カテゴリ:考察( 55 )

ときおり、「理想的な現実」等と目にして、それは「理想」ではないのかとか思うのだけど、それを指摘すると「理想的な現実は『現実』であって『理想』ではない」とか言われるに違いないので黙っている。たしかにその通りだと思うのだけど、そういうレトリックは正直どうでもいいし、紛らわしい。同様に、「現実的な理想」という妙に妥協している用法を目にしたときも首を捻る。「現実的ではない理想」というのは理解できるのだけれど「現実的な理想」といわれると奇妙な感じを受ける。

これはつまり、自分も現実のなかにいるという自覚を固守して現実を対象化しているかどうかという差だろうか。ちなみに、自然科学と社会科学の差はここにあるといっても良いと思う。領域に現れる対象の各々が自己意識を持っているかどうか、さらにはその各々が自分のいる領域それ自体を認識しているかどうかという差です。より厳密にいうと、そうしたことを前提にして研究されているかどうかの差です。従って、物理学に究極の法則が発見(発明)されるということはあり得るかもしれないけれども、経済学に究極の法則が発見(発明)されるということはあり得ないように思われます。砕いた表現にすると「絶対に儲かる」法則というのはあり得ないだろうということです(追随者が続出するため)。

そういう意味では「必勝法」のあるゲームとないゲームではあまりにも大きな差がある。差というよりも、まさにその一点によって「まったく違うゲームにさえなる」といったほうが適切かもしれない。そこで、ルールによって「必勝法」を消去できるのであるならば、それを是正した上でゲームが始められるのが好ましい、と、思う人がいるかもしれないけれども、それは自分が「必勝法」を知らないからで、もし自分が「必勝法」を知っていたらどう思うだろうか、と、考えることは無益ではない。なにの話をしているのかというと民主主義の話をしているのです。

僕は「民主主義」という語が理解できずに、あれこれ「民主主義」について考えているのだけれど、「皆で民主主義を考えましょう」という態度と取るということがもっとも根本的な民主主義的な要素なのかと思う。しかし、この発想は比較的なににでも応用でき、少し便利すぎるのでそのうち撤回しなければならないかもしれない。
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by kourick | 2006-07-16 00:00 | 考察
クヌース博士のサイトを覗いたら、その名前の横に「高徳納」とあったのでなんなんだこれはと思ってリンクを辿ったら「1966年にチャイナにもらった私のチャイナネームだよ」と書いてあった。

予想はできていたけれど、チャイナのこういう感覚には良い意味でも悪い意味でも苦笑する(クヌース博士の場合はかなり良い意味での当て字)。場合によっては大きなお世話でむしろ失礼ではないかとも思うけれど、人に名前を付けてやるという感覚はチャイナには昔からある。

「匈奴」「鮮卑」もそうだし、「卑弥呼」にしたって、他国の指導者に対する敬いの欠片もないような名前を勝手に付けるということを平気でする。まあ、それはそれで別にいいとして、カタカナは便利だなとこういうときに思ったりする。ちなみに、こういう感覚は形を変えてアメリカやフランスも持っているように思う。

ところで「卑弥呼」の本来の意味はいろいろな説があるけれども、僕は「姫皇子」とするのが無難なところではないかと思う。つまり、そう解釈するならば、卑弥呼というのはもともと人名ではなく職名ということだ。紫式部や清少納言に近いだろう。

なににせよ僕が思ったところで仕方のないことではある。
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by kourick | 2006-06-20 00:00 | 考察
三色の信号機で「青」と「赤」のどちらかのルールしか説明できないとしたらどちらの説明をすることが安全側だろうか。ちなみに「黄」のルールの説明をすることはなにがいけないのだろう。

車道の信号機は三色あるのに歩道の信号機が二色なのはなぜだろう。

踏み切りの信号機が一色なのはどうしてだろうか。

一色で車道の信号機を作ろうと思ったときに「青」と「赤」のどちらの色を採用したほうが良いだろうか。そしてそのときのルールはどのようなものになるだろう。

車道は自宅生、歩道は一人暮らし女子、踏み切りは独り暮らし男子。
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by kourick | 2006-06-15 00:00 | 考察
札幌中心部がよさこっていることにさっき気付きました。白々しい祭りですが無駄に規模は大きいので知っている方も多いのではないかと思います。

ところで、三年前には アンチ・ヨサコイズム宣言 を掲げた僕ですが、二年前には「文句しか言わないような人間は下衆なのではないか」という思考の波に押されて黙っていることにし、一年前には「それでも自分の意見を主張し続ける人間は偉いのではないか」という思考の波に押されて息を吹き返しました。そのようなわけで、今年はどうなっているかというと、もうどうでもいいやという心境になっています。

それはそれとして、アンチ・ヨサコイズム宣言がグーグル検索に弾かれていることに気付きました。ちょっと切ないですね。ちなみに、その宣言の翌日に ちょっとだけましな日記 も書いています。ただ、文中でも紹介している 日高晤郎の主張 のほうが面白いかもしれません。
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by kourick | 2006-06-11 00:00 | 考察
どういう状況であれ、僕は学ぶ気のない人になにかを教えるということがいやで仕方がない。啓蒙という行為も好きではないし、もはや啓蒙によって人や社会が幸せになれる時代でもないと思っている。

自分がなにかを知っているということに興味がないし、他人がなにかを知っていないということにも興味がない。自分と関わりのない事柄を適切に無視できる能力のほうが大事ではないかと思われる。

僕は「教える」という行為は受動的な側面だと信じている。つまり、理想的には、「教える」という出来事は「学ぶ」という出来事に一元化できる。だから、可能な限り「教える」という行為を消去したほうが、僕は穏やかに暮らせると思っている。

もちろん、場合によっては異なる語り方も可能ではある。
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by kourick | 2006-06-02 00:00 | 考察
 しっかりとした食事は1日1回、おおむね20時頃にする。少ないと思われるかもしれないけれど間食を1日に何回かするし、ときおり外食もしているので全体としては少し食べすぎかもしれない。いずれにしても、典型的な生活をしているとどうも不健康になる。

 食事後は二時間ほど寝る。どうしたって、眠い。どうも人間の血液量は慢性的に不足しているらしく、摂取したものを消化吸収するために胃腸に血液が集まると脳の血流量が減り眠くなるそうだ。きちんと確認したわけではないけれど、筋は通っているように思う。

 デフォルトの絶対量に対して「慢性的に不足している」というのもおかしな話だし、脳内の血液量が不足すると眠気に襲われるというのもどうかと思うけれど、そんなこともあるのかもしれない。いずれにせよ、眠い、眠いのだ。お腹が一杯になると眠いのだ。だから、寝るのである。

 そういえば、血糖値を上げるホルモンは数種類あるのに、血糖値を下げるホルモンはインシュリンしかないことから、昔の人(具体的にどの人なのかはわからない)たちは慢性的に食物不足だったのだろうというまことしやかな話も聞いたことがある。ホントですか?
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by kourick | 2006-03-22 00:00 | 考察
フィギュアスケート選手の回転が、広げた腕を身体に寄せることで速くなるのは「念の高ぶり」によるという奇説を聞いた。そういうのって、好きさ。

たしかにそうでなければ胸の前で腕をクロスすることや、その後、天に向かって腕を伸ばすことの説明が付かないではないか。あれはいったん身体の内側に力を溜め、続いて外界にその力を解き放っているのだ。その過程で回転速度も大きくなる。

僕はすべてに得心がいき、説明者に向かって「なるほど」と頷いた。

ちなみに、一般的には「回転モーメントを小さくすると角運動量保存の法則によって回転速度は大きくなるから」と説明することが多い。風力発電用の風車の羽根が細いのも回転モーメントを小さくするためだ(もちろん他にも理由はある)。

しかし、どちらに説得力があるかというと明らかに前者である。風車の気合いは並じゃない。
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by kourick | 2006-03-11 00:00 | 考察
荒川静香の「イナバウアー」が流行っている。もともと西ドイツのイナ・バウアー選手が用いていた元祖「イナバウアー」は、「足を前後にずらし、足先を180度に開いて横に移動する足技」であるらしいのだけれど、荒川選手の「イナバウアー」は、それに「上体を大きく反らす」というおまけを付けて芸術性を高めているらしい。

シュールな技だ。つまり、前後軸を維持したまま、その軸の垂直方向に移動しているからシュールなのだ。荒川選手の場合はさらに前後軸を反転させているのだから二重の驚きである。鳥類で例えるなら、後ろ向きのフクロウが急にグルッと首だけ180度回転させてこちらを向き、そのまま横にスライドしたようなシュールさがある。静かに過剰だ。

なるほど、マイケル・ジャクソンの「サイドウォーク」、萩本欽一の「欽ちゃん走り」、坂田利夫の「アホ歩き」、どれも芸術性が高いのは「前後に進む」という観念を打ち破るシュールさにあるのだ。
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by kourick | 2006-03-10 00:00 | 考察
 トリノ五輪の影響でカーリングが流行っているらしい。その理詰めの展開から「氷上のチェス」と呼ばれるらしいのだけれど、カーリングはチェスよりもビリヤードに近いように思う。だからといって、じゃあ「氷上のビリヤード」ならいいのかというと、それもちょっと違う。

 逆に、ビリヤードを「卓上のカーリング」とすると、これはかなり違う。ちなみに「ピンポン=卓上のテニス」「テニス=地上のピンポン」とかだとあまり違和感はない。なににせよ、「チェス/理詰め」という連関の自然さにここは感心するところなのだろう。

 これが「将棋」や「囲碁」になるとまた印象が変わる。やはり、典型的な「理詰め」の印象、「シンプルなルーチンワーク」を感じさせるのは「チェス」だ。将棋は「奪取した駒を再利用できる」こと、囲碁は「盤面が広すぎる」ことでチェスよりも複雑になる。
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by kourick | 2006-03-08 00:00 | 考察
駒苫野球部が甲子園の出場を辞退したなと思っていたら、続けて耐震強度偽装問題が明らかになりました。こういう問題が起きた場合、やらなければならないことはみっつあります。それは「被害者の救済」「原因の究明」「責任の所在の追及」です。妙に「の」が多いけれど、それは仕方がない。

「被害者の救済」は言うまでもないにしても、「原因の究明」は「再発の防止」のため、「責任の所在の追及」は「体質の改善」のためにされます。なされて当然に思えて、実のところ、この三原則はしっかりと遂行されるとは限りません。こういうところは注意してチェックしないといけません。

ともあれ、企業倫理はこれから需要があるようなので転向する人がいるのもわかるのだけれど、精神的に疲れそうだなと The Clash の「RUDIE CAN'T FAIL」を聴きながら思った。
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by kourick | 2006-03-07 00:00 | 考察