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 「あなたとわたしのGAINAX」は読みましたか。とても面白いですよ。というわけで、第1章「庵野秀明」 : 第一回「現代」 : Scene3 「世界において日本がアニメを独占している」のところで、庵野さん、こんなことを言っています。
もちろんすべての作品が稚拙だというわけではありません。どれだけの確率かはわからないですけど、良いものもあると思います。僕がいっているのは一般論です。99%、まあいってしまえばクズみたいなものがあって、その上で1%の良いものがあるバランスで文化は成り立っていると思いますから。それはアニメに限らず、すべてにいえると思います。けど残念ながら、その良いものを自分の感性で感じられる人があまりに少ないと思います。そういう人に限ってあまり声に出さないんですね。だから偏った言葉だけが閉じた世界にはびこってしまう。
 注目すべきはここです。
99%、まあいってしまえばクズみたいなものがあって、その上で1%の良いものがあるバランスで文化は成り立っていると思いますから。それはアニメに限らず、すべてにいえると思います。
 いわゆる、スタージョンの法則ですね。あの世代の人たちはSFにも詳しいので、もちろん庵野さんも知っていて言っているのだと思いますが、気になるのはそのパーセンテージです。とりあえず、「スタージョンの法則」を確認してみましょう。
【スタージョンの法則】 (Law of Sturgeon)
 SFの90%はクズである。
 ただし、あらゆるものの90%はクズである。
 これはセオドア・スタージョン(Theodore Sturgeon, 1918-1985)というSF作家があるSF大会のおり、質問者との掛け合いのなかで言ったとされる言葉です。この法則の面白いところは、これを聞いた人に「その通りかもしれない」と納得させてしまうところです。

 さて、庵野さんの発言に戻ると、お分かりの通り、スタージョンの法則のパーセンテージが90%から99%に引き上げられているんですね。法則として考えたときに「90%」と「99%」のどちらの値を採用するべきかということが問題です。
【スタージョンの法則】 (Law of Sturgeon)
 SFの90%はクズである。
 ただし、あらゆるものの90%はクズである。
【庵野の法則】 (Law of Anno)
 アニメの99%はクズである。
 ただし、あらゆるものの99%はクズである。
 このダブル・スタンダードは問題です。どちらかを消去する必要がある。ただその前に、これらの法則の違いを挙げることもできます。それは庵野さんの発言から読み取れます。それは次の一言です。
1%の良いものがある
 そうです。庵野さんは99%のクズがある一方、1%の良いものにも触れています。これがスタージョンの法則とは決定的に違うところです。むしろ、そのパーセンテージよりも、そのバランスが重要だということが庵野さんの本意だったでしょう。

 他方、「スタージョンの法則」では、残りの10%については触れていません。つまり、残りの10%にクズが含まれている可能性は論理的には十分にあります。ということは、任意の集合にスタージョンの法則を二度適用すると「庵野の法則」とクズの値が一致します。

 しかし、これを三度、四度と適用を繰り返すなら、スタージョンの法則から「クズではないもの」を取り出すことはきわめて困難なことになります。スタージョンの法則は「良いもの」の存在を許容しないようなところがある。それゆえ、これらの法則を次のように言い換えることができます。
【スタージョンの法則】 (Law of Sturgeon)
 SFの90%はクズである。残りの10%は不明だ。
 そして、
 あらゆるものの90%はクズで、残りの10%は不明だ。
【庵野の法則】 (Law of Anno)
 アニメの99%はクズである。残りの1%は良いものだ。
 そして、
 あらゆるものの99%はクズで、残りの1%は良いものだ。
 そうなのか! 「スタージョンの法則」と「庵野の法則」は似ているが、違う! 「スタージョンの法則」は良いものの可能性の範囲は広いけれど、しかし、良いものの存在自体は確定していない。

 一方で、「庵野の法則」は良いものの可能性の範囲は1%程度に過ぎないが、しかし、たしかに良いものがあるということは確定している。ところで、ここで最初の問題に立ち返る必要があります。

 【果たして、このふたつの法則は両立するのだろうか?】

 両立しないのだとしたら、どちらかを切る必要がある。これは、なかなか難しい問題に思えます。残念なことですが、いまのところ、僕には説得的にこれらの法則の是非を問うだけの手駒がありません。

 単純に考えると端的な両立は難しいようです。なぜなら、「庵野の法則」の適用後に「スタージョンの法則」を適用するのは困難に思えるからです。しかしながら、その逆は可能であるように思います。

 それは上記した通り、「スタージョンの法則」を二度適用するとクズの領域が「庵野の法則」と一致するということからも想像できます。一方から他方を導出できるような但し書きを付け加えられたら良いのですが。

 あるいはこれらの法則をまとめたような、「第三の法則」が存在するのかもしれません。というわけで、新しい法則の誕生を目の当たりにしたため考察を進めてみました。庵野の法則には希望がありますね。
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by kourick | 2003-06-15 00:00 | 考察
 よさこいソーラン祭り。札幌のは正確には「YOSAKOI」というみたいです。好きか嫌いかといわれると、僕はまあ、好きではないのだけれど、実際には、それほど気になってはいません(期間中は街に近寄らない)。しかし、道民ないし札幌人の誰しもが YOSAKOI に賛同しているわけではないことは知っておいていただきたいと思います。

 ところで、内地の人たちは札幌の YOSAKOI をどのように見ているのでしょう。「北海道の晩春の楽しいお祭り」というイメージでしょうか。TV 番組のリポータは「日本一、いや、北半球一のお祭りです」などと言っていたのだけれど、それはどういう意味なのだろう。集客数、参加者数、それとも規模や経済効果? あるいは楽しさということだろうか。

 しかし、そもそも、YOSAKOI を「祭り」として把握している人が、どれだけいるかは疑問です。はっきり言って、YOSAKOI は祭りではありません。むしろ、「大会」といったほうが的確だと思います。路上パフォーマンスの大会です。だから、審査もあるし、練習も過酷になるし、参加するには資格も必要になるし、多額の資金も必要になる。

 けして、市民や旅行者の誰しもが参加して楽しめる「祭り」といった代物ではありません。ただ、その大会という限りにおいては、YOSAKOI はなかなかのものです。是非一度、納涼をかねて札幌に見学に来られると面白いと思います。開催時期の札幌の平均気温は25度前後、道民にとってはちょっと暑い季節ですが、内地と比較するなら涼しいでしょう。

 そういったわけで、参考ばかりに こういった視点からのYOSAKOI というものも、YOSAKOI 参加者や関係者は頭の片隅に置いておくと良いと思います。思っている以上に YOSAKOI を楽しんでいる人というのは少ないのではないかと僕は思っています。どちらかというと迷惑です。もちろん、だから止めろといった極論を言いたいのではありません。

 たしかに YOSAKOI は地域に密着した「お祭り」であって、それは素晴らしいことでしょう。各地にチームがあり、特色を生かした振り付けやテーマがあり、感動する場面や斬新な演出に興奮する場面もあります。札幌の大学だったら、たいてい YOSAKOI サークルがあるでしょう。そこでは、いろいろな物語も生まれているのだと思う。

 参加者にしてみたら、やりがいのあるイベントなのだろうし、楽しいのだとも思う。しかし、その一方で、それは集団的な自己満足でしかないのではとも思います。というのも、基本的に YOSAKOI は観客と共有されるような祭りではないからです。いまのように大規模化すると、多少の文句はノイズとして無視されてしまうかもしれないけれど、これはたしかです。

 もともと、YOSAKOI は北海道大学の学生が大通に場所を借りて始めたものでした。けれど、回数を重ね、大規模になるに連れて、学生の自治を離れ、そこに行政とメディアが介入し、次第に YOSAKOI は公的なものになっていきました。料金を取る代わりに良い席で踊りを楽しめる「桟敷席」が問題になったのもこの過程でした。

 いまでは、そういった野暮な問題を取り上げると白眼視されかねません。最初は学生が始めた遊びかもしれないけれど、いまやそれは全国に誇れるような札幌を代表するイベントなのだから。そうした広報的な側面が強化され、運営が実質的に公的な手に渡ったあとも、学生の自治で運営されていた会場は「やはり一番楽しい」と言われていました。

 こういった段階になって、参加する人たちと参加しない人たちは完全に分断されたような印象を受けます。もはや「演者」「観客」という以上に離れてしまっている。演劇でもそうだけれど、こうも一体感が損なわれてしまうと見させられている人は急速に冷めてしまいます。見せている人はもちろん楽しいのだろうし、当初は見ているほうだって楽しかった。

 そこにはなにかしらの共有があったし、見ている人たちにもどこか参加しているという意識がありました。そして、それを共有しない人たちに対する遠慮もありました。それはもしかすると、いまは馬鹿騒ぎしているけれど、その騒ぎのあとにはきちんとあそこに戻らなければならないという刹那感の共有だったのかもしれません。

 しかし、いまは違います。演者と観客の間には深い溝がある。そして、一度そう感じてしまうと、YOSAKOI を押し付けられる人たちの目に映るのはその嫌な部分です。参加者のマナーの悪さ、騒音の酷さ、地方車の場違いさ、そもそも、YOSAKOI のために道路や公園や施設の利用が制限されるのだから、興味のない人には迷惑でしかありません。

 もちろん、どんなイベントだってそういったことはあるけれど、YOSAKOI の場合はそう感じる人が多いのではないかと思います。市民の潜在的な反発がこれだけあるものを、経済効果や参加者の理屈で止められないからといって続けているということに一抹の疑念は感じるものです。ただ、それでも YOSAKOI は終わらないでしょう。

 しかし、いまのような状況がずっと続いて、いつまで経っても変わっていかないのなら、どこかで不意に破綻してしまうのではないかと思います。こうした文章を書いておいてなんですが、別に YOSAKOI を頭ごなしに否定したいわけでも、暴言を吐いてすっきりしたいわけでもありません。ただ、誰もが楽しめるお祭りにしてほしいと思うだけです。


【関連リンク】
YOSAKOIソーラン祭り>日高晤郎の視点
「YOSAKOIソーラン祭り」腐敗の源泉
YOSAKOIソーランの取材は不自由
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by kourick | 2003-06-07 00:00 | 考察
 諸君、私はヨサコイソーランが嫌いだ
 諸君、私はヨサコイソーランが嫌いだ

 諸君、私はヨサコイソーランが大嫌いだ

 唄が嫌いだ
 踊りが嫌いだ
 衣装が嫌いだ
 メイクが嫌いだ
 動きが嫌いだ
 叫び声が嫌いだ
 旗が嫌いだ
 ライトが嫌いだ
 笑顔が嫌いだ
 鳴子が嫌いだ
 笑い声が嫌いだ
 制度が嫌いだ
 意識が嫌いだ
 感性が嫌いだ

 歩道で、車道で
 公園で、盛場で
 バスで、電車で
 駐車場で、地下鉄で
 舞台の上で、観衆の前で

 この札幌で行われるありとあらゆるヨサコイが大嫌いだ

 隊列を組んだ踊り子の一斉発狂が爆音と共に民衆を威嚇しだすのが嫌いだ
 空中高く放り上げられた衣類が突風に煽られて頭上に舞い落ちた時など心が弾け飛ぶ

 地方車に載る奇怪な装飾物など目にするだけで虫唾が走る
 轟音を立てて騒音を撒き散らす地方車の上から、和太鼓の不躾な振動と共に礼儀知らずで奇天烈な煽り声が聞こえてきたときなど胸がむかついて堪らない

 衣装を揃えた踊り子の隊列が意図的に編隊されているのが嫌いだ
 恐慌状態の踊り子が既に失望した人間を何度も何度も笑顔で屈服せしめようとしている様など戦慄すら覚える

 経済効果と物珍しさだけで市中を我が物顔で闊歩する様などはもう堪らない
 泣き叫ぶ子供達を目の前に悪辣にして辛辣窮まる薄弱な規範意識と共に金切り声を上げながら公共空間にたむろにする狂乱人など最悪だ

 哀れな幼い、年老いたあるいは静けさを求める通行人達を雑多な公害道具で都市の印象と道徳と理想もろとも木端微塵に粉砕する時など悪魔とすら感じる

 無知な行政機関に祭りを滅茶苦茶にされるのが嫌いだ
 必死に守るはずだった人々の意志が蹂躙され女が男が子供が感化され洗脳され何の疑問も抱かずに受け容れている様はとてもとても悲しいものだ

 情報と艶やかさの物量に押し潰されて楽しみが殲滅されるのが嫌いだ
 テレビカメラに追いまわされ害虫の様に地べたを這い回るのは屈辱の極みだ

 諸君、私はヨサコイを、この地獄の様なヨサコイを嫌悪している!
 諸君、私に付き従うアンチ・ヨサコイズム諸君!
 君達は一体何を望んでいる?

 更なるヨサコイを望むか?
 情け容赦のない糞の様なヨサコイを望むか?
 贅沢豪奢の限りを尽くし、一般市民の平穏を穢す嵐の様なヨサコイを望むか?

『無視! 無視! 無視!』

 よろしい、ならば無視だ!

 我々は渾身の力をこめて今まさに目を瞑らんとする小市民だ
 だがこの暗い闇の底で12年もの間堪え続けてきた我々に
 ただの無視ではもはや足りない!!

 全無視を!!
 一心不乱の全無視を!!

 我らはわずかに数百数千に満たぬ敗残者に過ぎないのかもしれない
 だが、諸君は一騎当千の古強者だと私は信仰している
 ならば我らは諸君と私で総力100万と1人の小市民となる

 我々を忘却の彼方へと追いやり踊りこけている連中を落ち着かせよう
 笑顔に応じず黙って見つめ眼を開けさせ思い出させよう
 連中に無視の味を思い出させてやる
 連中に我々の静寂の時を思い出させてやる

 北区と南区の狭間には奴らの哲学では
 思いもよらない事があることを思い出させてやる
 一千人のアンチ・ヨサコイズムの小市民で
 札幌を冷やし尽くしてやる
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by kourick | 2003-06-06 00:00 | 考察
煙草税が増税されました。僕は喫煙者ですし、もちろん、煙草も好きです。また、喫煙が身体に悪いらしいということも把握しています。けれど、吸います。たまに「煙草のなにがおいしいの」と言う人もいますが、煙草のおいしさは味や香りというよりも、その気体を吸っているときの雰囲気であったり、吸っているときの脱力感にあったりします。同様のことは、お酒を飲むときにも言うことができるかもしれません。

嫌煙家に「煙草は中毒性があるだけ」だから止めたほうが良いと言われることもあります。僕もその通りだと思います。けれど、おいしいから吸います。喫煙することで快楽が得られるわけでもないのに煙草を吸うのはおかしいと言う人もいるけれど、もし快楽が得られるのだとしたら大変です。それは麻薬でしょう。「煙草は中毒性があるだけ」の本当にどうしようもないものだから公的に吸っていられるのです。単に中毒性があって身体に悪いだけの代物だから認可されているのです。

煙草は副流煙のほうが身体に悪いから吸ってはいけないというのも論点が少しおかしいです。主流煙を吸っている喫煙者も、間接喫煙者と同じように副流煙を吸っています。まあ、こういうことを言うと煽り合いになってしまいますから、それは置いといて、非喫煙者や嫌煙家が周りにいるときに断りなしに煙草を吸ってはいけません。これはマナーの問題です。煙草はあくまで個人の楽しみですから、周りの人に迷惑をかけてはいけない。

逆に言うと、個人で楽しむ限りにおいては吸っても良いのです。実際、中毒性があるとは言っても、他の薬物等による禁断症状のように他者に危害を加えるようなことはありません。つまり、どれだけ吸っても困るのは当人です。だから、煙草は他の薬物からは一線を画しています。

例えば、煙草を吸うことの有害さというのは、自動車に乗ることの有害さと大筋において同じようなものです。実際、喫煙は健康を害するとか言いますが、自動車だって地球規模の健康被害を招いています。そして、大気汚染のような環境被害も招きます。喫煙者に他者の健康を害するから喫煙を止めて下さいと言うのは、地球の健康を害するから自動車に乗るのは止めて下さいって言うのとどのように違うでしょうか。とまあ、こういう類推による反論は反故にされる可能性もありますが、一定の説得力があるでしょう。

オリンピックの聖火は環境を汚染するので止めて下さい。原子力発電所というのはなにか知らないけれど、危ないらしいから、止めて下さい。自衛隊の軍備増強や兵士の訓練とか戦争の放棄を謳っているのだから、どうせ役に立たないでしょう? 税金の無駄だから止めて下さい。お酒って依存性あるよね、中毒にもなるらしい。そういうのは危険に違いないからアルコールの販売は禁止して下さい。こういった事柄とどう違うでしょうか。たしかに厳密には違うところは多々ありますが、こうした問題のなかから煙草だけを断罪するほどはかけ離れた問題ではありません。

そういったわけだから、喫煙者を単に「煙草を吸っているから」という理由だけで嫌わないでほしい。いや、別に嫌っても良いけれど、それを表明することが当然の権利であるかのように受けとめてはもらいたくない。また、煙草を吸う人間が嫌いなのはそれは仕方がないけれど、それを表明することにはそれなりのリスクだってあるということを理解したほうが良いと思います。

なにも喫煙者は煙草を吸うという当然の権利を堂々と有していて立派であるとは言わないから、ただ、普通にある特定の権利として「煙草を吸うということ」を認めてもらいたいと僕は思う。また、そうしない限り、どのような話し合いも単なる権力闘争に堕ちるのではないかと僕は思います。
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by kourick | 2003-05-21 00:03 | 考察
 忙しい。僕も一年位前まではこの言葉を使っていた。忙しいということが世界に誇れることかどうかと言われると、馬鹿馬鹿しいほどにそんなことはないと僕は思うけれど、一年前、肉体的・精神的に僕は本当に忙しかった(と、いまやっと考えられる)。

 僕はいつからかは定かではないけれど、「忙しい」という言葉を使うことをやめた。折に触れては「忙しいから」と言って断わっていた勧誘や要望には、「考えておきます」と、これまた曖昧な返事を返すようになった。これはもう、僕の口癖になっている(嫌な奴だ)。そのように応えるようになった背景には、ひとつに「自分で自分の限界を示すような発言に嫌気がさした」ということと、もうひとつは「忙しいと思うのは、自分の能力が低下したからである」という考え方に共感を抱いたからである

 しかし、「忙しい」という言葉は一般社会に根付いた、きわめて許容範囲の広い単語である。自己完結的にその言葉の意味や使用を規定しても、その規定に空虚さが伴うことは否めない。ただ、忙しさというものをそれなりに体系的に分類することができるのなら、個々人の多忙の感覚をその分類のどこかに落ち着けて把握することにより、対人的な苛立ちを多少は軽減できるかもしれない。だから、僕はここで「忙しさの分類」に取り組んでみたいと思う。できることなら、この分類によって、世界から「忙しい」という言葉の無差別な使用を減少させたいものである。

 まず、「多忙」という状況には二つの状態がある。

 【能動的多忙】
 【受動的多忙】

 前者は多忙状態にある存在(以下、多忙者)が望んでその状態にいる場合。言い換えるなら、多忙者自身がその前段階において多忙になることが予期でき、かつ、それを望んでいた場合。または、多忙になることを受け入れることが前提にある状態に向かって、それを望んでいないにしても、本人の意思によってそこに進んだという場合。これは「大学に進学する」「免許を取得する」といった場合にあたる。

 後者は多忙者の能動的な、あるいは半能動的(自分の意志+環境的な要因から行為が半ば義務化しているという意味)な意志や行為とは関わりなく、環境的、偶発的要因によって多忙にならざるを得ないという状況に陥った場合。これは「親族が病気で倒れた」「車にはねられた」といった場合にあたる。

 しかし、これらは「忙しい」という言葉によって示唆されている評価の一側面にすぎない。つまり、ここでの分類は、拘束時間の有無とその拘束がどのように生じたかという二点からみた分類である。この段階においては多忙者本人の「意思」あるいは「覚悟」というべきものが個々人の「多忙」の感覚に大きな影響を及ぼすと考えられる。

 ところが、上記の区分を捨てたとしても導入する必要のある、「忙しさ」にとって本質的に重要な別観点の分類がある。そして、これこそが「忙しい」という言葉を対外的に用いた場合に相手に白々しい感想を抱かせる原因になっていると思われる要素である。

 【主観的多忙】
 【客観的多忙】

 前者は主観的に多忙である場合。このとき、人はただ一言「忙しい」と呟くことで名実ともに即座に「多忙者」になることができる。この場合において、「忙しさは能力の低下」という言葉が説得力を持つ。この段階は本人の認識が真実であるような状態なので本人以外の何者もそれを否定することはできない。よって、時と場合により、この状態は【空虚な多忙】となる。

 後者は客観的に多忙である場合。このとき、任意の或る人は、周囲の人たちに「多忙」と評価されている。この場合において、不思議なことに【一般的な多忙の尺度】という概念が忽然と姿を現す。これまでは個人によって「多忙」の尺度が変化していたのにもかかわらず、なぜかこのときばかりは「一定の基準」で人々はその「忙さ」を推し量られることになるのだ。この状態においては「多忙」と推測される人自体が自分の状態を「多忙」と感じていない場合もままある。

 これは【主観的多忙】と【客観的多忙】のずれから生じる現象だろう。また、主観と客観という視点の区別を導入することにより「多忙」を表明する主体がどこにあるかという問題が発生する。この場合、本人が自分で「忙しい」と判断するときは【多忙者】、逆に周りの人間が或る人を「忙しい」と判断するなら、その人を【被多忙者】という風に区別したい。

 このような区別をした上で、次のような分類ができると考えられる。

          主観的多忙          客観的多忙
能動的多忙 身勝手な多忙・同情的多忙 無関心な多忙・意欲的多忙
受動的多忙 理不尽な多忙・悲劇的多忙 不条理な多忙・献身的多忙

 しかしながら、主観的であり、同時に客観的でもあるような「多忙」の状態も考えられる。このような場合、本人が「多忙」だと感じることが他人にも「多忙」と映るか、あるいは客観的に「多忙」と思われることを被多忙者本人も自覚しているかで微妙な違いがあるけれど、この区別は同一のものとみなして、総じて【主体的多忙】と呼びたい。

 これは【主観的多忙】と【客観的多忙】の境界に存在する、ないし、両方に属する「多忙」で、正確には分類自体をいささかファジィにする必要があるが、表における「多忙の分類」の明快な区分を優先して例外として表外に記す。そして、この【主体的多忙】という状態がおよそ「忙しい」という言葉を発する人にとって到達できうる「最良の状態」であろうと僕は思う。

 では、簡略、かつ、ザックバランに、その他の「多忙状態」についても説明する。

【身勝手な多忙】(主観+能動)
 自分から望んだ状況に対して、自分の能力不足から「多忙」を感じ、言葉にする場合。この場合、多忙者と他者との「多忙」は一線を画しているので多忙者に対しては無言で同情するしかなく、失望する場合が多い。しかし、まさしく多忙者にとって「多忙」は真実であるので反論はできない。この段階にある人は自身の向上により状況の解決を図ろうとするよりも、むしろ、同程度の能力の人を集めることによって、自身の存在の正当性を主張しようとする。集団というのは得てして、この状態に陥りやすい。耳が痛いので、耳栓の購入をお薦めする。

【無関心な多忙】(客観+能動)
 自分から望んだ状況に対して、周りの人間が「多忙」であると感じるほど被多忙者が目的に対して意欲的である場合。この場合、被多忙者本人は「忙しい」を口にしない。または「忙しい」と思っていなく、「忙しい」という概念にたいして無関心である。このような人物はある意味で超人的であり、普通体がこのような状態であるような人と出逢った場合、自分とは格が違うと判断するのが正当かもしれない。格が違うというのは区分の問題であって、どちらが偉いという問題ではない。しかし、社会的に「成功者」と呼ばれるのは相手の場合が多いだろう。

【理不尽な多忙】(主観+受動)
 自分の望まざる状況に対して、自分の能力不足から「多忙」を感じ、言葉にする場合。自分の能力の如何にかかわらず「多忙」が降りかかるので悲劇というしかない。この場合は理不尽さに「多忙」の源泉を求めるべきである。しかし、同時に理不尽さにたいして怨念・呪詛をぶつけたところで空虚であるため、人生の理不尽さから多忙者は愚痴を吐き出す場所が必要になる。従って多忙者同様に周囲の人も被害を受けることになる。この領域においてさまざまなカルトが金を稼いでいると思われる。

【不条理な多忙】(客観+受動)
 自分の望まざる状況に対して「多忙」にならざるを得なく、客観的に「多忙」と判断されうる場合。この場合、被多忙者自身は「忙しい」を感じていないわけではなく、言葉にしない限りにおいて理解はしているのだが、この「多忙」状態を受け入れて献身的に事態に臨んでいる。この状態は、望まざる「多忙」が客観的に判断されるほどに積み重なっているという悪夢のような状態だが、それがゆえに、この状態にある被多忙者は天使のように人々には映るだろう。また、この状況は主観的な要素が殺されているという非人間的な状況であり、ある種の信仰が関与している場合が多いと思われる。
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by kourick | 2002-12-13 00:00 | 考察