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 僕は公務員の子供なので、小さい頃から転勤族として北海道中をうろうろとしていた。もちろん住まいは公務員宿舎だから、それはもう、いまから思うと酷い有様だった。なにから指摘したらよいのか迷うが、要するにコンクリートの塊である。薄暗い灰色の空間、それが公務員宿舎だ。

 いちおう具体的なことも添えると、ぼっとんトイレと裸電球は標準装備、天井の板の染みが顔に見えるのは御愛嬌である。そういった原体験があるのもあってか、僕は一般的に辛いといわれる住環境にかなり強い。もともと僕の満足や幸福の閾値が異常に低いというのもあるだろう。

 そんなわけで、僕が最近まで住んでいたところも平屋の 3LDK で家賃は 7500円だったし、その前に住んでいたところは木造二階建ての 3LK で家賃は 7000円だった。虫との戦い、寒さとの戦いは苛烈だが、まあ、これはこれでと思えるのは我ながら有難いものだと思う。

 田舎にはそんな公務員宿舎がごろごろしており、住環境が整っていないから男性はさておき、女性がやってこない。女性は標準以上の家にしか寝ないものだ、どうにかしたほうが良いだろう。北海道事情を言うと、僕の経験上、住居に関してはやはり道営住宅のほうがいい。

 水洗トイレなどはまあ、ないが、場合によっては簡易水洗だったりすることはある。シャワーもあるだろうし、白い壁紙やフローリングなんかも期待していいだろう。その代り、畑は少し狭いかもしれない。もっとも僕の基準がそもそもおかしいだろうから、話半分にしてもらいたい。

 そんなわけで、まあ、公務員はみな、精神を病みながら過労死したらよいと思う。それはさておき、国家公務員宿舎問題が話題になっているようだ。どうして「公務員宿舎」と言わずに「国家公務員宿舎」と表記しているのか不思議だったが、テレビニュースを見て理解した。

 1LDK か 3LDK か忘れてしまったが、そこに住む公務員は近所の人が 11-12万円の家賃を払っているような環境のなか、5万円の家賃で住めているということだった。それに不公平感を抱いている人が多いという演出で、どうやらそれが無駄遣いだという主張らしい。

 僕はそのことに関して特に意見を持たないが、そもそもの家賃の高さには驚かされる。まずもって10万円を超える家賃というのが東京のおかしさを表している。家賃ほど馬鹿馬鹿しいものはない。しかしまあ、そんなところで寝る国家公務員だからこそ、攻撃の対象にもなる。

 地方公務員宿舎であったら、破格の安さであってもそう文句は言われない。「あんなところに安全な土地あったんだ」みたいなところにある、「あれ人住めるの?」みたいなものに帰っているのだから(実際、廃屋になっているものもある)、不憫さに免じて許してもらえるというわけだ。

 田舎の宿舎は家賃が1万円を超えると「高級住宅」と呼ばれる。
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by kourick | 2011-11-27 02:00 | 日記
 古い LEGO ブロックを片付けようといろいろ容器を探していたんだけれど、最終的にダイソーで売っているセクションケースに辿りついた。これは感動的な手頃さで、売切れる前に15分割セクションケースを7個大人買いしておいた。本来の用途はなんなのか、謎の便利さである。

 細々とした部品をそれにまとめ、大きなブロックと板のブロックはそれぞれ食パン保存用のケースに分けてしまった。書類保存用のものも含め、ダイソーのプラスチックケースは便利だと思う。たぶん、これまでに2-30個は買っているだろう。

 食品保存用に使うのはちょっとどうかと僕は感じるけれど、サイズが豊富にあるので工夫次第である。ちなみにファイル類も便利で、とりわけクリアポケットファイルはダイソーが幅を利かせるようになってから全般的に安価になった。以前は500円とかする商品がざらにあったように思う。

 そんなこんなで、容器探しの旅の途中、トイザらスにも立ち寄った。僕はおもちゃ屋を散策するのが好きなんだけれど、これは子供の頃、あまりおもちゃを与えられた実感がないからだろうか。子供の頃にこんなおもちゃ屋に連れてこられていたら、もう、どうしていいかわからなかっただろう。

 僕のイメージするおもちゃ屋というと、駄菓子屋的なものか専門店的なもので、どうも子供の頃から僕には縁遠いものだという印象だった。だからかどうだか、明るい印象もない。むしろ、どこか悪徳の気配すら感じていたかもしれない。

 そこは七夕と遠足準備の時以外は行っちゃ駄目な場所で、ビックリマンチョコを箱買いするようなブルジョアの金銭感覚に違和感を覚える場所でもあった。ときはファミコン全盛期、うちにもあったとは思うが、それにしたってメインの遊びはイキシ(カタキ)などのボール遊びと木登りだった。

 恋愛というものが恋に恋することのできる選ばれし者にのみ与えられる幸運であるような気がしてしまうのと同じようにして、玩具というものは遊びに遊ぶことのできる選ばれし者にのみ与えられる幸運であるような気がしていた。そして、僕は早々に、そういう舞台からは降りていたと思う。

 要するに、あまり頭がよくなかったのだろう。おもちゃを使った遊びは想像力が必要だし、なにより、そのおもちゃが価値のあるもので、それを持っている自分は凄いということを理解する脳みそが必要だった。残念ながら、僕にそれはなかった。とりあえず考える前に走っていた。馬鹿である。

 だからだろうか、僕は他の子のおもちゃを羨ましいと思うこともなかった。むしろ、そうしたさまざまなおもちゃを所持することが怖かった。たぶん、僕は他の子が持っているようなおもちゃを与えられても、どうしたらよいのかわからなかったと思う。ちょっと心配な子供である。

 ここには圧倒的な「子供騙され力」不足がある。折角、大人が大真面目に子供を騙しにきているのに、当の子供のほうに騙されるだけの余地がない。これは大人にとっても子供にとっても不幸なことだ。もっと幼少の頃から騙されていたら、僕の騙され力も増していたのではないかと思う。

 僕が思うに、子供の騙され力が足りないと、例えば、「誕生日は素敵な日だ」ということを感じられなかったり、「贈り物に感激する」ことができなかったり、「遊園地を楽しむ」ことができない人間になってしまうだろう。子供を子供扱いするのもどうかと思うが、大人扱いするのも考えものである。

 そうしたわけで、紆余曲折の末、僕は無難にちょっと心配な大人にクラスチェンジしたわけである。昨今は知育玩具に興味があって、かなりの数を持っているのだけれど、はたして知育玩具はおもちゃかと問われると、いささか疑問に思わないこともない。これは食器や家具に近い気もする。

 あるいは、あれはどうだろう、アンパンマン。大人になると特に意識を払わないけれど、おもちゃ屋に行ってよくよく見てみるとアンパンマンの息の長さには驚かされる。おそらく、アンパンマンに日本語の読み書きを教わった子供は相当数いるはずだ。みんなの夢を守るどころの騒ぎではない。

 対抗馬のドラえもんやトーマスも奮闘してはいるけれど、やはりアンパンマンには敵わない。穴馬としてはキティちゃんもいるが、彼女は喋らないので分が悪い。プリキュアに至ってはまあ、色物だろう。結局、学習という子供の孤独な戦いを愛と勇気のみで支えるアンパンマンが優勝である。

 優勝、アンパンマン! アンパンマンが優勝です!!
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by kourick | 2011-11-25 02:00 | 日記
オフラインの知人にはすでにお馴染み、ゆーめさんとサイトをやることになったんだ。ストーリィをリレイしたり、日常を書いたりすると思う。

由芽(ゆうめ)さん、こと、ゆーめさんが飽きない限り、続けられると思うし、僕もお話を書いたりするので、たまに覗いてほしいと思うんだ。

ゆめかけ!
http://yumerick.exblog.jp/

ゆーめさんの日常が垣間見れるのはこのサイトだけ!
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by kourick | 2011-07-10 00:00 | 日記
近頃、いろいろな音楽を聴いている。主に作業用BGM(安息時)としてだけれど、大いにネットの恩恵を与っていると言うほかない。民族音楽やアンビエントはまだしも、ハウスやテクノ、エレクトロニカ、ミニマム、あとノイズなんて、それこそネットになかったら生涯聴かなかったかもしれない。ノイズはもう、大変なことになっている。もはや音楽の枠にあるのか判然としないほど原初的だ。

僕はもともと音楽に興味のある人間ではないのだ。幼い頃からピアノをやっているからクラシックやジャズにはそれなりに親しんでいたし、もちろん、アニメやゲームの音楽は聴いていた。ただ、その範囲に留まっていた。それは結局、僕の生活圏内に漂う音楽がそういうものだったというだけの話だ。僕は自分の好みの音楽を選ぶという段階を思春期に踏まなかったのである。

邦楽ロックに流されることもなかったし、洋楽ロックに目覚めることもなければ、愛や青春、それに平和を歌うものには妙に覚めていたし、昭和の音に耳を傾けることもなかった。もちろん、クラブミュージックなんて知りもしなかった。僕は当時、どういう服装をしていたのだろうか。その記憶もない。それはたぶん、僕が自分の好みの音楽を選択しなかったということと無関係ではない。

僕はそういう仕方でアイデンティティを育成するということをしなかったし、そういう事柄に自覚的でもなかった。自分は人にどう見られたいか、どう見られるような自分でありたいかということに、それほど関心がなかったのだろう。もしかすると、それはいまだにそうかもしれない。どこかで、自分が何者かであること、自分はこういう人物だと特定されることを恐れているようなところがある。

自分の底の浅さを露呈させないために常に解放区を残し、ふらふらと彷徨っているのである。
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by kourick | 2009-04-14 00:00 | 日記
ここ掘れワンワン! 昔の犬はそういう風に鳴いたと聞いています。そうやって犬に言われたところを掘ってみたら、大判小判がザックザクに発見されたりもしたそうですから、やはり犬というのは大したものだなと思います。いいところを突いてきますね、やはり。大判だけだと危ない金かとちょっと引いちゃうし、小判だけだとちょっと物足りない、そんな合わせ技の大判小判なわけです。

まあ、そういう人間と縁の深い犬なわけですが、「ここ掘れ」を言ったなら、やはり「ワンワン」は要らないんじゃないかと僕は思うんです。いや、それを言ったら「大判小判」に「ザックザク」っていう擬音もどうなの?とか言われちゃいそうですが、これは「掘る」と掛かってますからね。土を掘るザックザクと大判小判のザックザク、今日はあっちのほうもザックザクかな!みたいな。

そういう、土を掘る倦怠感、そして大判小判の躍動感、そのあとの胸中の動揺と不安、さらに期待、それらをザックザクで表現しているのですから、これはむしろ見事な擬音でしょう。大判小判がザックザク? お、大判小判がザックザク!! おぉお、大判と小判が……ザックザクゥウウ! うっはー!! こういうノリ。

まあ、それはさておき、「ここ掘れワンワン」です。「ここ掘れ」を言ったなら、絶対に「ワンワン」は要らないはずなんです。「ここ掘れ」で通じなければ、もっと大きな声で「ここ掘れ!」と言ったら済む話であって、「ワンワン」は要りません。ただ、「ここ掘れ」「ここ掘れ」言われると、お前に犬としての自覚はあるのかと問い質しそうにはなるかもしれません。

だからそう、まあ、なにやかにやいっても犬ですから、もしかしたら、ワンワンなしにはなにも言うことはできない!というようなことはあるかもしれません。「ここ掘れ」を言ったら、自動的に「ワンワン」も言っちゃう、悔しいけど言っちゃう!みたいなことはあるのかもしれません。犬というのはそういう生き物だと聞いたこともあるようなないような気もします。

ただ、それなら、「ワンワン」を言ってから「ここ掘れ」じゃないの?と僕は思うわけです。そこはワンワン挟みでしょうよと。わたし犬ですけど、ちょっとここ掘ってみたらどう?的な、わたし犬ですけど、犬ですけどなにか?的なものが先でしょうと思うわけです。よっしゃ、ちょっと犬であることを主張しといたろ!みたいなものを、むしろ、先に表明してほしいわけです。

すなわち、「ここ掘れ」か「ワンワン、ここ掘れワンワン」の、どっちかじゃないとおかしいだろうと僕は思うわけですね。ただ、現実には「ここ掘れワンワン」と鳴いていたわけですから、これは明らかに犬が犬であることを忘れていたということです。ワンワンなしでもオッケーだと考えているわけですから。にもかかわらず、語尾のワンワンは言ってしまう。ここにアンビバレントがあります。

近頃、人間とは仲良いし、最初のワンワンはもう要らないなと思いつつも、結局のところ犬ですから、最後のワンワンは言ってしまう。犬であるにもかかわらず、犬であることを忘れかけているようなときに、こういうことは起こるのでしょう。そしていま、犬はワンワンと鳴きます。もう、人語を話す必要はないと判断したのでしょう。犬語だけでオッケー! それが、犬!
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by kourick | 2009-01-21 00:00 | 日記
別に大してそれをする気もないのに「次はこれをします」と宣言することほど、人に息苦しい思いをさせるものはない、ないな! あえて言おう、後悔したと! 僕は後悔した! だが、むしろ僕はこう言おう、もっと後悔したい……後悔よこんにちは! いや、正直にいうと、もっと後悔したいとはさすがに思わない……そこは嘘、やはり嘘です。

なにはともあれ、後悔したことに後悔してはいけないぞ。後悔をネタにテキストを書き残す、たまにはそういうのもよい。もっと後悔していこう、だが、後悔を表現し続けるのはよそう。なによりタチが悪いのは、自分の後悔をグズグズに茶化してしまうことだ……これはいただけない。それは、まさに愚か者のすること! ああっ、後悔することが多すぎて、後悔を表現している余裕がない!

後に悔いると書いて、後悔! 過去を悔いる……後悔とは後ろ向きにするものだ。だから、一見したところネガティブに感じるかもしれない。だが、後悔にも良い後悔というものはある! 悔いてラッキー、後悔よ、ありがとう! そう、思わず後悔に感謝してしまう、そういう後悔をしていこう。ま、まあ、こういうのは通常、あまり「後悔」とは言わないかもしれないが。

そう、ときには後悔を背景に、未来の自分の姿のうちに後悔を想像してしまうこともあるかもしれない。あぁあ、後悔するかもしれないな(うじうじ)。この、後悔するかもしれないという気持ちに囚われている状況、これもたしかに後悔のあり方だろう。もしかすると、これこそが正しい後悔なのかもしれん。しかし、ときには後悔を飲み込むことも、正しい後悔との付き合い方なのだ。

もし後悔しているのなら、そのときは全力で後悔する。へいへいへい、中途半端な気持ちで後悔しているんじゃあ、ないのかい? そんなことはお天道様が許しても、後悔マイスターの人たちが許しちゃおかないぞ! そう、君の後悔は君のためにある……だから、君の後悔を人のために使おうと思う必要はない。あと、開き直るな、鬱陶しい……それと、暑苦しいし、感嘆符が多い……

クッ! こ……後悔した! 書いたそばから後悔した!!
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by kourick | 2008-11-24 00:00 | 日記
歳をとると、経験を積むと、いろいろなことを許せるようになる。続きもののテキストみたいだから明日も更新あるのかな……あるわけないよな……いや、もしかしたら……あぁあ、やはりなかった……ないよねそりゃあ……だが、許せる! 許せます。それが大人、駄目……ではないけれど、それほど立派じゃない普通の大人! 等身大の大人!

ある人は妥協だとか手抜きだとか言うかもしれない。しかし、前回のテキストのラストの段落、最初は「明日、書こう」としたところを、咄嗟に「次回、書こう」に変更した……この機転! どうせ更新しないなという先読み! そして、あまり更新しすぎるとテキストが流れてしまい読者を置いてきぼりにしてしまうかもしれないじゃないかという言い訳! 大人です……これが大人のゆとり。

ただ、真の大人は「これが……これが大人のゆとり!」とか言わない、かもしれない! そこは差し引け! むしろ、その子供的な発言に対する差し引きこそ、大人の所業! 大人になる、そうすると他者の気持ちを慮ることも、感情移入を制御できるようにもなります。そして、あ、この人、許せると言って欲しそうだなというときに「ええ、許せますとも!」と言うこともできるようになります。

大人になる! それは大事なことだが、大人になることによって、駄目な子供になってはいけないぞ! 大人と子供の両立! 人はその両面がわかってこそ、初めて、大人になるのだ! いつの間にか子供の気持ちを忘れてしまう、子供になれない、そんな大人しか知らない大人に、どうして自分が大人だって言うことができる!? 子供があってこその大人! 子供をやめるな!

前回の続きは次回!(誰も待っていないかもしれないが書きます。次回は感嘆符少なめだ!)
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by kourick | 2008-11-18 00:00 | 日記
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テキストを書いたあとに、それと呼応するような他の人の書いた、自分のテキストよりも時間的に先行したテキストを見付けて、うおぉおお!となることはある。まあ、いいや、仕方ない。そう、あっさりと受け流せるようになったのは成長だろうか。記憶が飛ぶほどの二日酔いをしても落ち込まないようになったのは成長だろうか。うーむ、それは……どっちでもいい! 本当にどっちでもいい!

ちょっと内容的に微妙なテキストのとき、感嘆符を連打することによって勢いで読ませようと画策すること、これは成長か! これは……これは……うっ、うおぉおお! こ、これも……どっちでもいい! 本当にどっちでもいい! どっちでもいい、と、いうことに、する! 成長だとか、成長じゃないとか、そういうことじゃあ、ないんじゃないか!? 感嘆符っていうのは!!

とまあ、そういう感じで(こういう感じではない)、前回、英語がどうこうという話をしたのだけれど、日本の義務教育をちゃんと受けた人はなんだかんだで英語をある程度できるよねと思う。それは英語以外の自然言語の勉強を始めると顕著にわかる。仏語や独語を勉強しようというとき、あるいはラテン語やギリシャ語を勉強しようというとき、あなたは次の一句を使うようになるだろう。

「ううぅん、これは英語だったら~~という感じ?」

英語で……例える!! たしかに、似ている単語はある! 特に仏語! そして、独語! まあ、もちろんラテン語にもある! しかし、どうして、英語で例えるのか! 仏語を身に付けようと思ったら、仏語のまま学ぶしかない! 独語なら、独語! ギリシャ語なら、絶望的なまでにギリシャ語! もちろん、日本語を通して学ぶのだから、日本語は使う! それは当たり前!

だが、あなたは「ううぅん、これは英語にしたら~~みたいなもん?」と言うだろう。次にお前は「えぇっとね、これは英語だと~~だよ、わかった?」と言う。どうして……こういうことが起きるのか! それは、日本人がそこそこ英語を使えるからに他ならない。そう……そうなのである、知らず知らずのうちに、僕たちは……英語に侵食されているのである!!(*一所懸命勉強したはずです)

Yes, We Can! But, I Can't! (←言語以前の問題)
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by kourick | 2008-11-10 00:00 | 日記
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寒い。暖房のかかせない季節、冬にただいまといった具合になっています。そろそろ初雪かなと思っていたら、今日の夜半頃から白い雪がうっすらと。太陽の昇らない日のほうが体調が良いというのは……自己分析すると落ち込みそうな理由に裏付けられていそうなので解説は、しない! ただ、僕は日の出が遅いほうが、できたら、太陽が昇らないほうが活動的になります。

いないな、厳密に言うと、持続的に活動できるといったところでしょうか、相対的に活動的になります。三時に朝陽を感じるときの失望感たるや……もう。三時にカァ、四時にチュン、これが大自然のセオリーですが、このカァチュンの時間を目安にすると、僕としてはアフター・チュンがベター。ビフォア・カァともなると、ガイアの囁きに頭がおかしくなるレベルです。文化レベルが高すぎます。

それはさておき、「英語ができない理由」に関するタイトルのテキストを読みました。僕はもう、この「英語ができない」という表現にひっかかるわけで、これは「流暢な英語を喋ることができない」ということか、それとも「日常英会話に疎い」ということか「英会話に臆する」ということか「英文法を理解して使うことができない」ということなのかと思いを巡らし、ああ……と思います。

ただ、いずれにせよ、日本人の英語のできなさの根底はわかります。それは「使わないから」「使う機会がないから」「使う必要がないから」です。これは明らかなことです。それ以外の理由も間違ってはいないでしょうけれど、副次的なもの、テクニカルなものにすぎません。日本の英語教育ということに関しても、決定的な現実的障壁がここにあります。

「どうしても必要になる」「使うことができないとこれからは苦労する」「国際的に取り残される」とさまざまに高級な建前はあれども、実際に「必要になったためし」も「苦労した経験」も「国際的に取り残されている実感」もなにもない、危機感がない、実質的に求められていないのだから、英語が身に付いたりするわけはないのです。当たり前のことです。

逆に言うと、仮に喋れるようになったとしても日常的には役に立たないでしょう。そして、忘れるのです。地味な盲点ですが、あとになって身に付けた言語というのは使わないと忘れます。それゆえ、忘れないためには、その手段を生かすための目的を探すことになります。翻訳家・英会話教師・海外に旅行などなど、英語を使う環境に身を投じるわけです。それは良い! それは別に良い! むしろ、けっこうなこと……! ただ、それって、まあ、貧乏根性だよね。

結局、なにを言いたいのかというと、動機付けが必要だということ。すなわち、なにのためにそれを学ぶのかという具体的な目的が必要なのだということ。それさえ、はっきりと自分のうちにあるのなら、あるいは、止むに止まれぬ事情・抜き差しならぬ事態・差し迫った環境に自分が置かれたのなら、できるかできないかというよりも「やらなきゃならない」という状況に追い込まれたなら、手段は必然的に上達するだろうということですわい。じゃあの。
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by kourick | 2008-11-08 00:00 | 日記
流行になっているのかわからないけれど、「フェルミ推定」の話題をけっこう見かける。僕はあの例題を見かけるたびに「禅の公案」を思い出す。いわゆる、「隻手の音」に代表されるあれ。フェルミ推定の場合だと「日本全国の電信柱の個数や如何に?」という感じだろうか。

電信柱の個数問題の場合は解答があるのだから、とりあえず、「まっさきに電力会社・電話会社に問い合わせる」と言ったってよさそうなものだけれど、あまり、そういう直球を投げる人はいないみたい。すでに立っているものに限定されていないのだから、電信柱工場(あるのか?)に生産個数を問い合わせるのも有効だろう。なににせよ、いわゆる、「足で稼ごうとする人」は少ない。

そういうことを試されているわけじゃないからいいのだと言われると、たしかにそうなのだろうからいいのかなとも思うけれど、その結果を真面目に役立てようと考えているなら普通は問い合わせるだろう。当たり前である。少なくとも小学生ならそうするし、僕でもそうする。なにを言いたいかというと、「思考の筋道を試す試験」という設定に思考を絡めとられているのでは、ということ。

「地頭力」もよいけれど、自分に不足している力を求め続けていても実力は付かない。「○○力」という造語が頻繁に流行るのは「自分には力が不足している」という自覚と渇望にある(近頃はこの限りじゃないように思うけれど)。しかし、より実践的に重要なのは潜在的な能力を伸ばすことより、いまある材料を使って自分にできることを確実にこなすことだ。

結局、本当に自分を活かそうと思ったら「やってみるしかない」ということである。
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by kourick | 2008-10-16 00:00 | 日記