カテゴリ:考察( 55 )

 その昔、「徳は教えられうるか」という質問をしたのはプラトンが描写するところのメノンである。この質問にソクラテスは「そもそも徳とは何か」という反問で応えた。これは本質規定の試み、定義の試みとして有名なので知っている人も多いかと思う。

 このソクラテスの反問にメノンはいろいろと定義してみせるが、あれもだめこれもだめとソクラテスに反駁されてしまう。「定義」というメタな試みには言語の階層性か無定義語を必要とするわけだけれど、もちろん当時はそんな道具は用意されていない。

 しかし、用意されていたところで、メノンの疑問は解消できただろうか。メノンの「じゃあ、人は自分の知らないものをどうして探究できるのか」という質問はソクラテスの解答よりも面白い。「なにか」を探究するとき、その「なにか」がわかっていないと探究できないじゃないかということだ。

 なににせよ、メノンのこの質問にソクラテスは「探究するということは、魂が生前に得た知識(イデア)を想起(アナムネーシス)することだぜ」と答えた。これが後に、かの有名なイデア論(&想起説)に繋がる。まあ、それはさておき、徳は教えられうるのだろうか。

 ソクラテスは「徳が知識であるなら教えられうる」と言う。そして、教えられうるなら教えている人がいるはずだ。けれど、徳を(しっかりと)教えられている人なんていない。だから、まずもって徳は知識じゃない。けど、有徳の人というのはいるから、彼らは「正しい思惑」をもっている。

 この正しい思惑をもっている人というのは、人を正しい方向に導けるわけだけれど、その「正しい思惑」というのは神の恵みによって人間に備わるんだよごにょごにょと、最終的にソクラテスも誤魔化している。いや、ソクラテスだからこそ誤魔化しているのかもしれない。

 この結論自体は、そう悪いものでもないんじゃないかと僕は思うけれど、「神の恵み」とか言い出すところはまあ、正直なんだかなという気持ちもないではない。むしろ「正しい思惑」のその正しさをいかにして規定するかという方向性のほうが建設的だったかもしれない。

 しかしそんなことを言い出すとまた「正しさ」の定義に逆戻りするので、イデアの方向に突き抜けるのがプラトンの描写するところのソクラテスとしては正解だっただろう。ちなみに、ギリシア的な「徳(アレテー)」というのは、現代の「道徳(モラル)」とはちょっと意味合いが異なる。

 しかしそんなことはお構いなしに道徳の話をすると、「道徳は教えられるのか」という論争は基本的にはソクラテスとメノンの感覚の違いからそう変わってはいないかもしれない。過去には教育勅語に「修身」があったし、現在では「道徳」の授業はある。

 けれど、その「道徳」の時間でなにか道徳的なことが教えられるのかというと、どうだろう。知識としてなにかを伝授している気配はない。現場の先生たちも正直、これには困っているだろう。そもそも、いま求められる道徳についての社会的な議論自体が足りていない。

 大抵、NHKの番組を見せたりしてお茶を濁しているのではないか。倫理的な問題を軸に議論でもできるなら良いのだけれど、日本人は本当に議論というものが苦手だ。それはもう大人にとっても致命的で、日本の社会・文化に子供に提供できるほどの議論のリソースはないだろう。

 というか、日常の学校生活の全体がすでに道徳教育になっているというのもある。学級経営の半分はそこにある。海外では道徳というのは宗教が担っていたりするが、日本では空気がそれを担っている。そして、空気の読み方(良心の使い方)は日常の指導のなかにあるのだ。

 だから、とりわけ「道徳」の時間にすることがないということはあるかもしれない。むしろ、教師が児童・生徒になんらかの価値判断を指導すること自体が、保護者や管理職には嫌われがちだ。道徳に関しては、海外ではそれで成功しているからといって、日本で通用する保証はない。
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by kourick | 2012-02-06 00:00 | 考察
 次の式の値を求めよ。
6 ÷ 2(1+2)
 これは昨年末、台湾の facebook コミュニティ(?)で話題になり、日本のネットでも大きな反響をよんだ問題である。なにかひっかけがあるんじゃないかと身構えてしまうかもしれないけれど、素直に計算してみてほしい。どうなっただろうか。ちなみに僕は「1」になった。

 しかし、この式は「9」と計算することもできる。僕は正直、気付かなかったけれど、そう計算した人のほうが元記事を読むかぎり、多かったようだ。どういうことかわかるだろうか。教育関係の算数業界の人なら、「ああ、あれね」という感じかもしれない。つまり、こういうことである。
(a)
 6 ÷ 2(1+2) =
 6 ÷ 2(3) =
 6 ÷ 6 = 1
(b)
 6 ÷ 2(1+2) =
 6 ÷ 2(3) =
 6 ÷ 2 × 3 =
 3 × 3 = 9
 元の式を、(a)は二項式とみていて、(b)は省略された三項式とみているという違いがある。なるほど、という感じである。まあ、「9」になるような計算を拒否する便法というのはけっこうあると思うけれど、厳密に言うならやはり、構文エラーだろうなと思う。ポーランド記法なら起こらない。

 ちなみに、元の式の「÷」も省略してしまうなら、
6 / 2(1+2)
という一項式になるが、こちらの値は「1」とする人が多そうである。同じことではあるのだけれど、これらの省略を展開し、「9」を求める人はあまりいないだろうということは想像できる。どうしてか。はっきりと(上下に)区切られているからだろう。これはもう、認知心理学の領域である。

 もともとの「a÷bc」のかたちの式だと、(a)の「a÷(bc)」と、(b)の「(a÷b)c」にけっこう解釈が分かれるのに、「a/bc」のかたちの式だと、ほとんどの人が「a/(bc)」と解釈して、「(a/b)c」とは解釈しなそうだというのはなかなか面白い(試してみないとわからないけれど、たぶんそうだろう)。

 さて、元の式である。この多意性はどこに問題があるのかと考えると、これは記号の結合力の問題なのかなと思う。記号の結合力というのは、いわゆる、「足し算や引き算よりも、掛け算や割り算を先に計算しましょう。括弧があったら、そのなかを最初に計算しましょう」というやつである。

 算数だったら、「=」<「+」「-」<「×」「÷」の順に結合力が強まると教えられる(この書き方でわかるかな)。さらに、基本的に左のほうから順番に計算しましょうというルールもあったりする。記号の結合力が定まっていると、余分な記号を省略することができるから便利だ。たとえば、
(5+(3×6))
 は
5+3×6
 としてもいいし、
((3×6)×(8+(2×5)+(7×4)-3))
 は
3×6×(8+2×5+7×4-3)
としてもいい。もちろん、省略してはいけない括弧もある。式の一意性が保たれているなら、冗長な括弧や結合力の強い記号を囲む括弧は省略できるということである。とはいっても、これはメタなルールであって、どこかに書かれているかというと書かれてはいない。

 「まあ、わかるよね」という慣習である。定義と形成規則の他に、記号の結合力を明記するということは普通しない。仮に明記したとしても、今回の場合のような「演算子の省略」を許すことはないだろう。これはやはり「共通因子は先に計算しちゃいましょう」という慣習である。

 こういうのは人が筆記するようなときに記号を省略するためのテクニックにあたるもので、「厳密に言うと、おかしい」というようなことはけっこうある。「ここの括弧は省略するけど、これ一意に読めるよね」という暗黙の了解のなせるわざみたいな感じである。今回の場合だと、
(a)
 6÷(2(1+2))
(b)
 (6÷2)(1+2)
 (a)の括弧は冗長だから省略するけど、これわかるよねという意識があるだろう。一方、(b)の括弧を省略しようとはあまり思わないに違いない。どうしてか。それを省略してしまうと多意的になってしまうことがあきらかに予想できるからだ。しかし、こうした判断は意外と曖昧なものである。

 ちなみに、記号の結合力というのは論理記号にもあるし、記号言語だけかというと自然言語でも分野によっては結合力が定まっている。たとえば、法文における「及び」と「並びに」は「及び」のほうが強いし、「又は」と「若しくは」は「又は」のほうが強いと決まっている。

 読むという行為は文字が読めるならできているものと思うだろうし、実際、そうなのだけれど、なにかおかしいなと思うことがあったら、文章を否定する前に一度「自分は本当に読めているのか?」ときちんと疑ってみることも必要かもしれない。意外と読めていないこともあるものである。

 ところで、この話題をみていて僕が「なんだかな」と思ったのは、数学者や教師を名乗る人たちはわりとコメントを出しているのに、こういうのをもっとも得意とするだろう論理学者や哲学者のコメントはあまり見かけなかったことだ。それが僕には残念でならないのである。
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by kourick | 2012-01-10 13:00 | 考察
 年を越し、さあ、そろそろ後編を書いてみようと思うのだけれど、正直、僕はちょっと緊張している。というのも、前・中編を読むかぎり、やりようによってはおよそ正反対の教訓すら引き出しうるように、僕には思われるからだ。とはいえ、まあ、あまり客観的にならないように、やってみよう。

 さて、地球球体説である。前回、前々回、僕は実際に疑ってみた。かなり素人臭のする懐疑かもしれないけれど、こんなものだろう。これだけ真面目に思考していて、もし「だから、それは科学的に否定されているから」などと説教されてしまったら、それは「科学」を嫌いにもなろうというものだ。

 しかしまあ、地球球体説を疑う人の言っていることはどこかおかしい、そうじゃなきゃいけないと思う人は多いだろう。疑うことを否定することと同義だと思い、屁理屈を捏ねられているように感じる人もいるだろう。そういった人は、まあ、自分のなかの常識を疑われるのがうざったいのだろう。

 だから、「科学的に否定されている」などといったことを言ってしまう。それは要するに「考えるのが面倒臭い」とか「説明できない」という意味であり、だったらそう言えばいいのだが、ついつい科学に責任転嫁してしまう。この手の無責任さは道徳教育などにおいても見られるが、罪深いものだ。

 このようなことを言うとき、その人は「科学的である」ということをどのように理解しているだろう。むしろ、科学的事実を盾にして相手の思考を封殺しているだけではないか。だとすると、残念ながら、それは「科学的な態度」とは言い難い。それは学識ある大人の姿ではないだろう。

 ところで、前々回から、科学の名のもとに人々を小馬鹿にする人物を、さも当然のように登場させているが、しかし実際、そのように人を辟易させるのが得意な人というのは(まあまあ)いるものである。そして、僕は無知よりも、その種の傲慢さにより強い虚しさを覚えるのだ。

 というわけで、僕はここで「科学の方法論」や「科学と宗教」といったことよりむしろ、「学問的な態度」ということを言いたいわけである。主張の再現性や反証可能性、説明能力の高さといったことは重要だし、事実が信じることとは無関係に成立しているという認識は、たしかに重要なことだ。

 しかし、それもこれも、「知ろうとする」という意欲あってのことである。この段階においては「信じようとする」と言い換えてもよいかもしれない。「わからなさ」や「疑い」のただなかにあって、よりもっともらしいものに漸近しようとする意志、それを損なわないようにしたい、してほしいと思うのだ。

 それゆえ僕は、学問的思考のエッセンスは、よりもっともらしい説明を求め、思考錯誤することを惜しまない精神にあるのだろうと思っている。要するに、軽々には「断定しない」ということである。曖昧な領域に留まりながら地道な検証作業を積み重ね、確からしさを高めるということだ。

 踏み止まる、我慢する、悩む、疑う、そして、その足踏みのなかから思い切って一歩を踏み出す、たぶんこうだろう、こう考えないとおかしいと主張する。こうした慎重さが、学問的な態度には必要である。そのときにこそ、自分の意見に対する自負や責任感が生まれる。

 しかし、どうしてそんなことをするのか。これはけっこう難しい問題である。そもそも僕自身、そんなことができているのかというと、いささかこころもとないところがある。まあしかし、それは自分の道徳心に自信がなかったとしても、子供を躾けないといけないというのと同じことかもしれない。

 「どうして科学的な物の見方を身に付けなきゃいけないの」と質問されたら、僕はその相手によって返答の仕方が変わるだろう。しかし、結局のところは、科学的な世界観というものを自分の現実として持っているということはスマートなことなのだと身をもって示したいとは思うのである。

 これもまあ、いちおう、ちょっと変則的な科学論ということができるのかもしれない。こういった問答はややカウンセリングの様相を呈しているが、科学というのはもはや日常の基礎にあるものなのだから、そこからの逸脱を修正できるような姿勢というのは大切だろう。

 だから、科学の柔軟さを硬直させないようなストレッチというのは、たまにはしたほうが良いのである。つまりどういうことか。人の話を聴き、一緒に考えてみるということである。考えるということを通して結論を出し、考え方自身を意識するようにしてみるということかなと思う。

 というわけで、本当に地球は丸いのだろうか。もし誰か、僕のテキストに目を通して地球が球体ではないと思った人はいるだろうか。いないだろう、そりゃそうである。疑いうるということは、まだ、なんらその疑われるところのもののもっともらしさを損なうものではない。

 実際、この疑っている人物は疑ってみせているだけで、その結論は保留している。充分な情報を提供し、一緒に考えてくれる人が身近にいたなら、そう心配せずとももっともな理解に到達するだろう。それに、今回はたまたま地球は球体だったが、そうじゃないこともあるかもしれない。

 そう考えるのならば、仮に円盤状の惑星が存在するとして、そのためにはどのような条件が整っている必要があるのか、その場合、どのような現象が生じうるのかと探究を進めることもできるだろう。そうすると、これはもはや非科学的とは限らない。考えることの自由は、こういうところにある。
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by kourick | 2012-01-04 23:00 | 考察
 ところで、わたしはどうやって「地球は球体である」ということを常識として受け容れたのだろう。見たことも確かめたこともないことを、どうやってわたしは受け容れたのだ。わたしは日常生活のどこかで、一度でも地球の丸みを感じたことがあっただろうか。いや、ない。

 むしろ、球体だとするとおかしいことのほうが多いのではないか。目の前の道を直進すると同じ場所に後ろから到着するというのは変じゃないか。いや、それより、もし球体だとすると、上のほうにいる人は良いけれど、横とか下にいる人は宇宙に落ちて行ってしまうだろう。おかしいぞ。

 だが、僕は知っている、地球には引力というものがあって、物というのは下に落ちるのではなく、物が落ちる方向を下と言うのである。だが、これはいかにも詭弁染みている。この「目には見えない力」を提唱したニュートンだって、最初は「オカルトだ」と非難されたのだ。疑わしいものである。

 じゃあ、どうやって僕はこの常識を獲得したのか。それは学校で習ったからである。大人たちから、この世界(あるいは社会、文化、共同体)の先住者たちから習ったのだ。教科書を見ると、様々な惑星が球体で描かれている。地球儀なんて、そのままである。わたしはいま、そこにいる。

 だが、それははたして確実なのだろうか。教科書が誤りうるということを、僕たちは知っている。むしろそれは日常茶飯事といってもいい。教科書は真実の書物ではない。先生は地球が球体であることを確かめたのだろうか。どうして先生は宇宙飛行士じゃないんですか!と胸をドンドンしたい。

 それにしても、教師たちはいったいどうやって「地球が球体である」ということを教えていただろう。僕は理科の時間を思い出す。地球球体説の根拠はふたつあった。ひとつは「地平線の丸さ」であり、ひとつは「船の見え方」である。よし、これを自分で検証しよう、とあなたは思う。

 先生は「陸地ではわからないけれど、岬の突端から地平線を眺めると地球の丸さがわかるよ」と言った。なるほどたしかに、見渡すかぎり地平線のような視界の開けたところなら地球の丸みもわかることだろう。僕は実際、それを試したことがある。神威岬と宗谷岬と足摺岬の突端に立った。

 青い空、青い海、青いものしかないので地平線も青そうなものだが、地平線を青いと言ってよいものか、僕は少し悩んだ。ぼんやりと白みのあるゾーンが空と海の明確な境界を覆い隠している。地平線というのはどこからでも確認できるのに、どこにも存在しない。不思議なものである。

 僕は地平線を見る。「ほら、丸いでしょう」と言われたら、たしかに丸い。しかし、「ほら、あれはね、一見丸そうに見えるけど、本当はまっすぐなんだよ」と言われたら、たぶん、まっすぐにも見えただろう。人間の知覚というのは不確かなもので、目の錯覚という現象があることを僕は知っていた。

 「視界が広いと遠近感が顕著になるから端のほうは丸まって見えるんだよ」とか、「眼球は丸いから横のほうから入ってくる光は少し曲がって脳内で処理されちゃうんだよ」とか言われたら、そんなような気もしてくるだろう。これでは地球が丸いかどうかはわからない。地球は丸い以前にデカい。

 じゃあ、もう片方はどうだろう。先生は「地球というのは丸いから、船が沖に行ってしまうときは船体から消えていくし、沖から戻ってくるときは帆先から見えてくるんだよ」と言った。なるほど、地球が丸いならそうなるはずだ。僕は実際、それを試したことがある。小樽と函館と苫小牧で船を眺めた。

 はっきり言って、これは嘘と言っていいと思う。手心を加えるなら、誇張といったところか。船体だとか帆先だとか部分がどうこうという以前に、「遠すぎて船全体が見えなくなる」が正解である。高倍率の望遠鏡などがあれば確認できたのかもしれないが、残念ながら僕は持っていなかった。

 それに「沖のほうが波が高いから、船体から見えなくなるんだよ」と言われたら、そうかなという気になっただろうし、「沖のほうが海面付近の気温が低いから、光が屈折して、船体から消えるように見えるんだよ」とか言われたら、それはそれで説得力があったに違いない。

 要するに、地球球体説の根拠はどちらも不十分である。それらはたしかに、「もし地球が球体であるなら」どうなるかということを理論的に説明してはいるかもしれないが、残念ながら、それらは「地球が球体である」ことの証明にはなっていない。おい、地球、お前ホントに丸いのか?(続く)
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by kourick | 2011-12-29 18:30 | 考察
 「Flat Earth Society」なる団体を御存知だろうか。逐語的に訳すなら「平面地球協会」といったところだろうか、その名の通り、「地球は平面である」という主張をしている団体である。この「平面である」という主張のなかには「地球は球体ではない」という主張も含まれている。

 100年前ならまだしも、人類が地球の重力を振り切って早50年、人工衛星がクルクルと無数に地球を廻り、国際宇宙ステーションに常にクルーが滞在するような御時世、「地球は平面の円盤である」という主張には言い逃れしようのない滑稽さが漂っている。

 ある人は彼らを馬鹿にするかもしれないし、ある人は間違ったことを子供たちに教えるなと憤るかもしれない、ある人は彼らが社会的な悪であるかのように断罪するかもしれない。かもしれないかもしれないと言ったが、実際のところ、人々は彼らを「阿呆らしい集団だ」と見下すだろう。

 なるほど、たしかに彼らは間違っている。地球は球体なのであり、平面ではない。それが事実である。しかし、それは端的に誤りなのであり、彼らを笑うこととは無縁である。しかし、大勢の人が彼らの主張を笑うだろう。どうしてか。あまりにも「地球は球体だ」ということが当たり前だからである。

 「地球は球体である」ということは、科学の発展により知ることのできた事実であり、大勢の人によってその知識が共有されているからである。それに対して、「地球は平面である」という主張は、まるで御伽噺の世界に迷い込んだような印象を与える。たわいない空想に思われる。

 だが、彼らの主張をいったん留保して、私たちの主張を検討するなら、そして、彼らを笑うときに感じる居心地の悪さを正直に受け止めるなら、僕たちは幾つかの教訓を読み取ることができる。いちおう言っておくけれど、僕も「地球は球体だ」と思っている。当たり前である。

 さて、いまこの文章を読んでいる人のなかで、「地球が球体である」ことを証明できる人はいるだろうか。少なくともそうでなければ、彼らの主張を無視することはできても、彼らを馬鹿にすることはできない。もし、あなたが宇宙飛行士なのなら簡単だ。「わたしは見てきた」と言うことができる。

 それを相手が信用するかどうかはさておき、実際に見てきたのだから自信を持っていい。しかしたぶん、あなたは宇宙飛行士ではないのではないか。じゃあ、どうしてあなたは地球が球体だと思うのか。宇宙飛行士やその家族に聞いたからという人は、けっこういるかもしれない。

 ガガーリンから「地球は丸かった」ということを聞いたり、ガガーリンの家族から「丸かったって言ってたよ」とか聞いたことのある人もいるだろう。僕はそうではないが、そういう人もいるだろう。だが、伝聞の信憑性が低いということを僕たちは知っているし、人の噂は頻繁に誤るものである。

 じゃあ、そもそもの、もっと専門家に訊いてみたらどうだろうか。NASA の発表で「地球は球体だ」というものもあるだろう。これなら信用できるか。いや、それも NASA の捏造かもしれない。実際、そういう噂もあるではないか。政府から莫大な予算を取るために嘘を吐いているのかもしれない。

 だが、宇宙からのビデオテープが残っているし、写真もある。いやしかし、僕たちはもう、CG や VFX によって本当は存在しないものが、あたかも存在しているように動きまわる映像や画像を見てきている。その程度の証拠を提示されたところで疑わしいものである。本当に宇宙に行ったのか?

 それに NASA なら、そういったことをやりそうなものである。人はそう思う。そういう意味では、凄まじいほどの「NASA」の説得力である。NASA が嘘を吐いているということになると、宇宙飛行士たちの証言も怪しいものだ。そもそも、少数の意見を根拠なしに信じるのは危険じゃないか。

 NASA が信用できないということになると、JAXA も、他の機関も信用できない。専門書を読めという人がいるかもしれない。しかし、文献を漁るなら、地球を円盤に描いている書物もたくさんあるのだ。自分で直接見たわけではないという条件では、球体だろうが円盤だろうが一緒である。

 いや、直接見たということをことさら信頼するのも、どうだろう。人は見誤ることがあるし、蜃気楼や夢のようにその場所に存在しないことすらある。平面地球だと重要な理論が破綻すると言う人もいるかもしれないが、じゃあ、実例を挙げてと言われると、答えに窮する人も多いのではないか。

 本当に地球は球体なのか。そろそろ心配になり始める。どうして人々はなんの疑いもなく、それを信じているのだろう。普段は疑り深い人たちが、大勢の常識になっているというだけで確信し、自分たちと異なる意見の人たちを攻撃している。なにかおかしいんじゃないか、とあなたは思う。

 科学的事実を正義として用いる人々の科学的盲目さを、どのように胸のうちに収めたらよいだろう。これでは異教徒弾圧と同じようなものである。あの美徳であった宗教的寛容すら、ここにはない。科学的探究に寛容さなど不必要だが、科学の効用とは相手を沈黙させるためにあるのか。(続く)
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by kourick | 2011-12-28 17:00 | 考察
 そろそろ最後にしようと思う。ちなみに、ここに書いているようなルソー理解というのは、粗削りで大雑把な僕のなかのスケッチに過ぎず、細かい知識に場所を与えてちゃっちゃと頭のなかに収めるための下書きに過ぎないので、あまり真に受けないほうがいい。偏見に満ちている。

 もし興味を抱いたのなら「おいおい、ホントにそんなに酷いのかよ?」という気持ちで僕を批判するように、自身でルソーを読んでみることをおすすめする。まあ、個人的にはルソーなんて読まないことをおすすめするけれど、古典を直接読み進めるというのは悪いものではない。

 しかし、ルソーに関して言うと、彼の場合はプライベートの逸話が酷すぎて、その著書を読んだところでルソー自身の面白さには敵わない。友人関係も出鱈目であり、ダランベールに宛てた手紙のなかで、なぜかディドロと絶交するあたりはルソーの本領発揮といったところである。
友人に対して剣を抜いたとしても、絶望することはない。剣をおさめる方法はある。言葉で友人を不幸にしたとしても恐れることはない。和解は可能なのだ。しかし、秘密を暴き立て、裏切りによって友人の心を傷付けたなら、もはや友人の心から優しさは失われる。彼は去り、そして二度と戻ってはこない。
 詳細は割愛するが、これはディドロに嫌がらせを受けたと妄想したルソーが「裏切り者め!」とディドロに噛み付いている一節である。全然関係ないはずの手紙のなかで、いきなり私怨が混じるのが熱い。ルソーはやはり、思想家というよりは、思想をアレンジする作家という感じである。

 そのときの感情に任せて、なにかに反発するために文章を書いている。ディドロやグリム、ヴォルテールといった人たちがいつもフェアだったかというと疑問ではあるが、ルソーの病的な被害妄想には負ける。しかもこのときは百科全書の<ジュネーヴ>問題の巻き起こっていた時期である。

 ジュネーヴの宗教解釈に首を突っ込んでしまい喧々囂々の騒ぎになっていた頃、ルソーもそれを批判するのだが、正直、宗教なんてどうでもいいルソーは「お前ら、ジュネーヴに劇場を立てようとしているな!そんな悪徳は許さん!やめろ!」とよくわからない方向にキレた。

 ルソーも作曲家だし、劇作家なのにである。こうした対応に疲れてしまった理系人間ダランベールは「もうやめるわ」と百科全書の編集を降りようとするし、ヴォルテールも「やめろやめろ、百科全書なんてやめろ」とか言い出すし、このときはさすがにディドロもかなりムカついただろう。

 一方のルソーはというと、文明国フランスの道徳の荒廃を嘆いたかと思うと私生活では変態行為にいそしみ、ディドロたちにジュネーヴに劇場を作るのをやめろと言ったかと思うと自分は新しい戯曲を書いて上演していた。サン・ランベールは「二度と戻ってこない人」からの手紙に、こう返信した。
君の贈り物を受け取るわけにはいかない。君にはディドロを非難する理由があるのかもしれないが(おそらくはないだろうが)、公の場で彼を非難する権利はないはずだ。君はあの告発で、彼がどんなに苦しんだかわかっていない。(中略)
 私とは互いに納得し合うにはあまりにも主義が違いすぎる。私の存在など忘れてしまえ。私も君のことなど忘れてしまい、君のことや君の才能を思い出すこともないと約束する。
 熱い展開である。だが、もっと熱いのは、ルソーがこの類の手紙を書かれるのは、これが初めてではないということである。記録にある限り、ここまでで同種の手紙を三通、書かれている。一通はグリムからルソー、一通はディドロからグリム、もう一通はエピネ夫人からルソーへのものである。
もし私が君を許せるなら、私は自分を友を持つのに値しない人間だと考えなければなるまい。二度と君には会いたくない。そして、もし君のふるまいを記憶から消し去れるなら、どんなにか幸福だろう。私を忘れてくれたまえ、そして、これ以上私の邪魔をしないでくれ。
 これがグリム。そして、次がディドロからグリム宛の手紙。
彼は気違いだ。私はありったけの力で彼の行為を非難したが、彼は怒りにまかせた自己弁護をして私を苦しめた。(中略)
 ああ、この怒り狂った男の光景、なんという男なのだ! もう二度と彼には会いたくない。彼は私に悪魔と地獄の存在を信じさせた。
 すごい言われようである。そして、エピネ夫人からの手紙だ。
何年もの間、私はあなたに友情のあらゆるしるしを差し上げてきました。しかし、いま私にできることはあなたを憐れむことだけです。あなたはたいへん不幸な人です。(中略)
 私はもうこれ以上、あなたに言うことはありません。
 どんな事情があるにせよ、ここまで言われる人間はそういないのではないかと僕は思う。なんらかの精神疾患や脳の器質的疾患を疑ってしまうところだが、それこそ憶測なのでやめよう。しかし、ルソーもやられっ放しではない。だからこそ泥沼に突入する。彼はヴォルテールに手紙を送った。
私はあなたが嫌いだ。あなたの弟子と熱狂者、そしてあなたは私に最もひどい苦痛をもたらした。(中略)
 一言で言えば、私はあなたを憎む。あなたがそう望んでいるからだ。しかし、もしあなたがそう望むなら、私は心の中にあなたへの一抹の愛を残して憎む。
 私の心には依然としてあなたの才能を称え、あなたの文筆を愛する気持ちは残っている。私がただ、あなたの才能だけを評価したところで、それは私のせいではない。今後、私があなたの才能だけを褒めたとしても、それは私の罪ではない。
 そうさせたのはあなただからだ。
 熱っつい。というか、面倒臭い。親しかった友人たちに対する全方位射撃である。さすがのヴォルテールもルソーのこの手紙には返信しなかった。そして、ダランベールに宛てた手紙の中で、こう語る。
私はルソーから長い手紙を受け取った。彼は完全に気が狂っている。(中略)彼は友人たちを見捨てたのだ。彼は私に気違いでも書かないような手紙を書いてきた。
 気持ちはわかる。もし仮にヴォルテールがすべて悪かったのだとしても(おそらくそんなことはないだろうが)、ルソーの相手をするのは面倒臭い。その著作からルソーは名声もあり、どこに行っても歓待されるのだけれど、どこに行ってもルソーは不満を感じ、喧嘩をするか脱走している。

 そして、どうして自分は誰にも理解されないのだろうと嘆いた。もうみんなわかっているだろうけれど、はっきり言って、僕はルソーが嫌いである。歴史上の人物でこんなにうんざりする人間がいることに驚いてしまう。だが、彼は魅力的な人間だし、晩年のルソーの嘆きには感じるものもある。

 『告白』 というとアウグスティヌスを思われる方も多いと思うが、あれは人前でそろそろと帽子を脱いだようなもので、告白というにはなまぬるい。一方、ルソーの 『告白』 というのは、これは人前でとりあえずズボンを下ろしたようなもので、そこからさらに全裸ネクタイまである。

 ルソーは困った男だが、面白味のある気の良い変態だっただろうなという気はする。直接会って話すことができたら、けっこう刺激的で楽しかったのだろう。まあ、フランス語あまりわからないけど。ド・スタール夫人はルソーの死後、彼をこう評している。
ルソーは新しいことは何一つ生み出しはしなかったが、あらゆるものに火をつけた。
 これはなかなか、なるほどと思うところがある。『エミール』 の含蓄のあるところはモンテーニュやフェヌロン、ロランやロックなどに負っているし、『社会契約論』 もロックやプーフェンドルフ、グロティウスやホッブズなどに負っている。強固な「主権在民」の主張以外に、どこか役に立ったのか。

 当時の市井の人たちが 『社会契約論』 を精読していたとはとても思えない。精読した人は極端な話、ロベスピエールくらいのものではないか。基本的に脳内お花畑のルソーの思想は、「一般意思」や「市民宗教」などの謎概念も含んでおり、かなりグロテスクである。

 まあ、グロテスクさということでは 『社会契約論』 が特別だとしても、さまざまなルソーの著作は、読者の思考に訴えかけるというよりは、読者の価値観を揺さぶるタイプのものだ。感情的なフックが効いている。そういう言論家というのは往々にして、反論を受けることでテーマセッターになる。

 それがルソーにとって見越していたことなのか幸せなことだったかどうかは定かではないけれど、ルソーはいつも言論の渦中にいたし、ルソーはいつも情熱的な何かを求めて悲嘆に暮れていた。行動を起こすたびに傷付き、怒り、後悔した。僕はほとほと、そこに人間を見るのである。(終)
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by kourick | 2011-12-27 03:00 | 考察
 さあ、書いていこう。とは思うのだけれど、これを書き始めるにあたり、ルソーの発言を確認しているうちに本当にイライラしてしまい、かなり思考を放棄しかけたことを最初に言っておこうと思う。ルソーの言うことは首尾一貫していないし、無責任だからだ。無視したほうがいい。

 そして、実際、ヴォルテールやディドロがとった方策とは、そのようなものだ。しかし、無視されるとルソーは逆切れして、粘着してきた。仕方ないから構ってあげると「嫌がらせをするな!」と怒鳴る。本当にどうしようもない男だ。いや、それはさておき、まずは自然状態である。

 ルソーは自然状態において、人は自己愛と憐みに満ちており、完全に自由で独立していると考えていた。このとき、自己を愛するという「感情」が基礎にあることに注目してほしい。また、自己を愛する人ほど、他人を憐れむことができるとルソーは言った。

 なぜなら、他者の貧しさから受け取る不快感は自分を愛する人ほど強いからである。人が苦しむのを見ていることに自分が苦しいから、人は他者を憐れむのである。ルソーの自然状態に貧しさがあるのは謎だが、ここでも自己の「不快感」や、それを受け取る「感受性」が基礎にある。

 とにかくこのように、ルソーにとっては「人は自然状態においてこそ完璧」なのである。ホッブズや当時の常識とは逆である。しかし、真に逆であるのはここからである。そんな完璧だったはずの人間が、どうして現実の私たちのような人間になるのだろう、その問いにルソーはこう答えた。

 理性や文明のせいで、人はダメになる。ルソーは仲間の啓蒙思想家たちが教会の権威から脱却するために頑張っているなか、理性はたしかに重要かもしれないけど、それだけじゃダメっていうか、それこそがダメと言った。理性なんかがあるから、人は競争と敵対を始めちゃう。

 ルソー自身、感情的な人だったが、ルソーは理性よりも感情に重きをおいた。ルソーは 『エミール』 に「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」と書いているが、これは人間社会で知恵を付けるとダメになるということだ。

 ルソーは理性の素晴らしさをうたう、しかし、理性により感情が腐敗するともうたう。嫉妬や憎悪といった感情は後天的に人が知恵を付けることによって生まれる罪悪であり、ルソーのいう自然状態の人は持っていない。全員がアタラクシアの夢の中、牧歌的な幸福を味わっている。

 だからルソーは「子供に余計なことはするな」と言った。このとき子供は、小さな大人でもわがままな子鬼でもなく、天使になった。「子供には子供特有の感じ方、考え方があるので、それを尊重しなさい」と言った。これらの言葉は「子供」を「ルソー」に置き換えて読むべきだろうか。

 そして、文明があるからこそ、人は他の人に依存するようになってしまうし、私有財産などというようなものを認めるから貧富の差が出てきてしまうのだと説いた。だからこそ、裕福な人は横領や搾取を始め、貧困な人は略奪や強盗を始めてしまう。これがダメなのだとルソーは考えた。

 だから、ルソーは未開の人々こそが素晴らしいと言ったし、非文明的な状態こそ幸福だと言った。これは一種のオリエンタリズムだろう。だが、一方で、ルソーは「自然状態はもはや存在しないし、一度も存在したことがないし、これからも存在しないだろう」とも言う。困ったものだ。

 とにかく、これはホッブズの性悪説的な見方に対して、性善説的な見方としてよいだろう。結局のところ、これが衝撃的だったのだ。子供も大人もひとしなみに善い存在であり、悪いから型に嵌めるのではなく、型に嵌めるから悪くなるのだと説いた。この価値観だけは一貫している。

 そして、ルソーは自然の感情の素晴らしさをうたった。そして、それは時代の求めた自由とも適合した。人々にとっては理性もまた、力強いものであるものの、鬱陶しいものでもあったのだろう。ルソーは情感豊かに理想を語り、人々に素敵な夢を見させることがとても上手だった。

 だが、このルソー、ダメダメ言うのに歯止めが利かなくなる。僕が思うに、ルソーを突き動かしていたものこそが、まさにルソーが忌み嫌った文明によって毒された自尊心だっただろう。ルソーは胸中に渦巻いた不満を理性に頼って排出していた。まさに「感情のまま」に。

 ルソーの場合、これはどこか「いまからするのは悪いお手本だからね」と言いながら、お手本を示す行為に似ている。ルソーは理性を素晴らしいものと認めつつ、理性を非難した。なぜなら、人間本来の感情のほうがもっと素晴らしいからである。これは逆説的な人間賛歌になっている。

 これが嵐を巻き起こしたのだ。18世紀の人々がもうそろそろ、頭を使うことに疲れていたというのもあるのではないかと思う。もともとポテンシャルの高いブルジョアやインテリ以外の人たちには、これこそが福音に聞こえたかもしれない。事実、理性信仰は行き過ぎたところがあったのだ。

 だからこそ、死後のルソーの名声は、ヴォルテールたちに対するカウンターとして機能することになる。実際、借り物の言葉だとしても、ルソーはところどころ面白いことを書き残していた。要するに、ルソーがもし不幸だったとしたら、それは純粋に、彼の徳のなさ、素行の悪さにある。

(続きます、か?)
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by kourick | 2011-12-25 22:00 | 考察
 「善く行くものは轍迹なし」とは老子の言葉で、僕も理想とするところではあるが、歴史に名を残す人というのもまた、やはり偉大なものである。たいていの場合、彼らはそれまでにあったものを否定すること、超克することで新しいことを為す。とりわけ思想の潮流に関してはそう言える。

 そういうとき、思想家はおおまかに三種類に分けられる。「作る人」「作るために壊す人」「壊す人」の三種類である。ソクラテスは壊す人だ。アリストテレスは作る人だろうか。バークリは作るために壊す人かな。ニーチェはもちろん壊す人だ。そして、ルソーも壊す人である。

 ルソーが壊すものは権威だったり理論だったり、そういう通常の思想家が相手にするところのものではない。最初から、ルソーがゆさぶっているのは価値観である。彼を苛立たせるのは彼を抑圧するもの、というか、彼に押し付けられるもの全部かもしれない。

 ルソーの「したいようにさせろよ!」という駄々を落ち着かせようとするものには、その効用を見定めることなしに手当たり次第に反発するから、その結果として、性悪説的な人間観に基礎付けられて築かれてきた社会の秩序を根底から覆す主張になっているという感じだろうか。

 たとえば、わかりやすい例としては、社会契約説におけるホッブズとの違いを見てみよう。ホッブズは自然状態において、人は「万人の万人に対する闘争」状態に陥ると考えていた。というのも、現実社会ではさまざまな階級による秩序があるが、自然状態では皆が均質で自由だからである。

 自由だからこそ奪い合うというわけである。ニュースで見たことのある光景だ。自然状態において、人は自己保存のために「なにをしてもいい自由」と「あらゆるものを手に入れる権利」を持つ。これがホッブズのいう自然権(理論的に皆が持っていて当然の権利)である。

 生き延びるためになにをしてもいい権利があったら人はどうするか。ホッブズは考える。たぶんいま、これを読んでいる人の念頭に浮かんだことと同じことをホッブズは思った。ああ、こりゃ奪い合うね、たまに殺すわ。逆に言うと、そう考える人は奪われたり、殺されたりする可能性もある。

 この自然状態を一言でまとめるなら「サザンクロスシティ」である。人間というのは「おれつえー!」「でもこえー!」の二種類の情念を持っているとホッブズは考えていた。オレ強いから奪うけど、オレ強いけど奪われるかも、なにそれこわい。ここに自己保存のための自然権の矛盾が露呈する。

 生き延びるためになにをしてもよいというのが自由なのだが、皆が自由であるがゆえに皆の自由が侵されてしまう。じゃあ、皆でその自然権を放棄することを約束して、遵守することにしましょう。こうした契約によって作り出された絶対主権が、すなわち国家である、とホッブズは言った。

 ひとりひとりの自然権を集めて錬成された人工的人間、それが人造人型決戦兵器リヴァイアサンなのである。このおかげで人々は自然状態の恐怖から解放される。だが、この生き物は国民の契約に由来しているので変更も否定もできない。また、たまに内乱という怪物ビヒモスと戦ったりする。

 さて、こうしたホッブズの考えは、性悪説的な人間観に基礎付けられていると言ってもいいだろう。ちょっと先鋭化されてはいるけれど、こうした価値観というのは、当時の人にとっても(渋々であろうとも)納得できるものだっただろう。これはおそらく、常識の延長線上にあった価値観だ。

 人間は弱い、無知であるなら愚かでもある。自然に任せたままだと、人は粗野な獣と変わらない。自堕落を教化して、奔放な欲望を抑え付け、道徳と法律で秩序を与えなければならない。それは聖職者と統治者の務めであり、人々を人間にするために必要なことである。こういう感じだ。

 ちなみに、いまでも欧米においては人間の獣性は嫌われる。八重歯や尖った耳が忌み嫌われるのは、それが獣性を帯びているからである。これはたぶん、かなり感覚的なものだ。穢れの思想から、日本人が他人の茶碗や箸を使うことを忌み嫌うというようなことに似ているだろう。

 ツラツラと書いているせいか、どうも長文になってしまい、なかなか先に進まない。時代の反逆児ルソーのことは次回に書きたい。ちなみにロックの自然状態は、ホッブズの自然状態に「他者危害の原則」がビルトインされているようなものである(専門家に怒られそうな理解だ)。
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by kourick | 2011-12-22 20:00 | 考察
 僕は最初、ルソーが理解できなかった。いや、もちろんいまでも理解しているとは言いがたいから、どう押さえたらよいのかわからなかったというのが適切だろうか。部分部分はわかるのだけれど、全体像が見えてこないという感じかもしれない。組み合わせても一人の人間にならない。

 『エミール』 のルソーがいて、『社会契約論』『人間不平等起源論』 のルソーがいて、『告白録』『孤独な散歩者の夢想』 のルソーがいる、保守にも仲間にも嫌われるルソーがいれば、大衆の喝采を受けたルソーもいて、影響力としてのルソーもいた。こうなるともう、よくわからない。

 というか、そもそもルソーには胡散臭いイメージがあった。ルソーというのは言葉を引用されやすい偉人、名言先行型の人物だと思う。僕もそんな講演を何度か聴いたことがある。「人間は自由なものとして生まれた」だとか「人間は二度生まれる」だとか、そんな話である。

 それを「活動家」「運動家」「啓発家」然とした人が、したり顔して引用するのだ。そして、やはり素晴らしいことを言っている、とりあえず間違いないみたいな微笑みを受けて、聴衆も拍手しなきゃいけない雰囲気になる。なんだろうこれは、なんだか信用ならないのだ。

 ルソーくらい人間の悲哀を体現していて、「いや、でも、それ自業自得だから」というツッコミ待ちしている人もそういないと思うのだけれど、それがやけに薄っぺらい。ルソーはときに「矛盾の人」と言われるが、ルソーのちょっと良い話だけ聞いても、ルソーの「うおー!」は感じられなかった。

 ルソーがどうしてそんなことを言ったのかいまいちわからないんである。ルソーのモチベーションがわからない。酷いときには「本当にそんなこと言ったのか?」というような気持ちにすらなった。もうひとつ、僕のわからなかったのは、ルソーの影響力である。

 こういう風な印象を持っていると、ルソーというのは別に大したことなかったんじゃないのかと思いそうなものだが、実のところ、ルソーの影響力には凄まじいものがあった。哲学・文学・芸術・教育・政治、そして、市井の女性などにも絶大なる影響を与えている。いったいどういうことなんだ?

 カントは散歩を忘れるほど 『エミール』 にハマり、「道徳界のニュートン」とまで言ったし、ゲーテもファウストに「感情のみが全てだ」と言わせた。教育界ではペスタロッチにモンテッソリ、デューイなどが影響を受け、フレーベルは幼稚園を創った。情操教育の走りのようなものである。

 ジェファーソンはロックやモンテスキューの思想と一緒に、ヴォルテールと、そしてルソーを吸収していったし、趣はかなり異なるが、ロベスピエールはルソーを用いて独裁政治を行った。そしてなにより、ルソーは上層階級の人たちだけではなく、中流・下層階級からの支持が厚かった。

 ほとんど同時代の人たちだけでこれである。後世の影響までを考えると、それは計りしれないものがある。いったいルソーのなにを読むと、この影響力を理解できるのだろう。どこを読むとルソーの衝撃というものを感じることができるのだろう。僕の「わからなさ」は、このあたりにあった。

 僕はいまいち理解力や読解力が低いので、最初に、理解したい対象をより大きな文脈のなかで戯画化しないと、そこにある情報を自分のなかに適切に位置付けられないところがある。そんなこんなで、僕がルソーに貼ったレッテルは「西欧に性善説の嵐を吹かせた人」である。

 この人は性悪説が常識として蔓延っていた近世において、性善説を下敷きにして馬鹿みたいに理想を語った「素朴にして雄弁な子供」だったと押さえると、僕のなかでは、ルソーのすべてがシックリ収まってくる。そして、その言葉のほとんどがルソーの言い訳に聞こえてくるのである。(続く)
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by kourick | 2011-12-21 20:00 | 考察
 ジャン=ジャック・ルソーというのは、よくわからない知名度のある人だ。いまこれを読んでいる人のなかで「ルソーを知らない、聞いたこともない」という人はたぶん、いないだろう。かといって、なにをやった人なのかと問われると、いまいちはっきりしないところがあるのではないかと思う。

 というのはやはり、高校の授業における中途半端な紹介によるだろう。ルソーはまずもって「政経」か「倫理」の時間に現れる。社会契約論のときに「自然状態」を背負って現れ、青年期の心理のときに「第二の誕生」を背負って現れる。そして去っていき、もはや戻ってこない。

 いやしかし、それでもヴォルテールと比較したら、よほど恵まれているかもしれない。ふたりとも18世紀のフランスを代表する人物、時代の精神といってよいと思うけれど、ルソーがなんとなく常識になっているのに対して、ヴォルテールの知名度のなんと低いことか。

 人間というのは根本的なところで頭を使うことがあまり好きではなく、おそらくそれほど得意でもないのではないかと深読みさせられてしまう。ちなみに、同時代のイギリスに生きたサミュエル・ジョンソンは、ヴォルテールを「知性的愚者」と評し、ルソーを「感情的愚者」と評した。

 どっちにしても邪悪な愚者であるのは、彼らがともに教会を中心とした権威や伝統を完膚なきまでに破壊しようとした啓蒙思想の旗手であり、それによって実際、半壊させられてしまうからである。彼らがフランス革命の、そしてアメリカ独立戦争の思想的背景にいたのは御存知の通り。

 これはニュータイプがオールドタイプを批判している様子を想像してもらうとわかりが良いだろう。教会の重力に魂を縛られた人たちを解放するために、彼らは「皆が本来的に持っている「理性」を働かせて「科学」的に思考し「社会」を「進歩」させるなら「幸福」になれる!」と説いた。

 いい加減、教会の腐敗と僧侶の傲慢に嫌気のきていた民衆は、これを熱狂をもって迎えた。啓蒙思想家に感化された人々は「神」よりも「理性」を信仰するようになった。ここから、伝統と秩序の息苦しさから解放されたフランスは自由と平等の混乱を味わうことになる。

 日本という国家の憲法はアメリカ人によって作られたというのはよく知られた事実であるが、そこでは「信教の自由」もうたわれている。これは一見したところ「なにを信仰してもよい」という権利に思われるが、起源を遡るならば、これは「カトリックを信仰しないでもよい」という権利だろう。

 さて、こうした啓蒙思想を押し進め、そのメインストリームにいたのは、ほかでもないヴォルテールであり、ディドロであり、ダランベールだった。晩年ちょっとひよっているところもあるが、最期まで、ヴォルテールは知の騎士だった。さて、ルソーである。ルソーはどこにいってしまったのだろう。

 当初はルソーもこのメインストリームにいた。だが、持ち前の気性の激しさからディドロと絶交し、ダランベールと不仲になり、ヴォルテールと不仲になり、ヒュームと不仲になり、グリムからは嫌がらせを受けた。ルソーほど「絶交」という言葉の似あう人間はそういないだろう。

 こうなると、どうして親交できていたのかがむしろ謎である。たしかに相性が悪そうな感じはある。ヴォルテールやディドロはいかにもフランス的で男性的なのに対し、ルソーはどこかドイツ的で女性的である(思想が、という意味である)。だが、それ以上に価値観が根本的に異なっている。

 いや、ちょっとずつ、なんか違うぞという思いがルソーのなかに積み重なっていったという感じだろうか。近縁にいたからこそ、その違和感も強かっただろう。未来人の僕はルソーをあまり好まないけれど、この時代において、ルソーこそがまさに真正の破壊者だったのだと僕は思う。(続く)
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by kourick | 2011-12-20 22:30 | 考察