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 3年前の11月を思い出す。

 札幌駅地下パセオの奥、トムズカフェ。わたしと彼はカウンタに並んで座り、壁面にディスプレイされているカップとソーサーを眺めながらぼんやりと話をしていた。ロジックの自主ゼミ終わりの午後6時、飲み会までの時間潰しだった。

「ヘンキンの定理にリンデンバウムのレンマを使って完全性を証明するのはマッチポンプだよね」と彼が眠たいことを言うので、「じゃあ、カリー・ハワード対応はどうなの?」と訊いたが始まり、そこからは部分構造論理クロニクルだったことを覚えている。わたしは半分、本当に眠りかけながら、彼の話に耳を傾けていた。面白かった。

 10数分後、遅れて共通の後輩が一人きたので、店員の了解を得てテーブル席に移動する。わたしと彼は二杯目のコーヒーを、後輩はケーキセットを頼んだ。そして、どういう流れでそうなったのかはすでに忘れてしまったけれど、わたしたちの性格についての話題になった。

「研究者っていう人たちは、どんなにソフトな物腰をしていたって、内面には気性の荒い人格をもっているものだよ」
 彼はあっけらかんとして言った。

「ソフトな物腰ってなに?」
 私はすでにちょっとイライラしていた。
 わたしみたいな態度のことでないことだけは直観的にわかる。

「夏場の風呂上がりのビールのことでふよ」
 後輩がケーキを食べながらもごもごと言う。
 タイミングを逃したくなかったみたいだ。

「それはクリアな喉越し」
 わたしが言うと、後輩は幸せそうな顔をして目を細めた。

「もっと外延的に教えてもらえないかな」
 そんなことできないに決まっている。
 具体例を挙げられたら、ひとつずつ論破してやろう。

「ふんふん、まあ、出店のわたあめみたいに柔らかふわふわってことですかね」
 後輩がコーヒーを口にし、もちゃもちゃと咀嚼しながら言う。
 同じ女性として心配になる仕草だ。
 同じじゃないのかもしれない。

「わたしはそんな人に一度も出会ったことがないんだけど」
「え、ホントですか」
 後輩がつぶらな瞳をわたしに向けた。
(ホントですけど)
 どうやら彼女とわたしでは見ている現実が違うようだった。
 むべなるかな。
 いや、さもありなん、かな。

「それはさ、君が常に研究者モードだからじゃない」
 彼が涼しげな表情で言った。
 わたしは途端にイライラする。

「いまだって、僕から攻撃されていると感じているでしょう。だから、自分のもっとも戦闘能力の高いモードにシフトしなきゃいけないってかまえちゃう。そうしないと自分を守れないと、どこかで思ってるんじゃないかな」
「だれだってそうでしょ」
 わたしは彼を突き放すように言い、コーヒーを飲んだ。

「いや、そうじゃない」
 彼は話を続けようとする。
「ストップ」
 わたしは右手の平を前に出して、発言を制止する。彼はそのまま黙った。沈黙の間、彼はわたしの様子を眺めていて、わたしはコーヒーカップの飲み口のところを親指で撫でまわしていた。

 ケーキに向かっていた後輩は上目遣いにわたしたちを見比べながら、むむっとしていた。そして、ケーキを口に運ぶ。一口食べるたびに幸せな表情になるのだが、すぐにむむっとした表情に戻る。この子はなにをしているのだろう。変わっている。

 しかし、その様子を視界の端に感じている間も、わたしの脳内ではアラートが鳴りひびき、エラーを告げるダイアログボックスが無数にポップアップしていた。冷静なわたしがスクランブル発進してきて、地上で銃撃戦を繰り広げているわたしに向かって叫ぶ。

「おちつけおちつけ、わたしたちはいま冷静じゃない!」
 おまえはいったい、どちらなのか。
 冷静じゃないわたしが冷静なわたしを逆に心配していた。
 わたしはいったい、どちらなのか。

 どうしてだろう。なんでこんなにイライラするのだろう。わたしが危険なのか、わたしにとってのわたしが危険なのか、わたしのなかの彼にとってのわたしが危険なのか、わたしはなにを言っているのかメモリ不足、いずれにせよ、この話題はおしまい。おしまいだ。

「この話はおしまい。わたしはいいの」
 わたしは顔をあげて言う。
 なにがいいのだろう。
 わからない。

「そうです、いいんです、それが先輩のいいところなんですから」
 後輩がもったりした口調で言う。
「さにあらばこそ、わたしたちの萌え萌えクールビューティなのでふ」
 わたしに視線を送りながら、後輩はまたケーキを口に運ぶ。
 できれば、話すか食べるかのどちらかにしてほしい。

「それにくらべてなんですか、そのひょうひょうとしてますみたいな能天気さ。感じわるいですよ」
 後輩はフォークで彼を刺すようなジェスチャをした。
「あれ、なんか僕にたいして厳しくない?」
 彼は苦笑して言う。
「ありません。雨が降ったから傘をさしたようなものでふ」
 そして、ケーキ。
「ノー天気じゃないじゃない」
「うわ、うわわわわ」
 後輩が彼のジョークにたじろいだ。
「どしゃぶりでふね」
「しゃべりきってから食べなさい」
 とうとう指摘された。
 彼が言わなかったら、わたしが言っていただろう。

「キミの場合はさ、その柔らかふわふわのやつ?
 それがもう、スチールウールって感じだよね」
 気をとりなおして、わたしは言った。
「ですよねー」
 後輩が笑いながら同調する。
「オレを酸化させてみろって言ってみてください」
「オレを酸化させてみろ!」
 彼が抑揚を付けて言うので、後輩がお腹を抱えて笑った。
 壮絶な現場だ。
「まあ、キミが研究者タイプなのかというと、わたしにはちょっと疑問だけどね」
 後輩の頭をなでなでしながら、わたしは彼に追い打ちをかけた。

「うーん、そう、不本意ではあるけれど、僕はちょっと研究者タイプではないかもしれないね」
 彼はやんわりと苦笑して、溜息交じりに頷いた。
「ただ、だからといって、なにかが語れなくなるわけじゃない」

 彼はそうやって淡々と話を続け、後輩はいつものように、ときおり茶々をいれていた。わたしもところどころ笑ったと思う。ただ、それはもう、完全に自動的な笑いだった。わたしの意識はもっと低いところに沈み込んでいき、水面に映る光を眺めていた。
 言葉がでてこなかった。
 この人はなにを言っているのだろう。
 わたしは驚いていた。
 このときの記憶はあまりない。

「だから、まあ、なににせよ、僕にはこれで充分なんだよ」
 彼は肩を竦め、わたしに向かって笑った。
 ああ、と思う。
 この人は遠からず、ここを去るのだ。
 わたしは直感した。
 彼の淡々とした感情的に変化のない口調は、
 逆にわたしを追いつめた。

 つまらないことを言ってしまった。
 どこかで、取り戻せるだろうか。
 わたしはいったい、どうしたらいいのだろう。

 この日、わたしは久々に泣きそうな気持ちを味わった。

*   *   *

「なに考えてるの?」
 いつのまにか、彼がわたしの顔を覗き込んでいた。
「なにも。ゼリーおいしいなって思ってた」
 わたしは口元に笑みを作る。
「そうだね、ごちそうさまでした」
 そう言って、彼は空のカップとスプーンを袋に戻した。

 さわさわと昼下がりの風が緑光を吹き流し、涼やかに肌をなめる。
 ハトが足元まで寄ってきて、クルクルと喉を鳴らしていた。
 大通公園には晴れているイメージしかない。
 今度、雨のときに来てみようか。
 ただ、ぼんやりと。

 そのとき、彼がゆっくりと身をかがめた。
 そして、ハトに向かって右手の人差し指を伸ばし、
 クルクルと円を描く。

 なにがしたいのだろう。
 どれから指摘しよう。
 じゃなかった。
 これがいけないのだ。
 えっと、
 そう、訊いてみよう。

「なにしてるの?」
 わたしは素直に訊いた。
「ハトと意思疎通する可能性について、および、トンボを捕獲する子供たちの遊戯性にみる好奇心の考察」
「あそう」
 なるほど、こういう返しになるわけか。
「面白いね」
 わたしはグレープゼリーを一口、食べる。
「君のほうが面白いよ」
「どうかな。まあ、わたしも少しは変わったと思うけど」
「そりゃあ、見るからに変わったよ。全体的に茶色くなったよね」
 彼がわたしに向かって右手の人差し指をクルクルと回した。
「バカ」
 わたしは笑った。

*   *   *

 わたしと彼はもともと似たアーキテクチャの人格だ。基本的にはふたりとも非常にロジカルだということがいえる。おそらく、その傾向自体は彼のほうが強いだろう。ただ、二点、異なるところがある。ひとつは、わたしはプラットフォームに依拠したがるのに対して、彼はプラットフォームフリーに思考したがるということ。

 もうひとつは、わたしはレイショナルに積み重ねたいという指向性をもっているのに対して、彼はリーズナブルに立ち回りたいという指向性をもっているということ。これらは些細な違いではあるものの、それがたしかに違いである限り、決定的な違いだった。

 わたしはこうした自分自身の特質の理解を、彼を通すことにより得た。この作業は意外にも感情的な関わり合いを介して進められた。そして、このことを多少なりとも理解できたとき、わたしたちの関係の把握は、わたしにとっては、もはや自動的だった。

 わたしはいつも不安だったし、彼はいつも不安定だった。わたしは束縛に安心していたし、彼は自由に安堵していた。わたしはいつも強そうで弱かったし、彼はいつも弱そうで強かった。わたしは主観に集中させていたし、彼は客観に分散させていた。

 対照的だったのだ。同じ柵のなかにいるのに、立っている地面はまるで違った。見ている方向が違った。それゆえ、わたしたちに優劣はなかった。いまなら、そうわかる。そもそも、わたしたちは同じフィールドにいなかったのだ。それなのに、わたしだけがずっと戦おうとしていた。

 だけど、だから、わたしの個人戦記は、ここでこそ、おしまい。わたしはもう、彼のことについて考える責務はないし、戦おうとする必要もない。もしかすると、これは彼の巧妙な戦略なのかもしれなかったが、もう、それでも良かった。わたしはもはや、ときおり彼に気楽に接したいと楽観的に思うだけだった。大人になったのだ。

*   *   *

「どうして、以前、キミにあれほどイライラしていたのか、近頃、わかるようになったよ」
 言いながら、わたしも空のカップとスプーンを袋に戻した。
「僕のことが好きだったからでしょう」
 反動形成だよと言って、彼は笑った。
「わたし、そういう安易なリダクションはしないの」
「じゃあ、同族嫌悪かな。専門が近かったからじゃない」
 彼は楽しそうに次の可能性を挙げる。
「近しいトライブにいたことは認める。けど、それは決定的じゃない」
 わたしは首を左右に振る。
「なら、君のコンディションの問題かな。僕のタイミングがわるかった」
「そういうときもあったかもしれない。けど、それだけでは説明できない」
 首を振る。
「ということは相性かな。そういうのってあるでしょう」
 そう言って、彼は脚を組む。
 特徴的な奇妙な組み方だ。
「あるかどうかを考えたことはないけど、そう、そのあたりかな」
 わたしもきちんと座りなおした。
「ふむ」
 彼は右膝を両手で抱える。
「ねえ、訊きたいんだけどさ」
「なに?」
「キミ、わざとわたしに挑発的なことをしてたでしょう」
「うん」
 彼はさも当然と頷いた。
 そりゃそうだ、とでも言いたそうな表情だった。
 申し訳なさそうに自信のある顔をしている。
 わたしはなんか、笑ってしまった。
「どうして?」
「どうしてだろう、かわいかったからかな」
 冗談めかして、彼が言う。
「なるほど」
 とは言ったものの、その無邪気さにわたしはあっけにとられていた。
 わかってはいたけれど、これはひどい。
「ひどいよね」
 彼がしみじみと言う。
「たぶん、キミが思っている以上に」
「わるかったよ、ごめん」
 わたしは、この人が本当にわからない。
 どういうことなんだろう?
 わたしはいったい、なにをいろいろ考えていたんだろう。
 この人、なんなの?
 なんなの?
 ねえ、本当になんなの?
「あー、わかった」
「なに?」
「わたし、キミのこときらいだわ」
 言葉にしてみると、意外にも気持ちよかった。
 胸の底からふつふつとなにかが湧きのぼる感じがした。
「僕は君のこと好きなんだけどなあ」
 彼が残念そうに言う。
 こういう言葉にちょっとドキッとしてしまう自分が情けない。
「それ、誰にでも言うでしょう?」
「好きな人には誰にでも言うね」
「キミさ、そういう軽い言動とか、重い意地悪とか、気を付けなよ。
 わたしじゃなかったら刺されてるよ」
「ああ、それはたぶん、大丈夫じゃないかな」
「どうして?」
「こういうことは、まあ、君にしかしないからね」
 彼は平気な顔をして言う。

 わたしは思わず、彼の顔を凝視してしまった。
 だめだ、わたし、しかも、馬鹿だ、
 どういうモードにシフトしたらいいのかわからない。

 どうして、こうやって、この人は他人に委ねるのだろう。
 どうして、こんなに、この人はわたしに安心しているのだろう。
 どうして、これほど、この人の優しさはわたしに冷たいのだろう。

 どうにかして、彼を困らせてやりたい。
 いまのわたしみたいに勘違いさせてやりたい。
 わたしなんてもう、考えだしたら崩れてしまいそうになっている。

 ああ・・・だから、
 つまり、
 これは戦いなんだ。

 そうか、
 そうだよね、
 こういう戦いだってあるんだよね。

 結局ところ、なんだ、
 戦い続けるしかないんじゃないか、
 チクショウ。
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「どうして?」
 彼はたぶん、皮肉を言っている。
「わからない?」
 あと数秒もらえるなら一枚上手に返せるだろう。
 けど、
「はっきりしない」
 そう思ったのも事実だった。
 わたしは複数の選択肢に思い至っていることをほのめかす。
 彼は不思議そうな顔をして、わたしを見ていた。
 やれやれ。

 彼はいま、わたしの反応を見て、わたしの内面を想像し、わたしについてのなにかを判断した。そういうことを楽しむ人なのだ。敵ながら見事だと思うのは、彼がそうした行為をほとんど無自覚的にナチュラルにおこなうということである。

 うがった見方をしなければストレートに受け取ることができるのかもしれないが、正直なところ、わたしにとってはいちいち試されているような気がしてならない。これに居心地の悪さを感じる人は多いと思うのだけれど、彼は意外と人から慕われるほうだ。みんな騙されている。

 いまのやりとりはこういうことだ。説明しよう。

(1) 彼は本当においしいミニトマトを食べたいと思った。

 素朴に考えるとそうだ。そう言っている。特別、おいしいミニトマトを食べられる店があるのかもしれないし、もしかしたらミニトマト狩りみたいなことができる場所があるのかもしれない。だから、わたしは「どうしてミニトマトなのか?」という疑問を胸に「キミがミニトマトマニアだからでしょう」と応じることはできた。

 ただ、これはいまのシチュエーションからいって、実現する可能性の低い提案だろう。わたしはそんなにミニトマトを食べたそうな顔をした人間じゃない。もしいま、昼食だよといってミニトマトを渡されたら、さしものわたしもご立腹である。もちろん、彼だってその程度のことはわかっているだろう。だから、これは暗に代案を求めているのかもしれない。つまり、

(2) 彼はわたしになにか食べたいものはないか尋ねている。

 それゆえ、わたしは「どうしてミニトマトなのか?」という疑問に「そんなわけないよね」と内心で応答し「コーヒーが飲めるならどこでもいいよ。キミはトマトジュースを飲みなよ」と返すことができたかもしれない。こうすると、彼の選んだ「ミニトマト」というワードの場違い感をきちんと理解できるだろう。

 しかし、だとすると、ちょっと腑に落ちないのはミニトマトに付けられた「おいしい」という形容詞の働きだ。これはサラダボウルに敷かれたレタスのように添える必要のあるワードなのか怪しいところだ。あっていやになるものでもないけれど、わざわざ言うことだろうか。だから、わたしは次のように深読みすることを要求される。

(3) 彼はなにかしらのことをほのめかしている。

 わたしが思うに、これが当たりだろう。問題は「ミニトマト」がなにのメタファになっているのかということだけれど、これにはふたつの可能性が思い当たる。

 ひとつはわたし。これは少し下品な発想だけれど、ないことはない。彼はとくに気にせずに、そういうあっけらかんとしたことを言う。わたしも別に気にしない。おそらく、そう受け取ることもできるような微妙なところに投げた。そして、わたしの反応を見たのだ。そうだと思う。

 そして、もうひとつは、わたしのふるまい。ミニトマトというのは、つまりはグレープトマトのこと。要するに、わたしが彼のささやかな思惑に流されず、彼に「すっぱいぶどう」を食べさせたものだから、次は「おいしいぶどう」を食べさせてほしいねと言っているわけだ。遠回しな皮肉である。

 とはいえ、これはわたしにいやみを言っているわけでも、もっと愛嬌のある素振りを期待しているわけでもない。彼はわたしと違って「負けたがり」だからだ。それも用意周到に負けたがる。それゆえ、この場合も、皮肉を言っているようで、その実、そうした状況を面白がっているというひとつのジョークである。「すごいね、君には負けるよ」といったことでも言いたいのだろう。

 やっかいなのは、彼はわたしがこうした選択肢に瞬間的に思い至ることを、さも当然と考えていることである。そのうえで、わたしがどういう反応を示すかを見ているのだ。これはちょっとわたしの洞察力を過信しているような気もするけれど、それが彼の、わたしに対する暗黙の評価といえるかもしれない。

*   *   *

「心臓、どきどきしてる」
 わたしは彼の脈動を背中に感じて言った。
「それはもう」
 彼は気怠そうな口調で言う。
 何気ない台詞なのに、耳元で言われると奇妙な魅力があった。
「この手、どこにおこうか、迷うね」
 わたしも、なんだか脱力していて、右手をゆっくり持ち上げた。
「この距離だとね、先鋭化するから」
 彼はわたしの後ろに座り、わたしを抱きしめていた。
 身体をよせて、ぴったり重なるみたいに。
「やらしい」
 わたしの左手には彼の左手の指が絡みついていて、
 それらをロックするかのように、彼の右手が左手首を押さえていた。
「そうかな?」
 彼は言う。
「やらしい」
 わたしはもう一度、言う。
 そして、身体の前で組まれた彼の右手に指を這わせる。
「けど、これはたしかに眠たいわ」
 わたしは、ふわ、と欠伸をする。
「それは僕もわかる」
 彼もわたしの欠伸につられて、ふわ、とする。
 ククッと背中が圧されて、彼の肺に空気が取り込まれるのがわかった。

 その瞬間、わたしは気付いた。
 彼はわたしに呼吸を合わせていたのだ。

 たまたまだろうか?
 いや、そんなことはないだろう。

 息苦しくなかったのだろうか。
 いや、息苦しかっただろう。

 わたしはなんだか、どうしようもなく笑えてきた。
 だから、
 わたしは彼の拘束を解いて、押し倒すようにして抱きついた。

 どうしてそんなことをしたのだろう。
 わからない。
 それが不思議だった。

*   *   *

 わたしはむしろ、彼の行為の悪趣味さよりも、彼の用意する当たり前の水準のナイーブな設定に驚かされる。それも、相手によって直観的に調整しているようだった。受け容れられる人格と言語のキャパシティが広い、珍しいタイプの人といえる。しかし、このような彼の特質に気づいている人はほとんどいないだろう。

 おそらく、説明を求めたら、彼はゆっくりと自分の意図をすべて言語化できる。しかし、それを語りはじめた時点では、彼はまだ、そのさきの帰結をしっかりと把握してはいない。最終的な広がりを把握し、形を明確に描き出すことは、わたしのほうがはるかに速い。ただ、彼はわたしよりもさきに、のちにはっきりすると見当をつけた方向に歩みを進める。

 普通に考えたら、でたらめだ。もしかすると、自分でもなにを言っているのかわかっていないんじゃないだろうか。それなのに、そういう発話をするとき、彼がその方向性を見誤っていることはまずない。わたしが考えを進めたら、たしかにたどりつける。だから、結果的にわたしが後追いしていることになる。どれだけの人が彼を読もうとするのかわからないけれど、これが変わっている。

 どうして、そういうことができるのだろう。
 わたしにはできない。
 なにかが違うのだろう。

*   *   *

 わたしは彼の姿を認めると、少し離れたベンチに腰かけた。
 バッグから詩集を取り出し、横目で彼を見る。

 ぼけっとしていて、わたしに気付いた様子はない。
 わたしは二度ほどそんなことを繰り返し、そして、彼の横に座った。

*   *   *

 さて、彼の皮肉めいた言葉に対して、わたしはあえて「それは楽しみだ、ぜひ、食べてみたいね」と返すこともできたに違いない。そうしたら、本当においしいミニトマトを食べることができたかもしれない。

 ただ、わたしはこうした種々の判断からどれかを選択することをちょっとためらった。彼はたぶん、わたしの返答のラグに「考えすぎ」の徴表を読み取り、「緊張している」とでも判断しただろう。

 だが、そうではない。
 どうして?
 正直、わたしはちょっと驚いていたのだ。
 なにに?
 うん、そう、このとき、わたしは彼を出し抜いたとでもいうような気持ちになっていたのだけれど、もしかして、コンビニに寄ったのを見られていたのかなと思ったわけ。いや、そんなことないなってすぐに思ったのだけれど、ちょっと止まってしまった。
 それはもう、すごい偶然だったから。
 なにが?

*   *   *

「はっきりしない?」
 彼が興味深そうに言った。
「ううん、もうはっきりしてる。けど、ちょっと驚いたのは事実」

 わたしは彼の目を覗き込む。こんなにわかりやすそうなのに、なにを考えているのか読めない。いや、正確にいうと、読めるのだけど絞れないといったところか。変わっている。

 わたしはふいと彼から目を逸らすと、ベンチの脇に置いてあったバッグを引き寄せ、なかをごそごそとあさる。白いスーパーの袋を取り出すと、バッグをもとの位置に戻した。

「食べたい?」
 わたしは袋に右手を入れながら、彼に訊く。
「食べたいね」
 彼は言う。なにかを訊かないところが彼らしい。

「はい、どうぞ」
 わたしは袋から一個取り出し、スプーンと一緒に彼に渡す。
「どうも」
 それを受け取ると、彼はフリーズした。
 そして、喉の奥を鳴らすように楽しそうに苦笑した。

「グレープゼリーだけど。甘いと思うよ」
「すごいなあ。たまたま?」
「たまたま」

「ほんと、君には負けるよ」
 彼はプラスチックのスプーンを袋から取り出しながら言う。
「またつまらぬことを勝ってしまった」
 わたしはささやかに、誇らしげに胸を張った。
 そして、わたしたちはゼリーを食べた。

*   *   *

 わたしの発想の根底には「戦い」が居座っているのだと思う。ちょっとまえまではだれだってそうだと思っていた。いまはそうでもないらしいってわかっている。けれど、わたしはいまでも、きわめて自然に「勝ちたい」と思っている。

 だれかを負かしたかったり、だれかに負けたくなかったりということではなく、ただ、純粋に、勝っていたいのだ。どうしたら対面した相手よりも優位に立てるか、どうしたら相手より優越している実感を抱けるかをシミュレートしながらコミュニケートしている。

 そうでないと、自分が惨めな気がして、存在している価値がないような気がしてならないのだ。黙っていたら、自分が存在していないような、笑っていたら、自分が消失してしまうような、焦燥。つまり、わたしはとても不安がりなのである。

 戦っていないと、だれかにぶつかっていないと、自分というものを保てない。どこかに属していないと、だれかに認めてもらわないと、そのために前に進み、全身に抵抗を受けていないと、わたしは自分の輪郭を見失ってしまう。

 つまり、これはわたしが生き続けるために必要な戦いなのだ。
 だから、わたしは闘争心を絶やしてはいけない。
 よりクレバーに、よりスマートに、わたしは戦いに明け暮れよう。
 砂塵が石になり岩になるまで、わたしは勝ち続けよう。
 そうでなければ、わたしは崩れてしまうだろう。
 それゆえ、わたしは、
 わたしのこうした傾向を「攻撃的な防御だ」と認識している。
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 僕は大通公園12丁目の噴水あたりを待ち合わせ場所に設定した。
 約束の時間は午後二時。いまは午後二時だった。

 僕は北区を背にしてベンチに座る。とくに意識したわけではなかったけれど、僕は時間通りに到着していた。一般的にポジティブな評価を期待しうる状態であり、こういうのは棚から瓢箪というのだったか。

 大通公園の12丁目はたしかに実在する長閑な場所なのだけれど、はっきりいって、そう積極的に活用したいと思われる場所ではない。

「暇を持て余した人たちが大通公園をテレビ塔から西に向かって歩き出しました。彼らはどこまで行ったでしょう?」という問題があったとしたら、「全員、11丁目で引き返した」が模範的な解答だ。君子危うきに一生を得るというのは、こういうときに使う表現だったと思う。

 本当だったら10丁目で引き返したいところだけれど、かりそめにも暇を持て余しているというのなら、11丁目までは来ることができるだろう。暇人には暇人の矜持というものがあるに違いない。しかし、その余っていた暇すら使い果たしてしまうのが12丁目という場所である。

 大通公園は13丁目まであるが、そこは札幌市資料館に占拠されているので、実質的には12丁目の「若い女の像」が大通公園という空間のヴァニシング・ポイントだ。この像の前に立つと、まさに魚の目鷹の目という気持ちになれる。

 彼女は場所を想像しなかっただろう。僕からのメールを一瞥して条件を確認すると、僕の提案を丸呑みしたに違いない。彼女に呑みこまれた条件は自動的に脳内の時系列をいそいそと歩み、適当なところを探してよいしょと腰を下ろす。そしてときおり、彼女に向かって手を振ったり、クルクル回ったりして、自己主張をするのである。それが彼女の予定というものだろうと僕は勝手に想像する。

 今頃、歩きながら「なんなんだこれは」と思っているかもしれない。記憶を確認して、もしかするとメールを見返したかもしれない。だとしたら、僕の試みは成功といえる。彼女の頭上に「?」を浮かばせることは、僕のちょっとしたレジャーなのだ。

 とはいっても、僕は二日前にメールを送っているのだし、彼女からも「わかった」という必要にして十分な返信があったのだから、彼女のコミットメントだってある。そうそう責められるいわれはないのだ。まあ、彼女はこんなことで誰かを責めるような人格ではないけれど。

 あ、「彼女」といっても「付き合っている」だとか「真剣交際」というような微笑ましいものじゃない。僕たちはそうした言葉の用法に疎かったし、そもそも、関係に恒常性を求める傾向が低かった。あるいはまた意図的に、そうした慣習に無関心を装っていたきらいもあった。

 もし僕たちがきちんと自分の感情を反省し、互いのポジションに関する検討を始めたなら、おそらくいまのような関係を継続することはできなかっただろう。だから、僕たちはささやかな好奇心のために思考を停止するという贅沢をしていた。風が吹いてもそうは問屋が卸さないのだから、一心夢中に五里模索する必要はなかったというわけだ。

 ただ、健全な男女に取り交わされると風も噂する契約的行為に積極的な意義を見出していないことを互いに理解しあっているという点においては、多少、特別な信頼関係を築いていたとはいえるかもしれない。

 だから、これは行為遂行的な発話に慎重だという互いの態度によって縒り合された関係といえるだろう。要するに、苦虫を噛み潰した鯉の滝登りといった状態なのだと思う。つまり、寄らば三文の得といったようなものである。

 それゆえ、僕たちは普通よりちょっと自由に、そのかわり禁欲的に、だからこそ背徳的に、なににせよ楽観的に付き合いを継続していた。もちろん、僕たちはそうした関係にそれなりに満足していた。

 そして、僕たちにとっては「それなり」であることが重要なことだった。というのも、僕にとっても彼女にとっても、真に思考を働かせるべき興味の対象は、互いの人格やその器についてではなく、もっとほかのところにあったからである。

 とまあ、ついつい彼女の気持ちまで代弁してしまった。僕は自分の分析にショートケーキのイチゴみたいな評価を期待しているけれど、本当のところは彼女に訊いてみないとわからない。当たり前である。

 ただ、訊いてみたってわからないかもしれない。それは言葉で表現するには移り変わりやすい不合理さに彩られていたし、そうした不合理さにうっとりするほど僕たちはロマンチックじゃなかった。

 なによりも、そういう不粋なことは互いの望むところではないだろう。
 だから、これはこれでいいのだ。

 しかし、こうした行為が彼女に見透かされておらず、蜃気楼のように熱せられた大気のなかを泳いでいるだけなのだとすると、僕のおかれた窮境というのはまさに河童が流れて海に出たといわれるものに違いないだろう。しっかりキュウリを持っているのなら、普段とは一風変わった塩味の効いたキュウリを食べられるかもしれないが、そこから川を遡上しなければならないことを想像すると頭を抱えてしまう。

 このことからわかるのは、鬼が金棒を持つのとはまた異なるフィールドにおいて、河童がキュウリを持っていたら、それはもう無敵だということである。残念なのは、鬼に金棒を作るだけの製錬技術はないと思われるのと同様に、河童にキュウリを育てるだけの栽培技術はないと思われることであり、そのことだけが悔やまれるのである。

 僕は溜息を吐いた。

「おはよう」
 ふと、女性の声がした。

 僕は頭を左斜め後ろに傾げると、声のしたほう、同じベンチに座っている人物を横目で確認する。その女性は背筋をすっと伸ばしてベンチに腰かけ、膝の上に開いている本に目を落としていた。

 膝は直角か、そうでなければ、やや鋭角気味に曲げられている。意図的にこちらを視界の外に置いている気配があり、彼女特有の攻撃的なインテリジェンスの香りがした。もしこれが彼女じゃないなら、彼女の双子の姉妹かクロンだろう。

「おはよう」
 僕はオウムに返した。
「無視していたわけじゃないよ、気付かないふりをしていたわけでもない。自分でいうのもなんだけど、そういう白々しい真似をするタイプじゃないんだ」
 彼女の横顔を見ながら、僕は言う。

「そうだね」
 彼女は本を静かに閉じると、ベンチの脇に置いてあるバッグにしまった。そのバッグのなかには彼女のお気に入りの詩集と最新の論文が何本か収められていることを僕は知っている。そのほかにどういうものが収められているのか定かではないけれど、秘密道具や最終兵器みたいなものなら入っているかもしれない。それが女性のバッグというものだ。

「バカみたいな顔してた」
 ふっと笑うと、彼女は僕の顔を見た。
 1メートルほどの線分で、僕たちの視線が結ばれる。

 僕はとっさに顔を逸らし、それとなしに周囲を観察したあと、脚を組んだ。右脚を左脚に乗せ、右脚のつま先をもう一度、左脚に絡ませる。きなこねじりみたいにクルンと右脚を一周させる。そして、右膝を両手で抱えた。腕組みをするみたいに、これは防御の姿勢なんじゃないかと自己分析している。
 ああ・・・どうも余計なことを考えているな。

「これからは気をつけるよ」
「そう。それはもったいないね」
 こういうわからないことを彼女は言う。

「それよりもどうしたの、ちょっと変わったね」
 僕は彼女の服装を確認する。
「ヘン?」
「ん、かわいいと思う」
 僕の思いだせる彼女はたいてい、細身のブルージーンズにスニーカを履いて、白いシャツを着ていた。黒髪は短めのストレート、シンプルなシルバーフレームの眼鏡、小柄な体格と女性向けの洒落た腕時計だけが性別を匂わせていた。食べ物でいうなら「冷ややっこ」といったところか。

 いま僕の目の前にいる女性は、エスニックな刺繍の入ったスカートにサボを履いて、胸元のあいたシャツに編みこまれた薄手のカーディガンを羽織っていた。ゆるいウェーブのかかった茶色い髪はセミロング、赤みの差した鼈甲色のセルフレームの眼鏡をしていて、長数珠のような木製のネックレスをしていた。もはや食べ物でたとえることは不可能だ。

「子供のころ、いまの君みたいなアンブッシュ塗装をティガー戦車にしたことがあるよ」
「ん?」
 彼女は左に15度、首を傾げた。
「まあ、冷静に考えたら、そこには君しか座らないよね」
 僕は彼女の様子を受け流し、違う話題をふる。
「だろうね」
「気配は感じていたんだけどなあ」
「やれやれ」
 彼女は鼻から息をもらした。
「ドイツでもそういう格好してたの?」
「いや、これは帰ってきてから」
「ふうん」
 僕はその意図、心境の変化をあとで訊こうと思った。

 さわさわと黄緑色に揺れる木洩れ日の隙間を縫うように自動車の行き交う音がかすかに聞こえた。人慣れしたハトが首をふりながらこちらに向かって歩いてくる。ああ、大通公園だな、と思う。

 ちらっと横を見ると、彼女は姿勢よく正面をむいたまま座っていた。この姿勢だけで、彼女だとアイデンティファイできる。両手は上品に膝の上で重ねられ、全体的に柔らかい直線(なんて詩的な表現だろう)で構成されたフォルムをしている。親指はパラレルに重なり、他の四指はそれぞれ直角に重ねられていた。

 人形みたいに、無為な所作がない。
 それが、
 なにを考えているのか、
 どんな意思に満ちているのかを、僕に想像させる。

「それで、今日はどうしたの?」
 すっと彼女がふりむいて、僕に言う。
「君に会いたかったんだよ」
 僕はちょっと笑って、真面目に答える。
「そう」
 僕をじっと睨んで、彼女は黙る。
 続きのフレーズがあるのかどうかわからない。

「どう、大通公園の12丁目は? 来たことあった?」
 僕は逆に彼女の表情をうかがった。
「遠いし、暑い。ただ、もちろん、これは環境に依存した性質ではないね、わたしの感想。たまにだったらいいかな。適度なノイズが静けさを強調している場所だと思う。来たことはなかった」
 彼女はすらっと言う。

「迷ったりしなかった?」
「わたしは道に迷わないし、判断にはもっと迷わない」
「うーん、変だな、ちょっと奇妙だな、みたいな?」
「それは、どうしてわざわざ大通公園の12丁目を待ち合わせ場所にしたのかということについて疑念を抱いたかということ?」
「ヤー」
「まあ、それは少し考えたけど、キミって変でしょう?」
「そうかもしれない」
 僕は頷いた。

「それをいうなら、そもそも、これだけ通信手段が発達しているなか、待ち合わせなんていう、点に点を重ねるような行為を不意に提案すること自体が変わっているね。まあ、なんにせよ、わたしもそれを了解したんだから、いまさら場所についての疑念を口にするようなことはしないさ」
「なるほど」
 これはもう、遠回しに批難されているのではないかと思われたが、僕こそ、それを口にするのは避けた。
 僕は組んでいた脚をとき、ベンチの背もたれに寄りかかる。

「まあ、それに、すぐキミを見つけたしね」
 彼女は上目遣いに僕を見て、ぺろっと舌を出した。
「んん」
「キミが前を歩いているのを見かけたから、わたしはちょっとコンビニに寄って涼んでたんだよ」
「なんで?」
「『この道でいいよ』とキミが言ったから、6月20日はセブン記念日」
「なにそれ」
「知らない?」
「いや、そういうことじゃなくて」
「ちょっと汗かいてたし、そのほうが楽しめるかと思って」
「だれが?」
「前者はわたしが、後者はキミが」
「ああ、そう」

 僕は少し憑き物が落ちたような気分になっていた。鍋もない、とはこういうときに使う表現だっただろうか。ちょっとしたレジャーが食べ残されたレタスみたいに器のなかでしなしなになっているのがわかる。

 その一方、あるものは器から零れ落ちたミニトマトみたいにいきいきとテーブルの表面を自由に転げまわっている。まあ、いいさ、あのミニトマトはすっぱいんだ。

「お昼、食べてないでしょう。美味しいミニトマトでも食べに行かない?」
 彼女の反応を見ながら、僕は内心を他言語に翻訳する。
「ミニトマト?」
「そ」
「どうして?」
 目をぱちくりさせて、彼女が言う。
「わからない?」
「はっきりしない」
 どうやら彼女も緊張しているらしいと、僕はそのときやっと気付いた。
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最初に「フィアリティ」という言葉を特定の概念を示すために意図的に使ったのは、新婚旅行を済ませてコネティカットの新居に辿り着いたアメリカ人夫妻の奥さんのほうだったと言われている。しっとりと暗闇の湿る22時のガレージに自動車を停めると、彼らは荷物を抱えて新居に雪崩れ込み、そのまま肩を寄せ合ってソファで眠ってしまった。食事をとる気力はなかったけれど、眠りに落ちる前に何度かキスをした。

「その日の夜はもう、クテクテだったわ。慣れない土地の街灯の心許なさというのを、そのとき私は久々に感じたの」と彼女はのちに語っている。「もちろん、それを初めて感じたのは、私が彼の寝室に初めて立ち入ったときよ」と彼女は続けた。独特のユーモアを交えた応答になっているけれど、要はその日、その旅路の帰路、彼らは道に迷ったのである。そして、助手席から地図をチェックして道順を示していたのは彼女だった。

彼らはニューヨークから高速15号線をレンタカーで北上し、お喋りをしながら新婚旅行の最後のひと時を満喫していた。太陽の沈み始めた18時頃、法律家の彼は自分がヌナブト協定に関心をもっており、イヌイットの先住権と民族自治に関して自身の気持ちをまとめているのだという話を彼女にした。彼女はその話題に不意を突かれたけれど、次の瞬間には「そうね」と言って思考のモードを切り替えた。

黙るにせよ、喋るにせよ、彼の期待に応じたいと彼女は思ったのだ。というのも、どこか、嬉しかったのである。彼にとって自分は、そういう話題を安心して話すことができる人格であるとみなされているのだ。彼女の知っている男性のなかに、こういう種類の人格は少なかった。彼女はそのことに憤りを感じたことはなかったし、女性の尊厳を頭ごなしに否定されているとも感じてはいなかったのだが、ちょっとした虚しさのようなものはときどき感じていた。

だから、そのときに彼女が感じた嬉しさというのは「認められた」という高揚感よりも、むしろ「愛しさ」に近いものだった。そして、彼女は慎重に、彼の見解を黙って(たまに「うんうん」とか言いながら)聴いて、丁寧に頭のなかで整理すると、彼を否定しないように、異なる観点からの意見を提供した。それは、フランツ・ボアズのフィールドワークの話だった。彼女は学生時代に文化人類学を専攻したこともあり、彼の関心の向かう先に彼女は興味をもった。

彼女は父方の祖父がメキシコ系のヒスパニックで、彼女を除いた家族は人種差別や差別感情に敏感ではあったけれど、彼女自身はあまりそのことに理性的にも感情的にも執着はなかった。そういう観点からいうと、自分はたぶん幸運な人生を送っているのだろうと彼女は思っていた。彼女のアイデンティティは根本的なところで複雑さを許容しているということにおいて単純であったし、その手の理不尽さに見舞われることもなかったのだ。ちょっと鈍感だったのかもしれない。

一方の彼はイギリス育ちのアメリカ人でフランスに留学した経験があった。彼は彼女とは異なる種類の単純さと複雑さがアイデンティティに根を下ろしていたけれど、ふたりはふたりでいるときにもっとも「自分の人生が世界と噛み合う」という体験を何度もしていた。だから、新婚旅行は絶対に海に面した賑やかな場所じゃなきゃいやと言っておいたにもかかわらず、彼がサウスダコタに行こうと言い出したときも、少し眩暈を感じながらも彼女は彼に同意した。そして実際、それはそれで新しい発見のある楽しい旅だったのだ。

彼女がアメリカ文化人類学の成り立ちを話しているあいだ、彼はそれを黙って(たまに「なるほど」とか言いながら)聴いて、やはり彼女を否定しないように(少なくとも彼女はそのように感じたし、また、彼の配慮を確信もした)異なる観点からの意見を提出した。それは政治的理念と経済学的分析を折半したような見解だった。そうやって、彼女たちは椅子の複数あるシーソーの傾きを調整するかのように思考を繰り返し、意見を交換した。

だから、彼が「カナダやオーストラリア、それに日本なんかは、アメリカとは歴史も社会環境も違うから、どのタイミングでどういう政策を施行すると寛容な社会を形成しうるのか、そのためにどのような議論を重ねて、どのような思想的土台を作るのか、これは難しい問題だ」と曖昧な気持ちを吐露したとき、そこがすでにマサチューセッツのスプリングフィールドだったということは、たしかに彼女のミスだったかもしれないが、ミスと断じるには失ったものは少なかったと言うこともできた。

彼女は地図を開いて、それを眺めていたのに、すっかりコネティカットを通り過ぎていることには気付かなかった。そしてまた、彼は自動車を運転し、現実の道路と標識を眺めていたのに、すっかりコネティカットを通り過ぎていたことに気付かなかった。そんなことがありうるのか。いや、ありうるかどうかは別にして、その出来事は実際に起こったのである。彼と彼女の思考と表現行為の交わり合いは、ほんの少し、世界から乖離しないままに時間と現実認識の束縛を脱したのだ。珍しい体験をした、と彼女は思ったし、彼もまた予想以上の感応に驚いた。

だからもちろん、彼は彼女を責めなかった。ただ、そのような理性的結合を感じなかったとしても、彼は彼女を責める気はなかった。それは、彼女を責めても仕方ないと思ったからではなかったし、女性というのは地図を読めないものだと思ったからでもない。ただ、彼は、自分が助手席にいたら、やはり彼女と同じように道に迷っただろうと直感していたのだ。彼はそういう想像力を働かせることに長けていたし、実のところ、彼は極度の方向音痴だった。

そのような経緯の末、市街地でも迷いに迷いながら、ふたりが新居に辿り着いたとき、あたりはすでに真っ暗になっていた。ただ、ふたりは満足していた。ガレージに自動車を停めると、彼らは少しの間、ほっと息をついて互いの顔を見つめあった。

「鍵はある?」
 彼は彼女に尋ねた。
「ずっと握り締めていたの」
 彼女は答えた。

「そうだといいなと、ずっと思ってたんだ」彼は頷いた。「そろそろ、自動車を降りて、家に入ろう。そして、ソファに座って、キスを何回かして、今日はそのまま眠ってしまおう。たぶん、僕たちなら、いまやそれをすっかり完全に遂行できるはずだよ」
「道に迷わないようにしなきゃ」
 彼女は肩を竦めた。
「そうだね」
 彼は微笑んだ。

自動車を降りると、荷物を両脇と両手に持って、彼らは鍵を開けて、家に入った。そして、リビングのモスグリーンのソファに座ると、その脇に立っている円柱状の照明の電源を入れた。部屋中が淡いオレンジ色に染まる。ふたりの溜め息。肩が触れた。彼はソファにもたれかかりながら、彼女に身を寄せる。

「キスはどっちがするの?」
 彼女は下から覗き込むように彼に言う。
「さきに眠ったほうがされちゃうだろうね」
「そういうルール?」
 彼女は首を左に20度ほど傾けた。
「いや」
「わたしって、けっこう寝たふりが得意なんだけど、それは知ってた?」
 彼女は彼の様子をみるように言った。
「今度から、君が眠っていそうなときは眠っているかどうか尋ねることにするよ」
「ナンセンスだわ」
「ナンセンスじゃないさ」彼は彼女を抱き寄せた。「それでわかることもある」

ふたりはそのまま10分間、静かにソファで肩を寄せ合い、そのあと、彼は彼女にキスをした。身体に蓄積していた疲れが一気に溶けて、全身に染み渡るのを彼女は感じた。もう一歩も動けないと感じるほど、肉体から精神の底流に向かってエネルギィが沈みこむ。眠っているのか眠っていないのか、眠っているふりをしているのか、もう、わからない。彼の唇が、彼女の首筋から離れる。

「フィアリティね」
 彼女は呟いた。
「フィアリティ?」
 彼も尋ねるように呟いた。
 彼女はふらっと身を起こすと、彼に身を任せるように寄りかかった。

「あなた、スナークを知っている?」
「スナークっていうと、あの、ルイス・キャロルの?」
「そう」
「その名前なら、記憶にあるよ。子供の頃、その話を父さんにされて、恐かったな」彼は頭を横にふるふると振った。「ただ、幸か不幸か、会ったことはないんだ。だって、君、もし、そのスナークがブージャムだったら、どうなっちゃうか知ってるでしょう?」

「静かに消滅してしまうのよ」
「そう」
「だけどね、だからといって、スナークを無視して生きるわけにもいかないのよ」
「わからないな」
 彼は彼女の身体を引き寄せて、抱きしめた。
「わたしも、はっきりとはわからないけど、ただ、わたしはいままで、ブージャムを避けるためにスナークも避けてきたのよ」彼女は顔を上げて、彼の唇にキスをする。「だけど、スナークには、ブージャムじゃないスナークだっているのよ」

「うーん、つまり、君はスリルを求めている、ということ?」
「違う、違うの、それは違うわ。そういうことじゃないのよ」彼女は何度も否定した。「私は、ただ、無害なスナークもいるということを言っているの」
「わかったよ」彼は言った。「ところで、フィアリティはどうなったの?」
「良い質問ね」
 彼女は毅然とした調子で言った。
「無害なスナークに寛容な世界のことよ、それを受容するとき、私はフィアリティを感じるの」

 彼はもう一度「わからないな」と言った。
「今日、これ以上、そのことに立ち入るのは危険そうだね」
「そうかもしれない」彼女は彼の身体から少し距離をとり、彼の表情をうかがった。「ごめんなさい」
「いや、謝られるようなことはなにもされてないよ」彼も彼女の顔を見た。「ただ、僕たちは少し眠ったほうが良さそうだ」
「そうね」
 そう言って、彼女は再び、彼の唇にキスをした。

「もう、眠っているのか、眠っていないのか、わからないみたいだね」
 彼は微笑む。
「そんなの、わかる必要なんてないのよ」
 そう言って、彼女は彼の身体に身を寄せた。
 彼女の柔らかさ、体温、息遣い、鼓動とが、彼に伝わる。
 人間が二人もいるというのに、とても、静かだ。
「眠っちゃった?」
 彼は尋ねた。
 彼女からの反応はない。
「…………」
 彼は、寝息を立てている彼女にキスをして、ソファにもたれかかると、眠りに落ちた。
 だから、そのあとのことは記憶にない。
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「あゝ、窓が黒い、あゝ、夜が暗い、どうしてここには空もないのだらう」
 そう言う度に、
「あゝ、僕は明るいところにいるのだらう、それがために僕には空すらわからない」
 と僕は思い、胸に暗澹とした気持ちが重霧のように立ち込めるのだった。

 僕は軽い眩暈を感じ、右手を伸ばして窓を閉めた。
 窓と窓の隙間にいたらしい白いもやもやとしたものが逃げていく。
 その途端、急に部屋の内圧が高まった。
 四角い空気がむっと息を詰めて肩を張る。

 そうなると僕はもう立っていられない。
 周囲を石像に囲まれる。
 目を見開いて口を横に開いている石像には表情がある。
 しかし、彼らの表情はなにも意味していない。彼らは僕を見る。ただ、それだけだ。

 僕は彼らを無視して部屋の片隅にある眠りに石を落とした。
 青緑色をした粘る水面に波紋が走る。
 澱粉の含有量の多い眠りなのだ。
 落とした石は引っ張り上げられるようにグイグイと吸い込まれていく。かなり深い。

 僕は右手と右足をそっと眠りに浸けるとそのまま背面になり、
 大きな夢を抱えてそのまま眠りに落ちていった。
 夢は重い。だから、眠りのなかは息苦しい。
 それでも、これで死ぬなら仕方がない。
 誰もがそう思うから、部屋の片隅には青緑色の池がある。

「あゝ、窓が黒い、あゝ、夜が暗い」
 と言いながら、僕は目を覚ます。
 ふっと心地の良い風が頬を撫でる。

 あゝ、窓が開いている。
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飯町兄弟は時計のことを茄子と言う。兄は消極的に、弟は積極的に時計のことを茄子と言う。茄子と言うだけならまだ可愛いものかもしれないが、彼らの周りの時計の位置には基本的に茄子が設置されている。ときおり赤いトマトがあったりもするが、基本的には茄子だ。

僕は彼らと新世紀エヴァンゲリオンを観たことがあるけれど、彼らは初号機のことを茄子と呼んでいた。当然、弐号機はトマトである。では、零号機はというとジャガイモであるらしい。推して知るべしとはこのことかと僕は感心したものだ。

つまり、彼らは俗にいう茄子中心主義なのである。僕は彼らがどのようにしてその道に足を踏み入れたのか厳密には知らない。ただ、飯町心療科クリニックでは、彼らの父が薬と称して茄子を処方すると聞いたことがあるから、おそらく家系なのだろう。

彼らの態度の違いは兄が茄子構成主義なのに対し、弟は茄子原理主義であるということに帰される。茄子構成主義は「茄子の現れは茄子的な配慮によって変化しうる」という立場である。観測者の茄子力に左右されると言っても良いだろう。茄子原理主義は「茄子はどうしたって茄子だから、我々はその茄子をあるがままに受容すれば良い」とする立場だ。

そのような事情もあり、兄は比較的社会に順応し、いまは煙草屋を経営している。他方、弟は中学二年生の頃に精神を病み、そのまま部屋で茄子状態なのだとか。どうも茄子熱らしい。僕ももう四年も会っていない。しかし、心配かと問われると実はそうでもない。ただ、心配ではないかと問われると回答に窮するところはある。人との繋がりとはそういうものだと僕は思っている。

懐かしい話がある。ある七月の夕暮れ、三人でダイアモンドゲームをしていたときだった。僕はそろそろ帰ろうかと思い、時間を確かめるために「時計どこ?」と飯町兄に尋ねた。すると、彼はおもむろに「もしかして茄子のこと?」と言ったのである。

なるほどと思い、僕は手持ちの茄子を飯町兄に渡して、「茄子は茄子でも、動いているほうの茄子だよ」と言うと、彼は僕の目を見て、「なるほどそっちか」と言うと、時計を指差した。それを見ていた飯町弟は、辟易したという風にため息を吐いて、「茄子は、茄子だ、それがわからないうちは茄子を知ったって無駄だよ」と言って、僕たちを叱った。

そのとき、僕は笑って、お茶を濁した。でも、実のところ僕は、自分よりずっと年下の彼に叱られるという体験に不思議と感動していたし、同時に、知らず知らずのうちに茄子という語を誠実に使っていなかったことを恥じてもいた。

僕は彼らと接する上で、どこかでなにかを間違ったと感じたことはない。ただ、それでも、そのときの感動と後ろめたさは、彼の真摯な眼差しとともに、白い壁に穿たれた黒い楔のように、いまも僕の胸のうちにある。
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「ねぇ」

 気だるい声で彼が言った。
 彼が私に話しかけるとき、彼は常に気だるそうだった。

「なぁに?」

 しかし、もしかすると、彼も私と同じことを感じているかもしれなかった。

「朝、牛乳を飲むとするだろう」
「わたし、飲まないよ」
「えぇっと、仮定の話だよ」
「家庭ならもっと、わたし、飲まないよ」

 彼は自分の頬を右手で撫でながら、私の顔をしげしげと眺めた。

「あ、もしかしてあれ」
「どれぇ?」
「家族全員飲まないとかでしょう?」
「そうそう、うしちち禁止令っていうのがさ、あってさ」

 そこで彼が立ち上がったので、私は喋るのを中断する。
 彼は歩いて、私の横に来て、腰を下ろして、私の頭に右手を置いた。
 そして、喋っている途中の私の頭をなぜか撫でた。

 気持ち良いけど、不思議な人だ。
 私はずっと彼を見ていた。でも彼は私をずっと見ていなかった。
 彼は私の顔を見ずに「続きは?」と言う。そして、私の頭を撫でる。変な人だ。

「お父さんがうしちち断固拒否派だったの」
「君も?」
「うむうむ」
「でも、容認派もいたわけでしょう? 拒否派があるってことは」

 彼はそう訊きながらも、なぜか私の頭を撫でている。
 気持ち良い。

「マッケン・マッケンジィ君だけが賛成派だったよ」
「えぇと、マッケン君はなに?」
「いわゆる猫、飼い猫」
「なるほど」

 彼が私の顎の下で、猫を手懐けるように指を動かした。
 折角だから、私は「ごろごろ」と言ってみた。
 彼は満足して私の頭を撫でた。

「マケマケ君だけ、すごいうしちち、好きでさぁ」
「うん」
「三日に一度はお父さん、マケマケ君と夜中に話してたよ、うしちちについて」
「すごいね」

 彼がとうとう私のほうを見て、目を輝かせた。
 満面とまではいかないけれど、笑っていた。お父さんに感謝だ。

「でさ、ある日、お父さんが言うわけなの」
「うん」
「昨日の夜にマッケンジィ君に訊いたのだって」
「なにを?」

 そうしてまた、彼は私の頭を撫でた。
 うふふふである。

「うしちちに関してはにゃあなのだって」
「え?」
「うしちちはね、つまり、にゃあなんだよ」
「うわぁ、全然わからないけど」

 彼はそう言うと私の頭を撫でるのを止めて、私にキスをした。
 驚いちゃったよ。まいっちゃうけど、まいっちゃわないというか。
 その、気持ち良いっていうか、にゃあっていうか。

「本当、世の中、にゃあなことばっかりだよ」
「わたしもそう思う」
「にゃあ」
「にゃあにゃあ」
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 樹茄草小学校四年二組、死体の講演も終盤、質問タイムである。

「あの、えーと、草壁さんはどこで死んだんですか」

 廊下側から三列目、前から二番目の席に座る斎藤さんが、はきはきと質問をして椅子に座った。ひとしきり草壁さんの話が終わり、教室はややざわついていた。児童たち以上に参観の父兄たちがぼそぼそと喋っていたが、そういったことを気にせずに黒板の前に立つ草壁さんは話しだす。

「僕は発寒駅の線路沿いの道、わかるかな? あそこで死にました」
「あ! 家近い!」
「私も!」
「先月の18日だから、もしかしたら騒ぎを見ていた人もいるかもね。さっきも言ったとおり、はねられてから瀕死の状態で道に結構な時間横たわっていたから、騒ぎはわりと大きかったみたいだね」

 草壁さんは静かに答える。表情は変わらない、口調も変わらない。僕はどうにかして草壁さんの変化を見て取ろうとずっと彼だけを見ていたのだが、草壁さんからはどのような変化をも見て取れなかった。口だけが、ただ、淡々と言葉を紡ぎだしているのだ。

 死体の草壁さんは誰を見るともなしに黒板の前に、教室の中にいた。

「オレ、救急車来てたの見たよ」

 廊下側の席の先頭に座る吉田君が立って発言したので、皆がそちらに向き直る。先生はすかさず「吉田君、そのときの雰囲気はどういう感じだった?」とやや曖昧な発問を繰りだす。

「すごい人だった」
「うん、それはどういう人たち?」
「野次馬っていうのかな、近所の人たちが大勢いた。な?」

 吉田君は後ろの席の澤田君に同意を求める。どうやら、澤田君も近所らしい。澤田君は「うんうん」とやや興奮した面持ちで吉田君に首肯した。

「それでパトカーが来て、救急車がきた」
「まあ、そのときにはもう、死んでたけどね」

 草壁さんがぼそりと言った。

「あの、死ぬときって、その、痛かったですか」

 今度は窓際の後ろから二つ目の席の木下さんが質問した。少し緊張しているようだった。

「いや、痛いというか、衝撃のほうがすごかったかな、トラックだったからね」
「あの、死ぬと、どういう感じですか」
「なにも感じないよ」

 木下さんの決死の質問に草壁さんはさらりと返した。

「感じとかそういうのがないんです、死体だから」
「いまはどういう気持ちですか」
「気持ちとかもないよ、死体だからね」
「死体っていっても、草壁さんはまるで生きているみたい」

 木下さんの右斜め前に座る豊口さんが質問をした。豊口さんはこのクラスの女子のリーダだ。携帯電話も持っているし、たまに化粧をして学校に来る。この豊口さんのザックバランなこの質問にざわついたのは児童たちよりも、教室の後ろで授業を参観していた父兄たちだった。担任の先生がそれを察し、きょろっと「死体派遣業者」の女性を見る。真っ黒のパンツスーツで身を固めたその女性はやや笑みを浮かべた表情のまま微動だにしなかった。カッターシャツの白さが印象的だった。

「でも、死体ですよ」

 草壁さんは呟いた。

「ゾンビ?」

 豊口さんの三つ右に座る佐竹君が「あは」と笑ってそう言った。佐竹君は障害を持っているわけではないが少し遅れている児童だ。しかし、だからこその質問だったろう。僕は掃除用具箱に寄りかかりながら、じっと草壁さんの言葉を待った。

「死体だよ、ゾンビじゃない」
「動いている死体はゾンビだよ」

 佐竹君、君は素晴らしいよ。僕は脳内で密かに喝采を送った。

「僕がゾンビに見える?」

 草壁さんのその一言に教室は静まり返った。どうやら草壁氏は「ゾンビか否か」という質問から、「ゾンビに見えるか否か」という質問に誘導したようだ。いま、教室にいる人々はこの質問になにを思っているのだろう。この講演をしている死体「草壁」をゾンビだと思っているのか、どうなのか。その正直な感想、僕はそれが気になった。

「見えない」

 佐竹君の隣に座る藤本さんがそう言った。教師が発言を促すと藤本さんはその場に立って演説を始めた。

「ゾンビっていうのはなんか、もっと怖い印象があるけど、草壁さんは全然そういう怖さがないです。私たちと一緒っていうか、ちゃんとこうやって話もできるし、理性っていうのかな、そういうのがあるような気がします。だから、ゾンビじゃないと思います」

 自分の思いをしっかりと言葉にできたのかはわからないけれど、藤本さんは自分の意見を言って席に座った。藤本さんはたぶん、この学級の授業のキーパーソンのひとりだろう。僕はこのときそう感じた。教師が「いまの藤本さんの意見について誰か、なにか考えたことがある人いませんか」と児童たちに発言を促す。すかさず二本の腕が児童から生えた。教師は廊下側の後ろ側から二つ目の席に座る児童を指名した。

「はい、じゃあ、関君」
「はい、いまの藤本さんの意見と同じで、草壁さんはゾンビではないと思います。ゾンビっていうと、その、人間を襲ったり、食べたり、そういう、なにか人間に危害を加えるような存在だと思います。でも、草壁さんはそうじゃないし、だから、草壁さんはゾンビじゃないと思います」

 なるほど。たしかにそれはそうだった。僕が知る限り、死体派遣業者から派遣された死体が誰かを襲ったという話は聞いたことがない。しかし、ゾンビのアイデンティティは人を襲うことにあるのかというと、僕はちょっと違うような気がした。しかし、ではゾンビをどう定義すればいいのかも咄嗟には思い付かなかった。

「でも、死んでいるのに生きているみたいってなにか変」

 さっきの生えた腕のもう一方、豊口さんが意見を口にした。教師が「豊口さん、立って」と促し、豊口さんはがたりと立ち上がり演説を始めた。

「さっき草壁さんは、自分は心臓も止まっているし、息もしていないって言ってました。つまり、死んでいるってことです。私のおばあちゃんは去年癌で死んじゃったんだけど、お葬式とかでは棺桶に入っていて動かなかったし、うん、ていうか、動けなかったと思うし、なんていうのかな、死体っていうのは、その、生きてないんだから、喋ったりもできないと思うんです、寝てる、みたいな感じかな?」

 豊口さんはいまひとつ言いたいことを言葉にできないようだったけれど、その豊口さんが感じている違和感のようなものは、たぶん、この教室にいる全員が共有しているものではなかっただろうか。僕が他の参観者たちを見ると、さっきまでざわざわと喋りながら聞いていた父兄たち、特に窓際の四十代前半と思しきお母さんたちは腕組みをしたり、顎に手をやったりして必死の様子で考え込んでいた。

「でも、草壁さん、喋ってるよ」

 廊下側から二列目、前から四番目の席に座る立松君が、いまだ座っていない豊口さんに言った。児童たちはみんな草壁さんを一度見て、また、豊口さんのほうを向いた。

「だからさ……、ゾンビなんじゃない? 死体だったら喋れないんだから、おかしいじゃない」
「喋れる死体もいるのかもよ」

 草壁さんの目の前に座る浜田君が豊口さんを向いて言った。

「ていうかさ、草壁さんがそうじゃん」
「でも、死体は喋らないよ」
「だからさ、草壁さんは死体だろ? それで喋っているんだから、喋る死体もいるってことになるんじゃない?」
「いや、だからさ、そこのところが私は違うと思うんだ。草壁さんが死体だとするじゃない。でも、死体は喋らないでしょ。だって、死んでるんだから。だけど、草壁さんは喋ってる。ということはさ、草壁さんは死体じゃないってことだと思う」
「でも、死んでるんだぜ」
「死んでるってことと、生きてないってことは別だと思う」

 豊口さんはそう言って、二・三秒後に自分でも首を傾げた。しかし、それは疑問を表現した行動ではなかったはずだ。豊口さんはしっかり自分の意見を言い、それはそれで満足したようだったからだ。なにかしらの確信がそこにはあったのだ。しかし、首を傾げた。僕はこの「豊口さんが首を傾げた」ということに、なにかわからないけれど感心した。まさに、僕も同じところで首を傾げていたからだ。この違和感はなんだろう。

「あのさ、」

 と言って、藤本さんの左に座る田中君が手を上げて、立って喋りだした。

「これってさ、言葉の問題なんじゃないかな。僕は、死体でも、ゾンビでもいいと思うんだ、だってさ、どっちにしたって草壁さんはいるわけでしょ? 死体って言ったり、ゾンビって言ったりしてても、同じことなんじゃないかな、草壁さんは草壁さんでしょ? それでいいんじゃないかな」
「いや、それは違うよ」

 と、田中君の後ろの席の川畑君が意見する。

「だって、死体とゾンビは全然、違うでしょ? 死体は動かないし、もう生きてないんだよ。佐竹が言ったみたいにさ、動いたりする死体がゾンビなんだよ。そうするとさ、僕は草壁さんはやっぱり、死体というよりはゾンビだなって思うよ」

 この意見を聞いて、僕は草壁さんを見た。草壁さんはなにも変わらず、やはり微動だにせず、静かにそこにいた。なにを考えているのか、話を聞いているのか、さっぱりわからなかった。まるで死んでいるみたいだとふと思ったのだが、実際のところ草壁さんは「死んでいる」のだ。「みたい」どころの話ではなかった。

 同時に僕は、生きているとはとても思えないなとも思った。しかし、実際のところ草壁さんは「生きていない」のだ。「生きているとは思えない」どころの話ではなかった。

「皆さん、そろそろチャイムです。もっといっぱい話をしたいけど、それはまた次の時間にしましょう」

 そう教師が呼びかけ、児童たちは皆、黒板のほうに向き直る。豊口さんもそのときやっと席に着いた。

「今日は本当に草壁さんにいろいろな話を聞けて、ためになりましたね、最後に皆さん、お礼の言葉を言いましょう」
「あーりぃーがぁーとーう、ごーざーいーまーしーた」

「じゃあ、死のうか」

 ぼそりと草壁さんが呟いた。横に立つ教師がそれに気付き、ビクッと肩を震わせた。僕はずっと死体「草壁」を見ていたのでその唇を読むことができた。しかし、子どもたちはきょとんとしており、父兄たちまではその声は届かなかったようだ。その瞬間に真っ黒のパンツスーツに身を包んだ女が静かに教室を出て行った。僕は咄嗟に彼女の後を追って教室を出た。

「それでは日直さん、お願いします」

 という、教師のやや震えた声が背後で聞こえ、

「気を付け、これで、五時間目の授業を、終わります」

 という日直の号令がかかった。
 そして、僕の目の前を進む女は、徐々に廊下を走りだしていた。
 僕は彼女の後を追った、だから、その後に教室で起きたことを僕は知らない。
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 半月ほど前、鮭が僕の家を飛びだしていきました。彼は非常に夢見がちな鮭で「いつか俺は鯨になるんだ」と口癖のように言っていました。僕はそんな彼を煩いと思いながらもどこか憎めず「立派な鯨になれ」と励ましながら共に生活していたのです。

 そんななか、あの事件は起きました。ある日、包丁を持った鮭職人の若造が腕試しに僕の部屋にやってきてこう言ったのです。「ここに、鮭がいるな……」と。さすが鮭職人だと僕は思いました。これでここにいる鮭もお仕舞いかもしれないと。実のところ、当の鮭はすでに僕の背後で覚悟を決めだしていたのです。

「俺は、どうなっちまうんかなあ」
 鮭が呟きました。
「相手は鮭職人だぞ、想像を絶するよ」
 僕は鮭に言いました。

 鮭職人の手にかかった鮭がどうなってしまうのかということは一般には公表されていません。食用にという話も聞いたことがありますが、軍事に利用されているという話も聞きます。僕の推測ではそのどちらもというのが妥当なところではないでしょうか。鮭の用途はきわめて多岐に渡ると聞きます。しかしどうして鮭職人の活動は公表されないのでしょうか。実のところ、それは彼らの活動が公然の地下活動であることによります。

 ほんの数年前、とあるテレビ番組に出演した若い鮭職人がいたずら半分に幻の黒い鮭を右手に持つと顔の右側面に当て「電話」と言ったのが始まりでした。それは彼一流のギャグでした。そして、そのギャグはお茶の間に爆笑の渦を巻き起こしたのです。その渦は三日三晩渦を巻き、約10000世帯の米と海苔を消費して約30000本の美味しそうな海苔巻きを作りました。しかもその海苔巻きには具が入っていなかったのです。美味しそうなのにもかかわらず。これが世にいう「黒鮭の怒り症候群」事件です。

 その後、具のない海苔巻きを作らされて怒り狂った民衆は鮭職人組合にその海苔巻きに合う美味しい鮭のおつまみを要求し、それを抗しきれなかった組合は多くの鮭を民衆に無償で提供したのです。それは想像をはるかに上回る甚大な被害を組合に与えたと聞いています。

 あの事件以後、鮭職人組合は地下に潜りました。誰もが活動をしていることを知っているのに、表面上活動を停止したのです。そして、鮭職人たちの並々ならぬ技術がなにに応用されているかは隠されてしまいました。そして、それと同時に鮭も世間から身を消したのです。いわゆる「鮭狩り」と呼ばれる現象が起こるのはそれから二年後のことです。僕はその内実を詳しくは知りませんが、いずれにせよ、鮭たちにとって、もはや鮭職人は敵でしかないということを僕は知っています。

「俺は、こういう話を聞いたことがあるぜ」
 ある日、ぼそっと鮭が言いました。
「聞かせろよ」
 僕は鮭に言い返しました。こういう言い方をしないと鮭は喋りません。
「鮭職人に捕まったある鮭はな、トマト・サラダと混ぜられたらしいぜ」
「トマト・サラダ?」
 僕は思わず呟きました。トマト……トマト・サラダだって?
「残酷なことしやがるだろう、あいつら……」
「それで、召し上がられてしまったのかい?」
「ああ、それを食した子どもたちは言ったらしいよ、美味しい!美味しい!ってな」
「許せない!」

 僕はそのとき思いました。この鮭を、いや、この鮭だけは鮭職人の手に渡すわけにはいかないと。トマト・サラダと混ぜる。信じられる所業ではない。鮭をトマト・サラダに混ぜるだって? 鮭とトマトで鮭トマトかよ、笑えねえぞこれは。僕はいま、ここにいる鮭を絶対に鮭職人には渡さない、そう、渡すわけにはいかないのだ!

「ここに鮭はいない」
 僕は言いました。
「いや、いる」
 若造の鮭職人が断定します。
「いないよ、いないといったらいないんだ、これは仕方のないことさ」
 いささか分は悪いけれど、僕はいないで押し通すことにしました。
「いや、いる」
 若造は僕を見詰めました。
 鮭が僕の背後にいるということまでわかっているかのようでした。
「これでもね、俺はチーム紋別なんだよ、その程度のことはわかるんだ」
「チーム紋別」
 助かった。僕はそう思いました。
「熊五郎さんは元気かい?」
「な!?」
「熊五郎さんは元気かいと訊いたんだよ、若造」
「その名前を口にするな……」
 若造から覇気が失せました。
「素晴らしい技術だったよ、熊五郎さんは」
「お前、何者だ?」
 鮭職人が僕に訊いてきました。当然の質問でしょう。
「鮭マニアさ」
 僕はにやっと笑って言ってやりました。
「熊五郎か……天才という人間がいるなら、まさにあの人のことさ」
「いや、違うよ」
 僕は言いました。
「熊五郎さんはね、鮭の気持ちを理解していた」
「…………」
「技術だけじゃないよ、あの人のこころはね、鮭と通っていたんだ」
 僕は若い鮭職人の目を見て、そう言ったのです。
「同じことさ、それは技術のうちなんだよ」
 強がるように事実を言うように、若造は僕に言いました。
「今日のところは帰る、しかし、明日はどうなるかわからないぞ」
「ありがとう」
「いや、別に……」
 妙にどもるようにそう言って、若い鮭職人は帰っていったのでした。

 しかし、次の日になっても、その次の日になっても、もう、その鮭職人が僕の部屋を訪れることはありませんでした。むしろ、それからちょうど30日の間、これまでに経験したことのないような平穏な日々が僕と鮭に訪れたのです。そして、31日目の朝、僕が目を覚ますと鮭はもう僕の部屋にはいませんでした。後にはなにも残っておらず、どこに行ったのか、鮭がなにを考えていたのか、なにもわかりません。

 でもまあ、いずれ戻って来るでしょう、鮭だし。
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 なんだか、生きているという感じがしなかった。身の周りにあるあらゆるものたちが、ただそこにあるということだけを主張してどこまでも遠ざかり、僕とはまるで無関係を装い、冷ややかな目で、僕が叫びだすのをこころ待ちにしているように感じた。

 僕はそのような場所で生きていて、そして、まるで生きていないようだと感じているのだった。せめて、たったひとりの人だけでも僕の身体に触れていてくれたら。そう思うことは何度もあった。けれど、僕はそれほど都合の良いことを他人に求めるほど傲慢ではなかったし、素直に助けを求めるほどの強さも持ち合わせてはいなかった。

 しかし、別に僕はそうやって孤独な自己に陶酔するわけでも、客観的に分析した自分を否定するわけでもない。むしろ、そうやって生きている感じがしないということがとても現実的に感じられて、そうやってゆらゆらと揺れながら、揺られながら、それでも生きているということは、たぶん、格別に贅沢なことで、幸福なことなのではないかと思っていた。僕はもう、そこに僕がいるというだけでなにを埋め合わせる必要もないほど満足していたのである。

 ただ、そのようにして、それ以上なにも望むことのない幸福を得てしまうということは結局のところ、なによりも死に近いということなのだ。だから、周りのあらゆるものたちの僕に投げ付ける暗黙の視線は、僕が強情に黙り、そして関わりを求めもしないことによって、次第に単なる沈黙に変化していったのだ。あとには静かな濃淡の模様が、少し残念そうに壁に張り付いているだけなのだった。

 僕は触れることも触れられることも求めずに、語りかけることもせずに、ただ語りかけられることを待っていた。すでに満たされ、沈黙のなかで目を見開いていただけなのにもかかわらず、僕はなぜか、そのような望みを抱いてしまっていたのである。あまりにも危険なその望みは、どこからきて、そして、僕をどこに連れ去るつもりだったのだろう。

 しかし、僕はその願望を叶えるということのために、なにかを失うということをあまりにも恐れた。得るために捨てることも、奪うために与えることも、鏡が光を返すように美しいものではなかった。だから、そうしてできあがった哀れな存在は、陽光の下で踊ることができないばかりか、太陽に魅せられた月光を浴びてなお、穏やかにそれを眺めるということすらできなかったのである。

 僕が空隙のまるでない笑顔を、どの瞬間に、どのようにして失ってしまったかということはすでに忘れてしまった。もう、それを忘れるという表現で言い表すことが妥当なのかどうかすら定かではない。いずれにせよ、僕が再び笑顔を取り返したときには、もう、素直に笑うことなどできはしなかったのだ。どうして、そのような不気味で奇妙なことが自然にできると信じることができるだろう。そして、そのようなことを信じる必要などないということも、僕は信じることができなかったのだ。

 どこまでも僕は弱い。だからこそ、僕は強さを身に纏うのだ。生き続けるために。
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