カテゴリ:夢峰( 25 )

「ギザギザを ぼやかすことで 表面を滑らかにするのです」

 僕の部屋のドアは僕の左斜め後ろにある。そちらのほうで何者かが断言した。僕が振り返ると、そこには滑らかな男が立っていた。あまりに滑らかに背景に馴染んでいるものだから、彼のいる景色そのものに立体感が欠けており、彼のいる空間そのものが一枚の絵のようになっていた。

「これが滑らかな男か」と僕は思った。噂には聞いていたが、実際に会うといろいろなことを考えさせられる。具体的にどこをどう処理しているのか僕にはわからなかったが、彼の滑らかさはなんらかのギザギザさに起因しているはずだ。それは、なんとも逆説的なことのように感じられた。

「実に滑らかですね」
 僕は言った。

「ええ、そうです。そうありたいと思っています」
 彼は頷いた。滑らかに頷いた。
「しかし、これでもまだ、充分な滑らかさとは言えません」

「そうなんですか」
 僕は驚いた。そして、目を凝らした。というのも、彼は足許から僕の部屋に滑らかに溶け込みだし、すでにどこに立っているのか定かではなかったからだ。滑らかすぎる、それが僕の感想だった。しかし、滑らかな男に言わせると、これはまだ充分な滑らかさではないらしい。

「そうですよ」
 彼は微笑んだ。滑らかに微笑んだ。
「滑らかさというのは、実のところ、皆さんが思うほど複雑なことではないのです。そう、わりと指向性のはっきりした性質です。ですから、やはり、その滑らかさを知り、滑らかになる方法を知ってしまったからには、究極の滑らかさというものに少しでも近付きたいと思ってしまうものです」

「なるほど」
 僕は感心した。たしかに、そういうものかもしれない。彼の言っていることに共感できる人は多いだろう。似たようなことを聞いたこともある。
 だが、彼が言うには、究極の滑らかさを獲得することは原理的に不可能なことらしかった。それは僕にも直観的に得心できた。それはある種の限界概念なのだろう。

「しかし、それを目指さざるを得ないというのも、人間の本性からして、ある人たちにとって、つまり、私のような人間にとっては仕方のないことなのです」
 滑らかな男は、そのように説明した。

 それにしても、彼の言う「究極の滑らかさ」とはいったいどのようなもの、どのような状態なのだろうか。少なくとも、自分の存在をも世界に溶け込ませてしまうような探究が単純なものとは考えられない。滑らかな男はすでに自らの探究を洞察しているようだったが、僕にはやはり複雑なことなのではないかと思われた。それは実に難しい、求道的なものなのではないか。僕はそのことを彼に尋ねた。

「たしかに、そうかもしれません」
 僕の疑念に、彼はそう答えた。滑らかに答えた。

「とすると、私は幸運なのでしょうね。私にとって単純と感じられる営為が、私を生かし、私の楽しみにもなっているのですから。これはもしかしたら、稀有なことかもしれません。実際、誰にでもできることなのかと訊かれたら、私もそう容易には首肯しかねます」
 そこで彼は、静かに息を吐いた。滑らかに息を吐いた。
「そして、私自身、このように考えないわけではありません」

「はたして、私のこの滑らかさは、この世界に、この社会に必要とされているのだろうか」
 肩の力を抜いて背筋を伸ばすと、滑らかな男は僕を正面から見据えた。じっと、滑らかに、僕を見据えた。

「・・・・・・・・・・・・」
 僕はぞっとした。いや、ぎょっとしたというほうが正確かもしれない。そのタイミング、その発言、それは、滑らかな男が言うようなことではないような気がしたのだ。なにかがおかしい、なにかがひっかかる。このように判断するのが適当なのかどうかわからないが、それは「滑らか」ではない、そんな気がした。

「まあ、必要とされていないだろうな」という素朴な直感と、「しかし、本当にそうなのだろうか、それはどうしてだろうか」という曖昧な疑念とが、好奇心旺盛なげっ歯類のように僕のなかを駆け巡った。急激に思考が加速し、脳内評議会が端的な言語表現を阻む。適切に言語化せよ、僕の理性に指令が下る。悪い癖だ、煩悩と言ってもよいかもしれない。それに、いったい、なにが理性に指令を下せるというのか。本能が? まさか。

 そうやって僕がぼうっとしているうちに、滑らかな男は僕の目の前でおもむろに背景に溶け込みだし、じんわりと滲むように視界から消えた。完全に、どこにいるのかわからない。なんて純粋で、不安定な存在なんだろう、と思った。

 僕は目を閉じて、両手で顔を覆った。
 指先で目蓋を押さえると、両目を冷やす。自動的にそうしていた。
 無駄だとは思ったが、同時に耳を澄ました。
 壁掛け時計の秒針、換気扇のファン。
 それ以外の存在を暗示する音はなかった。
 ほとほと僕の耳は頼りない。
 僕にとって存在を聞こうとする試みは無意味だと再確認しただけだ。
 そして僕は、おそるおそる、目を開けた。
 そこはやはり、僕の部屋でしかなかった。

 いや、しかし、本当にこういうものなのだろうか。こういうことが本当に、自然に、ありうるのだろうか。それはやはり、ちょっと、そう、できすぎた感じがした。演出? そう、これは演出されている。そんな気配を感じた。いずれにせよ、滑らかな男に溶け込まれた部屋にそのままいるということは、あまり気持ちの良いものではないような気がした。釈然としない。

「ふぅむ、ちょっとわからないな」
 僕は部屋中を見回し、目を凝らした。
 いるはずだ。まだ、このどこかに、いる。
 ギザギザだ、ギザギザのはずなのだ。
 僕は腕を組んで、少し後ろにのけぞった。
 椅子の背もたれに身を任せ、首を左右に動かすと正面に戻した。
 いるのにいない、いないのにいる。
 滑らかな男に関して、それがいま僕の置かれている状況だ。
 僕はまず、確信する。確信することにする。
 これが重要なことだ。
 探すな。
 探す必要はない。
 探すと、失敗する。
 そんな予感がした。
 僕はもう一度、目を凝らす。

 視界の端が、歪んだ。歪んでいる。
 そう、そうなのだ。
 そうじゃなきゃおかしい。
 いる。そこにいる。

 黒い本棚の側板が、少し、歪んでいる、ように感じた。僕はその歪みに集中し、じっと目を凝らす。手探りで煙草とライタを手に取り、一本咥えて火をつける。

「なるほど」と思い、僕は煙を吸った。「たぶん、そうなのだろう」と思い、僕は煙を吐いた。「わかってきた」と僕は思う。だとすると、僕がいま想像しているようなことがそうなのだとすると、「自分を滑らかにする」ということは、もしかすると、わりと容易な、面白いことなのかもしれない。

 滑らかな男は本棚から何冊かを選び出すと、ソファに座って欠伸をした。
 そして、僕と目が合った。

「・・・・・・・・・・・・」
 滑らかな男は、ぞっとしたような、ぎょっとしたような表情をした。
 肩の力を抜いて背筋を伸ばすと、僕は滑らかな男を正面から見据えた。
「いると思いました」
 僕は言った。

「ええ、御明察です」
 少し間をおいて、滑らかな男は観念したように言った。滑らかに言った。「謝ったほうが良いでしょうか」と言うので、「その必要はありません」と僕は言った。なかなか変わった人格をしているが、いやな感じはしなかった。

「たまに、あなたのような方に出遭います」
 彼はソファに座りなおして、背筋を伸ばした。そして、座禅でもするかのように両手を握り合わせた。滑らかに握り合わせた。そして、続ける。
「それはやはり、多少、珍しいことで、嬉しいものです。ですが、」
 そこで彼は口ごもった。滑らかに口ごもった。

「ええ、はい、たぶん、おっしゃりたいことはわかります」
 僕は応じた。
 滑らかな男がそうであるように、滑らかな男を排斥しようとしない人間も、いまいち社会に適応できない素質を持っているのだろう。彼はそのことを懸念しているのだ。彼は口ごもったふりをしていた。

「そうですか」
 彼は少し安心したように、少し残念なように言った。滑らかに言った。

「はっきり言って、僕は少し感動しました。身を以てなにかを体現するということは、そう容易なことではないと僕は思いますが、あなたの滑らかさは人間の器において完成されていますね」
 僕は灰皿に煙草の灰を落とし、火種を整形した。
「ありがとうございます」
 彼は静かに頭を下げた。滑らかに頭を下げた。

「圧倒的な現実の生々しさに遭遇しているうちは、象徴的な思索に肉付けする気は失せるものですが、それらを同時に成立させることも、やはり可能なのだろうと思いました」
 僕は思ったことをそのまま口に出した。
 
「ちょっと、難しいことになってきましたね」
 彼はそう言って、微笑んだ。滑らかに微笑んだ。
「具体的なこと、具体的な表現には荒々しい魅力があります。しかし、具体性とは艶めかしい肉体のようなものです。やはり、場合によっては、それに服を着せてあげることが適切なこともあります。そして、服は人間にとって必要不可欠なものなのです」

「なるほど、勉強になります」
 僕は頷いた。
「そしてまた、服も人間を必要としていますね」

「そうです」
 彼は頷いた。滑らかに頷いた。
「良い服の条件は人によって変わりうるでしょうが、人に着られることを目的としない服はありません」

 滑らかな男の話に耳を傾けながら、僕は煙草の火種を灰皿の底で静かに潰した。

「私は滑らかさを探究していますが、しかし、どうしてもあるところで妥協しなければならない。これもまた摂理であろうと私は思います。
 極端な例を挙げるなら、私は死ぬときに、その探究を諦めなければなりません。こればかりは受け容れなければならないし、その瞬間に向かって現実と折り合いをつけなければなりません。そうした妥協を肯定的に認め、その方策をも体現できるとき、人は滑らかになれるものです」
 彼は滑らかに言った。

「人は滑らかになるべきだと思いますか」
 僕は尋ねた。

「いえ、そうは思いません」
 彼は言い切った。滑らかに言い切った。
「それは多くの場合、そうあってほしいと願われるものなのであって、そうあるべきと求められているものではないのです。そこを誤解すると歪みます。実際、私もまだまだ、修練の足りないところです」

「それは、そうあってほしいと願われるものが、必ずしも本当に、人に求められているわけではない、ということですか」
 僕は訊いた。

「おそらく、それと同義でしょう。それが自然なのです」
 彼は頷いた。滑らかに頷いた。
 そして、僕たちはそのまま黙った。
 もう、語ることに意味のある言葉はなかった。

 換気扇が低い唸りを響かせ、僕の煙草の煙を部屋の外部に吸い出していた。僕は三本、煙草を吸い、三回、腕を組みなおし、二回、脚を組みなおした。ゆっくりと、時間をかけて、この状況を整理した。そう難しいことじゃない。僕は滑らかな男と出会い、話した。それはちょっと面白いことだった。それだけだ。

 僕は煙草を灰皿で揉み消すと、組んでいた脚を床に下ろした。

「あの、」
 そのとき、静かに、少し申し訳なさそうに、滑らかな男が言った。
「え、なんですか」
 僕はちょっと驚いて、身を乗り出した。
「えぇっと・・・この本、二冊なんですが、貸してもらえませんか」
 そう言うと、滑らかな男は歯を見せて不器用に笑顔を作った。
「ああ・・・いいですよ」
 僕は脱力して椅子に身体を戻すと、笑いながら言った。
 滑らかな男の歯はやはり滑らかなのだな、と思った。めでたし。
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by kourick | 2011-04-20 00:00 | 夢峰
 寝る場所を変えたら夢見が悪い。あまりにも悪いのでそのまま同じ場所で寝るようにしている。環境は同じなのだから、早い話が僕と夢魔とのタイマンである(夢魔がひとりであるという保証はない)。

 そうしたら、五日目の今日の悪夢の悪行はぬるいものになっていた(部屋が汚いとか、その程度の悪夢である)。それにしたって五日……五日である。夢魔としての気骨はどこにいったのか。夢魔に気骨を求めるのもどうかと思うが、僕と夢魔とのタイマンは夢魔の怠慢によって幕を閉じた(駄洒落である)。

 そのせいだろうか、今日の夢の最後の台詞は「仕事じゃないんです……」だった。おそらく、夢魔の本音である。正直、「仕事じゃないっていわれても……」と僕も困惑したが、彼らは彼らで大変なのだろう。

 僕は自分の部屋に帰ると珈琲を温め、窓の朝日を眺めると、夢魔に「さようなら」と呟いた。
 もちろん嘘である。めでたし。
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by kourick | 2006-05-27 00:00 | 夢峰
 節分に落花生を投げるのは北海道だけらしい。

 部屋の隅で丸まっている鬼に向かって落花生を投げ付けながら、僕はそんなことを考えていた。神話や伝統を鑑みるのも良いとは思うけれど、なににせよ節分に落花生を用いる長所はまず投げやすいことにある。

 鬼を払うのであるからして、その威力は実に大切だ。特にこのように鬼が顕在化している場合などはますますその必要を実感する。僕は袋のなかに手を突っ込むと落花生を鷲掴みにし「よい」と腕を振りかぶると「しょ!」と気合を込めつつ、思いっきり鬼に落花生を投げ付けた。

「ひいぃ!」

 鬼が呻いた。

「ひぃいぁあっぁっ!」

 僕は投げ付けるのを止めない。僕はたしかにこの行為を楽しんでやってはいるが、なにも嫌がらせでやっているのではない。それが鬼の役目であるし、これが僕の役目でもあるのだ。

 そして、部屋のドアの前では福がふたり黙って立っている。彼らの出番はこれからだ。鬼を撃退したのちに福を招聘する、こういうことには正しい順序があるらしい。少し理不尽に思うこともないことはないが、伝統とはそういうものである。

 しかし、その福も、尋ねてきたときは愛想が良かったのにいまは押し黙ってしまって、ひとりは眉間に皺を寄せている。もうひとりはというと青褪めた表情でちょっと怯えているようだ。

「どうかしましたか」

 僕は彼らに声をかけてみた。瞬間、目の前の鬼がふっと顔を上げたので「お前じゃない」と言いつつ、僕は慌てて鬼に落花生を投げ付けた。ひぃいいい。鬼が呻いた。今年の鬼はいい。それと比較してどうだろう、あの福の態度ときたら。僕がそう思いながら彼らに目を向けると、後ろの怯えている福は目を逸らし、もうひとりの福は「いや」と言って押し黙った。

「どうして助けようとしないのですか」

 僕は鬼に落花生を投げ付けながら、福たちに訊いてみた。

「それが彼の役目だからです」
「後ろの方はどう思われますか」
「こ……怖いです」
「なるほど」

 僕は納得した。もっともだ。僕は鬼に落花生を投げ付けた。

「おにわぁあああ、そと!」

 びゅん!

「ひぃいぁあっ!」
「おにわぁあああ、そと!」

 びゅん!

「いぁあっぁあっ!」
「なるほど」

 この感情は非常に困る。しかし、ある種の楽しさはたしかにある。

「これが失われぬ伝統というものなのですね」
「そうです」

 僕は鬼に落花生を投げ付けた。

「おにわぁあああ、そと!」

 びゅん!

「ひっぁぁあっんっ! も……もっと!」
「!」
「!」
「!」

 僕は鬼の肩にそっと手をかけると、彼の目を見て静かに首を横に振った。
 めでたし。
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by kourick | 2006-02-03 00:00 | 夢峰
「チャボより」

 毎年、初雪が降ると同時に「ジョアンナ」は僕の部屋を訪れる。本棚の陰からこちらを覗いている彼女に「久しぶりだね、ジョアンナ」と僕が言うと、ジョアンナはもう一度「チャボより」と言った。それは彼女の挨拶であり、朝でも昼でも晩でも挨拶の類は「チャボより」と決まっている。ハワイで言うところの「アロハ」みたいなものなのだ。

「これ」

 そう言ってジョアンナは桃缶を僕に差し出した。

「ありがとう」
「チャボより」

 僕がそれを受け取ると、僕から目を逸らしてジョアンナは言った。どうして桃缶なのかというと特に理由はないけれど、三年前の僕とジョアンナの出会いから桃缶は僕たちの間にある。

 その日、初雪の冷え込みもあり僕は風邪をひいて寝込んでいた。そこにジョアンナは現れたのだった。彼女はやはり「チャボより」と言い、僕の様子を観察すると「あなた風邪ね」と言った。そして、懐から桃缶を取りだすと僕に渡したのだった。どうしてジョアンナが桃缶を携帯していたのか僕にはわからないけれど、僕はその桃缶で体力を回復し、その冬を乗り切ったのだ。

 それからジョアンナは毎年、初雪が降ると僕に桃缶を渡しに現れる。それ以外の目的は僕にはわからないし、わかる必要もないような気がした。

 僕とジョアンナの間には桃缶があれば十分なのだった。

「南のほうはどうだい?」
「素敵よ」

 僕が尋ねると、ジョアンナは少しなにかにうっとりしたような艶のある声でそう言った。

 ジョアンナは南から来る。それは決まりきったことなのだ。ジョアンナは誰のもとにも南より訪れる。だから、ジョアンナは「南から来る女」とも呼ばれている。

 しかし、これには少し説明が必要かもしれない。というのも、南というのは厳密にいうと「チャボ」だからだ。彼女は「チャボ」よりやって来る、そうして、その「チャボ」というのはなによりも南にあると考えられているのだ。だから、彼女は常に南からやって来る。チャボよりやって来るのだ。

「チャボは南にいるのよ」
「うん」

 僕はチャボを知らない、しかし、ときどき南に向かって祈ることがある。
 めでたし。
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by kourick | 2005-11-10 00:00 | 夢峰
 ある晩、吉田さんが僕のもとを訪ねてきました。僕は少し困惑しながら「お久しぶりですね」と言うと「はじめまして、今日の私は一味違いますよ」と吉田さんが言うので、僕はますます困惑しました。吉田さんはもともと僕を困惑させやすい色黒の筋肉質で白いシャツの似合う角刈りの基本的に善良な吉田さんなのですが、このときばかりは僕も身の危険を感じざるを得ませんでした。

 掘られるかもしれない、僕の埋蔵金が掘り当てられてしまうかもしれない、僕はあまりの大発見の可能性に身を震わせました。

「犬に殺されかけています」

 僕が震度三に突入したあたりで、唐突に吉田さんが言いました。

「犬の足って速いですよね、私ね、逃げたんですよ」
「はあ」
「でも犬の足って速いですから、だめですね、喰われる!って思うんです」
「うぅん」
「あれ、四本足でしょう、それが秘密と違うかなと思うんですけど」
「なるほど」
「自動車でいうなら四駆、みたいなものですか、そりゃ速いですよ」
「そうですね」
「私走っても、犬、後ろにいるでしょう? 喰われる!って思うんです」
「ああ」
「でもほら、逃げてますから、ある程度これ、逃げれるわけです」
「ええ」
「怖いですよお、犬、後ろにいるわけですから、大きいの」
「ですね」
「私も疲れてきて、汗だらだらで、喰われる!って思うんです」
「暑いですね」
「私、途中でジョイナーですよ、手、ジョイナー、ショワーッて、軽やかに」
「わかります」
「そしたら犬、おんっ、いうんです」
「へぇ」
「その瞬間、私、冷静になっちゃいましてね、ああ、死ぬなって思うんです」
「それでどうしたんですか」
「それでまあ、追い付かれちゃいまして」
「ほう」
「でまあ、それがこの犬なんですけど」

 そう言って吉田さんは足元にいる犬の頭を撫でた。

「だと思いました」
「可愛いでしょう、これ、でかいし」
「殺される心配はなさそうですね」
「いやあ、それが全然、これ、私逃げたら、追いかけますよ」
「まあ」
「いや私ね、喰われる!って思うんです、言ってみたら餌、餌ですよ、私」

 その瞬間、犬が「おんっ」と鳴いて、吉田さんの手を舐めた。

「ものすごい懐いてるじゃないですか」
「犬、可愛いでしょう、これ、でも、危ないですよお」

 吉田さんはその後、似たようなことを五セット言って帰っていった。
 めでたし。
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by kourick | 2005-11-08 00:00 | 夢峰
 僕の部屋の窓はカーテンに隠され、僕の視界は閉ざされていた。昨日の夜からずっとである。さてこうなると、僕は「五月の親父」のことを話さないわけにはいかない。それは一年前の九月のことになる、僕は菊を持ってとある墓地を訪れた。そこに彼はいたのである。水汲み場の長椅子に静かに腰掛け、背筋を伸ばして両手を膝の上で組み、幸の薄そうな中肉中背の壮年男性はじっと目を閉じ風景の一部になっていた。僕が木桶を使って水を汲もうとしていると、

「サツキというのです」

 ふと、その男が言ったのだった。僕が「はあ」とか「なるほど」とか言いながら振り返ると、彼はすっと目を開け、正面を向いたまま「私はサツキの親父です」と名乗ったのである。僕はまず「サツキ」を知らなかったし「サツキの親父」ともなるとますますなにも知らなかった。ただ、そう名乗った男はともかく「サツキの親父」なのだった。僕はサツキの親父の横に座り、ぼけらと墓石を眺めることにした。まさに残暑という日和で、薄青い空と緑色の針葉樹林と灰色の墓石を見渡しながら正体不明の男とぼけらとするには、そう悪くない日だった。

 数分後、サツキの親父は「子供の名前に親の願望を込めてはいけないと私は思います」と呟いた。僕は三十秒間、いろいろな想像を膨らませたあとに「どうしてですか?」と尋ねた。するとサツキの親父が「それっていうのは迷惑なのだと思うのです」と言うので、僕は「そういうものですか」と呟いた。それから数分後、サツキの親父は「寂しいことだと思われますか」と僕に尋ねるように呟いた。仕方がないので、僕は「いや、そうは思わないのですけれど」と言うと、サツキの親父は僕の言葉の続きを待たずに「そうですか」と言って黙るのだった。

 数分後、周囲の墓石を見飽きることを決断したあたりで、僕は「不思議なものですね」と呟いた。僕は不思議だった。僕はいったいなにをしているのだろう。そして、僕のその呟きに、サツキの親父も反応した。サツキの親父は「ふう」と溜め息を漏らすと「不思議というと不思議です、どうして不思議なのかすら、もう私にはわからないのです」と言った。そして、「もしかすると私がサツキの親父だからでしょうか。まさか、そのせいでこれほどまでに不思議なのではないですか」と言い、ふふふと笑った。僕はそれを視界の端に感じながら「たぶん、そのせいでしょう」と言って立ち上がり、木桶を持ち直すと「お子さんは五月に生まれたのですか?」と彼に訊いてみた。

 男は肩を落とし、「もう忘れました」と僕の目を見ず、呟いた。めでたし。
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by kourick | 2005-09-02 00:00 | 夢峰
 久々に自分の部屋に帰ってきたと思ったら僕の部屋にはすでに自分がいた。おお……と静かに感嘆の呻き声をあげたところで僕はそれが鏡であることに気付き、仕方がないので「どうも」と言いながら頭を下げると、鏡の中の自分も「どうも」と同時に頭を下げたので僕はやれやれと思いながら「どうもっていわれてもな」と自分に駄目だしをしながら椅子に座った。それにしても暗い。どうやらそれは夜だった。

 窓を見ると窓の向こうも暗かった。その上、窓の表面も暗かったものだから僕は僕の網膜も暗いのだろうと思い、多分、僕の大脳の前頭野のあたりも暗いのだろうと続けて思ったあたりで僕は暗澹とした気持ちになった。脳が暗いという響き、それはなにか呪いめいたものを感じさせた。僕は帰宅早々、僕に出会い、脳の暗さに直面したのだった。

 そうして僕は「ほとほと夜というのは大したものだ」と感心しながら早速、深々と頭を垂れたのである。そのとき、僕が最後に窓の向こうに見た光景は駐車場に並ぶ緋色の街灯たちだった。彼らは「いまは暗いよ、知っていた?」という感じで揺れていた。僕は再度「やれやれ」と思いながら目を閉じたまま窓に近寄り、カーテンをシャッと閉めたのだった。

 正確にはシャリシャ、シャリ、シャッスリスリという感じで閉めた。
 めでたし。
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by kourick | 2005-09-01 00:00 | 夢峰
 ここのところテンションが下がりすぎていて庭の亀にまで心配される始末だったわけですが、ふと窓の外を見ると一羽のカモメが無理な姿勢でフォバリングを!

 「もしかして、あなたはあのときのカモメですか」と僕が尋ねると、カモメは横目で僕を見て、にやりと笑うと「違います」と言いました。僕が「本当ですか」と尋ねると、カモメはやはりまた、「違います」と言い、ひゅわっと飛び去ったのでした。

 それを見て「うわ、あのときのカモメだ! 格好良い! ダンディ!」と叫ぶと、僕は椅子に座ってお茶を飲みました。めでたし。
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by kourick | 2005-08-03 00:00 | 夢峰
 戦う男が家に来た。「ドン!」と部屋のドアが破壊されたので振返ってみると、そこには棍棒を掲げた戦う男が臨戦態勢で涙を流していたのである。そして、戦う男は「俺の話が聴きたいかぁ!」と僕にじりっと歩み寄ると仁王立ちになり、左手を腰に当て右手の棍棒を高らかに天に向かって突き上げたのだった。

 戦う男がそのまま黙るので「これは困ったことになった」と思い僕は腕組みをした。僕は戦う男が苦手なのだ。特に人の部屋のドアを唐突に破壊したり棍棒を持っていたり涙を流していたり仁王立ちになったり左手を腰に当てたりするような戦う男がもっとも苦手で、なんと奇跡的なことだが、この戦う男は僕の苦手な戦う男の要素を全部持っていたのである。ある意味で完璧だ。

 咄嗟に僕は戦う男などいないことにした。なぜなら彼が苦手だからである。これでどうにかならないだろうか……なるわけがない。僕は自らの現実逃避に感心した。苦手だからといっても戦う男は現にいるわけだし、戦う男の存在を否定し去るわけにもいかないのであった。当たり前である。仕方がないので実は僕も戦う男なのだと思うことにした……そう、君は、しかも僕も全然気付かなかったのだが……実は、僕も、素敵だったんだよ! これでどうだ!

 ……はっ!

 僕がふっと目を開けると、戦う男は「お前ぇいまぁ、戦っていたんと違うかい?」と言って天に突き上げた棍棒の先のほう(そこには戦う男たちの楽園があるという)を見つめたままにやりと笑った。これだからむさ苦しい戦う男は嫌いである。晴れた日の昼下がり、彼らの生息する街を訪れてみるといい。彼らは蟻の巣の前で涙を流している。そういう連中なのだ。

 仕方がないから僕は覚悟を決め「少しだけになるでしょうが、僕はあなたの話を聴きたいと……」とそこまで言ったときだった、「雨が降ったからメーデー中止? はぁ? 血の雨降らすぞ、この野郎!!」と叫ぶと戦う男は僕の部屋をどたどたと出ていった。どうやらなにか大事な電波をキャッチしたようだった。

 僕はその様子を黙って見つつ、ふと「自分は戦う男にはなれないかもしれないな」と思った。いや、なれないだろう。いやいや、そもそもなりたいわけではないのだ。僕は戦う男が苦手なのだから。しかし、なぜか、戦う男のむさ苦しい後姿を眺めていると自然とため息がもれるのであった。

 迷惑な奴である。めでたし。
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by kourick | 2005-05-01 00:00 | 夢峰
 正直、僕はいささか途方に暮れていた。仕方がないので僕が「途方に暮れゆきわが身かな、わが身ありとも闇は眠りき、めでたし」と一句読み、道すがら布団を引き始めた時、どこからか大王が現れて「どうしたのであるか、そこの途方に暮れゆき人」と言うので僕は「さすが大王、あなたはすでに僕の全てをわかってらっしゃるのである」と大王の目を見て言うともぞもぞと布団に入った。

 大王が「これこれ」と言うので僕が布団から顔をだすと大王は寂しそうな顔をして「暇じゃ」と言った。僕はこの大王は滅多な大王ではないなと思い「なるほど、それもそうでしょう」と言った。「大王、あなたは僕に会った瞬間にすでに僕が途方に暮れゆき人であり、かつ、それ以外の何者でもないことを見抜かれた、それでは暇なことでしょう」と僕が言うと「実に申し訳ないことをした」と大王は素直に僕に謝った。

 僕は罪悪感に苛まされ道の脇に立っていた樹にふらふらと縄を結び首吊り自殺を試みようとしたのだが、僕が頚動脈と椎骨動脈の位置を確認し角度を計算しているうちにそれまで黙って様子を見ていた大王に縄を切られて未遂に終わった。僕は布団に戻ると寝ることにした。すると大王は「どうして途方に暮れるのじゃ」と言った。

 僕は「知りたければこの道の先を見るのじゃ」と言い、布団に潜り込んだ。大王は「なるほど、あれこそ見事な途方よ、ここで暮れるのも仕方がない」と言い「では、私も今日はここで途方に暮れることにしよう」と言って自殺の樹の下に腰掛けた。大王は迷惑な奴だが、気の置けない奴でもあった。

 仕方がないから、いまでもたまに会っている。めでたし。
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by kourick | 2005-04-29 00:00 | 夢峰