理、日本(人)の統治計画を周到に進めるために米国政府から日本(人)の文化を研究せよというお達しが下ったからです。そこから彼女は先行研究や諸々の文献、日本人捕虜・日本人移民などに聞き取り調査を行い、訪日することなしに一冊の報告書をまとめるのでした。

 それが『菊と刀 ~日本文化の型~』です。この副題にある「型 pattern」というのが重要で、この「pattern」というのは「ある文化をその文化たらしめているような特徴」のこと。これを強調するのがベネディクトの文化様式論の特徴のひとつです。実際、『文化の型』という著書もあります。とまあ、こういう背景があるというのは、やはり大切なところです。

 ベネディクトは日本文化の「pattern」のひとつを「恥」と考えました。そして、この日本的な「恥の文化」というのを、欧米的な「罪の文化」との対比として語っています(必ずしも対立概念として提示しているわけではないことには注意)。すなわち、日本人は他者の目を気にして行動する一方、欧米人は神の目を気にして行動するという具合です。

 日本人は他者の目に配慮することで自身の行動を律する。つまり、日本人の道徳は、内面的な強制力よりも外面的な強制力のほうが優位に立っているとしたわけです。罪の文化に生きる人は、どのような状況にあっても常に神の目のもとにあるため、罪を犯したと感じるときには、その罪を包み隠さず告白することにより、自身の罪の重みを下ろそうとする。

 じゃあ、恥の文化に生きる人はどうだろうか。簡単に言うとこうです。そうした人たちは他者の目を気にして行動するのだから、他者の目の届かないところであるなら道徳的に動かないこともありうる。むしろ、悪行が世間の人々に露見しないのなら、そのような行動を気にすることはない。そこに罪の重みはないので、その行為を他者に告白することもない。

 ベネディクトはそう特徴付けた。この読みは、まあ、なかなかなことになっている。しかし、全体として説得力のある知見となっているため、ナンセンスと切って捨てるわけにもいかない。これに対して、作田啓一さんは 『恥の文化再考』 において、次のように反論した。この反論は(いまいち知られていないけれど)およそ妥当なものだと思われる。

 ベネディクトのいう「恥の文化」というのは他者の目、世間の評判に重点を置いている。しかし、恥というのはそうした環境においてのみ感じるものではない。というのも、私たちは自分自身を恥じるということをする。つまり、私たちは自分自身を自分の目により監視している。すなわち、「公恥」に対する「私恥」というものに、もっと注目しなければならない。

 みなさん、今日日、恥じてますか、恥じらってますか。
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by kourick | 2008-11-23 00:00 | ○学
ちょっと中途半端な昨日のメモに愕然としたので、似たようなことを上乗せして書き残そうと思う。いや、メモに中途半端もなにもあったものじゃないような気もするけれど、そこは自分との闘いである。いかに文章の端々に情報の小包を引っ掛けているか、自分の記憶の引き出しを喚起するかどうか、それがメモのメモたらしいところなのだ! その開示には適切な手心が必要である。

それはさておき、ウェブのスラングとして「自重しろ」というのを近頃、頻繁に目にする。真・三國無双の登場人物たちの台詞が起源とも言われているけれど、これが普通に馴染むというのは日本的だなと思う。「自重しろ」というのは主に「落ち着け」という意味で用いられるのだけれど、必ずしも否定的に使われるわけでもない。

どちらかというと「ちょっと落ち着け(いいぞ、もっとやれ)」という含みがある。建前的には止めました、ただ、本音としてはもっとやれ、こういうことである。好意的な否定といったところ。いや、厳密に言うと「否定」でもない。そういう意見ではない。すなわち、「自重しろ」というのは換言すると「空気読め」である。いいな、わかるな、説明しないけど、わかるな?

このような場の雰囲気による人の統制、空気を基調とした同質化圧力は、日本においてはやはり根強い。「自重しろ」というのは、他人の行動のなかに看取される暗黙のメッセージに気を配り、他人が自分の行動を批判するかもしれないということを意識して行動せよということである。それができない場合、その人は批判されることなしに「排除」される。

こうした日本社会の隣保組織の強固さと外面的強制力による道徳の形成といったものをルース・ベネディクトは「恥の文化」として特徴付けた。日本人は恥辱感を原動力にして善行をなす。恥を感じやすい人こそ、善行をなす人であり、「恥を知る人」というのは「良心のある人」と同義である。そして、そういう社会において人は自己の行動に対する世評を気にしやすいというわけだ。

うーむ、なるほど、うまいことをいう。実のところ、この説明は『菊と刀』の第十章「徳のジレンマ」のなかの数頁が割かれただけの一節であり、どれだけ前面に打ち出される見解なのか定かではないのだけれど、日本人自身としてもなかなかお気に召した理解だったのか、やけに有名になっている。次回、この理解のもたらしたと思わしき結論と、それに対する批判をちょろんと書こう。
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by kourick | 2008-11-14 00:00 | ○学
 英語圏の Japan Forum に「日本に来て気付いたこと」という項目があって、日本では「異なっている」と「間違っている」が同義であるとコメントされていた。これは、なかなか鋭い観察だと思う。

 いわゆる、日本人の内輪気質だとか、ある種の排他性と思われるところが、言語使用の場面を通しても表出しているといったところだろうか。やはり、外国人にはそう映りがちなのである。

 公私に渡って意見の対立を避け、人間関係の距離感に神経質という日本人の傾向性はどのように説明すると適切なのかというのは、わりと昔から論じられてきた。

 日本人の著作として有名なのは、中根千枝さんの 『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書,1967年)だろう。これは 『Japanese Society』 として翻訳もされており、いまなお国内外において影響力をもっている。

 一時期、外務省の役人も「これが日本の社会構造ですよ」といって諸外国の役人に配っていたらしいので、これはなかなかである。ただまあ、そこにどういう意図があったのかはわからない。

 重要なのは差異を把握しようとすることであって、差異を消失させようとするのは相対的にリスキィなものだ。近寄るにせよ避けるにせよ、互いに把握しうる不一致がそこにあるという理解こそが重要だ。

 そこにあるのは壁というよりも、溝なのである。壁を壊して大きな平野を志向するより、溝に橋を掛けて互いの平野を尊重することのほうが、どれだけスマートなことだろう。
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by kourick | 2008-11-13 00:00 | ○学
人類学研究における他者理解を描き出すという行為そのものの危うさもあるだろうけれど、ちょっと簡単にまとめておこうと思う。ところどころ、さらに記述を接続したほうがよい箇所もあるけれど、ひとまず、僕なりの理解を一筆書きする。また、前半と後半は同様のテーマに沿って書かれているが、もしかすると、別のものとして読まれたほうが適切かもしれない。このテキストにおいては、「他者」と「異文化」はおおむね置換可能な用語として使われている。

ちなみに、以下に書かれることは適当に配慮されている。以下においては、恨みや怒りや拘りは失念ないし超克されているし、動物的な生存競争を免れているし、どうして人類は正義なるものを熟慮するのか、どうして人類は神や仏といった存在を必要としたのかといったことにも、さしあたり目を向けていない。したがって、以下に書かれることは、「なにはともあれ、わりと無難なこと」になっていると思われる。ただ、もちろん、それが誰にとっても無難なわけではないだろう。

これまでの他者理解

大航海時代以降、西洋の人々は世界各地で多様な文化や社会に出会うことになった。それによって、それまでに信じられていたような半人半獣のような怪物の類はどうやら存在しないということは判明したが、それと同時に、西洋人にとって奇妙で野蛮に感じられる慣習・風俗をもった人々に出会うことにもなった。

文化や社会の人類学的探究はこうして、西欧文明に生きる人々が自分たちとは異なる文化・習俗をもった未開社会に接したときに始まったということができる。すなわち、人類学的探求は、自己の文化とは異なる他者の文化を、いかにして自分たちの言語を用いて説明し、理解するかという探究心に端を発している。

18世紀半ばのイギリスに始まった産業革命以降、啓蒙主義的な合理性によって推し進められた科学技術の発展にともなって、西洋の思想界には進化論的人間観が広がり、近代西洋以外の世界を見下す傾向が強まった。社会の物質的/技術的な優越性をそのまま、その社会の精神的/倫理的な優越性にも適用してしまうという誤謬を背景に、近代西洋文明こそが人類の進歩の頂点を進む優等な社会であり、未開社会はその進歩の途上にある劣等な社会であるとみなされたのである。

こうした社会進化論的な理解は早い段階から批判されてきた。「アメリカ人類学の父」と称されるフランツ・ボアズによる歴史個別主義や、それ以降の文化相対主義などは、その際たるものだろう。文化相対主義的な考え方は、異文化と自文化との位置関係を修正しつつ、異文化の思考に寄り添って異文化を理解するという試みを促してきた。その潮流において、人類文化の多様性や複数性が強調して主張されてきた。

しかし、にもかかわらず、文化人類学における自文化と異文化という自己と他者の区別が、支配‐被支配という関係に裏付けられて把握されがちであったということは無視できない。事実、他者として分析される社会は、おもに植民地としての支配を受けている側の社会であることが多く、分析する側は支配する側の立場にあったのである。そして、人類学的研究成果は少なからず植民地統治に利用されてきた。

現在、植民地主義として批判に晒される権力差に無自覚な研究姿勢は、エドワード・W・サイードの1978年の著作『オリエンタリズム』における問題提起により決定的なものになった。もちろん、そうした事実を描き出すことによって、それまでに蓄積されてきた人類学研究における学術的成果を直接的に否定することにはならないが、サイードに指摘されたような他者理解の枠組みそのものの欺瞞を無視して、これまでの研究成果を受容するということは、もはやナイーヴなものになってしまっている。

第二次世界大戦(また、特に1980年代後半の冷戦の終結)以降、先進諸国の工業化→脱工業化と資本主義経済システムの世界的展開によって、世界各地を結ぶ情報通信・運輸交通手段は急速に進行し、経済活動のみならず、人口移動、情報流通、文化交流(思想、宗教、イデオロギー等)は国境を越えて活性化した。

こうした多面的なグローバル化の進行により、地球上の時間的・空間的な距離は縮小し、世界がひとつの社会的な場を形成し始めている。そしてまた、それに応じるように人間の生活環境は相対的に狭まってきており、各地域や各国民国家の相互交流や依存関係は強まる一方、政治的・経済的な自律性、文化的・社会的な自己完結性は低下してきている。こうしたなか、わたしたちの他者(異文化)理解もまた、再考を迫られているということができる。

ただ、学術的な観点から言うと、オリエンタリズム批判やポストモダニズム的言説は、新たな研究手法の提案ではなく、あくまで研究態度の変容を促しているにすぎないということには注意を払う必要があるだろう。十分な自省心をもった人間は、誤まる危険を冒してでも新たな構築を目指さなければ、そこからさきの展開は期待できない。わたしたちは書き続けなければならない。

これからの他者理解

それでは、これからの他者理解はどのようにあるべきだろうか。しかし、この問題に取り掛かるとき、わたしたちはもはや、そもそも「他者」とは誰なのか、その他者を「理解する」とはなにをすることなのかという根本的な問題に引き戻される。わたしたちは問い方を問うところから始めなければならない。

ジェイムズ・クリフォードは1986年の論文「部分的諸真実」において、統一された一貫性のある全体的な民族誌・文化を書くということを批判した。いまや、そのような部分性を強調する考え方は珍しくもなく、やや食中り気味でさえあるけれど、その主張自体はたしかに的を射ている。他者理解においてはまず、一貫性のある「他者」を一定の言語を用いて一面的に「理解する」という行為に慎重にならなければならない。結局のところ、わたしたちは断片的な理解の積み重ねとその重なり合いのうちに他者を理解していくしかないのである。

そして、これはまた、他者理解には程度があるということを示してもいる。とすると、冒頭の問いは次のように変更できる。より十全な他者理解に至るために、わたしたちは他者に「どう接するべきか」である。いや、厳密に言うなら、そのような積極的な主張も憚られるかもしれない。より慎重に言うと、経験上の失敗に基づいて、「あのように接しないために、どのように接するのが適切か」という消極的な提案に留まらざるをえない。これはつまり、より良い状態を目指すという志向性を、より悪い状態を避けるという志向性に反転させているわけである。

しかし、このように考えていくと、他者との交流というのは格段に面倒臭いものになる。実際、そこに至って他者理解を放棄するという態度はありうるだろう。そしてもしかすると、他者に無関心になるのではなく、関心をもってはいるのだが目を瞑るという「適切な無視」という態度は妥当なのかもしれない。ただ、そうした態度は不寛容になりかねないうえ、安全保障という観点からもあまり望ましいものではない。

それゆえ、わたしたちは他者理解に際して、そう簡単には理解できないというある種の諦念とともに、それでも他者を理解しようとする粘り強い思考力をもつ必要がある。そしてまた、理解の政治的正当性や論理性と同程度か、あるいはそれ以上に、日常的な生活態度――他者と接したときにどのような態度をとるかという個々人の姿勢が重要になる。

以上のような、他者認識の多重性は、翻っては、おおまかに次のような自己認識の単位の差異に起因しているのではないかと思われる。つまり、わたしたちは一方に、エスニシティやナショナリティといった文化的・心理的特性に基づいた集団(特に近代的な国民国家)としての自己をもち、他方に、原子的な個人としての自己をもつ。自己認識の単位の大きさに応じて、他者認識も変わり、そのようにして把握される他者との接し方というのも、自己の在り方に応じて変わる。

国家を単位とする政治的・経済的な交際と、個人を単位とする趣味的・交友的な交際は、互いに無関係ではないものの問題のステージを異にしている。にもかかわらず、わたしたちはどちらのステージの問題も、他ならぬ自己の問題として考えなければならない。ここに自他交流の難しさがある。これは過去の国家間の戦争のしがらみを抱えつつも、現在の個人間の友好関係は十分に築けるというような例に端的に現れているだろう。

今後、近代国民国家という幻想の共同体や原子的個人という幻想の主体はゆるやかに解体されていくのではないかと思われるが、いずれにせよ、他者との付き合い方というのは個々人の生活に位置付けて思考されるのが望ましいと思われる。グローバル化する時代において、自己のアイデンティティを多様なコミュニティによって担保し、自分の人生に多様な文化を選択して取り込むことは容易になってきている。

そうしたなか、もはや自己や他者というのは一枚岩の主体ではなく、(やや楽観的な見方ではあるにせよ)そのときどきの関係に相対的な主体であるだろう。自己とは異なるからこそ他者は他者なのだが、そうした他者を理解できるのは彼我に共有するものがあるからにほかならない。わたしたちは、ある観点において同じ自己に属しうるし、他の観点において異なる自己に属しうるのである。そこでは、多様な自己のチャンネルに応じて他者理解のチャンネルも開かれている。自己や他者を平面的に理解するという大時代的な展開は、もはやそこにはないのである。

とりわけ後半は散漫になってしまったけれど、こうした理解が穏当なところではないかと思う。
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by kourick | 2008-08-23 00:00 | ○学
 「思考停止」という言葉に悪い印象を受ける人が多いようだ。いろいろな切り取り方があるけれども、肯定的でわかりやすい例を挙げると、「公理」を立てるときには思考の停止を伴うだろう。

 公理に「どうして?」と問うことはナンセンスではないが、基本的に有益ではない。思考停止を前否定する人だって、体系的な学問を研究するときに「公理」を立ててないわけにはいかない。

 「公理」の例は分かり難いかもしれないので、もっと日常的な例を挙げると、「常識」というのは思考停止だろう。もちろん、疑われてしかるべき「常識」というものもあるだろう。

 しかし、右手を見て「ここに右手がある」と思うとか、道を歩いていて「一歩先にもちゃんと地面がある」と思うとか、いまこのテキストを読みながら「いま俺は文字を読んでいるな」と思うとかならどうだろう。

 こういった「常識」に関する思考はおおむね停止されているものだ。むしろ、こういった思考は停止してしまうことによって、人はスムーズな日常生活を送れているわけです。

 なにが言いたいかというと、普段、日常生活でさまざまなことを思考停止して流しているのに、いざ「思考停止」と言葉になると徹底的な拒否反応を起こすというのは、ある種、不健全ではないかということ。

 普段は思考を停止して穏やかに生活しているのに、いざ思考を始めたと思ったら、自分の日常を否定しなきゃいけないわけです。上げると落ちるブレーカみたいな感じですね。

 熊野純彦さんが 2000年27号の 『世界思想』 に「思考について―ロボットと日常と哲学と―」という六頁の短い文章を寄せています。これは非常に面白い文章なのですが、要約すると次のようなことを言っています。
 完璧なロボットを考えてみよう。彼は「思考」しており「意識」があるのか。おそらく、これは不毛な問いであるだろう。こたえは「定義による」からである。正しい問いはむしろ、私たちはロボットが思考することを望むのか、そして私たちはそのようにロボットを設計するのか、というものである。

 単純な意味では、まったく「思考」しないロボットは使いものにならない。この場合、最低限の「思考」とは、適切な運動を導くために必要な状況を見分け判断すること、実現されるべき目標のために手段を選択することである。

 こうした思考も、迅速であることが望ましい。むしろ、計算と決定とに要する時間は、できることならゼロに近いほうが良い。とすると、思考するロボットは「思考していないように見える」ほうがよいことになる。とするとさらに、ロボットはたしかに思考しなければならないが、しかしできれば思考しないほうが望ましいことにならないだろうか。
 このように「完璧なロボット」の「思考」について話が展開されます。「たしかに思考しなければならないが、できれば思考しないほうが望ましい」などは、実に印象的なフレーズです。そして、話は「人間」の「思考」についてにシフトして続いていきます。
 日常生活は第一に、大抵の場合ことさらな「思考」を必要としていない。日常の生のなかで思考がよびおこされるのは、自動化された行動がむしろ阻止されるときである。寝坊をすると、対策を考える。パンの買い置きが切れているときに、別の食品を探そうと思いつく。地下鉄が止まってはじめて、バス路線におもいめぐらすという具合である。

 「思考」は行動をたすけ、行動にとっての障害をのぞくためにあるのであって、おもいなやむことそのものに価値があるわけではない。人間の知性はそもそも行動へとさしむけられており、思考はもともと行動の補助的な手段なのだ。

 すくなくとも日常の生にあっては、思考は行動へとむけた問題解決の手続きであるにすぎない。そうであるなら、ちょうどロボットにかんしてそうであったように、人間の日常についても、問題はないほうがよいに決まっており、問題が生じる場合にはその解決が迅速であるほうが好ましい。

 だが、問題の解決にむけられてはいない思考、それどころかかえってつぎつぎと問題をつくりだしてしまう思考がある。哲学的な思考、と呼ばれるものがそれである。
 僕は「哲学」という分野に執着はないし、哲学という活動に打ち込みたいとも思わないけれど、そう思うことこそ、僕が哲学に関する思考を停止したときに受けている恩恵なのかもしれない。僕は、できることなら、なにも思考したくない。そのために思考している、とすら言うことができる。

 ちなみに、「哲学研究にいちおうの予算が付いている不可思議さ」に応じて、熊野純彦さんはなかなか泣かせる一節でその文章の幕を閉じる。
それでも哲学的な思考を肯定しようとすることは、要するに無駄を肯定しようとすることである。ことばをかえれば、人間がロボットになりきることがないであろうことを肯定することなのである。
 哲学に幸あれ。
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by kourick | 2007-01-19 00:00 | ○学
 八月に『論考』を精読しました。使ったのは1921年のオグデン対訳版を底本に、1961年の新訳、1968年の坂井秀寿訳、1975年の奥雅博訳、2001年の黒崎宏訳、そして2003年の野矢茂樹訳です。
L.Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus.
London: Routledge and Kegan Paul, 1922.
L.Wittgenstein, Tractatus Logico-Philosophicus.
Translated by D.F.Pears and B.F.McGuinness.
London: Routledge and Kegan Paul, 1961.
坂井秀寿 『論理哲学論考』,法政大学出版局,1968年
(1922年初版本の全訳)
奥雅博 『ウィトゲンシュタイン全集1』,大修館書店,1975年。
(1961年の全訳)
黒崎宏 『『論考』『青色本』読解』,産業図書,2001年。
(1922年初版本の独語部分の全訳)
野矢茂樹 『論理哲学論考』,岩波文庫,2003年。
(1933年改訂版の全訳)
 どうせだから、『論考翻訳集』 を作ろうとデータをPCに打ち込みながら読みました。A4サイズで300頁という大部になりましたが、内容部分は完成しています。あとは図を作り製本するだけです。同人誌ですね。

 ただ、著作権的に真っ黒のため、門外不出です(笑)。これに残る三種類の邦訳(全訳)と、仏語訳と二種類の中国語訳を付け足した 『超論考 ~論考翻訳集完全版~』 というのも作ろうかと思っています。
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by kourick | 2006-10-06 00:00 | ○学