カテゴリ:ネット( 36 )

Escapism さん、とうとう更新再開されました。僕とかセミマルさんはもう、ひゃっはぁ! ほかにも好きだよという人は多いですよね。あと、Nav さんの Voice Blog も更新されています。近々、一人目に みひろ さんを招いてのゲストトークもあるらしいので、それにも期待しよう。
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by kourick | 2008-09-01 00:00 | ネット
中央に寄せる、それは「中央に寄せる」ということだと思っていた時期が僕にもありました。しかし違った! 中央に寄せるというのは「右から寄せ、左から寄せる」ということ! 右から寄せ、左から寄せたとき、そこに谷間はあるのないの、どっちなの? おいそこ、うるさい。というか、お前ら、いま僕は人生の先輩として発言する。「谷間」と書いて「夢」と読め、現実に殺されるぞ。

いあいあ、それはおいといて、スタイルシートを使って Page全体をセンタリングしようとするとき、text-align:center; を使うのはバグを利用しているって知ってましたか。このやり方で中央に寄るのは Windows版 の IE だけなのだとか。text-align はインライン要素の位置を指定するもので、本来、ブロック要素の DIV には使わないらしい。

言われてみると「たしかに」という気もするから、まいってしまう……もしかすると、いや、もしかしないとしても、これは常識なのか、それが世界の選択か……とか思いながら、赤いキツネを使ってサイトを開いてみたところ、たしかに中央に寄っていない……! まじっすか。僕の周囲はもう「ざわざわ」のあめあられ。サイトを確認する。余裕の「そりゃないぜ、とっつぁん」のマルチヒット。

普段 Sleipnir を使っているから、ぜんぜん気付いてなかった。かなり恥ずかしい。いまこのテキストに目を通している人にも、「お、香陸、やっと気付いたか、長かったなあ」という人はいるでしょう、そうでしょう。まいった。ちなみに正しいやり方は、センタリングする要素の左右のマージンを自動にして(margin-left:auto; margin-right:auto;)、要素のほうに幅を指定するらしい。

実際、このやり方で直った。つまり、正しい中央寄せは、外側からの寄せよりも、内側からの張りによって行われるということ。内側からの張りこそ、大切なのだということ。いいか、男子たるもの見た目に騙されちゃいかん! そんなもの見方次第だぞ! しかし、視覚的な関係を重視することによって円満になるのなら、黙って騙されてみるのもひとつの Best な選択かもしれん。

そう、ときには、ドーナツの穴を重視するのもいいかもしれん。ただ、ドーナツは見るためにあるわけじゃないぞ! ありゃ食いものだ! たしかに、ドーナツの穴には未知の可能性があるかもしれない。だが、ドーナツの穴を食おうと思ったら、ドーナツを食う必要があるということを忘れちゃいけないぞ! ああ、今日もまた素晴らしいテキストを書いてしまった! じゃあの!!
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by kourick | 2008-08-31 00:00 | ネット
すっかり忘れていたけれど、2007年度版 『ニュースサイト読本』セミマル さんのテキストの全文を近々、Activica. に載せます。ああ、そういやそういうのもあったよねという感じかもですが、興味のある方は目を通すと良いよね。なぁんと後日談も付いています。お買い得かしら!
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by kourick | 2008-08-29 00:00 | ネット
 誠天調書 さんから 小生どうが に少し言及していただいていたこともあって、ずっと書こうと思っていたテキストを書こうと思う。ニコニコ動画の削除体制の強化以降についての個人的な感想になります。

 ひとまず、小生どうが に関してですが、九割以上の生存率です。もともと息の長い動画から集めていたのだけれど、それにしても少し驚きました。というか、削除者が表示されるというフェアな嫌がらせを提案した人は鬼ですね。あれをされると権利者削除も戦略的になるでしょう。

 認知度の高い作品や公式配信しているような作品以外は、わりと残りやすいんじゃないかと僕なんかは思います。ニコニコ動画はわりと制御しやすい場だろうし、アニメファン以外の目にも作品が触れることは多いだろうから、実験的なことはしやすいんじゃないかな。

 削除体制の強化とのことですが、個人的にはまだ感じていません。むしろ、「削除体制は必要に応じて強化できるし、する」というイメージをきちんとユーザに持たせることに成功したんじゃなかろうか。権利者側をむやみに敵視せずに協調体制をとれるようにしましょうということかな。

 わりと言われるのはアニメ本編の削除ですが、僕が見たいというか見ていたというか見れていたものはけっこう残っているし、アニメ本編の削除は強化以前の、たしか今期の始め、マクロスFやギアスR2等のネット配信が始まったあたりから厳しかったように思います。

 というか、アニメ本編を動画共有サイトを使って見たいという奇特な人はもう youkuVeoh に流れますね。いまさら、ニコニコ動画という珍奇な動画共有サイトで「違法アップロードされたアニメ本編を見たい」と愚痴るのは「ちょっと違う」感じがします。

 ニコニコ動画人口の少なかった時期にアニメ本編をエンジンにして(裏技的に)利用者を増やすというならまだしも、これだけ市民権を得てきたニコニコ動画内にアニメ本編を残していても、ニコニコ動画にとってはあまり積極的な意義や進展はなさそうです。うまみがない。

 だから、アニメ本編の削除が強化されているとしても、むしろいまやクリーンになるイメージのほうが強いです。「アニメ本編が削除されたらなにを見るのか?」と言う声もあるけれど、アニメを見ない人は山のようにいるし、アニメばかり見ているような人のほうがたぶんマイノリティです。

 というか、僕は正直、そもそもアニメ本編の削除が本当に強化されているのかも疑わしいと感じています。というのも、現在放映中の動画以外はわりと残っているからです(こういうことを書いて消されてしまうのが恐いから、あまり書かないようにしているのだけど)。

 最近だと、 誠天調書 さんもその動向に注目していた「涼宮ハルヒの憂鬱」は、二期が始まることもあってかとうとう消されてしまいました。マクロスF 開始直前にマクロスシリーズが全部消されるということもあったので、こういう影響関係はあるのだと思います。
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by kourick | 2008-07-26 00:00 | ネット
とうとう、ちゃぶろが今月を目処に終了するようです。もともとあまり安定したサービスではなかったように思うので、たぶん、それほど話題にもならないのではないかと思うのだけれど、僕としては、いまのうちに資料性のある情報を集めておかなきゃとちょっとやきもきしています。

ちゃぶろの全log が削除されるのかどうかは未定みたいですが、消滅する可能性が高いのではないかと思っています。ある程度は Internet Archive から参照可能だろうけれど、しっかりとは確認していないので詳細はわかりません。ただ、ちょっと僕の余裕がないので、ちゃぶろの歴史に興味のある人がいたら情報収集に奔走してみると良いのではないかと思います。するとそのうち、そうして集められた情報に歓喜している僕をみることができるかもしれません。

というか、僕の敬愛してやまない 食べたものを淡々と記録するよ さんがこの Web から消滅するのかと思うと大きな喪失感が僕の背中あたりにのしかかってきて非常に重いので、隣に座らせて一緒に落花生を食ってます。やはり、豆は美味いな。
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by kourick | 2008-01-24 00:00 | ネット
このあとに「無断リンク問題」に関するテキストを約五本、そのあとに「個人ニュースサイトの情報元表記」に関するテキストを約七本、また、「2chブログの情報元表記」に関するテキストを約四本、そして、「いまおすすめの個人ニュースサイト」に関するテキストを約七本、という順番で更新していこうと思っています。どのテーマも、けっこうまとまりのある内容になっていると思うので、興味のある方は楽しみにしていて下さい。

ところで、これは別に秘密にしないといけないわけではないと思うので、僕も少し宣伝しますが、MOON CHRONICLE のミルトさんが主催されている ニュースサイト読本 に、セミマルさんの話し相手として、僕も参加しています。本当に載っているのか、正直、僕にはわからないけれど、興味のある方は買ってみて下さい。また、順当に更新を続けるなら、三月あたりにニュースサイト読本の原稿に使ったテキストの全文版を Activica. に晒すことになると思います(もう少し早めに更新するかもしれないけれど)。お楽しみに。
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by kourick | 2007-12-17 00:00 | ネット
Saturday evenings::Activica.
http://activica.exblog.jp/

他のところでもちまちまと宣伝をしていますが、「Saturday evenings::Activica.」というサイトで「Web裏街道・井戸端チャット」の抜粋テキストの公開を始めました。井戸チャというのはWebに関連する話題を夜な夜な語るという対話形式のチャットで、いまのところ、僕と セミマル さんで続けております。今後、どのような展開をするかはわからないけれど、ひとまず今年度中は二・三日に一記事を更新していこうと思っているので、たまに覗いてもらえると嬉しいです。ちなみに Saturday evenings::Activica. というサイト名は Project::Logistica. をもじったものです。
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by kourick | 2007-12-16 00:00 | ネット
 ウェブには安直な批判をする人に対して「嫌なら読むな」「嫌なら見るな」といった決まり文句がある。こうした忠告には、ある程度、妥当なところもあると僕は思っている。特に作品の完成度が評価の対象にならないような制作物を批判しているような場合はそう思うことが多い。

 つまり、そのような作品というのは、皆に認められるような客観的に優秀な作品ではないかもしれないけれど、その作品を楽しんでいる人たちというのは、その作品を媒介にして、そこにある雰囲気や、そこで生じるコミュニケーションを楽しんでいるわけです。

 そういった付帯的な状況がその作品の価値を高めているような場合、「嫌なら読むな」「嫌なら見るな」という忠告はもっともだなと思う。まあ、もっとも、売り言葉に買い言葉の煽り合いに使われているだけのときも多いように思うけれど。

 しかし、「嫌なら見るな」という決まり文句を偏狭に感じることもわりとある。というのも、それが妥当な批判であっても、その作品の擁護者は「嫌なら読むな」「嫌なら見るな」という忠告でもって、そういった批判を封殺していることもけっこうあるように感じるからだ。

 むしろ、僕としては「嫌でも見てみなよ」と言いたいことのほうが多かったりする。僕が楽しめている、あるいは大勢の人が楽しめている作品には、(よほど興味がかけ離れていないのなら)あなたがちょっと無理して観てみるだけの価値がある。そう言いたいことが多い。

 そのあとで文句を言われるのなら、その感想には興味があるし、どうして楽しめなかったのにかにも関心がある。どうも、賛否の両方の意見を受けとめる姿勢というのが少ないように思う。それは批判の仕方が下手で、感情的になりやすいという理由もあるかもしれない。

 ただ、言葉による作品の理解よりも、その作品を取り巻いている場の雰囲気を重視して、批判者をその場から排除しようとする傾向が強いからという理由もあるかもしれない。批判をすると、「あの人は敵だから無視しよう」といった具合に内輪を形成してしまう傾向があるかと思う。

 けれど、そうした場から与えられる心地良いだけが面白さではない。苦々しい批判であっても(その評価が良いものであれ悪いものであれ)、その批判はたしかにもっともだなと「作品の理解」に貢献するものであるなら、それはそれでまた違った楽しみ方ができる。

 「面白い作品」に「面白い!」「神!」と主観的な称賛をするのは大切なことだと思うのだけれど、その作品の完成度を客観的に評価する、説得的に語るということも興味深いことじゃないかと僕は思う。ただ、そういった批評は個人の人格、品性に依るところが大きそうではある。
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by kourick | 2007-09-28 00:00 | ネット
 「神曲!」「国歌!」みたいな賛辞はどうにかならないだろうか。僕はこれらにいまいち馴染まず、そういった感想に気持ち悪さを感じてしまう。そもそも、「神」という賛辞が僕はいまいちで、それを見かけるたびに白々しい気持ちになってしまう。

 ただ、日本人は昔から、このノリで神様を称えてきたのかもしれないと思うところもある。「ちょwww怨念とかwwww平将門、神!」みたいなノリ。神道のノリだろうか、「わたしは祀るのも祭るのも好きですよ」みたいなあっけらかんとした現世主義的なノリ。

 岡田斗司夫さんが「萌え」という言葉に関して似たことを言っていたが、「神」と言われても、その作品がどこがどう素晴らしいのかがわからない。おそらく、「神」というのは純粋な賛辞なのだろう。だからこそ空虚だ。内容があるようにみせて形式的でしかない。

 僕は人に誉めるときに、相手を不必要に高めることは避けるようにしている。同じ人間でありながら、こうこうこういうことをしている、敬意とはそこに生じるものだろうと思う。僕が誉めたい人は「神」ではない。むしろ、そこで人間扱いしないことは失礼にあたる。

 あるいは、もし相手が「神」であるのなら、僕のような一介の人間が「神を誉める」というのは不敬だろう。やはり、同じ地平にいる人間を特別に感じる、ここに畏敬の念というものは育まれるものだ。ただ、もはや生存していない場合は、その限りでもないのかなとは思う。
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by kourick | 2007-09-27 00:00 | ネット
 「ファン」が煮詰まると「マニア」「フリーク」「カルト」「キチ」などになるわけだけれど、「オタク」というのがどこか独特のニュアンスをもつようになったのはどうしてだろう。きっと、「そもそもオタクってさ」などと話を始めると「いや、違う」と否定するオタクは多いでしょう。

 もちろん、その人の言っていることがレッテル貼りでおかしいということもあるかもしれないけれど、一方で、いわゆるオタクといわれる人たちが外側から「オタク」を規定されるのを嫌う、つまり、内側にいる人間にしかオタクは理解できないと考える傾向にあるのではないかなと思う。

 ある種、密教的性格をもった思想がそこにはあります。そもそも、規定されること、言語化されること自体を嫌っているということです。このような「内側感」は不思議なものだけれどそう珍しいものでもなく、日本語圏のウェブでは全般的にその傾向があります。

 先日書いた、「ネット/リアル」の二項対立も「ネット」を内側とする現代的なリアリティです。村上隆さんがオタクに嫌われる傾向にあるのは、オタク的な燃料にならない仕方で、すなわち、オタクの文脈から逸れた「外側」でオタク文化を利用しているからだろうと思います。

 「オタクはなるものではない、なっているものだ」という奇妙な説得力をもった格言も、こういうところからきているのでしょう。オタクはなろうと思ってなることはできず、気付いたときにはなっているという自然さが求められます。これはまあ、理解の難しいところです。

 だからこそ、「理解は求めていない」という傾向もでてきます。さらに、「外側からの理解などされてはならない」という自閉的な傾向もでてきます。そして、「どうせ理解などできないのだから、するな。ただ、受容はしてほしい」という独善的なジレンマも派生してきます。

 理解などできない、共感があるのみ。これは内側性の論理といえるでしょう。だからこそ、共感によって結び付られた同士としての仲間意識は強いですね。こういったところに、僕はやはり「オタクはオタクにならないと真に理解できない」という宗教性を感じてしまいます。

 理解されること、規定されること、言語化されることで抜け落ちてしまうものがあるという不完全性を嫌っているところもあるかもしれません。メタな視点から「まやかしの理解」をすることを嫌い、共感という作用によって充溢された「真の理解」のみを認めるといった神秘性があります。

 きっと、外国人にとっていまの日本のオタク文化はカオスでしょうし、だからこそ、日本のオタク文化の言語化は海外のほうがはるかに明快です。読むと「ちょっと違うかな」と思うことあるけれど、「じゃあ、どういうことなの?」と訊かれても、的確に説明できる人はそういないでしょう。

 外国人の説明は、それが不充分だとしても、曖昧な部分は削いでちゃんと人に伝わる仕方で言語化するのでとても説得力があります。というよりも、そもそも自分の興味の対象を言語化して「相手を説得しよう」するという態度の違いがあります。これは見習うべきところです。

 しかし、カオスな状況というだけで「程度が低い」というわけでは決してなく、これこそが新しい文化のカタチなのかもしれないなとも思います。戦後日本の文化はある面でサブとメイン、アマとプロの境界が消失する歴史を紡いできたように思います。

 おもに快楽原則で動いてきたこの潮流は、理論的な後ろ支えをもたずに無秩序なまま、さまざまな問題を抱えつつも独自の展開を遂げてきたのだと思います。こうした奔放さは貴重であるし、今後、どういう仕方で残るにせよ、その多様性には凄まじいものがあると感じるのでした。

 地域にもよりますが、海外では「自分たちの権利は自分たちで求め、守る」というのが基本です。日本においても「オタク」というレッテルでもって「オタク的なもの」が迫害されてきた歴史がありますが、大勢の日本人がそのことに無頓着なのにオタク文化が成熟したのは奇跡です。

 逆に、「オタクとは」という定義をうやむやにして、自分たちの立場と権利を明確にしなかったからこそ、ここまで成熟できたというところもあります。「奇妙なオタクの定義」をされて困るのはオタクたちであって、本来なら、オタクの立場を守るためにオタク自身による定義が必要です。

 けれど、オタクたちはそんなことはしなかった。それは単に、オタク的活動のほうが重要でそんな面倒臭いことはしていられなかったとか、そもそも言語的に規定する能力がなかったとか、迫害する連中など無視すればいいと卑屈になっていたからとか、理由はさまざまでしょう。

 ただ、結果的にはそれで良かった。それによってライトな層すら「オタク」圏内に収めることができ、勢力の拡大というか、文化的な浸透を果たすことができた。商業的な思惑もあるでしょうが、巡り巡って、「おおむね保護したい」というポジションに着くことができた。

 こうなると、もはや「オタク」は存在しないのではないかとも感じられてきます。つまり、はっきりしない。もはや個人の属性ではないし、定められた条件があるわけでもない。じゃあ、いったいなんなのだろうか。わからない、もうすでにそんなことはわからないのです。

 大勢の人たちがそれぞれに少しずつ「オタク的」な要素をもっていて、しかし、具体的にはおのおのの趣味嗜好でしかないというようなところに落ちている。それでも、マスコミやメディアに「オタク」をレッテルされて仮想敵のように仕立てられるというようなこともあります。

 そしてそれを受けて、2ch 等の掲示板や個人サイトで「オタク的な自覚のある人たち」が冷笑するというようなさまは、攻撃しているほうにとっても攻撃されていると感じているほうにとっても、どこか滑稽です。もはや意味のない構図のなかで言い争う虚しさがあります。

 それでも、その争いになにか意味があるように感じ、そうした争いに感情を動かされることもあるというのは、なんとも呪いめいたところもあります。「オタク」という言葉にかけられた呪いが解かれる日は、はたしてくるのでしょうか。まあ、きてどうするという感じもしますが。

 さて、ここまで「マンガ・アニメ」といった「オタク趣味」を念頭に話してきましたが、他のジャンルではどういう事情にあるのでしょうか。僕が最初に触れたオタク文化は「SF」だったし、その次は「ミステリ」でした。それらは栄枯盛衰があるものの、そう迫害されているようにも思いません。

 この違いはどこにあるのか、それを考えるのも面白いかもしれません。また、代表的な「オタク文化」としてレッテルされることの多い「萌え文化」はどこまでもつのでしょうか。もしかすると、それも一時の流行であって、いまはバブルだとしても文化としては定着しないのかもしれません。
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by kourick | 2007-09-11 00:00 | ネット