カテゴリ:考察( 55 )

・ 「最愛の妻」という表現をTVで耳にした。「妻」というのは、どうやら分析的には「最愛」ではないみたい。ところで、「妻」と対になるのは「旦那」だったと思うけれど、実にもっともな言い回しだなと思う。いろいろな言葉が不当に狩られている御時勢のなか、こういう表現が狩られていないのは少し不思議な感じもする。表現を単に狩って解決するというよりは良い傾向であるようにも思うけれど、実のところ、単になにも考えずに使っているだけだったりするのかもしれない。

・ 宗教がもっとも成功しているのは、宗教のもとにあるということに人々が無自覚である場合である、とたまに言われるけれども、まさにその通り。こういうのは別に宗教に限らず、英語で語尾が「-ism」で終わるようなものは大抵、同じことが当てはまるように思う、もともとは「-病」的な意味です。

・ 科学もまた信仰の対象であると言われると少し気持ちは悪いけれど、まあ、人それぞれ、そういう表現でもいいのではないかという気もする。科学主義や科学至上主義というとグッとそういったニュアンスが増します。また、実際、科学というのは神の存在を証明したいという動機で始まっているというのも、ある種の事実ではあるだろうと思う。

・ ただ、探求すればするほど神の存在を否定する結果になっていったというのは、皮肉というと皮肉ではある。しかし、まだ、わからない。現代の物理学にして、最終的には「神」としか呼びようのないものに至るかもしれないし、そう信じている人も実はけっこう多いかもしれない。もっとも、それは人格神ではないだろうし、最初からその存在を信じるのは安直にすぎる。

・ むしろ、技術が信仰の対象になるのかどうか、こちらのほうが興味深い。SF的世界ではありうる設定なのだけれど、現実になりうることだろうか。

・ ところで、またそうだとすると、人々は生きている限り、なにかしらの病気にうかされているわけで、どのような信念のもとで生きようとも、どの病気に浸っているかという程度の差でしかなかったりします。この場合、ある特定の立場から、その立場の正当性や正しさを主張するのがきわめて困難になったりもするわけだけれど、それだとしても、ある程度、人々の思考の規範として働いているようなものはあるだろう。

・ このあたりの倫理・論理、あるいは合理性というのは一筋縄ではいかない。

・ 感動もののある種のTV番組は、ときに、おもむろに封建的な枠組みの「美談」でお涙を頂戴したりしているように思う。それ自体は別に良いと思うし、もっともな番組作りだとも思うのだけれど、その番組を観て端的に影響を受けている人を見るとちょっと興醒めるものがある。
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by kourick | 2006-03-01 00:00 | 考察
・ 眞鍋かをりさんの人気がインフレを起こしているような気がします。スキャンダルで没落ということはないと思うけれど、いささかスパイシィ。

・ 茂木健一郎さんがいつの間にやら随分と著作を増やしていました。なにかの教祖みたいな書籍が多い感じで、ちょっと首を傾げてしまいました。

・ はてなの一部でネットバトルが発生している模様。手斧を持ってもひもひした人たちと少し粘着気味の若者の戦いみたいです。

・ ところで、僕たちは常にチューリングテストをやっているようなものです。本当にこの回線の先に「人間」がいるのか、その保証はありません。ただ、この回線の向こうには人がいると思ったほうが安全側の発想ではあるし、その先にいるのが人間ではないのであれば無礼な態度をとっても良いという理由にもなりません。

・ フィリップ・K・ディックがいうように、それが人間でもアンドロイドでも、オリジナルでもコピーでも、親切であるのならば、それは本物なのです。もしかすると、僕以外の全員が擬似人格に置き換わっても、僕はそれと気付かずにWebを楽しんだりするのかもしれない。これと同じことがまさに全員に起こっているとしたらどうでしょう。もしかすると、それがいま起こっていることなのかもしれないのだ。

・ 西洋にはフランケンシュタイン・コンプレックスという、人間が作り出したものが人間を襲うことに対する、人工物に対する恐怖感がある(らしい)です。逆に日本では人工物に対する恐怖感はあまりなく、むしろロボットを人型にしたい傾向があるなど、人工物に対して寛容であり、それがロボット産業の活性化に一役買っているというのもまた、有名な話としてあります。

・ そうしたことを鑑みると、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、西洋的にはえらい先を見ていたように思います。というのも、ディックの小説内では人間もアンドロイドもほぼ変わらないからです。つまり、「人間」と「アンドロイド」という構図は、ほぼ無意味なのです。むしろ、「人間」性と「アンドロイド」性という構図が生命全般にあてられています。

 そのようにして見たときに、強調されて立ち現れる光景は、人間社会にアンドロイドが紛れ込んでいるという恐怖よりも、そして、人間と見分けが付かないアンドロイドという存在の恐怖よりも、人間のなかに「アンドロイド」性を持ったような奴がいるという現実です。

・ 「機械のように冷たい人間」という表現はいつまで通用するでしょうか。「機械」という語ほど歴史を通じて用法が変化してきた語もなかなかないのです。「機械」という言葉に直線的なイメージや無機物的なイメージをもつ時代はそろそろ終わりかもしれません。
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by kourick | 2006-02-13 00:00 | 考察
 巫女さんの袴はどちらがいいかぬるヲタが斬る
 http://nuruwota.blog4.fc2.com/blog-entry-746.html

 行灯袴はわりとマイナーだと思っていたのだけれど、むしろ多数派みたいですね。たしかに、時代劇で女性が付けていたりするのは行灯袴なことが多いように思います。

 もともと、行灯袴というのは町人の付けていた前掛けが原型になっているので、こちらのほうが女性らしい印象を受けるというのもあるかもしれません。ちなみに、現在、弓道などで付けられるのは男女とも馬乗袴です。

 【追記】 もしかしたら女性は行灯袴かもしれません。あるいは見た目が行灯の襠有袴かも。いずれにしても、機能性や伝統的な体配を考えると馬乗のほうが理に適っているように思いますね。

 ちなみに「いかがわしいことのしやすさ」は、行灯袴も馬乗袴も五十歩百歩だと思う。いや、たしかに「いざ!」というときには馬乗袴のほうが少し面倒なことになるかもしれないけれど、逆にそのもどかしさに燃えるということもあるかもしれない。いや、これは難しい問題ですよ。
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by kourick | 2005-09-23 00:00 | 考察
怒る事、叱る事ひとりごと

怒りは情により、叱りは理によるということでしょうか。言葉が理解できるようになったら叩いたりして身をもってわからせる動物の躾は終わりで、そこからは相手の理解に基いて互いの解決を図るようにシフトしないといけないということなのだと思います。そうすると、大体三歳あたりで怒ることから叱ることのほうに重点を置いたほうが良いでしょうか。つまり、三歳あたりからはもう、大人として扱う態度が必要だろうということです。

ちなみに、語呂が似ているためか間違いやすいですが、「怒る」と「叱る」は別の事柄なので少し注意が必要です。わたしたちは怒りながら叱るということができます。また、怒ることは一人でもできるけれど、叱ることは相手がいないとできません。「怒る」というのは感情の発露であり、「叱る」というのは他者に働きかける行為ですから、それらはまるで別の事柄でしょう。
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by kourick | 2005-08-31 00:00 | 考察
 弓の精神性ということで少し話をしましたが、正直なところ、それは些細なことです。むしろ、些細なことだからこそ大切にされているといっても良いように思います。より一般的に興味を惹かれるのは和弓の形状の歴史的・機能的な発展のほうではないでしょうか。

 実際、これはとても面白いところで、和弓の各部の名称の由来や、射法に関わる実践的な事柄も含めて話すと、なかなか終わりのこない話題です。ですから、ここでは和弓と洋弓との差異という観点に絞って、少し話をしてみたいと思います。

 以前、お祭りか遊園地のアトラクションで洋弓(といっても、おもちゃのようなものなのではないかと思うのですが)を射る機会がありました。そのときは四本打たせてもらったのですが、実にその四本ともが左下方にいってしまいました。

 このときは、僕の狙いが悪かったのだろうと思ったのですが、後々、他の部員にも話を聞いてみると、みな左下方に矢がいっていました。範囲は限定されていますが、なにかしら有意な結果であると判断できました(矢所も安定していたし)。そして、これには理由があります。

 和弓を使っている人は洋弓を通常通りの仕方で射ると左下方に矢が飛ぶのです。これは和弓が「非対称形」で、洋弓が「対称形」であるということと(前者は対称軸が一本、後者は二本)、和弓が「弓返り射法」で、洋弓が「打切り射法」であるということによります。

 和弓はその「非対称性」により、矢は構造的に上方に飛び、「弓返り射法」をしないと、矢は構造的に右方に飛ぶことになります。和弓は「弓把」(握るところ)が下のほうに付いているので、矢を番えた位置より下方の弦の返りが速いです。そのため、上方に飛びます。

 これはまさにベクトルで考えてもいいです。そのために射法においてやや上押し気味の力を弓にかけて矢飛びを制御します。これは練習をするうちに無意識的にされるようになります(もちろん押手の手の内が上押しになるのは駄目なのですが)。

 また、和弓は弓の右側に矢を付けます。弓を持っている左手親指の上に矢を乗せるわけです。しかし、弦は当然、弓の対称軸である中心に戻ろうとしますから、必然的に矢は右側に飛ぶことになります(弦を張る位置を多少調整しようとあまり関係ありません)。

 それを制御するために、やはり射法において、やや左方にひねりをいれることになります(これは射る瞬間に弓を左に振るということではなく、左手親指を的に押す感じとともに「離れ」において「胸を割る」ので適切な射法をしていれば勝手にひねりは入っていることになります)。

 またこのとき、弦は曲がる軌道を描きながら弓に戻ろうとするので(これにも理由があります)、弓(弦)の力をフルに矢に乗せるために矢が離れるときに手の内で弓を回転させます。いわゆるフォロースルーです。これは弓の力がすべて矢に乗る射法で「弓返り射法」といいます。

 そのため、射る前は左腕の右側にあった弦は、射た後は左腕の左側にあることになります(これもやはり適切な射法によって自ずからそうなるものであって、意図的に弓を手の内で回転させると「それは弓返りではなく、弓返しだ」という指摘を受けます)。

 他方、洋弓であれば、弓は対称形になっているので、まず的の正面に構えれば的に向かって矢が飛びます。また、矢受けが弓幅の中心になるように弓が加工され、弦もそこに返るので、左腕と弓は的の正面で固定した状態が望ましいことになります。

 しかし、この場合、弓を持っている腕に弦がもろに当たることになってしまいます。したがって、洋弓では「アームガード」と呼ばれる腕を保護する防具を付けます。このような射法を、左手で持った弓の位置まで弦が返り、それ以上は弦が動かないので「打切り射法」といいます。

 ちなみに和弓でも、速射が要求されるときは弓返りしないように手に「クスネ」という滑り止めを付けます。これがいわゆる「手薬煉(テグスネ)をひいて待っている」状態です。戦闘準備オッケー、いつでも来いという状態ですね。

 実戦(いわゆる武射。一般的に、現代のは礼射)においては、いちいち弓返りなどさせていたら矢数が打てないので、あまり弦を引き絞らずに強い弓を用いることで威力をだしつつ矢数を増やしていたようです。「五人張り」あたりが有名でしょうか。

 以上のことから、普段和弓を使っている人が洋弓を使うと左下方に矢が飛んでしまう理由がわかっていただけたのではないかと思います。つまり、僕は洋弓を打つときに無意識的に「上押し」をかけて「ひねり」をいれてしまっていたのです。

 黙って左手に持って的に照準を合わせて素直に打てば狙ったところに飛んだはずなのに、打つときに「余計なこと」をしてしまったので狙いがずれたわけです。これは面白い違いだと思います。このあたりが「和弓は機械ではなく道具だ」といわれる由縁かもしれません。

 ところで、なぜ和弓は非対称形なのでしょうか。改めて考えてみると、和弓の形態の美しさとは裏腹に不合理なように思います。しかし、これにもちゃんと理由があるようです。というのも、日本人が最初に用いた弓というのが「丸木弓」だったからではないかと言われています。

 丸木弓というのは、手頃な木の皮を剥いで作った簡単なもので、したがって、根元部分が太くて硬く、梢部分が細く柔らかくしなるといった不均質な弓材になります。このような不均質な材料で対称形の弓を作ると、根元部分の反発が強いので上方に飛ぶことになります。

 よって、弓把を下に取り、上部と下部の力の均衡を保つことで矢が直線的に飛ぶように加工したと思われます。このように理解すると不合理に思われた「非対称形」にも合理的な理由があったのだとわかります。むろん、長弓のほうが扱いやすいという理由もあったかもしれません。

 しかし、その後、弓の材質や形態の発達にもかかわらず、どうして日本人は非対称形という弓の形状を維持したのでしょうか。それは寡聞にしてちょっとわからないのですが、現代に伝わる弓術の完成度を考えると、その選択肢は間違ってはいなかっただろうとは思います。

 また、和弓の形状を美しいと感じる感性を歴史を通じて弓に親しむ人たちが持っていたのかもしれないなと思うと、その説明もいらないように思います。そして、その和弓の美しさに見合うように弓術は発展して、弓道になっているのです。
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by kourick | 2005-02-07 00:00 | 考察
 弓道の良さということは個々人がそれぞれに見出すことであって、究極的にこれというようなものはないでしょうが、それでも、ある程度は共通して惹かれるところというのはあるだろうと思います。

 僕が思うに、それは「道具としての合理性」と「自然との調和」です。ただ、この「合理性」というのは多義的な言葉で、どこまで考えを拡げるかによって意味合いが変わってきます。

 たとえば、的に矢を当てるための機械的合理性という点では、きっと洋弓のほうが合理的でしょう。和弓と洋弓の違いとして、和弓は「道具」であり、洋弓は「機械」であるということがときおり言われます。

 機械というのは、その機能を発揮するために、その目的を果たすメカニズム以外はできるだけ省いてデザインされます。それが機械としての機能的な洗練といえるでしょう。

 目的はできるだけシンプルに設定し、無駄を削ぎ落とす。そして、その機能を十分に活かすために補助装置が必要なら、土台となる機械にオプションを付け加えていきます。

 そのため、洋弓は「的に当てる」性能を高めるために照準を付け、反動を吸収する装置を付けという具合に、科学的な合理性にしたがって変化してきました。これはたしかに理に適っています。

 一方、道具というのは、その機能を十分に発揮するためには人間の側でその道具を使いこなす必要があります。たとえば、和弓は単に機械的に弦を引っ張って離すと「右上方」に飛んでいきます。

 和弓というのはそういうデザインで完成されており、それがデフォルトなのです。これを人間が使いこなすことによって、性能をきちんと発揮することができるようになるわけです。

 弓と身体を一体とするほど鍛錬を重ねることによって十分に弓の性能を生かすことができます。そのため、弓は使う人と共に育つ、他人の弓に勝手に触れてはならないと言われます。

 その弓にはその持ち主の癖が付いていて、持ち主以外の人が使うと癖が混ざってしまい、射が崩れることがあるからです。ひとつの美しい射には、その人と弓との鍛錬が現れます。

 そして、射法というのは、それ自体完成しているのだけれど機能としては不完全な和弓という道具を十全に活かすための方法として、理に適ったものとして洗練されています。

 もちろん、だからといって洋弓というのは精神的に無味乾燥な代物だと言いたいわけではありません。むしろ、目的に対する不安定な要素が少ないだけ純粋になれるともいえるでしょう。

 「合理性」ということで向かうさきが異なっているということです。機械として構造を洗練するのか、道具として手法を洗練するのか、といったところでしょうか。どちらも良いところはあります。

 ただ、身も蓋もないことをいうと、単に的に当てることが目的なら、弓である必要はありません。ライフル射撃などのほうが容易で精確でしょう。肉体的な鍛錬もそれほど必要なく、射程も伸び、精度も高いです。

 しかしながら、弓道を始めようという人は、そういうこととはまた違うものを求めて、弓を始めるわけでしょう。そこにはやはり、また別の魅力があるに違いないのです。武道とはそういうものです。
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by kourick | 2005-02-05 00:00 | 考察
 「弓を射る」というと、右手で弦をグイッと引っ張るのをイメージする人が多いと思います。けれど、実際には左腕や背筋など、身体全体を使うので右腕の負担が大きいかというとそうでもありません。逆に言うと、右腕の筋力だけで引けるというものでもないわけです。

 とはいえ、細い弦を引いている右手にはそうとうの力がかかるので、生身で弦を引いては危険です。なので、右手には「かけ」というグローブ状のものを装着します。かけには「かけ紐」という1メートルほどの紐が付いており、それを手首に巻いてかけを固定します。

 たとえば、弓を引き分けるときに力が入ってしまって手首が内側に曲がることを「タクる」というのですが、こうなると、かけが弦から離れるときに手首が素直に後ろに逃げないので危険です。こういう事態を防止するためにも、長いかけ紐を手首に巻きつけて固定するわけです。

 関節というのは横方向の力に弱い部分なので、それを補強しているわけです。不合理に感じるほど長いかけ紐にも、このように理由があります。また、高価な鹿皮を使うのも「緩みづらい」という利点があるからです。しかし、練習の際、毎回、かけ紐を締めるのは面倒なものです。

 そこで、かけ紐を手首に巻いて止めるときにかけ特有の締め方をせずに「かけピン」と呼ばれるクリップのようなものでかけ紐を固定します。もちろん、正式な場、射会や審査のときには使わないですが、練習のときは重宝するアイテムです。

 このかけピンには無地のものもあれば、絵や文字が書かれているものもあって、「一射絶命」「正射必中」「心技体」「真善美」などと書かれたものもあり、どれを選ぶかによって個性の現れるところで、こういう遊びもなかなか、面白いところです。
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by kourick | 2005-02-04 00:00 | 考察
 ライブドアの堀江さんが「お金で買うことができないものはない」という発言をして非難を浴びたそうだ。といっても、「非難を浴びた」というのは後付けの認識で、初めて耳にしたときは「そりゃそうだ」と思ったのを記憶している。言われてみると、たしかに非難を浴びそうな発言ではある。

 堀江さんがどういう意図で発言したのかは知らないけれども、およそ「買う」という行為は「お金で買う」ということが前提されているので、買うことができるものはお金で買うしかない。だから、「お金で買うことができないものはない」と言われても、それは当然だろうということになる。

 売買というのは、お金でするしかない。「物々交換」まで遡るなら解釈の余地はあるかもしれないけれど、それはやはり「交換」であって「売買」とは異なるものだ。むしろ、金銭を物やサービスと交換することを「売買」と定義するだろう。

 堀江さんの発言が非難を浴びるのは、その発言が「なんでも自分の思い通りになると思っている」という印象を聴き手に惹き起こして嫌悪感を生じさせるからだろうけれど、(その感覚のもっともらしさはさておき)言っていること自体はそれほど変なことではない。

 むしろ、この発言を非難する側が、暗黙のうちに「愛情」とか「友情」とか「信頼」といったものを売買の対象と見なしているのだとすると、そちらの意識のほうが汚いという印象を受けないこともない。いわゆる、下衆の勘繰りと言われるものでしょう。

 買うことができるものはおよそ、あらゆるものがお金で買うことができて、お金でしか買うことができないのだ。その他に「そもそも、お金で買うことのできないもの」があるのだろう。あらゆるものを売買の可能性の範疇に置いて思考しているという発想の汚さこそ、たまに反省したほうが良い。
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by kourick | 2005-01-22 00:00 | 考察
 僕にとって、「個人を尊重する教育」と「個性を育成する教育」は矛盾している。とまではいわないにせよ、不整合なところがあるか、前提としているものがかなり異なっているかなと思います。というわけで、それら両方の言明を主張する人はちょっと信用できません。

 たとえば、「まるっきりなにもかも似ている二人の人」を想像してみましょう。厳密に言うと、時空的な位置もまるっきり同じということになると、そもそも「二人の人」を想定できないことになってしまうけれど、いまはそこまで厳密にならず、きわめて似ている双子を想像してほしい。

 その二人は遺伝子はもとより、性別・体型・髪型・服装・性格・言動なにもかも判別困難なほど似ていて、二人並ぶと気持ち悪いほど似ている。ただ、どれだけ似ていてたとしても、それはもちろん別個の生命です。このとき、その個々を尊重するのは「個人を尊重する」ことでしょう。

 いわば、むしろ「双子である」ということを無視してそのひとりひとりを相手にすることこそが「個人の尊重」になります。では、「個性を育成する」とはどういうことでしょう。もしかすると、ある人はこの双子を評して「いまだ、とりたてて個性はない」と言うかもしれない。

 いやまあ、この場合は「きわめて似ている双子である」という強烈な個性はある。しかし、「双子である」という人は大勢いる。この子たちはたしかに「双子である」という個性をもってはいるが、一般的に「双子である」ということはその個々人の個性ではない。

 やはり、もっと異なる個性がほしくなる。歌が上手い、足が速いのなんてのはどうだろう。いや、その程度なら大勢いる。なにかその子の好きなこと、人とは異なるところを伸ばし、自信をもたせたい。それがその人の個性になる。そういう教育こそ大切だと思う人もいるかもしれません。

 こうなると僕はちょっとどうかなと思う。僕は「そのままの生活」を継続するだけで、勝手に特徴的な現れはするものだと思っているので、個性を企図するのは蛇足としか感じられません。その人のあるがままを受け容れるだけで充分なのに個性を強調すると強迫的になるでしょう。

 個人の尊重というのは憲法の理念として本来的にあるので、教育の領域でも「個人の概念」は常識としてあるはずです。そこにどうして「個性」という誤解を招きやすい概念をさらに導入したのかがわかりません。なにか特別なことをしないと「教育」に自信をもてないのだろうか。

 けれど、それをやりだすときりがない。むしろ、公教育は教育を受ける人の全員に対して、平等に同じ機会を与えるという原点こそが重要視されなければならないでしょう。公教育は基本的に教育水準の底上げこそを目指していてもらいたいものです。学校教育は保守的で良い。

 たしかにその子たちの好きなこと、得意なことを伸ばしたいというのは気持ちとしてはわかります。そういったアプローチももちろんあって良いでしょう。けれど、基本的には、個々人の趣向に立ち入ってはならないと思います。それは思想教育に片足を突っ込む危険性もあります。

 そうした子供の興味の育成はまずもって家庭教育においてされるのが筋であるし、教師が関わるのだとしたって、課外教育の範疇でおのおのの教師のできる範囲で意識されたら良いのであって、それをお題目として掲げるというようなことは不粋というものです。

 むしろ、大切にする必要があるのは「受容」ではないかと思います。「そのままでいいよ」と受け止めてあげて、強迫的に焦らせないことのほうがいまの時代にはありがたいものです。みんな同じように異なる道を異なる速さで進む。焦らずにきちんと悩む時間が子供たちには必要です。
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by kourick | 2005-01-03 00:00 | 考察
 黙っている人間は無能と思われやすいけれど、優秀な人間も頻繁に黙る。忍耐強い人間も頻繁に黙る。他者との相互理解の可能性を諦めている人間も頻繁に黙る。黙るということを表現として活用することのできる人間の足元には、軽妙な絶望とともに一片の重厚な期待もまた、常に転がっている。わかり合うことができるかどうかという判断は、こうした事態を見て取ることのできる人間にしかわからない。

 沈黙を理解しようとすることは常に有意義である。その人は沈黙できるのかできないのか、その人は沈黙しているのかいないのか、その人の沈黙はなにを意味しているのか。その理解には価値がある。そして、こうしたことは、翻っては、沈黙できない、沈黙しない、沈黙に意味のない人の理解にも繋がる。この相補性は必然的なものであるけれど、それほど明確に分けられるものでもない。

 こうしたことを理解するために、自分と似た視点の人が、自分の見解をどう表現しているかを学ぶことは重要なことであるし、自分とは異なる視点の人を把握して、自分との適切な距離に位置付けることは大切なのである。そして、もっとも重要なことは、そうした考察を行ったあとに、そのあらゆる見解を無視することである。他者を他者として把握したのなら、他者として無視することが必要なのである。

 なにも気にせず、生き易きに生きるのが良い。だからこそ、有能な人は黙らない。そうしなければ、黙ることすらできないことに気付いたからである。だからこそ、天才は黙る。天才は黙らなかったことによって天才になったからであり、黙っているうちに天才であるからである。そして、神は黙ることすらしない。なぜなら、神は一切の表現を必要としないからであり、神は神であるだけで一切に作用するからである。
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by kourick | 2004-01-17 00:00 | 考察