カテゴリ:サイト論( 27 )

Activica.今日のテキスト で、コミュニケーションという観点から無断リンク拒否を擁護する議論を構成してみました。こういう観点から無断リンク拒否を擁護しようとする議論は、僕の知る限りなかったので、できれば意見を聴きたいところです。このエントリでは、再構成された議論の流れを「論理的な飛躍」を補足しつつ、説明してみたいと思います。

僕はまず、無断リンクを「原則的水準の無断リンク」と「コミュニケーション水準の無断リンク」に分けました。これはわりと実態に即した分類だと思います。おおまかに言うと、より公共性の高い公的なサイトほど、前者のカテゴリを念頭においたリンクが許容され、より公共性の低い私的なサイトほど、後者のカテゴリを念頭においたリンクを望まれるという具合になると思います。

そのような分類をしたとき、無断でリンクを張るという行為は、

原則的に正しいかもしれないけれど、コミュニケーション的に適切でないこともある。

と言うことができます。そこから、無断リンクというのは

原則的に不正ではないから認められるけれど、コミュニケーション的に適切ではないから望ましいものでないこともある。

と言うこともできます。そして、次の仮定が「論理的な飛躍」に当たる部分ですが、

望ましくないことは認めないほうが良い。

ということが、およそ一般的に言うことができるため、以上のことから、無断リンクというのは

コミュニケーション的に不適切なため、認められないこともある。

という結論が得られます。しかし、この場合、「望ましくないことは認めないほうが良い」という仮定に対して、「望ましくないこと」というのが「誰にとって望ましくないことなのか」という問題が生じます。この問題にはどうやっても、ある程度、恣意的に答えざるをえないため、事態はややファジィになります。 それでも、コミュニケーションの空間としての Web という見方を強調したときに、この議論はそれなりに説得力のあるものではないかと思います。

この議論に対して、まっさきに想定される反論というのが、

リンクを張るという行為は、コミュニケーション行為ではない。

というものです。無断リンクはコミュニケーション的に不適切と主張するためには、リンクがコミュニケーション行為である必要があるからです。ここを攻められると、次のようになります。

無断リンクはコミュニケーション的に不適切とか言われても困る。なぜなら、リンクは情報を参照するための行為であって、コミュニケーションをとるための行為ではないからである。

したがって、

無断リンクは原則的に正しい

かつ、

コミュニケーション的に不適切という批判にも晒されない

よって、

無断リンクは認められる。

という結論が導かれる可能性もあります。これはたしかに強力な反論ですが、どうして強力なのかというと、「リンクを張るという行為はなんらコミュニケーション行為ではない」という前提が利いているからです。

この前提は無断リンクを拒否する人と共有されていない前提のため、根底的には、議論が噛み合っていません。実際、現状の Web におけるリンクというのは、すでに単なる情報の参照行為ではないだろうという気持ちも強いため、いまのところ、僕はどちらも調整的に支持するに留まっています。
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 新しい単語というと「アクセス津波」という言葉も最近、わりと使われている。最初、僕はこれを「アクセス剛掌波」のことだと思っていたのだけれど、改めて考えてみると、ちょっと違う。アクセス津波は「津波」の名のとおり、大波小波のアクセスがわりと長期間に渡って押し寄せる現象だ。

 どういう仕組みでそうなるかというと、そのアクセスを受けるサイトが個人ニュースサイト間を滑りながら、時間をかけて伝播することによって生じる。だから、「大波」「小波」というのは、各サイトからのアクセスの多さに応じて生じている。実に当たり前のことだけれど、こういうことになっているのだ。

 それでは、「アクセス剛掌波」はどういうものだったろう。特定のサイトに大量のアクセスを誘導するというところは「アクセス津波」と同じなのだけれど、本来的な「アクセス剛掌波」というのは「文中リンクによってアクセスを誘導する」のが特徴だった。だから、文中での扱い方によって「アクセス剛掌波」は「ネガティブなもの」と「ポジティブなもの」に区別される。

 これは 斬鉄剣 という(バトル系)テキストサイトが発祥で、通常は「ネガティブアクセス剛掌波」という一種の攻撃手段として使われていた。つまり、「アクセス剛掌波」というのは、影響力のある個人によって価値付けされたリンクから、相手のサイトにアクセスを流し込むものだ。

 ここまででわかるとおり、「アクセス剛掌波」はテキストサイト文化から生まれ、「アクセス津波」は個人ニュースサイト文化から生まれた、特徴的な現象と言うことができる。そして、去年あたりに注目されていたのは、やはり「アクセス津波」のほうですね。
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まとまった内容を書いている余裕がないのだけれど、僕が感じたことをスケッチしておきます。

右傾化と右化
Webの意見は右傾化していると聞きます。なにをもって「右傾化」とするかは個々人の心証によるところが大きいとも思うけれど、「右傾化している」という意見は当然ありうるだろうし、僕はもっともだとも思う。ただ、僕は「右傾化」はたしかにしているかもしれないが、「右化」はしていないと思っていて、戦後日本において左傾化していたものにカウンターを与えるという仕方で、いまの状況は(全体的には、すなわち、選好に順序付けできるとして、同時代に生きる人の意見の総和をとったなら)、そこそこ釣り合いがとれている状況だろうという見方をしています。

ただ、これからはちょっと違ってくるのではないかと思っています。非常に単純化した話ですが、幼い頃からWebに触れ、「右傾化した」意見を「本当のこと」として受容して育ってきた人が現れたとき、つまり、嘘を嘘と見抜けないと難しいと言われるネタ文化に浸りすぎて、ネタとガチの区別をしっかりできない人が現れたとき、(それだけの洗脳力がWebにあるとしたら)日本は右化し始めるのだろうと思います。そういう問題意識を背景にして、僕が問題だなと思っているのは次のことです。

意図されていない主張の総意
単刀直入に言うと、(少し話題の飛躍を感じる人もいるかもしれないけど)「2ch blog の影響力はどの程度あって、もし影響力がそれなりにあるのだとしたら、その 2ch blog の管理人の編集責任なり、社会的な倫理性はどの程度問われなければならないか」ということです。もちろん、道義的責任といわれる範疇での話だけれど。

ちなみに、僕はここで「個人の意見」と「大衆の総意」というのを対比して使っています。つまり、個人の blog で示される意見を「個人の意見」としたときに、2ch blog 等で示される意見(のようなもの)は「大衆の総意」として把握されるだろうということを仮定しています。少なくとも、「大衆の総意」として把握されてしまう可能性はわりとあると僕は考えていて、その場合の危険性は(特に若い世代に)大きいだろうということを仮定しています。

ここで非常に特殊であると思われるのは、「2ch blog における意見が、コンテンツとして意図されていない発言に基づいている」ということです。通常、個人の blog で書かれる意見はその発言内容に責任を負っています。しかし、2ch に書かれる意見は、それに関して責任を負わなければならないような発言内容としては意図されていないと思います。

しかし、それが 2ch blog という媒体を通すことで、あたかも大衆の総意としての姿を現すわけです。そのときに、大衆の意見をどのような姿として描出するかは、その blog の管理人次第です。僕はここのところに少し恐さを感じるし、逆に言うと、Web になにかを書こうとするとき、それがたとえ 2ch のような場であったとしても、その発言にはある程度の責任があるという自覚を個々人がもつことが大切なのではないかと思うことがあります。

Web における人のあり方
そもそも、2ch が匿名性に関していかに特殊で恵まれた場なのか(場であったのか)を知らない人が、ここのところ多いような気もします。有名性を喪失して自分の発言内容に関する優越性を放棄することは、匿名性を獲得して自分の発言内容に関する責任を放棄することでもある。こういう、ある種のわかりやすさを前提にした足の引っ張り合いの底流にある勝ち負け構造が有している歪みはところどころで散見できて、それが翻っては馴れ合いを助長して衆愚化している気持ち悪さを僕は感じます。

もちろん、こういうことを言うことによって、Web という発言の場にいま以上の(法的な)規制を設けなければならないとか、やはり人間というのはそもそも汚いもので性善説に基づいた構造がいけないとか、出る杭を打つのは日本人の気質に関わることで、そもそも日本社会の構造からして Web に向いていないとか、そこまでのことを言いたいというのではなく、もっと素直に、いま僕とあなたのいるこの Web という場における人間のあり方に関して意見を訊いてみたいというのが、僕のこのエントリの眼目です。
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  • 個性を問うことは、個性的であるか個性的でないか、いずれかである。
    • 個性的である、と仮定しよう。
      • 個性的である問いかけに答えることは、(やはり)個性的であるだろう。
    • 個性的でない、と仮定しよう。
      • 個性的でない問いかけに(あえて)答えることは、個性的であるだろう。
  • 個性を問うことが個性的であるにせよないにせよ、個性を答えることは個性的である。

「個性」という語は多義的で、文脈によって意味や用法が変わります。おおまかに分けるなら、ある「個性」を有しているかどうかという問いと、その「個性」をどう評価するかという問いを立てることができるかと思います。

後者の場合、その「個性」は「良い個性」なのか「悪い個性」なのか、「個性があること」は良いことなのか、「個性がないこと」は悪いことなのか。もし「個性がない」ということも個性であるなら、個性のない事柄は一切ないということになるのではないかといった問いが考えられます。

前者の場合、その問いを発する前に、そもそも「個性とはどういうものだろう」という問いが抱かれます。「個性」というものが、どういうものなのかわかっているのであるなら、それを有しているかどうか、そしてまた、それをどう評価するかという指針も立ちやすいことでしょう。

そのようなわけで、わたしたちは「個性」に関わる問題を考えるときに、「そもそも個性とはなにか」という問いを念頭に置いているはずです。それでは、ややパラドキシカルな問いになるけれど、この「個性とはなにか」という問いは個性的でしょうか。

この問いは言葉遊びではないし、無益なわけでもないと僕は思います。わたしたちが人に「個性」を問うとき、それは「個性」の有無や「個性」の善悪というよりも、むしろ、そもそも「個性」に関して、どういう見解を抱いていますかということも、同時に訊いているのです。そのように、人は「個性」を尋ね、翻っては「個性」を説明しているように思います。

したがって、「あなたの個性は?」と尋ねられて「「個性」の定義によります」と返すのはありうる態度ではあるけれど、面白味に欠けます。そこには「道徳とは?」と尋ねられて「「道徳」の定義によります」と返すのと同様の虚無感すら漂っています。わたしたちはそんな当たり前のことを訊きたいのではなく、まさに「あなたはどう定義しますか」ということも同時に尋ねているからです。

ですから、ある人が誰かに「それは個性だ」と言うとき、まさにその発言が、ある事柄に個性を付与しているのです。飛ばない豚を「ただの豚」にしたのは他ならぬポルコであって、飛ばない豚でもすごい豚はいるかもしれない。しかし、そこを「飛ばない豚はただの豚だ」と言い切ってしまう価値観、それを格好良いと思ったり、酷い偏見だと思ったりするわけです。

周囲から受け容れたものを転用しているだけでは道は切り開けず、間違うかもしれないという危険を犯しても、新たなる光景に向かって一歩を踏みだす、そのための判断と主張が必要なのです。

「個性」を尋ねる人は、あなたが実際に成立している事柄から「個性」と呼ばれるものをどのように抽象し、認定し、評価するのか、それを尋ねているのです。問う、問われる、答える、答えられる、そうした活動のなかで「個性」はその語の役割を果たすのでしょう。
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 以前はサイト論というとテキストサイト論だったわけだけれど、最近はサイト論というと個人ニュースサイト論になってきているなと感じます。

 以前は、あらゆるサイトは「テキストサイト」だと感じていました。ネタを生みだすテキストサイト、ニュースを扱うテキストサイト、どれもテキストサイトだと感じていました。

 しかし、いまやそれらはみな「個人ニュースサイト」なのです。自分の周囲のネタを紹介するニュースサイト、時事的なネタを紹介するニュースサイト、どれも個人ニュースサイトなのです。

 これはそれほど目新しい発想ではないし、以前から、そう言う人はいました。ただ、それは実態には則していなかったように思います。

 しかし、いまこそ、各個人サイトの差異は扱うニュースの差異なのだと言うことは妥当なのではないかと思います。そして、今後、さらにサイト論が流行るとしたら、それは blog 論になるのでしょう。
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どうもまとまった文章を書いている余裕がないのだけれど、僕が書こうと思っている内容は多少はっきりとしているので、それだけ先にメモしておきます。

  • ソーシャルブックマークが個人ニュースサイトを駆逐するということはない。
    • 「個人ニュースサイト」ということでなにを意味しているのかも定かではない。
    • 「個人ニュースサイト」とは「個人のニュースサイト」ではない。「ニュースを扱う個人サイト」のことである。これはわりと誤解されているので注意しなければならない。

  • 「ソーシャルブックマーク」と「個人ニュースサイト」を対立させることは有意義ではない。
    • 前者はツールでありシステムだが、後者はもっと固有の場であるように思われる。
    • 前者はより公的な領域であるように思われるが、後者はより私的な領域であるように思われる。
    • しかし、ソーシャルブックマークを利用する面白さは、個人ニュースサイトを運営する面白さの一部を再現していることはたしかであるように思われる。

  • いまのところ、ソーシャルブックマークと個人ニュースサイト群は別個の文化を形成している。
    • これを個々人で検証するのは困難だが、これは重要な観点であるように思う。
    • Web全体というよりも、個々の文化に注目したとき、近い未来に起こりうることは、結局のところ、それらの「文化の融合」である。
    • それはどのようなツールを用いるかということと、どのような表現方法を用いるかということの二点の落としどころによって変化し続ける。
    • わたしたちがツールの表現力に束縛される必要はないし、また、目的に適うだけの表現力を持ったツールをあえて使わない理由もない。

  • 現在、もし、「個人ニュースサイト」という確定したなにかが本当にあるのだとしたら、それは衰退するのかもしれない。
    • しかし、その衰退が相対的なものかどうかは検討の余地がある。
    • 現段階で「個人ニュースサイト」が減っているという事実はないし、また、「個人ニュースサイト群」の有する場の力が減衰したという事実もないだろう。
    • ちなみに、個々人の活動が公的なツールを媒介するような領域に押し込まれたとして、アダルトサイトやアングラサイトはどうなるだろう。

  • ソーシャルブックマークと個人ニュースサイトの行為にどれだけの差異があるのか。
    • 仮にソーシャルブックマークが個人ニュースサイトを駆逐したとするなら、そのときはソーシャルブックマークが「個人ニュースサイト」と呼ばれるようになるだけなのかもしれない。

  • ソーシャルブックマークは面白い、ただ、ウェブでメインになれるほどの個人サイトとしての地力があるかというときわめて怪しい。
    • もしいま、「個人ニュースサイト界隈」という、なにか特定の領域に愛着を感じる人がいて、次の世代になにかを託したいと思うなら、「個人ニュースサイト」のフォーマットを用意しておいたら良いかもしれない。
    • それは例えば、「俺ニュースフォーマット」といった有名なものから、個人ニュースサイトの運営に用いられている工夫といったものである。そうした工夫がストックされていないことは本当にもったいない。また、サイトの認知度の高め方も、適切で効果的なものはあるだろう。そういう知恵が、実はウェブにはストックされていない。
    • 一見、これは不思議なことのように感じられるけれど、こうしたことが「個人ニュースサイト群」という語の指示する領域の曖昧さを実証しているとも考えられる。

  • ソーシャルブックマークは巨大化するほど不安定になる。
    • 今後、ウェブはいかに居心地の良いローカルな場を作り出すかということが重大事になる。
    • むしろ、それこそが一介の個人が存在するようなウェブの等身大の姿なのだろう。
    • また、適切に権威のたまる劇場的な場を、いまよりも確実に、生産的な場として、ウェブに形成できるようになるかもしれない。

  • アクセス数からみたヒエラルキーを「個人ニュースサイト」だけに当てはめて分析することは有益ではない。
  • アクセスを流すパイプの大きさという観点であらゆるサイトを評価したほうが良い。
    • 実際、「パイプの大きなサイト」を取り上げて「個人ニュースサイト」と名付けているように思われる。
    • ある一部の論者は、「個人ニュースサイト」というものをとりたてて確定しないままに分析を始め、そこにヒエラルキーを見出して満足したところで、そのヒエラルキーに属するサイトをまとめて「個人ニュースサイト」と名付けている。すなわち、個人ニュースサイト群の実態の分析になっていない。「個人ニュースサイト」を創造的に定義しているだけである。

  • また、アクセス数と影響力を「=」で結ぶことには抵抗を感じる。
    • なぜなら、アクセス数は「サイト」に溜まるものであり、影響力はサイトの「中の人」に作用するものだからである。
    • サイトが影響力をもっているのか、サイトの中の人が影響力をもっているのか、どちらであるのかを確かめることは常に有意義である。

  • まず必要なのは、どれだけ些細な領域であれ、そこで行われている人々の活動を過小評価しないことであり、最大限の敬意を払って人に接することである。
  • システムとして優れていることと、個人の選好を充分に満足させることができるのとは別のことである。
  • そして、個人サイトである以上は後者が尊重されることは必然である。
    • もちろん、後者を包含するシステムというのが望ましいものだし、理想ではある。
    • しかし、全体が「水」だからといって、それを構成する一単位まで水だと思ってしまうような誤謬は犯すべきではない。

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ソーシャルブックマークの使い方に関する考察Muibrog
自分のブログの付加価値を上げる方法 前編304 Not Modified
自分のブログの付加価値を上げる方法 後編304 Not Modified

今回、話題になっているのは「はてぶ」ないし「SBM全般」です。というわけで、僕も少し書こうかなと思うわけです。その前に、きわめて個人的な感想を言うと、僕は「サイトというのは【中の人】に興味が向かうことが重要なのだ」ということに関して、以前からおふたりと通底しているという意識があるのですが、ここまでに読ませていただいた記事の多くでその点が強調されていてひそかに嬉しかったです。

「ブログというのは名刺のようなものです」と比喩されたりするわりに「中の人」という観点はしばしば忘れられます。ある一定のシステムとの関係において個人をみるという分析を否定しているわけではないけれど、システムに寄与するために個人があるわけではないということは、強調してしたりないということはないと思うので、ここでも言っておきます。

上記リンク先の記事は、ともに「ソーシャルブックマークをメインサイトで表現しきれない運営者の興味の方向を示すために用いたらどうか」という提言になっています。重要なのは、その力点が「運営者」にあるということです。テキストサイトや日記サイトはもちろん、ニュースサイトと言えども、それが個人サイトである限り、「中の人」に興味が向かうことが重要なのです。これは「はてぶ」というシステムを駆動するための一単位であると考えられるようなクリッパーに関しても言うことができます。

この観点に注目すると、実はまなめさんの「自分のブログの付加価値を上げる方法」というタイトルは「ブログ」に力点があるようで少し気になります。つまり、まなめさんのモデルでは、ソーシャルブックマークがサイトの価値を高め、サイトが自分の価値を高めるという二重構造になっています。だからこそ、「ブログの価値を高める」でも「自分の価値を高める」でもなく「ブログの付加価値を高める」なのでしょう。

ですから、ブログは自分の価値を高め、ソーシャルブックマークはブログの価値を高め、したがって、自分の価値は直接的にはブログに高められています。そして、ソーシャルブックマークの価値が高まることによってブログの価値が高まり、それによって、間接的に自分の価値が高まるという構造になっています。これがつまり、自分から見たときに、ソーシャルブックマークがブログの付加価値として機能しているということです

また、この箇所を丁寧に読むと「ソーシャルブックマークはサイトとしては機能しない」ということをまなめさんは暗に示唆しています。これに関して、僕はまなめさんの見方に共感を覚えます。ただ、ソーシャルブックマークの利用者の存在感が、ソーシャルブックマークによって高められているというようなことは、たぶん、あるでしょう。

ちなみに、としさんのモデルでは、サイトとソーシャルブックマークの接点に運営者がおり、その両方が運営者を基点に連結され、運営者の価値を双方が直接高めるという構図になっています。こちらのほうがすんなり理解できます。しかし、いずれにせよ、結局は「運営者」に諸価値が収束するように意図されています。そして、それが大切なことなのです。
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話題を取捨選択する嗅覚は本当に必要か。Muibrog

内容の面白さはリンク先を読むとわかると思うのでそれには触れず、僕はここでちょっと「取捨選択」という言葉にこだわってみたいと思います。当たり前のことですが、個人ニュースサイトの運営者は目に付いたものを手当たり次第に拾い上げているわけではありません。取り上げるネタの選別には運営者独自のセンス(具体的にはそのときの興味・関心、ときには打算)が介在しています。

特に、あまり感想も付けず、記事を梱包してまとめサイトのようにして出すわけでもない羅列型の個人ニュースサイトは取捨選択するということはかなり意識的に行っているわけで、大雑把に言ってしまうと、他所との違いはこの「ネタの選別」ということ以外に現れてこないわけです。おそらく、羅列型に慣れていない人にはどこもかしこも同じサイトに見えることでしょう。

それはそれで良いし、羅列型はつまらないと思う人は自分の気に入るサイトを探したほうが有益です。ただ、羅列型も見慣れてくると違いというのは確かにあって、似ているように思えても「この羅列型サイトは好き」「あの羅列型サイトはそれほどでも」という好みがでてきます。少なくとも僕にはそれがあります。

それでは、僕の場合、具体的にそれはどういう基準で決められているかというと、ネタの選別に関して「捨てるほうを重視しているサイト」を好む傾向が僕にはあります。僕は基本的に「どこもかしこもこちらの見方次第で十分に面白いサイトである」というサイト観を持っているのですが、それでも仮に、サイトに点数を付けるのであるなら、僕は減点方式でサイトを評価しています。つまり、僕が感じるところの「取り上げてはいけない記事」というのを取り上げてしまっているサイトは「ああ、あれを取り上げてしまったか」ということで「んー」となってしまうのです。

もちろん、多くの面白い(話題になっている)記事を速く集めるというのはそれはそれでひとつのかけがいのない魅力になるわけで、そういうタイプ、つまり「取るほうを重視している」羅列型が王道ではあるだろうけれど、なかなかそれっていうのは時間的にも選別眼的にも難しいものです。だから、その領域でノウハウを完全に持った既存のサイトと戦おうと思っても(自分の生活スタイルをかなり殺さない限り)実は勝ち目がない。

ただ、速報性&情報量という羅列型の強みを多少殺しても、押さえるネタを押さえて、取り上げてはいけないネタをきっちり排除している羅列型サイトは十分仕事になっていると思うし、そういうサイトには同様の個人ニュースサイトを書いている者として信頼感を抱きやすいです。

つまり、明らかに内容はおかしいのに話題性だけで盛り上がっているような記事を、そのサイトが取り上げているかどうか、取り上げているならどのように取り上げているかというようなことを僕はけっこう気にします。通常、サイトの個性は「ある分野に特化しているかどうか」を、すなわち、「どういう記事を取り上げているか」を問われるのですが、話題性だけで内容のない記事を「しっかり取り上げていない」ということからも、そのサイトの個性というのは感じられるのです。


<追記>
「取り上げてはいけない」という表現は誤解を招きやすいかもしれません。どのような基準を定めるのかは個々人によって変わると思うけれど、その基準は主に運営者の「常識」と「選好」に依っていて、この感覚が近い人のほうが安心感を抱きやすいと言うことができるように思います。

具体的に言うと、「常識」という観点では、「個人叩きと思われるような記事」や「炎上ネタ」や「2ch ネタ」や「特亜ネタ」を取り上げるかどうかというのはひとつの基準になります。「選好」という観点では、サイトが「ある分野に特化しているかどうか」というのはひとつの基準になります。

攻勢なサイトであり、攻勢な閲覧者も想定しているなら、より刺激的なネタを集めるというのは、そういうサイトとして妥当であるし、穏当なサイトであり、穏当な閲覧者を想定しているのであるなら、政治・宗教・民族関係のような感情的なフックの内在した記事は集めないというのは、そういうサイトとして妥当であるといった具合です。

もちろん、こういったこと以外にも基準はありますが、その一例と思って下さい。
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個人ニュースサイトを「親・子・孫」と分類することがあります。こうした語り方は、僕はあまり正確なものではないと思っています。どちらかというと次のような分類のほうがましではないかと思います。つまり、「親サイト」を「一次サイト」と呼び、「子サイト」を「二次サイト」と呼ぶという分類です。その次数は元ネタまでの「節の数」を表し、「三次サイト」以降は「二次サイト」として回収するようにします。そうしたほうが不要な偏見を排除しつつ、それぞれの役割が明確になるように思います。

一次サイトは、情報の速報性や臨場感があり、情報源になりやすいという強みがあります。二次サイトは、その情報を波及させ、より密度の高い記事として情報をまとめやすいという強みがあります。一次サイトがあることによって成立する二次サイトは、元ネタとともに個人ニュースサイトも紹介するわけですから、「メタ個人ニュースサイト」と呼ぶことができるかもしれません。

こうした階層の違うサイト間で、閲覧者や情報を循環させ、常に互いの更新を反照するという作業をしているから、「個人ニュースサイト界隈」というような影響力のある場というものが出来上がっているのです。情報がどのように伝達されるかということや、情報源としてのサイトの影響力を強調すると同様に、そうした個人ニュースサイト群が形成する場の有する力というものを考慮することが大事なのです。

変なことだと思われるかもしれないけれども、僕は自分が見付けてきたネタでも、他の個人ニュースサイトでその同じネタを取り上げているのを見付けると、その個人ニュースサイトを情報元として後付け表記したりします。というのも、そのほうがそのネタに関する情報量が増加するからです。そのネタを紹介するとともに、個人ニュースサイトの紹介にもなるのです。こういうネタを紹介している面白いサイトが他にもありますよということです。

個人ニュースサイトはアクセスの分散を目的としています。そして、だからこそ、アクセスが集まるというのは刺激的なことです。交易だけで発展している街が、なにも生産していないからといって非難された歴史はないでしょう。
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僕がここでいきなり、社会一般で認められているような有益な事柄に関して解説を始めたとしよう。そこで、さあ、人がやってきますかというと、哀しいことに閲覧者は減るに違いない。

有益な記述を行うということは、なにかしらの目的に適う記述をするということである。目的を限定するということは同様の目的を抱いている人の集まりに向けて、なにかを記述するということだ。そうしたことに価値を見出すとすると、そのテキストにおいては合目的的な記述以外の記述は排除されるのが望ましいということになる。

しかし、僕はそれはつまらないと思うから、そうはしない。いまのところ、ウェブでまでそんなことをしたいとは思わない。ウェブにおいては、チラシの裏がチラシの表より有益ではないと言い切れる根拠はどこにもないのです。

本来的な目的に向けて書かれたものではないということ、暇な時間にふと書かれた戯言であるということ、そうしたことはウェブにおいては決して不利に働かない。既成の価値や形式を崩して、手続きを逸脱できるということもウェブは面白さのひとつと言うことができるのではないかと思う。
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