カテゴリ:言葉( 27 )

 「ものを覚えられないのは興味を持っていないからだ」と聞いたことが何度かある。だが、興味を持っているのに、どうにも頭に入ってこないものもある。それは例えば、「ドラムンベース」だったりする。誰に尋ねられることもないだろうが、僕はもう、その言葉を何度も検索している。

 僕が「ドラムンベース」を理解するために費やした時間はどれほどのものだろうか。たぶん、1時間や2時間では済まないのではないか。ことによると、6時間くらいは「ドラムンベース」に弄ばれているのではなかろうか。なにがいったい、僕をそうさせるのか。興味とは恐ろしいものである。

 だが、興味があるにも関わらず、僕の理解は一向に進まない。あれ、どっちがテツでどっちがトモだっけ、というか、どっちが赤でどっちが青だっけ、みたいなものである。今日も僕は Wikipedia で「ドラムンベース」を検索した。そこには、こう書いてあった。
基本的にはジャングルと同じように高速で複雑なリズムと低いベース音を特徴とした音楽。
 なるほど、と僕は思う。なにが「なるほど」なのか、いまとなってはもうわからないが、たぶん、毎回思っているだろう。だが、僕はこの程度の理解では飽き足らず、さらに読み進める。すると、今度はこう書いてある。
幻想的なパッド音などを用いたフューチャリズムに根ざし、幻想的でありながらも冷徹でもあるサウンドは、ジャングルとは似て非なる。
 わからないはずである。おそらく、これでドラムンベースのことを理解できる人は、そもそもドラムンベースなど検索していないだろう。そして、ここにはもうひとつ問題がある。「似て非なる」である。これはもちろん「似て非なるサウンド」ということなんだろうが、そこは省いていいものか。

 いや、僕が正直に「わからない」ということを認めるとなると、「もちろん」などということも言ってはならないかもしれない。もしかすると「似て非なる」のあとには、僕の想像するものとは異なるなにかが収まるのではないか。とにかく、わからない人の勝手な想像に踊らされてはならない。

 ことによると、「ジャングルとは似て非なるパッションをもたらす」とか「ジャングルとは似て非なるクリエイタのソウルがある」とか、なにかもっと似て非なるものかもしれない。わからないのだ。さて、ここまで読んできた人はそろそろ、「そもそもジャングルってなに?」と思っているに違いない。

 安心していい、僕もわからない。どうして僕がわからないと安心していいのか、それすらもわからないことになってきているが、わからない人というのはときによくわからない自信を持っているものである。いやむしろ、たいていの場合はそうだ。逆に専門家は自分の発言に自信を必要としない。

 話を戻そう、ドラムンベースである。僕はいまだに「ドラムンベース」のなんたるかをわかっていないのだが、Wikipedia のテキスト、これがなかなか心の隙を突いてきている。どうもわかったような気にさせられる。どこか「わかった」と納得するように仕向けさせられている。

 はっきり言ってわかってはいないけど、これでわかったということにしといてやろう、そんな気持ちにさせられる。それでいて、「ふむふむ、つまりどういうことなの?」などと尋ねられると、あたふたしてしまうのである。じゃあ、これはどうだろう。これは「ドリルンベース」の説明である。
サンプリングビーツを、一度解体、分割 し、一音ずつにリバース、ディレイ、大胆なピッチシフトをかけることによってドリルンベースならではの、ブロークンでありながらリズミカルなビートが完成される。
 完成された。まず、わかるのはそのことだ。完成してよかった、そこで読者はホッとする。しかも、ドリルンベースならではのものが完成した、これは喜ばしいことだ。通常ならこのあたりで「なるほど」とか思っておかないといけないところである。だが、ここでふと我に返ってしまう不幸な人もいる。
「それで、結局、ドラムンベースとドリルンベースってどう違うの?」
 内心、焦りながら、僕は澄ました顔をして答える。
「ああ、ドラムンベースは幻想的でありながらも冷徹なサウンドなのに対して、ドリルンベースはブロークンでありながらもリズミカルだよね。まあ、いずれにせよ、ジャングルとは似て非なる」
 僕にはやっぱり、よくわからないんである。
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by kourick | 2011-12-15 19:30 | 言葉
 「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という都々逸を唄ったのは高杉晋作だと言われているが、どういう状況で唄われたのか、いまいち見当が付かない。自分のことを唄ったのなら大した猫々しさであるし、遊女の心情を唄ったのなら大した妄想力である。若いのに立派なものだ。

 三千世界というのは仏教用語で、一人の仏陀が教化できる範囲のことである。須弥山を中心とした世界が1000個集まって小千世界、小千世界が1000個集まって中千世界、中千世界が1000個集まって大千世界で、要するに10億個の世界が集まった世界が三千世界である。

 もし仮に一世界に鴉が1羽しか存在しないとしても、三千世界には10億羽の鴉がいることになる。そんなことは一言も言っていないが、勢い余って全羽殺そうということになると、一日に100羽の鴉を殺したとして約27397年かかるということになるので、なかなか骨の折れる作業である。

 しかもその鴉がヤタガラスでお馴染みの熊野大社の鴉だというから奮っている。それほどまでに朝寝したいのかとそのロマンティシズムにうっとりするものもないではないが、それよりも、仏教いわんや神道をも絡めた、なかなか学のある都々逸だということに感心する。

 一日千秋や千客万来、あるいは一事が万事など、多さを表現する諺もあるけれど、大抵は千から万が上限であって、それ以上先はない。そこのところはやはりインド、仏教の宇宙観、スケールの大きさには唸らされる。大きさ、広さ、凄さを数量的に表現しようとする辺りは科学的でもある。

 そして、彼らのスケールのインフレはそんなところでは止まらない。10億の世界などは可愛いもの、兆、京、垓と続き、10の64乗で不可思議が現れる。もう少し早めに不思議さに気付いてもよさそうなものだが、彼らはそこからさらに不思議がり、10の67乗で千不可思議に達する。

 いよいよ不思議さも窮まったところで、10の68乗は無量大数である。気持ちとしては「アレフ0」くらいの気持ちだったのかもしれないが、残念ながら無量大数の十刀流で十無量大数、十倍ジャンプして百無量大数、さらに十倍の回転を加えることで千無量大数にまで到達する。

 一見したところ、面白がってやっているようにしか思えないが、この限界の追及には感じるものもある。要するに、このような上限の探究というのは無際限の規定可能性に阻まれて、完結した上限には至れない。どこまでも有限であって、有限を延長することでは無限に至れないのである。

 西洋を見るとニコラス・クザーヌスが似たようなことを言っている。永遠に繰り返される生と死、そのなかで繰り返される苦しみから解放されること、要するに輪廻から解脱することというのは、無際限から無限へのジャンプ、有限から無限へのジャンプだったのではないかとも感じられるのだ。

 それにしても、三千世界の説明を初めて聞いた人が「つまり、3000世界じゃないってことですね?」とマジレスしなかったことは、まさに功徳の成せる業である。あるいは「それは10億100万1001世界じゃないですか」と食ってかかる人はいなかったのか。どうにもややこしい名称である。
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by kourick | 2011-12-01 02:00 | 言葉
 北海道では「ごみ捨て場」のことを「ごみステーション」という。どうしてそうなったのか謎であり、一見わけがわからないけれど、よくよく考えてみるとなかなかポジティブな名称である。まあ、999号のように、乗った客が二度と帰ってこないということだけが不憫ではある(嘘である)。

 ちなみに北海道では、いわゆる電車のことを「汽車」という。わざと古風を気取っていってるんじゃないのと思う人もいるかもしれないが、僕の知る限り、そういう意識ではないと思う。「電車」という言葉でイメージするのは「路面電車(チンチン電車)」のほうであって、「汽車」ではない。

 じゃあ、「列車」でいいじゃんと思う人もいるかもしれないが、地方では1両編成の場合も多いので、列なっていないものを「列車」というのはいかがなものか(実際には1両編成でも「単行列車」という)。そう抵抗はないかもしれないが、イメージには合わない。実際、気動車だろうし。

 まあ、そうは言っても、「汽車」という表現の情緒に惹かれて使っているという側面も多分にあると思う。うちの母方の一族はそろって開拓民で、祖父は汽車の好きな人だった(みたいだ)。汽車関係の写真や標識なんかが旧宅にはあったと思う。輪切りの線路はいまでも僕が保管している。

 やはり、そういう想い入れ補整があると、古めかしながらも「汽車」と言いたい気持ちになるのもわかる。しかしまあ、もちろん、単に「汽車」という表現が違和感を抱かれずに定着しているというだけの話でもある。これからの世代の人が、どういう言葉を使うのかはわからないが。

 宇宙飛行士や航空機乗り、その他、戦闘機や戦車など、操縦士や運転士が自分の職に高い誇りを持っているというのは知られたことだが、汽車の運転士も自分の職に対して高い誇りを持っているそうだ。特に日本の鉄道関係者はそうかもしれない。

 そうであればこそ、特急スーパーカムイの車掌さんだって、自分の黒革バッグに「超神威」と刺繍をいれようというものである(前にも書いたか)。それはさておき、僕がなんだか面白いなと思うのは、運転士さんもそうだが、ホームの駅員さんもどこか溌剌としているなと感じることである。

 汽車がホームに進入してくるときなどに「きしゃおあぁ、ほぉむにはいったられらぁ、おきをつけらっせー」みたいなことを言って、指をピッピとやる人の制服の仕立て具合や姿勢の良さ、なによりもそのどや顔が尋常ではないのだ。格好良いだろうと思う気持ちが格好良い。好きだからこそであろう。

 さて、およそ関係のないことだが、駅弁というのはどうして汽車が走り出してから食べるものなのだろうか。僕はついつい駅弁を買って汽車に乗り込むと、巣を作ったあとにすぐ手を付けてしまう。そうして汽車が走り出したあと、逆サイドの乗客が駅弁を開きだして「しまった」と思うのである。

 別に「しまった」と思うことはまったくないのだが、このやっちゃった感はいただけない。思えば、『孤独のグルメ』でお馴染みの久住昌之さんが脚本を書いていた「夜汽車の男(世にも奇妙な物語)」でも、大杉漣さんは汽車が走り出す前に駅弁を開ける乗客に心のなかで悪態を付いていた。

 やはり、それだけの理由があると思われる。僕が想像するに、おそらく駅弁とは「ただの弁当」ではないのである。駅弁によって味わわれるものは味ではなく、旅なのである。ただ腹が膨れたらよいというものではない。ゆえに汽車が走り出す前に食べるのは邪道である。おにぎりでつなごう。

 あろうことか、僕はそのとき、コーラを買っていた。よりによって、コーラ! 弾ける甘い水である。やはりそこはお茶を買うべきだった。僕はお茶を買う習慣がないが、このときばかりはお茶について考察した。彼らの存在意義は冷たくても温かくても、ましてや、ぬるくても美味しく飲めることだ。

 こんな飲み物は、そうそうない。よくよく考えてみてほしい。そんな飲み物は、まあ、ないのである。僕はこれからもお茶を買うことはあまりないと思うが、お茶を見直したことは確かだ。自分たちがそこまで期待されていないことをよくわかっていて逆手に取っているとも言える。長旅に最適なのだ。

 汽車での一人旅で弾けている場合ではない。お茶を買おう。
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by kourick | 2011-11-29 02:00 | 言葉
 「ルール」というのは便利な日本語だ。もし「ルール」という言葉がなかったら、ゲームのルールを説明するときに「このゲームの規則はね」みたいな表現を使わないといけないし、なにかしらのルールを破ったときも「それは規定違反だよ」みたいな表現を使わないといけない。

 いや、あるいは「ルール」という言葉がなかったら、むしろ、そうした説明的な言語表現は減っていたかもしれない。つまり、身振りを交えて「これはこうしてこうするの」とか、相手に渋い顔をして「それ、ずるい」みたいなことを言うのである。そこはまあ、阿吽のアレということでひとつ、みたいな。

 堅苦しい表現を使うよりは、非言語的な要素を増やしてコミュニケーションをマイルドにしていたんじゃないかなというほうが想像しやすい。そうした進化を遂げていたら、主語や目的語など飾りであり、むしろ、言語など装飾であるということを日本人は偉い人に証明していたことだろう。

 そんなわけで近頃、自動車を頻繁に運転するようになったわけなんだけれど、法定速度とはいったいなんだったのか。哲学思考トレーニングの課題だろうか。あ、あと、バック時の速度を制限する機能はオプションであってもいいと思う(ベタ踏みしても 5km/h しかでないみたいな)。

 ときどき話題にされるもので、「ルール」と「マナー」と「モラル」の違いというものがあるけれど、それはさておき、「交通規則」と「交通ルール」という表現の違いが曖昧で迷っている。規則は法規とイコールだと思うのだけれど、じゃあ、ルールもイコールなのか。

 これはニュアンスの差であって「違いなどない」というのがストレートな回答だけれど、僕個人としては、「交通規則」に「交通マナー」を足したものが「交通ルール」ということになっているのではないかと想像している。正しい運転をして、人に迷惑をかけない、これがルールを守っている状態だ。

 なるほど、これはまあ、わかる。しかし、困ったことに、法定速度を守って正しい運転をしていると、周りの車に迷惑をかけてしまうことがある。なんか、この車だけ遅いぞ、というわけである。さあ、じゃあ、こういう立場に自分が置かれたとき、はたしてどういう選択をすることが正しいだろうか。

 そこに正義はあるのか、君はジャスティスかと、地球を悪の組織から防衛するヒーローのようなことを訊いているわけだけれど、どうだろうか。正しいかどうか、である。これには困ってしまう人が多いと思う。実際、これはわりと深いところにまでいってしまう話題であるだろう。

 ただ、僕ははっきり言って、こう思う。それは正義の問題なのか。日本語だからそう感じるというところはあると思うけれど、「正義」と言われるとピンとこない。一周まわって、形式的で、型に嵌められた、レールに乗せられた感じがしてしまう。歳をとるとスれるということである。

 むしろ、法治を軽んじるわけではまったくないけれど、日本には「ものの道理」というものがある。まずもって遵法精神的なものは法規ではなく、道理から生じているのではないかと思う。だから、「それは道理に適っているか」と問いかけたとしたら、もう少し意見は割れるだろう。

 法定速度を場合によっては順守しないということは「正しいことか」「良いことか」と言われると「そんなことはない」ということになるが、「理に適っているか」と言われると「そういうこともある」と言いたい気持ちになる。

 まさに道の理。正義を問われても腑に落ちないというところはある。
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by kourick | 2011-11-23 00:00 | 言葉
 地球の言語に翻訳できるものを 怪獣の鳴き声 というのはいかがなものか。科特隊基地の「全宇宙語翻訳装置」を通すと怪獣の鳴き声はちゃんと翻訳できるのだ。要するに、鳴き声というより言語である。

 有名なバルタン星人の「フォッフォッフォ」は「地球人の諸君に」となる。それで交渉しようとする連中もいるのだから、鳴き声というと御幣があるに違いあるまい。(というか、バルタン星人は怪獣だろうか?)

 むしろ、彼らは(いちおう)地球人よりも何倍も何百倍も知能が高かったりするのだ。知能があり、言語があり、コミュニケーションを取れるという設定はやはり倫理的問題を惹起するようなところがある。

 怪獣の権利というようなものを考えだすときりがないし、仕方もないけれど、動植物などの権利に関していうと、「人類に愛されている」という要素はとても大事なのだろう。
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by kourick | 2007-09-04 00:00 | 言葉
 ニュートンが「私がさらに遠くを見ることができたのだとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです」と言ったというのは(胡散臭いけれども)有名な話ではある。一見、当たり前のことを言っているように思われるかもしれないが、よく読むとやはり当たり前のことを言っている。

 僕はこうした格言めいたものをみると「どうしてこの格言が残り、語り継がれているのか」という意図のほうに意識が向かってしまう。このニュートンの言葉の場合だと(それを本当にニュートンが言ったかどうかは別にして)二通りの読みかたがあるだろう。

 ひとつは、天才に「当たり前のことを言わせる」ことでその天才性を強調したいというものである。当たり前のことでも「天才」が言うと一味違うという効果を狙っている。また、天才という異常が常識を口にすることで懐の深さとでもいうものが感じられるだろう。

 もうひとつは、ニュートンのような天才ですらこのように謙虚なことを言っているのであるから、およそ天才ではないようなわたしたち(という場合、「君たち」に言っている場合が多いと思うけれど)も、謙虚になりましょうと主張しているものである。

 前者はニュートンを神聖視したいという願望があるだろうし、後者は神聖視したいという願望をスケープゴートにして自分の不満を語りたいという願望が透けて見える。いずれにしても、どうも取って付けたような不自然さがあるのは否めない。大きなお世話である。

 おそらく、これは「格言」というものの本質にかかわる。本来であれば、格言を保持する努力というのは、自分を戒める格言が残らないように現実に改良を施すという作業に向けられるべきだろう。普段から注意しているのなら注意書きは必要ない。格言というのは余分なのである。

 したがって、格言はむしろ、「戒め」というよりも「ここを洗練せよ」という指針として働いていると考えられるだろう。それゆえ、格言を暗唱することで自分が落とし穴を回避できるようなったと錯覚してしまうことは虚しい。格言とは捨てられてこそ価値のあるものだからである。

 そのようなわけで、僕は格言は好きなのだけれど、「格言を言う」「格言を使う」ということには抵抗がある。同じように街中に標語などがあると不躾だと感じるし、他者の言葉を自分の脈絡で掲げるのも浅ましいと思う。成功談や失敗談を人に語るという行為にも価値を見出せない。

 端的にいうと「無駄」である。もちろん、無駄が悪いといっているわけではない。無駄を好む人は大勢いるし、場合によっては有益だろう。ただ、そういう人は大勢いるのだから、僕がそうなる必要はないだろうと思うことはわりとある。僕ならしない、という程度のことだ。
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by kourick | 2006-08-30 00:00 | 言葉
 「まなぶ」と「まねぶ」という言葉がどういう関係にあるのか詳しくは知らないけれど、これらが表現している行為の接近する対象が「人」の場合、それらはきわめて近い内容をもっているだろう。

 こうしたことは求道的だったり芸術肌だったり職人気質だったりする作業の場合に典型的になるようで、経典の写経や芸術作品の模写、伝統芸能の習得・伝達といった例で好意的に語られる。

 これは当然の事柄で、そうしたことがなければ、どのような分野においても「発展」と呼ばれるような蓄積は生まれなかっただろうし、文化や風俗も成立しなかったに違いない。

 自分の属する社会の文化に貢献しようとするのであれば、(良いにせよ悪いにせよ)模倣というのはそうぞんざいに扱うことのできない行為だ。むしろ、だからこそ、剽窃という行為はもっとも恥ずべき行為になる。

 受け継いだものを維持する、ときには批判的に展開し、洗練し、蹴り飛ばす。「古いものを知らなければ、なにが新しいものなのかわからない」という意味で「温故知新」という四字熟語を理解することもできるだろう。
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by kourick | 2006-08-29 00:00 | 言葉
前回の話と関連して「impression」「expression」という、より一般的な語の話をしよう。動詞にすると「impress」「express」です。各々の標準的な訳語としては「印象」「表現」があります。

もとの語を割って訳を取ると「内側に押し込む」と「印象」になり、「外側に押し出す」と「表現」になるということになります。これはわりと直感に即しているように思う。まあ、なにが「押し込まれたり」「押し出されたり」しているのかを考えるとやや不思議ではあるけれど、単に情報を「内側に置いたり」「外側に置いたり」するという機械的な作業を思わせる単語と比較すると、情緒的な単語に思われます。デジタルとアナログ(という語から受ける印象)の差といっても良いかもしれません。

そのようなわけで英語らしからぬ情緒を感じて調べてみたら仏語辞書に同じ単語が載っていました。発音もほぼ同じです。おそらく「impression」と「expression」は仏語が起源でしょう。そう考えると、どちらの対の単語にも各国特有の雰囲気を感じないこともありません。ちなみに「input」「output」は英語が起源のようです。
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by kourick | 2006-08-24 00:00 | 言葉
人間を機械に模す表現というのは古来ある。最近では「入力」「出力」というのがわりと定着している表現だろうか。おそらく訳語だと思うけれど、英語で言うと「input」「output」になる。語幹が「put」だから、素朴に語を割って訳を取ると「内に置く」「外に置く」という感じになる。

最近の使われ方としては、自分が情報を得ることを「入力する」と表現することがあり得る。それに対して、自分がなにかを表現するときは「出力する」ということになる。当然「自分に入力しているのは誰か」とか「自分から出力しているのは誰か」と疑問に思うけれど、それはやはり自分だったりする。客観的な自分とそれに働きかける主観的な自分というのが、きわめて自然に分離している感覚というのは現代的なリアリティとして根強いように思われる。

ところで「入力」というのは「出力」を前提しており、「出力」があるからこその「入力」でもある。しかし、そのように出力を前提にした関数のように自分を見做すと、明確になることがある反面で、失われる豊かさもあるだろう。もし、そうした語彙を用いることで以前より自分を明確に理解できるようになったと信じているのであれば、同時に、ただ単に明確に理解できる範囲内に自分を押し込めただけではないのかと疑ってみることも、人間の感性の豊かさを確認する上で有益かもしれない。
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by kourick | 2006-08-23 00:00 | 言葉
・ わけのわからないと思われる話を延々と続けているのだけれど、もう少し続けよう(わけのわからないことは前提にされているわけだけれど、前提にした以上のわけのわからなさは持ち込まないように努力している)。そこで、前回の文章で現れた「安心感がある」という句を考えたい。

・ 「感」と「観」はそれだけで使われる場合もある。手持ちの辞書には「不徹底の感が否めない」という用例が載っていて、この場合の「感」は「ある種の判断を伴った印象」らしい。この「判断」という語は真摯に受けとめなければならない。単なる印象と違って「判断」されているとなると、その判断が他人にも通用するだろうと本人が思っている程度の客観性は帯びていると考えられる(もちろん、その客観性の妥当性は考慮されなければならないけれども)。

・ ちなみに「観」の用例としては「地獄の観をなす」とある。これは要は「地獄みたいな状態だ」ということで「地獄の様相を呈する」等と表現しても良いと思う。「感」が印象や弱い判断に重点があるのに対し、「観」には状態や様子に重点があるようで、こちらのほうが客観性は高いように思う。五感で感じるものを「feeling」とすると「感」は「sense」に「観」は「view」に対応すると言えるだろう。

・ 例えば「混乱の感がある」と「混乱の観がある」はどう違うのだろうか。小学校の算数の授業を考えてみよう。四則演算も山場に差し掛かり、とうとう分数の計算を学習する時間である。教師もこればかりは仕方がないので、小学生には難しいと思われる抽象的な説明も少しする。すると連中は急に首を右に10度傾け、頭の上にウナギを咲かせる。そして教師は思うのだ。

「おお、混乱の感がある」

・ これはいけないと思い、今日はもう算数の授業は前半でやめることにして後半は体育の授業にしようと児童にその旨を告げる。するとどうだろう。子供たちは急に算数から体育になったものだからはしゃいでしまい、収集のつかない事態に発展。喘息を起こす子が現れ、あちこちで喧嘩が起こり、気分が高揚して嘔吐する奴まで現れる始末。もちろん体育は無理。算数も無理だ。そして教師は思うのだ。

「おお、混乱の観がある」

・ さて「安心感」の話に戻ろう。僕は以前から「安心感がある」はおかしいと思っていたのだけれどいまや少しすっきりした。つまり、この句は「安心の感がある」が正しいのだ。従って、前回までの話も重要な部分で修正を入れる必要がある。「安心感を必要とする安心」は「安心の感を必要とする安心」が正しくて、「安心感を必要としない安心」は「安心の感を必要としない安心」が正しいのである。
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by kourick | 2006-07-22 00:00 | 言葉