ゆらめき雑記
2012-07-22T23:51:16+09:00
kourick
香陸の雑記群です。
Excite Blog
セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(終)
http://kourick.exblog.jp/18211547/
2012-07-15T20:00:00+09:00
2012-07-22T23:51:16+09:00
2012-07-11T03:08:10+09:00
kourick
考察
前回は、「私」という語の使われ方に少し触れ、「私の言語」の内実をみて、「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」ということの含意するところをみた。その肝は、ザックリいって「私は世界の外側には立てない」ということだった。世界を外側から眺めることはできない。
なるほど、ということは、私は世界の内側にいることになりそうだ。と、思いそうなところなのだけれど、そうではないのである。私は世界の内側にもいない。世界が私の世界のかぎりそうなる。これがウィトゲンシュタインの提示する独我論に迫るためのもう半分である。
ウィトゲンシュタインによると、私は私の世界の外側にはいないし、内側にもいない。じゃあ、どこにいるのか。外側にも内側にもいないなら、どこにもいねぇじゃねぇか。素直に考えるとそうなる(そして、これはあるいみ正しい)。だが、もっと考えるとそれもおかしいということになる。
というのも、「私の世界」の外側にも内側にも「私」はいないからどこにもいないということになると、そもそもそれはもう「私の世界」ではなく、ただの「世界」でしかないだろう。私の言語によって描写される私の世界のどこかに、それを私のものたらしめているなにかはあるだろう。
そうしたなにかがなければいけないように思われる。とはいえ、これはちょっと先走りすぎている。まずは「私は私の世界の内側にもいない」ということをきちんとみることにしよう。そうすることによって、独我としての私のありかたもわかる(はずだ)。思考し表象する主体は存在しない。(「5.631」) さて、順番だと「5.62」「5.621」「5.63」をみたいところだが、実のところ、この段階ではまだそれらはわからない。というのも、そこに書かれていることの説明が始まるのは「5.631」からだからだ。だから、さきにその説明をみることにしよう。
ここでいわれている「存在しない」というのは「世界のうちに現れない」ということである。それはつまり、言語として表現することができないということであり、語りえないということである。この関係性には散々、触れてきたので(納得できるかはさておき)もう押さえられていると思う。
さて、じゃあ、どうして「主体としての私」は世界のうちに現れないのだろうか。ウィトゲンシュタインはこれに対して、実質的に一個の説明を与えている。「5.631」の後半と、「5.633」からの「眼と視野の比喩」がそれである。サクッと引用することにしよう。「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が為され、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。(「5.631」)世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
(「5.633」) これは一見難しい感じがするけれど、実のところ、とても単純なことを言っている。「私の見出した世界」には「私」についてのことがらも網羅されている。だがそのとき、その本のなかには「語られた私」が現れるのみであり、そのなかに「語っている私」は決して現れない。
僕は自分について語ることができる。たとえば、僕は五体満足であるとか、左足首に子供の頃の怪我のあとがあるとか、耳を動かすことができるとかそういうことは語れる。それは世界のなかに現れている、語りうることである。だからあるいみ、私は私について語ることができる。
しかし、それを語っている私は決してその世界のなかに現れない。いあいあ、いま現れたんじゃないか?と思われるかもしれない。「それを語っている私」といま言ったじゃないか。だがそうすると、「それを語っている私」を語っている私はいったい何者なんだということになるだろう。
そっちがまさに「語っている私」である。私は私について語る、そのとき、語られた私は世界のうちに現れる。だが、それを「語っている私」は現れない。もしそれを語ろうとしたとしても、それを語った瞬間に、それは「語られた私」になっている。
という次第で、どこまでいっても「語っている私」は語りによっては捉えきれない。しかし、『論考』 においては語ることによってしか世界のうちに現れるすべはない。ゆえに、「語っている私」はまさに語りえない。かくして、世界のなかに形而上学的主体は存在しえない。つまり、視野はけっしてこのような形をしてはいないのである。(「5.6331」) 君は現実に眼を見ることはない。/そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されない。(「5.633」) このようにして言われていることはひとつの比喩(アナロジーによる論証)になっている。「5.633」の冒頭の一節のパロディを作るとわかりやすいだろう。つまり、「視野の中のどこに眼が認められうるのか」ということである。「視野」が「世界」、「眼」が「主体」に相当する。
視野のなかに眼はない。視野というのは眼に見られているところのものであり、それを見ている眼は視野のなかには現れない。眼で眼を見ることはできない。「主体と世界の関係」は、この「眼と視野の関係」と同じ事情にある。語る私を語ることによって捉えきることはできない。
というわけで、私の世界の外側にも内側にも(形而上学的主体としての)私は存在しない。独我論を徹底してきた結果、私の世界から「私」が消失してしまった。にもかかわらず、それが「私の世界」であるのはどうしてだろうか。ウィトゲンシュタインは書いている。世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。(「5.62」) さて、問題は「この」である。良識ある人は即座に「どの?」とつっこまねばならない。それはボケとツッコミにゆかりのある文化に生まれた者たちの宿命といえる。これは厳しいところで、ウィトゲンシュタインもここで「私の言語」という言葉を使うことはできなかった。
なぜなら、ここで「私の言語」といってしまうと、「だから、その私っていうのは誰なのかということを訊いているのです」と言われてしまうからである。ここはもう「この」としか言いようがない。つまり、これはウィトゲンシュタインその人のみが理解する言語ということである。
といっても、それは僕にも理解できてしまっている(気がしている)のだけれど、まあ、こうした言語の公共性をウィトゲンシュタインがどう考えていたのかは興味深いところ。少なくとも、それを「あてにしている」ことはたしかだ。僕は僕の理解する記号において思考を表現してきた。
ここで使われている「この」の背後にいなければならない「私」こそが、まさにウィトゲンシュタインその人が本当に語りたかったところの「私」である。それは語りえない、だが、こうして示されてはいる。それはどこにあるとも言えない。そして、ウィトゲンシュタインその人だけが残される。ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応する実在が残される。(「5.64」) さて、こうして、前回の中盤あたりの出発点に戻ってきた。「この言語」というのは、それによってなにかを表現しようとする人物の用いる記号のことである。ある人物がなにかについて語ろうとする、これが出発点だ。世界についての探究も私についての探究も、そこから始まる。
世界の探究、つまり、どれだけのことを語りうるのかという探究は、言語を介して行われた。それは同時に、そのように「語ろうとする私」の探究でもあった。これは裏テーマだけれど、「語りうる世界」の探究が「語る私」の探究でもあるのは自然なことだろう。
ウィトゲンシュタインは「語りうる世界」について、その表現において線を引いた。そして、語りうる世界のみが世界じゃんといった。そのとき、その世界は私の言語によって描写される世界でしかありえないのだから、その外側に私は立ちえない。ゆえに、世界の外側に私はいない。
じゃあ、内側にいるのかというと、いないということが確認された。世界の内側にも私はない。かくして、世界のどこにも私はおらず、私は消失する。だが、世界を、私を、まさに探究していたはずの自我、私が本当に「私」と言いたいものは、どうして「ここ」にあるのか。自我は、「世界は私の世界である」ということを通して、哲学に入り込む。(「5.641」)哲学的自我は人間ではなく、人間の身体でも、心理学が扱うような人間の心でもない。それは形而上学的主体、すなわち世界の――部分ではなく――限界なのである。(「5.641」)主体は世界に属さない。それは世界の限界である。(「5.632」) さて、こういったところでいわれている「限界」というのは少しややこしい。というのも、それは「5.6」で「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」というように使われていた「限界」とはちょっと趣が違うように思われるからである。むしろ、「全体」とか「前提」とかがシックリする。
僕の理解だと、「5.6」というのはザックリ言って「表現のポテンシャルが存在のポテンシャルを決める」というようなことである。そうした理解における「限界」というのは、いわば「範囲」というか「限度」のことである。「ここまでは語れるけれど、そこからさきはカタツムリ!」というものだ。
だが、「5.632」「5.641」でいわれている「限界」というのは、そういうことをいっているようには思われない。じゃあ、どういうことだろうか。それはやはり、「5.641」の二段落目がヒントになるんじゃないかと思う。自我は「世界は私の世界である」ということに通して現れるのだ。
思うに、「5.6」というのは外側に向かって、その限界を定めるものだった。今度はその逆なのである。世界を私の世界として(独我論的に)探究(せざるをえないので、そうやって探究)していった結果、どうやらその世界から「私」が消失してしまうということになってしまった。
すると、それはもう「私の世界」ではなく、ただの「世界」である。だが、そもそも「世界は私の世界である」ということから出発したのだから、私は世界になにかしらの関与をしていないといけない。つまり、主体としての「私」は「世界が私の世界である」ために残された最後のものである。
それすら失われてしまうと、世界はもはや私の世界ではないものになってしまう。そうすると、それは眼を欠いた視野のように、もはやなにを意味しているのかわからないものになるだろう。ゆえに、主体としての「私」はミニマムとしての「世界の限界」である。それ以上、いけない。
というわけで、「私」の話題はおしまいである。ところで、ウィトゲンシュタインの独我論は「独特だ」といわれる。その独特さがどこにあるのかというと、やはり「5.64」の「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致する」というあたりはその大きなところかなと思う。
どうしてそうなるのかというその仕掛けは上記したけれど、そもそも、どこかで一致するような双対性をもったものとして「独我論」と「実在論」を押さえているというところが、ウィトゲンシュタインの独特さなのではないかと思う。ザッと僕なりの説明を試みてみよう。
僕の理解するウィトゲンシュタインの実在論とはおおまかにいって「世界のなかに私はいる」というものである。世界があって、私がいる。当たり前だけれど、これを実在論と押さえよう。一方の独我論とは「世界のそとに私はいる」というものである。
これは納得いかない人も多いと思うけれど、独我論とは「(この)世界は私の世界だ」というものだから、「(この)夢は私の夢だ」というときに夢を見ている人が夢の外側にいなければならないように、世界を自分のものにする人も世界の外側にいなければならない。
ということは、「世界のなかに私はいる」という実在論と「世界のそとに私はいる」という独我論は、直接的な矛盾は惹き起こさないものの両立しえない主張ではある。さて、このとき、ウィトゲンシュタインが主張するのは「世界のなかにもそとにも私はいない」というものである。
これは「世界のなかに私はいない」と「世界のそとに私はいない」という命題の連言であるけれど、これはそれぞれ、いまみた「実在論」と「独我論」のそれぞれの否定となっている。この地点において、主体としての私はそのどちらをも否定して、縮退する。
そして、その主体に対応しうる唯一の自我、それを検討していた人物のみが残される。いまみた「独我論」と「実在論」は否定しさったのに、どういうわけか「完全に独我的な自我」と、それに対応する「完全に実在的な人物」だけが最後に残された。これは独特だろう。
と、いうわけで、いろいろ不足しているところがあるような気もするどころの騒ぎではないことは確定的に明らかなことが五臓六腑に染み渡るけれど、ウィトゲンシュタインの独我論をみてきた。最後に全体を簡単にまとめようと思っていたのだけれど、もう、いいだろう。
それにしても、最終的に「全十回」という、読む気の失せる長いものになってしまった。これまでお付き合いいただけた方には「どうもどうも」と言いたい。もっと計画的に書いていたらもう少しきれいにまとめられたかもしれないけれど、計画を立てていたら絶対に書かなかったと思う。
ここに書いてきたことで、新しいものはなにもない。きっとどこかで誰かがもっとわかりやすい仕方で書いているだろう。もし、新しいと感じるところがあったら、それは僕の誤読に起因している。その点は、御容赦いただきたいと同時に、楽しんでいただきたい。
僕はきちんとこの書物を読むことに努めながらも、その表現については自分の読んだことのないものを書こうとはしてきた。だから、これらのエントリは僕の思考のパッチワークではあるが、そのあたりの解説書からもってきた借り物の表現のパッチワークではない(つもりだ)。
上級者はにやにやとそのあたりを堪能していただきたい。まあ、そうはいっても、もし僕が読む立場だったら「借り物の表現でいいからしっかりわかりやすい説明はよ」と思うだろう。けれど、まあ、僕の勉強にはなったのでそれでいいかなとは思う。めでたし。(了)]]>
セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(七)
http://kourick.exblog.jp/18179062/
2012-07-14T20:00:00+09:00
2012-07-14T22:31:07+09:00
2012-07-03T03:11:49+09:00
kourick
考察
結局のところ「1」からということにはなりそうだけれど、まあ、それはまだ「独我論の開催が決定しました」みたいなものだろう。準備はたしかにそこから始まっている。それでは、当日、競技場に向かって歩き始めたのはどのあたりだろう。僕は「5.54」あたりかなと思っている。
つまり、「命題的態度」のあたりから「おや?」という印象は受ける。それではウォーミングアップを始めたのはどのあたりだろうか。これは「5.55」だろう。つまり、前回からこっちのあたりである。じゃあ、スタートラインに立ったのは? これはけっこう難しいかもしれない。
ただ、きっと「5.5561」だろう。そして、スタートのホイッスルが「5.5571」で鳴る。そして、「5.6」から走り出すのだ。ぼけっとみていると「5.6」から不意に独我論が始まったような印象を受けがちだけれど、そうじゃない。折角だから、ちょっと並べてみてみよう。経験的実在は対象の総体によって限界づけられる。限界は再び要素命題の総体において示される。(「5.5561」)ア・プリオリな仕方で要素命題を挙げることが私にできないのであれば、要素命題を列挙しようとする試みは、最後にはあからさまなナンセンスに行き着くしかない。(「5.5571」)私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。(「5.6」) さて、まずは「経験的実在」という「はい?」というような言葉が不意に使われている。といっても、この言葉はここでしか使われていないのだけれど、これは前回、「なにはともあれ、なにかがなきゃならん」といっていた「なにか」に相当するものである。
私たちはそれについての事実を語ろうと思うところの「なにか」に出遭っていなければならない。それについて考え、それの存在を認めようとするところのなにか、これが「経験的実在」といわれているところのものである。なにはともあれ、それがないことには始まらない。
そして、実際に「なにがあるのか」は世界のうちに「どのような対象があるのか」によって示される。その対象は名に対応しており、名は命題のなかに現れることによって対象を指示する。というわけで、対象は結局のところ、命題を通して知られる。ここまでが「5.5561」である。
さて、次に「ア・プリオリ」という表現が使われている。これはとても重要な専門用語だけれど、特に難しく考えず、素直に「経験に先立って」といういみで押さえてかまわない。それではウィトゲンシュタインにとって「経験」とはどのようにして与えられるものだっただろう。
これも前回に少し触れた。『論考』 における経験は、命題として表現されることによって世界のうちに現れる。というわけで、経験は命題という表現によって得られるわけだから、命題は経験に先立って提示されなければならない。これは当然のなりゆきだろう。
経験よりもさきに言語を使えるというのは奇妙に感じられるかもしれないけれど、経験を語る前に経験を語るための言語が使えなければならないと言い換えるなら、そう奇妙じゃないと感じられるだろう。このパターンのやりとりには飽きてきたかもしれないが、厳格に受け止めよう。
この「5.5571」の翻訳は訳者によってニュアンスがちょっと異なっていて難しいのだけれど、この一節に現れる「私」というのはどういうことだ?というのは踏みとどまって考えていいポイントだと思う。「5.6」の直前、スタートホイッスルの瞬間、ちょっと時間を止めてみてみよう。
実のところ、ここまでも「私(ich)」という言葉はけっこう使われていた。以前、『論考』 翻訳集を作ったのだけれど、使う機会は(当たり前だが)なかった。けれど、こういうときはデータをソートできるのでけっこう便利だ。折角だから、「私」の使われているところを網羅してみよう。「2.0121」「2.0123」「2.01231」「2.013」「2.02331」「3.12」「3.201」「3.221」「3.31」「3.313」「3.318」「4.021」「4.0312」「(4.032)」「4.063」「4.1121」「4.122」「4.1252」「4.126」「4.24」「4.241」「(4.243)」「4.461」「4.51」「5.02」「5.101」「5.132」「5.154」「5.155」「5.234」「5.2521」「5.2522」「5.4733」「5.5」「5.501」「5.502」「5.521」「5.53」「5.531」「5.532」「5.5423」「5.5541」「5.555」「5.5571」「6.02」「6.1203」「6.2322」「6.2323」「6.341」「6.373」「6.422」「6.4312」「6.54」 以上の箇所で「私」が使われている。使われ方としては二通りが考えられる。ひとつは「俺はこうするぜ」というように「俺=ウィトゲンシュタインはこうします」というときに使われる場合で、もうひとつは「私」という人一般について「こうなります」みたいに使われる場合である。
3代なんかは(「3.221」を除いて)「俺=ウィトゲンシュタインはほにゃららを表現するのにむにょららという言葉を使うぜ」みたいなことを言っているので前者、2代なんかは「人はこう考えにゃならんよ。ま、俺もそのなかの一人だけどね」と一般的なことを言っているので後者になる。
簡単な見分け方としては、「私」に別の表現を代入してみる方法が考えられる。「私」というところに「ウィトゲンシュタイン」以外を代入することができないところは前者、「私」というところに「僕」とか「彼」とか任意の誰かを代入することができるところは後者となるだろう。
じゃあ、「5.5571」はどっちなんだという話で、素直に読むと、ここは一般的なことをいっているように思われる。のだけれど、事情はそう簡単ではないように僕は思う。というのも、興が乗ってきたのか、途中からはそうはっきりと区別できないように感じるのだ。
どこまでがベタな使い方をしていて、どこからがメタな使い方なのかというのは意外とわからない。まるで一人称で書かれた叙述トリックもののミステリを読んでいるようなもので、「私」がウィトゲンシュタインのときもあれば、実は「私」は一般的誰かだったみたいなこともある。
まあ、どっちにしたって、この書物はウィトゲンシュタインが書いているのだから、結局のところ、その「私」というのは具体的にせよ形式的にせよ、とりあえずはウィトゲンシュタインのことを指してしまっている。これはちょっと 『論考』 の構造的なややこしさを感じるところだ。
『論考』 において、ウィトゲンシュタインはひとつの世界観、言語観を提示する。そのとき、その世界観を提示するために「私、ウィトゲンシュタインはこうする」と語る場合と、その世界観のなかで「私はこうなる」と示す場合と二種類あるというのがややこしいのだろう。
さて、なんだか無駄に細かいところに突っ込んでいったような気がしてきたけれど、結局のところ、素直にそう感じるところに立ち戻ってみよう。この「5.5571」の「私」は実際になにかを表現しようとする人物のことである。たとえば、ウィトゲンシュタインその人のことだ。
当たり前すぎて「哲学的じゃない」という印象をうけるかもしれないけれど、哲学をするのに哲学的である必要はない(と言いつつ、この言い草も哲学的かもしれない)。「5.5571」に現れる「私」というのは、「私」と言うことによってなにかを表現しようとしている人物、その人のことである。
論理的な考察の始まるまえ、言語批判に晒される前の、普段、日常言語において自分についてなにか語るときに使う「私」ということで、思考主体がどうとか難しいことは考慮してはいけない。このことはきっと、またあとでも触れるのでちょっと覚えておいてほしい。
ちなみに、邦訳に関していうと、『論考』 には「坂井秀寿訳」「奥雅博訳」「黒崎宏訳」「野矢茂樹訳」という代表的な翻訳があるのだけれど、全集に収録されている奥訳は意外にもちょこちょこ「ich」を省略して訳しており、黒崎訳、野矢訳はけっこう律儀に訳している。
そして、「ich」の訳語ということで興味深いのは坂井訳で、そこでは「わたくし」と「私」に訳しわけている。通常は「わたくし」と訳しており、ここぞというところで「私」が使われる。実に「私」が使われるのは三ケ所だけで、それは「5.62」「5.63」「5.641」である。
これはまあ、意訳になるだろうから、賛否のあるところだとは思うけれど、日本語にはこれといった主語がないということを利用した面白い措置なんじゃないかなと僕は思う。ただ、これを話し始めると 『論考』 の読解の解釈みたいなことになって万歳なのでさきに進もう。私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。(「5.6」) さて、地道にここまでお付き合いいただけた人にとって、もはやこの一節はそれほど不可思議なものでも、なんだか格好良いだけのものでもないのではないかと思う。とはいえ、「ですよねー」とそのまま納得できるようなものでもないだろう。ちょっと説明を試みてみよう。
これまでウィトゲンシュタインはもっぱら言語を言語たらしめる条件について語っていたように思われる。では、ここにきてどうして「私の言語」などという言葉が使われることになってしまうのか。というか、「私の言語」というのはいったいどのようなものなのだろうか。
ふむ、世界についてなにかを語ろうとするとき、僕はその「なにか」について表現する。それが世界を描写する命題として表現できているのかどうかは、その対応関係や論理的関係を確認することでチェックできる。ただ、僕が「なにを」語ろうとしているのかは僕の生活に依拠する。
それは「経験的実在」といわれていたものだけれど、僕は僕と面識のあるもの、僕の生活のうちにあるものについて語ろうとし、そこからの類推を駆使することによって「なにか」を語ろうとする。そして、そのようにしてしか表現できない。これが「私の言語」の内実だろう。
つまり、「私の言語」とは「言語の条件を満たしている僕の日常言語」のことである、というのが僕の理解である。僕個人のことをいうと、僕は日本語とちょっとした外国語、そして、ちょっとした形式言語(も日常言語の範疇にある、か?)をメインに使う。これが「僕の言語」の背景である。
いや、もっと正確に言うと、絵なども含まれるだろうか。ただ、絵は下手なので複雑なものを表現することはできないだろう。ということで、これが「僕の言語の限界」を定める。それらが世界を描写する言語として僕の思考を表現するのに使用可能な記号の限界である。
そして、それは「僕の世界の限界」を意味する。言語が世界と対応していたように、僕の言語が言語としての条件を満たしているのなら、僕の言語はある世界と対応している。それはきっと僕の世界だろう。そしてまた、僕の言語の限界は僕の世界の限界と対応している。
というわけで、僕は僕の生活のうちにあるなにかについてのみ語ることができる。僕は「あるもの」についてのみ語れる。ところで、これはけっこう厳しい条件になっている。なぜかというと、僕は僕の生活のうちに「ないもの」については語れないということになってしまうからである。われわれは、論理の内側にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。(「5.61」) このように言われている。なるほどたしかに「世界のうちには存在するものしか現れない」のだから、これまでの話の流れだとそうなるのだけれど、これだと、僕たちが通常「言語」と呼ぶもので語っている(と思っている)ことの多くは「実は言語になっていない」ということになってしまう。
たとえば、「ミノフスキー粒子」とそれが「レーダー誘導兵器を無効化することによってもたらした戦術・戦略的影響」とかは世界について語っているものではないので、言葉を使って表現しているけれど言語じゃないということになる。まあ、このあたりはまだどうにでもできる。
困るのは、僕の生活のうちに現れていているものについてしか語れないということになると、科学理論などにおいて理論上想定されるようなものの存在も語れないことになりかねないことだ。このあたりは 『論考』 の難点だろう(「5.5542」や「3.328」の後半はどう理解しよう?)。思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。(「5.61」) 話を戻そう。この一節はちょっと省略されている。つまり、どうして「それゆえ」なのかということだ。この隙間を埋めるとしたら、「思考するとは命題のかたちで表現することであり、命題として表現するということが語るということである」というのを挿入したらいい。
これは(二)で書いていたことである。ここで「思考しえぬこと」といわれているのは「世界のうちにないもの」のことであり、それゆえ、そのものについて「あれは存在しない」と語ることのできなさを主張している。これは序文に書かれていたことと同じ論法になっている。本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。 どうしたって、人は思考を思考の内側から眺めるしかない。人は思考を思考の外側から眺めることはできない。僕の理解によると、これこそが「この見解が、独我論はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる」(「5.62」)の「この見解」に相当するものである。世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。(「5.62」) この「世界は私の世界だ!」というのはまさに独我論的主張である。どうしてそうなるのか。世界は言語によって描写され、言語は私の言語としてしか表現しえない、そのとき、私の言語によって表現されるのは私の世界である、ゆえに、世界とは私の世界のことである。
とまあ、少しごまかしているところもあるけれど、一筆書きでいうとそういうことである。さて、ここまでが、ウィトゲンシュタインの独我論の半分である。世界をその外側から眺めることはできない。じゃあ、ウィトゲンシュタインの独我論のもう半分をみよう。(続く)]]>
セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(六)
http://kourick.exblog.jp/18113670/
2012-06-27T20:00:00+09:00
2012-07-16T15:47:02+09:00
2012-06-17T17:31:21+09:00
kourick
考察
二点、迷った。ひとつは「シンボル」という表現の使い方をちょっと考えてみたほうがいいのかなと思ったこと(「3.31」)。しかし、これは無視する(そしてきっとずっと無視する)。もうひとつは「存在論と言語論の関係にどう決着をつけておこうか」ということである。
ちょっと手にあまるテーマではあるけれど、『論考』 に沿って、簡単にみてみることにしよう。あらためてそんなことも考えなきゃいけないのかなと思ったのは、「5.552」を読んでいてのことである。岩波文庫の野矢茂樹訳 『論考』 から引用する(ちなみに、ここまでずっと野矢訳)。論理を理解するためにわれわれが必要とする「経験」は何かがかくかくであるというものではなく、何かがあるというものである。しかしそれはまさにいささかも経験ではない。論理は何かがこのようにあるといういかなる経験よりも前にある。論理は「いかに」よりも前にあるが、「何が」よりも前ではない。 太字による強調は、原訳では傍点による強調だけれど、ここではそれを再現することができないので変更した。もちろん、原文でもその部分は強調されている。さて、これはいったいどういうことだろうか。ちなみに似たようなことはけっこう前、「3.221」にも書かれている。対象に対して私は名を与えることができるだけである。そうして記号は対象の代わりをする。私は対象について〔その性質等を〕語ることはできるが、〔性質を抜きにして〕対象を〔単独で〕言い表すことはできない。命題はただものがいかにあるかを語りうるのみであり、それが何であるかを語ることはできない。 〔〕で括られている部分は訳者による挿入で原文にはないけれど、そのまま引用した。もっとも、これらの置かれている文脈は少し異なっているので、単純に同じことを言っているわけではないけれど、似た発想、というか、同じ発想のもとで書かれてはいる(当たり前か)。
これは「3.221」からみたほうがわかりやすそうだ。わたしたちは事実に直面する、それは命題によって描写されることでわたしたちに与えられる。そして、命題を分節化することで「名」は得られる。名は命題の構成要素であるが、命題を分析することによって得られる。
それは変だと思う人もいるかもしれない。というのも、人は通常、語をさきに学習し、文を作るような気がするからである。たしかに僕も「一語文」は文なのか語なのかみたいなことは気になるけれど、さしあたり、ここでは命題から始めてもそう変じゃないよということだけを言っておきたい。
たとえば、生物の身体を考えてみてほしい。勝手知ったる人間の身体であれば、その構成要素について、どこが腕でどこが脚でみたいなことはわかっている。だから、腕をもってきて脚をもってきてといった具合に部分から全体を構成できるかもしれない。
けれどそれが未知の生物だったらどうだろう。それが腕なのか脚なのかという以前に、それが部分なのか、あるいは、それで全体なのかもわからないだろう。それは身体の全体をみて、その構成要素が果たしている役割を分析することによってわかる。
イカの頭ってどこ?みたいなこともあるだろう。イカには十本の触手があるけれど、いったいどれが腕でどれが脚なのか、それは「腕かもしれない触手」や「脚かもしれない触手」をみたところでわからない。それらの全体から分析するしかないのである。
目下の事情もこれに似ている。『論考』 における分析の最小単位は命題であり、名というのは命題の構成要素として分析されることによって得られる。もちろん、一度分析されて得られてしまったなら、その名を用いて新たな命題を合成することができる。
気を付けたいのは、名の寄せ集めが命題なのではなく(「3.141」)、命題がさきに与えられて、それを分節化することで名が得られるということである。名は命題のうちに現れるかぎりにおいて対象を指示する。これは「文脈原理」といったりもする。提案したのはフレーゲである。
ウィトゲンシュタインがどこまでフレーゲ的な命題の関数論的分析を踏襲しているのかについて、僕はいま確信をもって言うことができないけれど、ここでのミソは、名を一次的なものとして扱わない(対象を直接扱わない)ことによって「イデア的な考察」を避けられるということである。
たとえば、「テーブルの上にリンゴがある」というときに、その命題はひとつの事実を描写している。この命題から僕は「テーブル」「リンゴ」という名に指示される対象がある仕方で配列しているということを理解し、命題の真偽ないしは事実の成立・不成立を実際に確認する。
このとき、ある対象の配列、性質の有無がさきにあることが重要だ。それはつまり、命題によって描写される事実がさきということである。もしこれが名がさき、対象がさきということになると、「じゃあ、そもそも 『テーブル』 ってなに?」とか「なにが 『リンゴ』 なの?」ということになる。
人は名詞をみつけるとそれに対応した対象を探し出そうとしてしまうけれど、それはしばしば無益な探究の始まりになる。「このテーブルもあのテーブルも、同様に 『テーブル』 であるのは、テーブルのイデアを分有しているからだ」みたいな考察が始まってしまう。
現実の世界の背後に真の世界がある、みたいな話になる。ウィトゲンシュタインはこれを拒否している。日本語だとニュアンスが伝わらないけれど、定冠詞なり不定冠詞なりが付いているというのはことのほか重要だろう。「このテーブルの上にこのリンゴがある」という具合に。
イデア的な探究は具体的な事物の背後にすら、抽象的なそれらの本質といったものを想定しだす。だが、その手法は誤りだというのである。命題(に描写される事実)から始めるということは、思考たるものをこの現実に踏み止まらせるという働きをする。
話を戻そう。「わたしたちは対象に名を与える」そして「対象について語る」ことができる。しかし、対象とは命題を分析したときに得られる名に指示されているということによって、わたしたちに与えられるのではなかったか。ここでまた、前回と似た疑問が現れる。
いったい、名がさきなのか、対象がさきなのか、どちらなのだろう。しかしこれは、そのような疑問に引き寄せられるさらなる疑問によって循環を始める。というのも、仮に名がさきだとしたら、僕たちはいったい「なに」に名を与えたのだろうか。最初に言語がある? まさか。
だが、名によってはじめて対象が得られるのだとしたら、僕たちはいったい「なに」に名を与えたのだろう。名を与えることで対象は創り出された、そんなことは少なくとも人間にはできない。やはり、語られる、示される、なにか、それは論理の適用に先立ってある。論理を理解するためにわれわれが必要とする「経験」は何かがかくかくであるというものではなく、何かがあるというものである。しかしそれはまさにいささかも経験ではない。 「5.221」のこの箇所で言われていることは、まさにそのことだろう。論理形式に則った命題は「このようにある」という事実を語る。そして、そのうちにある論理を示す。しかし、そのためには、そもそも論理が適用されるところの「なにか」の存在を前提していなければならない。
だが、「存在」は論理適用後の世界のなかに現れることによってのみ与えられる。それゆえ、その「なにか」はわたしたちに現前しているには違いないものの、いささかも「存在ではない」ということになる。わたしたちはそれらをいまだ、なんらかの経験としては受け取っていない。
どうして?という人もいると思うのでいちおう説明すると、それは「存在しないものを経験することはできない」からだろう。このとき、存在の水準が引き上げられていることに注目したい。ウィトゲンシュタインにとって、存在というのは語りうる次元にのみ現れうるものになっている。
語りうる次元においてのみ存在は対象によって表現され、その次元においてしか経験もありえない。けれど、僕たちにはなにかを語ろうとするときのその「なにか」が必要だ。それはたとえば「実在」とでも言いたくなるものだけれど、それは前提であるがゆえにいまだ「存在」ではない。
どこか逆説的なものがあるけれど、そうなっている。僕たち(もしかすると僕だけかもしれないが)は「存在」ということで世界の岩盤にぶちあたったような印象を受けがちだけれど、それは本来、「ある」とか「ない」とか語りうる次元、言語の次元に収められなければならない。
ちなみに、哲学に興味のある人なら、ここでカントの「物自体」を思い出すかもしれない。現象の背後にあると想定される「物体X」である。これの解釈はもちろん、おいそれと僕のような人間のできることではないので立ち入らないけれど、たしかにけっこう似ているところはあると思う。
ただ、僕の理解だと、それはたとえば、サルトルの著書 『嘔吐』 で、主人公のロカンタンが「マロニエの樹の根」の背後に感じたような未文節の不気味ななにかではない。うにょぼやうにょぼやと蠢いている気持ちのわるい漆黒のなにか(僕のイメージ)といったものではない。
認識論からちょっと距離を置いているウィトゲンシュタインにしても、それは同様であると僕は思う。むしろ僕が「5.221」で気になるのは、ここで言われている「経験」とは、いったいどのような経験なのだろうかということである。その根源的経験とはいったいどのようなものなのだろう。
そこには実際、発達や認識にかかわる有意義な研究がありうるように思うのだけれど、『論考』 の枠組みにおける哲学的活動としては、もはや積極的に語るに足りるものではない。ただ、これを「言語的経験」と捉えるなら、『論考』 における根源的経験を考えられるかもしれない。
つまり、日常生活において、とりたてて意識せずに言語を用いて(しまって)いるという、その経験のことである。日常言語というとややこしいので「言葉」といったほうがニュアンスがあるかもしれないけれど、なにかしらの表現活動のポテンシャルを人はそれぞれもっている。
ヘレン・ケラーが水と「水」という語の対応に気付いたときに外界を秩序立てて認識し始めたように(といっても、このエピソード自体は映画の創作だった気がするし、幼少期における原体験もあったのかもしれないけれど)、認識と言語というのは表裏一体に貼り付いている。
そうすると、僕たちが生活しているありのままの世界は、ありのままの言語によって満たされている。僕の感覚・運動器官はさまざまな情報を僕にもたらす。それはいってみたら「僕の環世界」を形作るが、しかし、それは言語にマークされることではじめて「僕の世界」を表現する。
そして、保有されている有象無象の表現は論理という枝切りバサミによってザックと伐採される。それによって、それらの表現は「世界を描写する言語」に成形されるのである。また、事実を描写する要素命題のみを残して、意味がないとされた表現は世界のうちから放逐される。いかなる要素命題が存在するのかは、論理の適用によって決まる。 「5.557」はそういうことだろう。当たり前のことだけれど、僕たちの周りにはさまざまなものがある。僕たちはそのことをして「さまざまなものが存在している」と言いたい。そして、指を指して「これは存在している」と言ったりする(普通はしないと思うが、たまにすることもある)。
この「言いたかったり」「言ったりする」というのがことのほか重要で、まさにそうするときに「存在」は世界のうちに現れる。トートロジカルな言い回しになってしまうけれど、なにかについて、それが「ある」とか「ない」とか存在を語るときにこそ、存在は世界のうちに現れうる。
その「なにか」はある。けれど、それは「存在」としては世界のうちに現れていない。こういうことになっている。気持ちとしては、その「なにか」のほうを「真の存在」とか思ってしまいそうだが、それは言語のレイヤを通さないと語れないし、語れないものは存在とは言えない。
そして、もし、その「なにか」について語ったのなら、それはもう言語の次元における存在として世界のうちに現れてきており、その存在も問題にできる。というわけで、「真の存在」は存在しえない。さきほど「存在の水準が引き上がっている」と言ったのはこういうことである。
論理の適用をまって、要素命題とそれによって描写される事実は世界のうちに現れる。その存在が与えられる。だがそれは、それがたしかに要素命題であると論理的な根拠から知られるまえから、きっと要素命題だろうと気付かれているものではあったのだ。要素命題が存在するはずであることが純粋に論理的な根拠から知られるのであれば、分析されていない形式で命題を理解している誰にでも、知られるのでなければならない。 「5.5562」で言われているのはそういうことだろう。こうやってつらつらとみていると、『論考』 の言語というのは日常言語によって相対化されているんじゃないかとも思えてくるのだけれど、この直後、独我論がふわっと現れる。次回こそは、それを考えてみよう。
いちおう冒頭のテーマに戻ると、『論考』 は存在論があって認識論があって言語論があって解釈論があってみたいな層分けにはなっていない。言語論がすべてに先行するというわけではないものの、あらゆる問題は語りうる領域に収まるか、さもなくば沈黙という二択を迫られる。
そういういみでは、言語論が最優先とはいえるかもしれない。語りうるかどうかというフィルタが一番上にあって、本当にまともに語れているのかという厳密なチェックが入る。逆に言うと、そこがボトルネックになっていて、本当に語りたいところのものこそ語れない。禁欲的なのだ。
さて、前回、次がラストだと書いたけれど、残念ながらラストではなかった。だが、次こそはラストである。「これは論理実証主義者の通った道ですか?」とか「この道まじ迷子」とかうにょうにょしながら読んでいる。面白いかと問われると、決してそんなことはないと断言できる。(続く)]]>
セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(五)
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2012-06-12T00:00:00+09:00
2012-06-29T03:39:36+09:00
2012-06-08T11:28:08+09:00
kourick
考察
なにはともあれ、まずは前回の冒頭に書かれた疑問に僕なりに応じないといけないだろう。『論考』 において「どうして命題は理解できる」のだろうか。これは昨今の学者の知見も参照しようとするなら、けっこう大変な道のりになる(だろう、たぶん。やってみないとわからないが)。
あるいは、外言が内面化する過程において、その言語がどのような機能を果たすようになるかというような、発達に関するアレクサンドル・ルリアの興味深い研究にまで視野を広げようとするなら、これはもう、いったいどんな地面に立っているのかわからなくなりそうだ。
けれど、実際のところ、それらは動きのある言語観における問題設定(個別の言語はどのように理解されるのかとか、コミュニケーションはどのように成立しうるのかとか、言語は発達とどのようにかかわるのかとか)で、『論考』 の著者の言語観に則るなら、あまり気にしないでいい。
というのも、この時期のウィトゲンシュタインの言語に動きはないからである。それは、ある時点において成立していることがらを語る言語、あるいは、どの時点であっても成立することがらを示す言語であって、いわゆる「語用論」といわれるような領域には踏み込まない。
『論考』 の世界に変化はない。ウィトゲンシュタインだったら、きっと、次のように言うだろう。「世界のなかに変化はない。もし、変化といわれるものがあるとするなら、それは世界そのものが変化するのである」とかなんとか。それもまた示されるほかないものに違いない。
しかし、どうしてだろう。どうして、これほどまでに 『論考』 の世界と言語(そして論理)は動かないのだろう。僕は漠然と、それは「1」から「2.063」までで決まってしまったことなのだと思っているけれど(とりわけ「2.063」は強力だ)、いまいち、はっきりとした考えはまとまっていない。
もしどこかを改変してみることで 『論考』 が動き出すなら、それはとても面白いことだと思うのだけれど、まあ、たぶん無理だろう。少なくとも、いまの僕には無理だ。そしてまた、『論考』 というのはあまりにも緊密に編み込まれているので、いつまでたっても無理じゃないかとも思う。
なににせよ、言語を用いて行為するとか、コミュニケーションするとかいったことは、『論考』 の世界のなかでは起こらない。『論考』 の言語はあくまで事実としての世界を記述するものであって、言語を用いて行為するというのは、言ってみれば、世界の外側にあることがらになる。
それはまた、『論考』 の世界のなかに、そのような活動をする主体は存在しないということを示す。世界は言語によって描写され、言語は世界の像である。絵に描かれた人物が思考していないように、言語によって描写された人物も思考していない。
「5.541」からの命題的態度の解決などは、その直接的な帰結である。ウィトゲンシュタインはここのところバッサリしている。これは実際、かなり厳しいラインを全速力で駆け抜けているのだけれど、『論考』 をここまで読んできた人にとっては「仕方ない、か?」と思わされるところである。「Aはpと信じている」「Aはpと考える」「Aはpと語る」は、もとをたどれば「「p」はpと語る」という形式となる。(「5.542」) これは正直、わけわからんと思う人が多いと思う。そして、これは解釈の余地があるところで、人によって言っていることが異なるのだけれど、ここまでの流れでいうと、僕はこう言わなければならないだろう。言語と世界の対応関係にとって、人がどう思っているかは関係ない。
人がどのようなことを信じているか、考えているかというのは、命題のかたちで表現されてはじめて世界のなかに現れるのであって、そうじゃない信念や思考といったものはありえない。もしそれが命題として表現されているのなら、その命題が事実どうであるかを語るのである。
ウィトゲンシュタインは信念を対象化しないし、思考にしたって、それが命題として表現されたものしか扱わない。人がそれを信じているなどというのは、それがなにかしらの内的な状態を表しているかぎりは世界のうちに現れておらず、語りえないことである。
たとえば、晴れているときに「雨が降っている」と言ったら、それは偽であるけれど、「僕は雨が降っていると思っている」は僕がそう思っていたら真である。これはおかしいという話なのだけれど、僕がそう思っているだけのことがらは世界のうちに現れていないので、考慮に値しない。
もし、僕が雨が降っていると思っていて、それを「雨が降っている」と命題のかたちで表現したなら、そのときはじめて僕の信念は世界のうちに現れる。そしてその信念は誤っているのである。なぜなら、実際には、晴れているからである。なにもおかしなところはない。
そして、そのような世界であるとするなら、「理解」に関して、ふたつわかることがある。ひとつは、「理解」や「思考」といった「活動」は世界のなかにはないということ、もうひとつは、ウィトゲンシュタインの世界において「理解」は「思考」と一致するということである。
「思考」という活動は世界のなかにはない、そしてそれは「思考主体」は世界のなかにいないということも含意する。それはただ、なにかしらの表現を通して「思考された」ということによってのみ、事実として世界のなかに現れる。そして、その事実のみが思考という活動を示すのだ。
『論考』 の世界において、「思考する」や「理解する」といったような活動は現れない。ただただ、「思考されたこと」や「理解されたこと」が命題というかたちをとって現れるだけである。そして、そのようにして現れたものだけが、「思考する」や「理解する」といった活動を示してくれる。
「理解」もまた「理解されたこと」としてしか世界のうちには現れない。さて、ここにいたって、冒頭に掲げられていた疑問は奇妙な仕方で解かれてしまっている。いや、むしろ、その疑問は最初から疑問として成立していなかったのだと言ったほうがよいのかもしれない。
「思考」は「知覚可能な有意味な命題」として世界のなかに現れるのだった。このとき、その「命題を理解する」には「事実どうであるか」を知らないといけない。けれど、「事実どうであるか」を知るためには「命題を理解する」必要がある。じゃあ、どうやって命題は理解されるのか。
『論考』 の入口はどこにあるのか、これが疑問なのだった。しかし、これはナンセンスなのだ。なぜかというと、そもそも 『論考』 のなかには理解されたことしかありえないからである。なにを意味しているのかわからない命題というのは、『論考』 の世界のなかには現れない。
要するに、「どうして命題は理解できるのか」という問いには、「理解できていることを表現しているものだけが命題なのだ」という答えが与えられる。言ってみれば、「思考」と「理解」は同時に与えられ、「言語」と「世界」は同時に与えられる。『論考』 に入口はない。
しかし、その命題という事実の成立において、「理解されたものは、どのようにして理解されたのか」という問いは、まだ問いうるものだろう。それには、結局のところ、いたって単純な答えが与えられる。理解は「記号を用いた表現活動を通して与えられる」のである。
つまりは日常言語のおかげだ。ただ、日常言語として使っている記号がきちんと世界を描写しているかとなるとそれは別問題であり、ウィトゲンシュタインにとってはそれこそが問題だったのだ。いわば、『論考』 は、日常言語が言語であるための条件を提示しようとする。
ウィトゲンシュタインにとって、哲学とは学説ではなく、活動である(「4.112」)。それはどのような活動かというと、命題を明晰にする活動、言語批判である(「4.0031」)。有象無象の表現から、それがきちんと世界を描写する言語(自然科学の命題)なのかどうかを解明する活動だ。
前回までのエントリでほとんど書いてしまっているようなものだけれど、日常言語は(それがはたして 『論考』 において示されるような意味合いにおいて、どれだけ「言語」としての資格を有した記号なのかは怪しいものの)「現に使える」ということは、やはり 『論考』 の前提としてある。
そもそも、そうでなければ、この書物自体が読めない。とまあ、それは冗談としても、『論考』 の目的は「語りうることは明晰に語り、語りえないことはそれが語りえないことを示す」ことである。有象無象の表現はもちろんはなからあるのであり、それはたとえば日常言語なのである。
さながら、身体の発達と同じようにして、言語もまた発達する。だからこそ、「日常言語は人間という有機体の一部」なのだろう(「4.002」)。身体の動かし方を知らなくとも身体を動かすことができるようになるように、言語もまた、その使い方を知らなくとも使えるようになる。
人は通常、1~1.5歳頃に「パパ」「ママ」のような一語文が初語として現れ、1.5~2歳頃になると「私のほにゃらら」のような二語文を使えるようになる。これはちょうど、マークテスト(鏡像認知)を通過するあたりと重なり、「自我」と「主語」の芽生えが同時期なのは興味深いことだ。
これはまた、言語とは異なった射影方法によって事実の像となりうる絵画でも同様だろう。もっとも、僕は絵が下手なので、それに関して個人的には自信がないけれど、きっと同じ事情にあるだろう。まあ、それにしては遠近法の発見は遅かったよね、という感想はあるかもしれない。
これはなかなか面白いところで、普通に発達しただけでは「ありのままの世界」を描いているように思われる遠近法的描写はできるようにならない。遠近法を用いた射影方法(これはまさに射影といえる)は、それなりきのトレーニングを受けないと使えるようにならない。
実際、遠近法(どの手法にせよ)は、かなり作為的に平面上に奥行きを再現するものであり、描かれたものは「見たままの光景」として感じられるものの、描いているときは、一度、そこにある光景を遠近法的に捉え直してから平面上で再構成するという不自然な過程を踏むことになる。
これは興味深いところで、『論考』 ともまったくの無関係とも思えないわけだけれど、ちょっと違うラインに移らないといけないので、話を戻すことにしよう。さて、こうして僕は、そろそろ、やっとこさ、紛いなりにも 『論考』 の独我論を話せるところにまできたのではないかと思っている。
というわけで、次回、ラストである。と、書いておきつつなんだけれど、僕はいま 『論考』 の「5.552」「5.5521」と「5.557」「5.5571」をどう読まないといけないことになるのかに悩んでいる。「悩む」という状態の発生が僕の無計画と無理解を暴露しているが、まあ、どうにかしたい。(続く)]]>
セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(四)
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2012-06-04T21:00:00+09:00
2012-07-16T15:34:12+09:00
2012-06-01T17:18:56+09:00
kourick
考察
思考の種になりそうなのは「3」代とか、「5.55」代とかだけれど、その前に、ウィトゲンシュタインの言語と日常言語はどのような関係にあるのかを見ておこう。前回も書いた通り、『論考』 の言語というのは論理的に完全なものが想定されている。
ただ、その一方で、こうも書かれている。「われわれの日常言語のすべての命題は、実際、そのあるがままで、論理的に完全に秩序づけられている」(「5.5563」)。じゃあ、日常言語だけでいいじゃないか、それで論理的な分析もしたらいい、と思うところかもしれない。
実際、のちにそれを試みる人たちも現れるわけだけれど、この時期のウィトゲンシュタインはそうした方法にはかなり否定的だった。いわく、「日常言語から言語の論理を直接に読みとることは人間には不可能である」(「4.002」)。どうしてだろうか。
端的に言ってしまうと、日常言語は「あまりにも複雑」だからである。そしてまた、それがもともと「論理を示すためだけに作られているわけではない」からである。実際、日常言語というのはいろいろな使い方ができ、その使い方を楽しむだけでも人の興味を惹くものだ。
たとえば、「テーブルの上にリンゴがある」と言う場合を考えてみよう。いま食べたばかりなのに、なぜかテーブルの上にリンゴがあった。おいおい、タイムふろしき、いや、グルメテーブルかけの仕業か? ふと驚いて、そんなことを呟いてしまっても不思議ではない。
もっとも、日本語を話す日本人なら「の上(に)」などという前置詞は使わない場合が多いかもしれない。「テーブルにリンゴがある」のほうが自然に感じるものだ(個人差はあると思うけれど)。そう、「戸棚にお菓子があるから食べちゃいなさい」という謎の定型句もあった。
お菓子の典型的な在り処とは「戸棚」である。そして、それは「饅頭」か「串団子」と決まっている。いや、それはさておき、「テーブルの上にリンゴがある」である。テーブルの上にリンゴがあるとき、人は「テーブルの上にリンゴがある」とか言ってみるものだ。事実の描写である。
しかし、必ずしもそうある必要はない。夏休み、突き抜けるように紺碧な日差しのなか、家族と一緒に神威岬を散策しにいった少年が、なんとかその突端に辿り着き、地平線の上にある太陽を見て、付き添いのおじいちゃんに「テーブルの上にリンゴがあるよ」と言ってみる。
そんなこともあるかもしれない。大人も大人で、「そうだね」とか言うのである。「神様もお腹が減るから、リンゴ食べちゃうんだよね。だから、夜になっちゃうんだよ」「そうなの?」「そうだよ。だって、夜にはお皿しか残っていないでしょう?」とかファンタジるかもしれない。
こうしたやり取りに「やはり子供の感性は素晴らしい」と思い、うちの子には詩的な才能があるのかもと期待に胸を膨らませるか、「ああ、言葉を奇妙に把握しているし、妄想も激しい」と思い、うちの子は言語理解に難があるのかもと不安に頭を悩ませるかは難しいところだ。
言語の誤用に「子供の素朴さ」や「感性の素晴らしさ」をみとって感激するのは大人の専売特許といえるだろう。ただ、この場合、「誤用」とはいっても、言語の詩的使用という観点からは、むしろその子は正しいのかもしれない(詩的なものに正しさを求めるのもどうかと思うが)。
まあ、いまのは何気ない僕の創作だけれど、実際、それほど違和感を覚えなかったのではないかと思う。人は事実を描写するような言語使用を「正しい」と感じ、それゆえに、ある種の詩のように語のイメージや雰囲気を用いた描写を「本来的には誤り」と感じがちだ。
しかし、なににせよ、そういう使い方もできる(そう、どういうわけかできてしまい、さらに僕たちはそれによって、実際、なにごとかをわかったりもする。が、それはまた別のお話)。上記の場合も、事実の描写にはなっていないだろうけれど、それはそれで面白い言語の使い方だろう。
ただ、そうした使用法すら許容する日常言語は、厳密に論理的な分析をすることにはまったく向いていない。そうした遊びがナンセンスを生み、誤解を生む。ウィトゲンシュタインは論理的な分析のためには日常言語の贅肉を落とし、論理的な精度を高める必要があると考えた。
言語に関して「正しさ」を問うというのは、なにを問うているかというと、その「論理的な正しさ」を問うているのだということである。それ以外に、言語のどんな性格について「正しさ」を問いうるだろうか。言語使用はさまざまだが、こと、その正しさということだと、その論理が問われる。
まあ、これはちょっと(というかけっこう?)僕の読みも入っているけれど、このような目的意識は、フレーゲがその著作 『概念記法』 の序文に書いた、「顕微鏡と眼の比喩」を思い出させる。少し長いかもしれないけれど、引用しておこう。 概念記法の生活言語(Sprache des Lebens)に対する関係は、それを顕微鏡の眼に対する関係に譬えてみると、もっとも分かりやすくなると思う。眼は、その適用可能な範囲やまったく異なる状況にも適応できる柔軟性の点で、顕微鏡よりはるかに優れている。もちろん、光学機器としてみるなら、眼には多くの欠陥がある。そして、それらの欠陥にわれわれがふだん気がつかないのは、眼が精神生活と内的に結びついているからにすぎない。しかし、科学の目的が分解の厳密さを強く要求するやいなや、眼は不十分なことが明らかになる。これに対し、顕微鏡は、このような目的に完璧に適合しているのであるが、まさにそのゆえに他のすべての目的に対しては役に立たないのである。 同じように、この概念記法は、一つの特定の科学的目的のために考案された補助手段なのであり、他の目的に対して何の役にも立たないからといって、それを非難してはならない。 ここで「概念記法」と言われているのは、とりあえず、「記号言語」と考えてもらっていい。そのほかのことは書かれているとおりのことなので、特に説明はいらないだろう。適応力・柔軟性の点で生活言語は優れているが、論理的分析をするには多義的で曖昧なところも多い。
他方、記号言語は論理的分析を行なうのには適しているが、それがために日常的な生活には役立たない。フレーゲの概念記法は当初「日本語のように分かりづらい」と評されたほどユニークだけれど、その表記法だとルイス・キャロルのパラドクスを生じないなど利点もある。
それはさておき、『論考』 の言語に話を戻そう。ウィトゲンシュタインも明晰に思考し、明確に表現し、論理的に推論するための言語というものを考えている。ただ、その表し方、あるいは示し方にウィトゲンシュタインはラッセルやフレーゲよりもはるかに禁欲的な態度をとっている。
ウィトゲンシュタインは論理的に完全な言語を要請しつつも、どうも日常言語のほかに論理的に完全な言語があるとは考えていない。むしろ、「われわれの日常言語のすべての命題は、実際、そのあるがままで、論理的に完全に秩序づけられている」とまで言うのである。
これはどういうことだろう。ウィトゲンシュタインのいう世界は(定冠詞付きなことからもわかるように)唯一の世界であり、それに対応する言語も唯一の言語である。そして、このことは、その対応関係を保証している論理というものも唯一の論理であることを示唆している。
ということは、日常言語が論理的に完全に秩序づけられているとき、そのほかに考案された記号言語も論理的に完全であるとするためには、それら両方の言語の扱う領域(ないしは限界)が一致しているということが求められるだろう。これは当然のなりゆきである。
そして、日常言語の論理的な瑕疵を指摘しつつも、なお、日常言語は論理的に完全に秩序づけられているという指摘を素直に受け取るのなら、ウィトゲンシュタインの想定している論理的に完全な言語とは、日常言語の背景に埋め込まさっているのだと考えるのが自然だろう。思考は言語で偽装する。すなわち、衣装をまとった外形から、内にある思考の形を推測することはできない。なぜなら、その衣装の外形は、身体の形を知らしめるのとはまったく異なる目的で作られているからである。(「4.002」) このように「衣装と身体の比喩」で言われているのは、そういうことである(もちろん、具体的には、ラッセルの記述理論のことなどが念頭に置かれているのだとは思う)。そもそも、そうでないなら「思考は言語で偽装する」などという表現からしておかしいのだ。
なぜなら、それは「言語は言語で偽装する」と言っているのと等しいからである。前者の「言語」は論理的な言語(記号言語)、後者の「言語」はいまいち論理的とは言い切れない言語(日常言語)のことだろう。それゆえ、厚着した言語を丸裸にするのが哲学の役割なのだ(「4.112」)。
日常言語は本来、論理的に完全に秩序づけられているのだけれど、しかし、論理的な目的に資するためには余分なところが多すぎる。世界のうちに指示対象をもたないような語を含んでいるし、曖昧で多義的な表現でかなり水増しされてしまっている。これがいけない。
ありのままの言語、そして、ありのままの世界から、そこに内在する論理的に完全な言語、そして、論理的に完全な世界を、記号言語を用いて示そう(その助けを借りて読みとろう)、どうやら、ウィトゲンシュタインのモチベーションの片面とはこのようなものであったと思われる。
そしてこのことは、論理的に完全な言語というものを直接的に提示することはできないという主張も含んでいる。これは幾何学を例にとるとわかりやすいだろう。僕たちは「これこそが正真正銘の三角形です」というようなものは提示することができない。
それはどうしたって、個別の具体的な三角形になる。ただ、その三角形の特定の性質を捨象して、その三角形が三角形であるというかぎりにおいて考察するなら、その三角形を通して得られた帰結は、任意の三角形一般について当てはまるものである。
僕たちは個別の三角形について語ることしかできないけれど、それを通して、任意の三角形一般で成立することを示している。ウィトゲンシュタインが論理について考えていたことも、そういうことだろう。純粋に論理的な命題は語りえず、個別の命題によって示されるほかない。
さて、そのようなわけでウィトゲンシュタインの言語と日常言語の関係はだいたいわかったのではないかと思う。ウィトゲンシュタインのいう「言語」は日常言語とまるっきり別のものというわけでもない。それは言ってみれば、日常言語という衣装を纏って現れる。
ただ、ひとつ注意したいのは、典型的なプラトニズム的な解説をしておきながらなんだけれど、どうもウィトゲンシュタインは論理についてのプラトニズムには与していないということである。これはとても重要なところなのだけれど、今回はそっとしておきたいと思う。
というわけで、続きは次回にしたいと思う。それにしても、まさかこんなマラソンになるとは思っていなかったので、正直、僕はちょっとだれてきている。これを読んでいる人もそうだろう、もう少しだけお付き合いいただけたらと思う。いまのところ、いちおう完走する気はあります。(続く)]]>
セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(三)
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2012-06-02T20:00:00+09:00
2012-06-13T14:54:29+09:00
2012-05-26T17:11:00+09:00
kourick
考察
意味論に関しても、比較的近縁にいた三人、フレーゲとラッセルとウィトゲンシュタインにして、三者三様にうまいこと見解が分かれている。さらにウィトゲンシュタインの場合は、その「前期」と「後期」でかなり考え方が変わったと言われている(変わったからこそ、区別されている)。
しかし、その変化の徴候は 『論考』 にも現れており、『論考』 においてすでに「意味(Sinn)」の取り扱いはおおまかに二通りある。それは言ってみれば、ひとつは「意味の対応説」(「真理条件的意味論」)であり、もうひとつは「意味の使用説」的なにかである。
ときおり、『論考』 は「真理条件的意味論」だと言われる。『論考』 の言語において「意味論なんてありうるのか?」と思わないこともないけれど、まあ、たしかに、そう読めるところはある。実際、そこかしこにそれに類することが書いてあるのだ(もっとも、本来、事情は逆である)。
命題が有意味であるというのは、その命題がきちんと事実を描写しているということであり、「命題を理解するということは、その命題が真であるとしたら事実はどうであるかを知ること」である(「4.024」)。意味の担い手は命題であり、命題が事実を語り、意味を示す。
このとき、「命題は語ったり示したりしないだろ」というのは素朴な感想で、もっともだし、ウィトゲンシュタイン的にもけっこう重要なところだと思う。ただ、それは「死体は語る」というときに「死体は語らねえよ」とマジレスすることとはちょっと異なった事情にあることは押さえておきたい。
たとえば、交通事故の現場を物理演算エンジンを搭載した3DCGソフトウェアのなかでモデルを使って再現しているような場合を想像してほしい。実際に起きた交通事故(の現場)、これが事実に相当する。そして、シミュレータによる再現(の帰結)、これが命題に相当する。
ソフトウェアの精度にもよるが、ある用意された変数に初期条件を入力し、プログラムを走らせる。すると、事故発生の経過は可能な状況を辿り、結果は起きえた事態を描写する。何度も試行を繰り返し、その結果が事実と一致したなら、それが真相だろうということになる。
いや、もっと異なる因果関係によって事実は生じたかもしれないと思う人もいるかもしれない。それはたまたま事実と同じ結果を写しただけで、それのみが真相であるとは限らないのではないか。だが、それはソフトウェアの分解能の問題で、完全な分析が可能なら問題にならない。
そして、『論考』 の言語というのは、そうした理想的な言語が想定されている。ゆえに、「命題の完全な分析が一つ、そしてただ一つ存在する」と言われる(「3.25」)。地球シミュレータも真っ青の論理的に完全な言語なのだ。これが 『論考』 の言語の具体例を挙げることの難しさでもある。
ただ、注意しなければならないのは、だからと言って、その言語はなんら抽象的なものではないということだ。少なくとも、ウィトゲンシュタインはそう言っている。どこかにイデア的な理想言語(とその完全な論理)があると想定されているわけではない。このことはあとで触れる。
さて、結局、なにが言いたいのかというと、この場合、事実を描写するのに試行者はどれほど関与しているだろうかということである。その人はなにかしらの結果を意図してデータを入力したかもしれない。けれど、なにも意図していなかったところで、プログラムは走るだろう。
言語にはそういった自律性がある。普段、人はなにかしらのことを意図して話すものだけれど、明確な意図のない幼児でも、言語として理解しうることは話しうる。そして、それはまったく幼児の意図したことではないとしても、意味をもった命題として成立しうるものだ。
要するに、意味というのは「人の頭のなかにあるのではない」ということである。人の頭のなかに意味があって、それを言語にしているわけではない。ウィトゲンシュタインはそのように考える。言語そのものがその意味を担っているというのはそういうことである。
さて、最初の疑問に戻ると、「命題は語らないだろ」という人は「そうは言っても、私が命題を用いて事実を語るんじゃないの?」「私が私の思考を命題において表現するんでしょ?」と思うかもしれない。「命題が語る」のではなく、「私が(命題を用いて)語る」のだと言いたい。
それはたしかにもっともだ(と僕は思う)。けれど、このとき、はたして「私」とはいったい誰なのだろうか。思い出してほしい、世界とは事実の総体であり、「ものの総体ではない」のである(「1.1」)。「私」という語に指示される対象が最初にいて、それが思考するのではないのだ。
命題を分析することによって、語が与えられる、事実を分析することによって、対象が与えられる、これが順序である。『論考』 においては、言語(命題)とそれと対応する世界(事実)、これが思考の前提であり、デカルトのように「思考主体としての私」が前提されるわけではない。
さて、じゃあ、ここでもう一歩踏み込みたい。思考するための前提だけれど、それには「そもそも思考できる」「思考できてしまう」ということがあるだろう。なにを当たり前のことをと思うかもしれないけれど、これは重要なことである。僕たちは「思考とはなにか」ということすら思考しうる。
そして、この「思考しうる」ということと対になるようにして「理解しうる」ということも前提として言いうるだろう。「理解」というのはよくよく考えるとかなり不思議な状態(あるいは現象)だが、僕たちはそもそも思考でき、思考を表現したものを理解しうる。これはどうしてだろうか。
(ちなみに、前提ということを考えるとき、思考を表現するための装置というのはなにかしら必要になるだろう。それは通常の場合、各人のボディということになるだろうけれど、原理的には、そうである必要もないことになるのか否か。これは「5.621」とも関係する)
ちょっと話を戻そう。たしかに 『論考』 には真理条件的な意味の理解があるのだけれど、これには問題もあって、それは 『論考』 がメタ言語を欠いているということだ。命題を理解するとは事実どうであるかを知ることだが、しかし、そもそも、どうして命題を理解できるのだろう。
それはもちろん、「事実どうであるかを知ることができるからでしょう?」と思われるかもしれない。だが、「事実どうであるか」ということは「命題によってはじめて描写される」のであって、それを知るためには、結局のところ、命題を理解しなければいけないだろう。
たしかに「命題を理解する」ということの内実は「事実どうであるかを知ること」だとしよう。だとしても、そもそもどうして「命題を理解できる」のかというのが、ここでの疑問である。現在なら、「メタ言語によって説明する」というようなことがいえるだろう。
だが、『論考』 において、その命題を説明する命題というようなものはありえないし(あったとしても無限背進)、命題が自分自身を語るということもない(「3.332」)。それでは、ある命題の根源的な理解とはどのようにして得られるものなのだろうか。(続く)]]>
セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(二)
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2012-05-27T20:00:00+09:00
2012-06-03T16:27:22+09:00
2012-05-25T14:03:47+09:00
kourick
考察
世界における事実の成立・不成立が、言語における命題の真偽に対応しており、流行りの言葉を使うなら互いが互いに随伴するような対応関係をもっている。だからこそ、「思考しうることは可能なこと」でもあり(「3.02」)、「記述されうることは起こりうること」でもある(「6.362」)。
「机上の空論」というネガティブな慣用句があるけれど、机上でシミュレートできることが現実において再現できるということはもはや珍しいことではない。67年前、日本は身をもってそのことを体験している。日本人は技術を重視しがちだが、理論を侮ってはいけない。
さて、ここからである。じゃあ、このとき、「命題」とはなんだろうか。命題とは「思考を表現するのに用いられた記号」のことである(「3.12」)。命題とは記号である、しかし、単なる記号の羅列は命題としての要件を満たしていない。それは思考を表現していることによって命題となる。
それでは、この「思考(Gedanke)」とはなにか。実のところ、その身分はいまいちはっきりしていない(と僕は思う)。けれど、それがどのようにして現れるかということは示されている。いわく、思考は「知覚可能な仕方で表現された」「有意味な命題」として現れる(「3.1」「4」)。
ゆえに、『論考』 においては「表現できない思考」などというものはありえない。人はときに「言葉にはできないけどちゃんと考えてるんだよ」と言いたいことがあるけれど、バッサリ言って、それは「考えられていないから言葉にできないんだ」ということになる。なかなか手厳しい。
表現された命題が思考であるということからは、「じゃあ、そもそも私はいったいなにを表現しているのか」という疑問はあるかもしれない。それが思考じゃないのか。しかし、『論考』 においては、もはや「表現されるまえの思考」の存在論的身分を問うことはできない。
なぜなら、存在というのは世界のうちに現れてきているものにのみ問いうることであるからだ。思考が命題として表現されたものであり、命題もまたひとつの事実であるとしたら(「3.14」)、思考もまたひとつの事実としてしか世界のうちに現れてこない。
表現されていない思考というものが仮に「ある」のだとしても、それが「本当にあるのか」というような問いはできない。いや、してもよいけれど、それはナンセンスだということになる。なぜなら、表現されていない思考などというものは、そもそも世界のうちに現れていないからである。
ややこしいなと思うなら、「表現されていない思考? 表現されていないんなら、ないんじゃない?」と考えてもいい(厳密には「ない」とも言えない)。「いや、頭のなかにはあるんだよ」と言いたいかもしれないけれど、脳みそを解剖しても思考はでてこない、そんなものはない。
これは音読しかできなかったはずの子供が「黙って読んでいる」ときに「本当に読んでいるのか」と疑問に思うことと似ている。子供は「読んでいる」と言い張るかもしれないけれど、それが「本当に読めているかどうか」は表現させてみないことにはわからない。
表現されていない思考も同じである。「考えているんだ」と言い張る人には、「本当に考えられているのかどうか」を表現してもらうしかない。そうであるなら判断できる。つまり、表現されていない思考が仮に「ある」のだとしても、その段階で「『ある』 とは言えない」のである(「5.61」)。
いあまあ、言ってもよいのだけれど、それは「ナンセンスだ」ということになる。受け手としては「いや、ないだろ」とも言い切れないので「ああ、そうなんだ」としか言えない。あるいは「使用されない記号は意味を持たない」のだから(「3.328」)、あったとしても「無意味だ」ということになる。
しかし、それでも食い下がり、「いや、私の頭のなかでは表現されているんだ」と言う人もあるかもしれない。往生際が悪いけれど、しかし、これはよくよく考えてみるとけっこう微妙なところだ。前半を読んでいる限りは無理だが、独我論までいけばワンチャンある、か?
いま、これを書き進めていて僕も思うけれど、やはり「まだ表現はされていないけれど、これから表現可能な思考というものが、事実として表現された思考よりまえにあるのだ」と言いたいものだ。思考(や意味)のような抽象的な「なにかがある」という誘惑に駆られる。
あるいは、そういったものはたしかにないにしても、「頭のなかで言語化されている思考もある」「描こうとしている絵はある」というようなことは言いそうになる。そうやってイメージしている内容によって、所定の脳の部位は活性化していて、それが思考している証拠じゃないか。
しかし、表現してみてはじめて、「ああ、自分はこんなことを考えていたのか」と思い知らされることもある。この文章にしたって、表現の試行を繰り返してやっと、思考の骨格が見えたり、なに書いてるのかわからなかったりする。まあ、これはたんに僕のメモリ不足かもしれないが。
それでも「思考はある」と言いたくなるのは、おそらく、僕が僕の頭のなかで喋っていること(思考?)は「僕には聞こえている」という直感に由来しているのではないかと思う。ほかの人の頭のなかに思考があるのかはわからないが、私の思考は私には知覚可能なのだから、ある。
これはちょっとバッサリいっちゃまずそうな疑問ではある。いや、バッサリいきたいのだけれど、たぶん、こうした気分をバッサリ落とすような独我論は方向違いだろう。「頭のなかで喋っていることを聞く」という比喩的な表現で示されているのは、いったいどんな知覚だろうか。
はたして、それは知覚だろうか。知覚じゃないような気はする。たまに誰か(自分?)の声付きになってドキッとすることはあるけれど、そんなことはまれである。じゃあ、どんな行為なのだろうか。これはけっこう面白いテーマだけれど、とりあえずさきに進むことにしよう。
なにはともあれ、ウィトゲンシュタインはとにかくそうした抽象的にしか把握できないなにかは「世界」のうちには含めなかった。それは「ある」とは言えない、これで一貫している。人は言語を用いて思考する、そして、その限りにおいて、「ある」とか「ない」とかも問いうるのだ。
仮に、命題を「外言」、思考を「内言」として把握するとしたら、『論考』 において、これらは完全に一致する。ゆえに、外言になっていない思考はありえないし、内言になっていない命題もありえない。表現されていることは考えられているし、考えられていることは表現されている。
というわけで、『論考』 において、思考と命題は緊密な対応関係をもっている。というか、実質的には(ほぼ)イコールである。さて、思考が命題であるための条件には「有意味である」というものもあった。僕が思うに、この「意味(Sinn)」の考察が独我論の次のステップかなと思う。(続く)]]>
セカイ系など花拳繍腿、 独我論こそ王者の技よ!(始)
http://kourick.exblog.jp/18013905/
2012-05-26T20:00:00+09:00
2012-06-02T19:44:53+09:00
2012-05-25T14:01:29+09:00
kourick
考察
もっとも、文字言語よりも音声言語のほうを先に習得することになるだろうから、これは当たり前というと当たり前のことかもしれない。そもそもそうでないのなら、「読む」という行為自体が成立しない。「読む」という行為を「文字を音声にすること」と把握するとそうなる。
しかし、大人になるとそうともかぎらないわけで、普段、なにかを読むというときにやおら音読を始める人はそういないだろう。大人が黙って文字を眺めているのを見て、子供が「なにをしているのだろう」と奇妙に思わない理解力には天才的なものがある(思っているのかな)。
黙読している人を指して「あれ、なにしてるの?」と音読しかできない子供に訊いたら、「あれはね、本を読んでるんだよ」とか教えてくれるかもしれない。そして、自分も同じ格好をして本を開くのだ。彼はいま、本を読んでいるのだろうか、いないのだろうか。
音読ならチェックするのが容易だけれど、黙読だと傍目からはわからない。「じゃあ、声に出してごらん」ということになる。僕にとってそれは「読んでいるふり」だけれど、彼にとっては「読んでいる」のかもしれない。「読む」という行為はどこまで「読めている」という実績を伴うのか。
さておき、音声を文字に、聴覚的な情報を視覚的な情報に変換できるというのは、成長過程におけるちょっとした発見には違いない(人類の歴史で考えるなら、数万年はかかっている)。あるいは、あまりにもありふれたことなので、これといってなにも思わないだろうか。
ピアジェとヴィゴツキーの論争で有名だけれど、コミュニケーションの道具としての言語のことを「外言」といい、思考の道具としての言語のことを「内言」という。たぶんではあるけれど、黙読というのは、この内言を用いないといけないから難しいのだろうというのが拙速な理解だ。
子供がよくひとりごとを言っているのは、問題を解決しようとする過程でその「外言」を内面化していっているのだと考えられている。そうして内面化された言語が「内言」である。僕もよく「頭のなかで喋る」けれど、これは「内言」を用いている。あるいは、これこそが「内言」である。
人は普段、思考を伝達しようとして喋る。しかし、発達的には、なにかを伝達しようとして用いる言語が内面化して、思考できるようになると考えられる。じゃあ、僕たちはそもそもなにを伝達しようとしていたのだろう。言語化される前の広い意味合いでの思考とはいったいなんだろう。
それは意図なのか欲求なのかもっとほかのなにかなのか、あるいはそんなものない(行為のみある)のだろうか。しかしまあ、どのようなレイヤを想定するにせよ、子供たちは暗闇のなかから意味を生み出しているわけではない。それは訓練され、学習されるものである。
一定のコードは子供の誕生に先立って成立しており、それは共同体において担保されている。それを子供たちは養育者(環境)から学習し、使用し、応用する。さて、そんなわけで導入が無駄に長いけれど、今回はウィトゲンシュタインの独我論をみてみたいと思う。
これはわりと解釈の余地のあるところで、いろいろな人がいろいろなことを書いているのだけれど、正直、それらを読んでもちょっと理解できなかったので、僕は僕なりに勝手に読もうかなと思う。そもそも僕は、独我論のなんたるかというものがいまいちわかっていないのだ。
独我論にはいろんなバージョンがあるけれど、なににせよ、その肝にあるのは「この私の特別さっていったいなんなんだ!」というワンダーなセンスのようだ。「私」というときに、他の何者でもない、まさに「この私」であることの不思議さ、これが独我論の肝にある(みたいだ)。
かの涼宮のハルヒも似たようなことを言っていたような気がするし、誰しも子供の頃に一度は考えてみることのようなのだけれど、実のところ、僕はこれがいまいちわからない(哲学的なセンスがない)。言っていることはわかる(ような気がする)のだけれど、やはりどうもわからない。
むしろ僕は、僕の意識はけっこう自動的な感じがしている。たんに普段からぼうっとしているだけと言われるとそうかもしれないけれど、主体として明確な自己意識を保持しているのかといわれると、いささかこころもとない。内省はできるものの、どこか他人事のような感覚もある。
もしかすると、これも独我論から照射される問題なのかもしれないけれど、通常の独我論のような、主体性の濃さからくる個我の統制感よりも、むしろ主体性の薄さからくる個我の空虚感のほうが切実な問題のように僕には感じられるのだ。僕の「私感」は離人症的なまでに薄い。
僕はどちらかというと意識の主体性というようなものよりも、意識の追従性というようなものほうに不思議さを感じている。わりと意識が状況を後追いしているようなところがあって、エピソード記憶もほとんどないし、ふっと我に返って自己を同定しているようなところがある。
思うに、僕が僕として、僕が僕のように生活を続けるために、僕の意識はもはや、さして必要ないのではないか(と、「僕」はいま思っている)。そうであったとしても、僕は環境に適応し、僕であることを続けるだろう。むしろ、意識のほうがイレギュラで、生活を邪魔することすらある。
もっとも独我論というのはそういう精神病理や社会病理のような心理学的な問題意識ではなく、もっと形而上学的な問題意識なんだよと言われるとたしかにそうかもしれない。だとすると、僕の存在の問題はもはや哲学の範疇にはないということで、まあ、これもそうかもしれない。
僕というものをトータルで考えるときに、意識のあるほう(自我)にプライオリティを持たせるのは、まさにそれを考えているのが自我なので仕方のないところもあるが、いまいちフェアな感じもしない。欠席裁判じゃないか。僕は意識のないときの僕もけっこう信頼しているんだが。
というわけで、『論考』 の独我論なんだけれども、この独我論が面白いのは、それが出発点というよりも到達点の先に現れることかなと僕は思っている。順番としては「世界」→「言語」→「私の言語」→「私の世界」からの「自我」となっていて、これは(なぜか)逆向きも成立する。
さて、こう書いたところでわけわかめで、「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前んなかではな」というだけのことになってしまうので、実際にテキストをみてみることにしよう。僕は、この独我論は 『論考』 だけからわかりたいと思うし、それでわからないなら、わからない。(続く)]]>
うるさいから、創っちゃった・・・世界(・ω<)
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2012-05-01T22:00:00+09:00
2012-06-13T02:38:01+09:00
2012-05-01T21:46:28+09:00
kourick
考察
もっとも後期の「泥臭さ」のほうが渋いよという人もいて(『論考』 も泥臭いと思うが)、そのあたりは個人の好みということになっている。ただ、していることはそう変わらない。前期と後期は鮮やかな対比を示すのだけれど、ウィトゲンシュタイン自身のスタイルは一貫しており連続している。
いや、むしろ逆だろう。ウィトゲンシュタインのスタイルが一貫して連続しているからこそ、前期と後期は鮮やかな対比を示す。後期は 『論考』 をも成立せしめた世界の探究が行われる。だから、彼にとって、それを一冊の完結した書物にまとめられないのはたぶん必然だったのだ。
ウィトゲンシュタインは 『論考』 において、バベルの図書館にある書物の有意味な命題すべてをマークアップすることに成功した。しかし、『論考』 自身もバベルの図書館の一冊だということに気付いてしまう。自分はどうして 『論考』 を書けたのか。この「謎」の探究が後期の仕事だ。
さて、そんなこんなでまたちょっと書いてみたいと思うのは、前回の補足も兼ねて、『論考』 の「世界」についてだ。といっても、『論考』 における分析の最小単位は命題(ないしはそれに対応する事実)なので、まずは「1」の全体を見ることから始めてみよう。1 Die Welt ist alles, was der Fall ist.1 The world is everything that is the case.1 世界は成立していることがらの総体である。 冒頭の「Die Welt」は英訳版だと「The world」になり、日本語だと定冠詞の「Die」に対応するものはないが(これは大きなニュアンスの違いだ)、つまり、「世界」である。ちなみに「Welt」の「W」が大文字なのは、ドイツ語の名詞だからというだけで特別な含みはない。
さてはて、そもそもこの命題はいったいなんなのだろうか。なんなのかという言い方もないが、要するに、この「ist」はどういう働きをしているのかということだ。それは繋辞なのか等号なのか存在の表現なのか(「3.323」)、等号だとしたら、それは定義なのか再認判断なのか。
これは簡単なように見えて、意外と難しい。「話すというのは類語反復に陥ることさ」とあっけらかんとできるならよいのだが、そうは言ってもどうにもならない。もっとも手っ取り早いのは、これはウィトゲンシュタインという神による「そういうものなんだよ」という「託宣」だという理解だろう。
これはけっこう本気の冗談だ。定義でいいじゃんと思われるかもしれないけれど、定義だとするとこれは「世界」の定義ということになり、「言語」と対応している「世界」をその外側から定義するということは「言語」の外側から定義するということになり、ウィトゲンシュタインにはできない。
そもそも定義とはなんだろうかという方向には進まないことにしよう。そうしたら次は、じゃあ、なにかしらの主張ということじゃないかと思われるかもしれないけれど、主張だとするとこれは「世界」と「成立していることがらの総体」が表現しているものは「同一だ」という主張になるだろう。
ウィトゲンシュタインは「二つの表現の指示対象が同一であると主張することはできない」(6.2322)と言っている。なぜか。端的に言うと、私がそれらの指示対象を把握しているのなら「同一だ」などと主張する必要はないし、把握していないならそもそもその主張はできないからである。
ゆえに、そうした命題は「私が二つの表現を検討する観点を指し示すにすぎない。すなわち、指示対象の等しさという観点から見よ」(6.2323)というわけである。つまり、「これ、そういうことになってっから! 見てみ、ほら! ね?」ということだ。「示唆」と言われる行為に近いだろう。
前回のことを踏まえると、これこそまさに「解明」というところのものである。とりわけ、「1」から「2.063」は存在論をしていると言われ、どうすんだこれみたいな命題の集まりになっている。この部分を「なるほど、そういうことにしておこう」と受け容れられるかどうかはかなり大きい。
特に「1」は始まりにして全てみたいな感じで奥深い。人は普段、「世界」という言葉を使っていても、それがどういうものなのか厳密に追究することはないし、そんなことができるとも思わない。だが、ウィトゲンシュタインは「世界はある!」という意志からその完全な記述を試みた。
世界とは成立していることがらの総体である(「1」)。成立していることがらとは事実である(「1.1」)。事実は命題によって描写される(「2.1」→「2.182」「2.19」→「3」→「3.1」)。そうして表現された命題もまた、ひとつの事実である(「2.141」「3.14」)。
事実を描写している命題は、それ自身がひとつの事実である。さて、このとき、「1」という命題もひとつの事実である。ということは、「世界は事実の総体である」というときの「事実」のなかに命題「世界は事実の総体である」自身もまた含まれている。
すると、「世界は事実の総体である」という命題自身のなかに当の命題が含まれていることになり、一見、世界が延々とネストしているように見える。世界の内側に世界が、世界の外側に世界があるように見える。この循環は悪性のものではないものの気になるものではある。
ウィトゲンシュタインが 『論考』 に 『論考』 を適用するというようなことや、引用の問題をどう考えていたのかはわからないけれど、「1」から「2.063」の命題に現れる「世界」は、そうした循環を先取りして成立している包括的全体として把握するのが、たぶん適当だろう。
たとえば、「2.063」までを見てみよう。世界とは成立していることがらの総体である(「1」)。成立していることがらとは事実である(「1.1」)。事実は事態の成立である(「2」)。事態の成立・不成立が現実である(「2.06」)。現実の全体が世界である(「2.063」)。
これ、一見、変じゃないだろうか。この変さは「1.13」も参照するとわかりやすい。そこでは「論理空間のなかにある諸事実、それが世界である」と言われる。これを素直に受け取ると、論理空間というものがあって、そのなかには成立している事態と成立していない事態がある。
そして、その成立しているほうの事態の総体が「世界」である。ということは、論理空間のなかには成立していない事態というものが残され、そっちは「世界」には含まれないということになりそうだ。「世界」とそこに残された事態を合わせて「現実」と思ってしまいそうになる。
つまり、「現実」のほうが「世界」より大きい。「2.06」までを読んでいるとそう思ってしまう。だが、違う。ウィトゲンシュタインは「2.063」でそれをすべて回収にかかる。いわく、「現実の全体が世界」である。これはいったいどういうことなのか(「3.01」「4.26」とかも)。こう考えるしかない。
まず、僕たちは「世界」に直面する。それは「成立していることがら」すなわち「事実」の集まりであり、そこから理解の道は始まる。そこで「成立していることがら」がわかったとなると、僕たちは同時に「なにが成立していないのか」もわかったことになる(「2.05」)。
要するに、「2.063」においては、成立していることがらは成立しているという仕方で成立しており、成立していないことがらは成立していないという仕方で成立している。「成立していることがら」も「成立していないことがら」も、いずれにせよ、ある仕方で「成立している」ということだ。
このような押さえかたをするなら、「2.06」に書かれる「否定的事実」という不可解な表現も、それなりきに納得できるかたちで理解できることになる。ただ、依然として、「否定的事実」という表現が不注意なものであることは否めない。けれど、まあ、それはいい。
あるいは、こういう言い方もできる。成立している事態は事実なのだから、世界の一部である。成立していない事態は事実ではないのだから、世界のうちに現れてはこない。ただそれは、成立している事実の可能性として世界のうちに含まれてはいる。世界は可能性に満ちている。
とんちかよ、という感じだが、そういうことである。ウィトゲンシュタインの「世界」は一個の包括的全体性をもっている。だが、もし知識状態という観点からみるなら、「1」の「世界」と「2.063」の「世界」は明らかに異なっている。そこで「世界」は更新(発展)されていると言っていいだろう。
なぜなら、「1」では「成立していることがらしか知らない」が、「2.063」では「成立していないことがらも「成立していない」という仕方で知っている」ということになるからだ。けれど、この書物はそういう書物ではない。だから、あるいみ、この書物の全命題は同時に成立していないといけない。
同時に成立している命題群を「どこから読み始めるか」というのはちょっとした難題だが、最終的に全部読むなら「どこから読んでもかまわない」ということなので、気楽というと気楽ではある。小説だったら、後ろから読むと時間は逆行するものだけれど、『論考』 はしない。
さて、ここまで書いておいてなんだけれど、実は上記したようなネストはウィトゲンシュタインによると起こりえない。それはおもにラッセルのタイプ理論を非難している箇所で言われている(特に「3.333」)。けど、書いた。「世界」に関して、ちょっと腑に落ちなかったからである。
というわけで、「5.54」からの命題的態度はどうなってるんだとか、「5.6」からの独我論はどうなってるんだとか、もうちょっと気になるところはあるかもしれないけれど、このあたりにしておこうと思う。最後にギャグみたいな一節が 『論考』 にあるので、それを引用しておしまいにしたい。神がある命題を真とする世界を創造するならば、同時に神はまた、その命題から帰結するすべての命題が真となる世界をも創造するのである。同様に、命題「p」が真となる世界を創造しておきながら、命題「p」に関わる諸対象の全体を創造しないなどということもありえない。(「5.123」)命題は、そこから帰結するすべての命題を肯定する。(「5.124」)]]>
神によって書かれた神話のなかに神はいるか
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2012-04-25T20:00:00+09:00
2012-05-15T03:54:35+09:00
2012-04-25T18:54:43+09:00
kourick
考察
ただ、もし「6.54」で終わっていたとすると「なにか足りない」という気持ちにはなったかもしれない。そう考えると、やはり「7」というのは必要で、余分なんだけれど、それがあるからこそ完成している。言ってみたら、「。」や「蓋」のようなもので、それがないと収まりが悪い。
しかし、本来的には、「7」は内容の一節というよりも、タイトルのような位置にあったほうがふさわしかった感じもする(シュールレアリスティックな皮肉も効いている)。まあ、そんな性格の異なる一文が内容に入っちゃっているあたりもウィトゲンシュタイン的なのかもしれない。
ウィトゲンシュタインはメタ言語というような位置のものをどのように把握していたのだろう。「どうせ最終的には対象言語に回収されなきゃいけないのだから、はなから言語に階層性など設けられない」というモチベーションはあったのだろうとは思うけれど、どうなんだろうか。
ただ、「言語の単層性」や「(真偽を問いうる)世界の包括性」みたいなものに拘ったというのには、どこか共感できるものもある。要するに真面目なのだ。言語の外側の言語や言語を説明する言語というようなものを認めると無限背進してしまう。ギリシャ的な忌避感だろうか。
『論理哲学論考』 は1922年に出版されており、1944年のタルスキの「真理定義」論文にはまだちょっと時間があるけれど、「言語の階層性」というアイディアはすでにあったし(「ラッセルの解説」「6.12」)、「対象領域の相対化」というアイディアもちょうど出始めたころだ。
ただ、ウィトゲンシュタインの場合、あえてそういったアイディアを使わなかったふしがある。そして感動的なのは、そういったアイディアを使わずに 『論考』 という箱庭を、これといった破綻なしに書けてしまったということだ(僕は基本的に破綻していないと思っている)。
たとえば、原始記号の意味をメタ言語を使わずにどうやって与えているだろう。これは「3.26」に書かれている。原始記号は定義できない。なぜかというと、定義に使われる記号こそが原始記号じゃないといけないからである。じゃあ、どうやってわたしは原始記号の意味を知るのか。
ウィトゲンシュタインは言う。「記号において表現されえないことを、記号の使用が示す」。これはつまり、後期にフィーチャーされることになる「意味の使用説」だ。この「記号の使用においてその意味を示す行為」をウィトゲンシュタインは「解明(Erläuterung)」という。
たぶん断定していいんじゃないかと思うけれど、これはフレーゲのいう「解明」からきているだろう。それは人工言語の意味を日常言語で説明するというような場合に使われる。構図としては、対象言語の意味をメタ言語で説明するということに似ているが、さて、どうなのか。
フレーゲの場合はさておき、このウィトゲンシュタインの場合に重要なのは「辞書は使えない」ということだ。原始記号の意味を説明できる辞書はない。なぜなら、原始記号の意味を知るということが「辞書を作る」という作業に他ならないからである。ないものは使えない。
だから、原始記号の意味を明確に把握するためには、その記号が「現に使える」という状況がすでにあるということが重要になる。それゆえ、ウィトゲンシュタインは「それらの記号の意味にすでに馴染んでいる人だけが、解明を理解しうる」(3.263)と言った。
これは序文の「本書は、ここに表されている思想をすでに自ら考えたことのある人にだけ理解されるだろう」という宣言ともリンクしており、「6.54」において「梯子を登りきる」(=解明を終了する)に至る、壮大な伏線になっている。そこが語りきって示し終わった地点である。
はっきり言って、これは正直、論点先取にも思われる。というのも、これから示したいのは世界の限界/思考の限界/言語(意味)の限界であって、それは言語を考察することで進められるのだけれど、ウィトゲンシュタインの場合、そのときに使われる言語はまさに当の言語だからだ。
ただ、これは仕方ない。世界の内側から世界の全体を、思考の内側から思考の全体を、意味の内側から意味の全体を、「永遠の相のもと」(6.45)で理解しようというのがウィトゲンシュタインのプランだからである。だから、これは仕方ないものとして、どうするかという発想になる。
たぶん、「語る」と「示す」という言葉の使い分けというのは、このあたりの怪しさを回避するための方便なんじゃないかなと思う。わかったようでわからないのが、この「語る」と「示す」の違いだ。意外と、このことの理解というのは読む人によって異なっているのではないだろうか。
「語る」は「説明」で「示す」は「記述」だとか、「示されうることは語りえない」「語りえないものは示されるほかない」とかわかったようなわからないようなことを言われる。ありていに言ってしまうと、前提(語るための条件)として働いているものは示されるほかないという分けになる。
ただ、僕が思うに、「語る」にせよ「示す」にせよ、なにかを提示しようとするためには、まずは語らないといけないだろう。示すためには語らなければいけない。言語を用いるのなら、そうする以外に「示す」手立てはない。そして実は、これがなかなかの窮境だ。
というのも、ウィトゲンシュタインは「語りうることを語り」「語りえないことを語らない」ためにその限界を提示しようとしているのだけれど、その限界を示すためには語らないといけないからだ。語れることと語れないことがまだ示されていないのに、語ることから始めないといけない。
これはウィトゲンシュタインだけが感じた窮境だろうが、これが窮境じゃなかったらなにが窮境なのか。これはいわゆるひとつの無言に至る病だが、ウィトゲンシュタインがここでそれに罹患しなかったのは僥倖だ。しかし、このことをウィトゲンシュタインが意識していなかったとは思えない。
その反応がまさに「6.54」なのではないかと思う。ウィトゲンシュタインはそこで「私を理解する人は、私の命題を通り抜け、それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気付く」と言う。読者はいきなり、ここまで読んできたものは全部、ナンセンスなのだと宣告される。
なぜか。どうして 『論考』 の諸命題はナンセンスなのだろうか。それは、論考の諸命題に対応する事実など、世界のなかにはないからである。探しても見付からないということではない、原理的にないのだ。実例を挙げることもできるが(たぶん「1」なんかがそう)、結論から言おう。
どうして 『論考』 の諸命題がナンセンスかというと、『論考』 と「世界」を対応付けようと思ったら、世界の外側に出ないといけないからである。そしてもちろん、人にそんなことはできないのだ。だからこそ、ウィトゲンシュタインは「登った梯子を投げ棄てろ」(6.54)と忠告する。
ウィトゲンシュタインは語りえないことを一冊使って語りきり、その全体を示した。読者はウィトゲンシュタインの立っていた場所に立ち、彼が見たであろう光景を見る。それですべては示されており、もはや、それ以上に語るものはなにもない。『論考』 は語りえない。ゆえに、投げ棄てよ。
『論考』 の世界に人間はいないし、変化もない。それは別に珍しいことではないが、『論考』 が変わっているのは「世界だけはある」ということだ。それは、誰もが 『論考』 を通して覗き見ることができる。そして僕たちは「世界の見方」というものを教えられるのだ。
『論考』 というのは世界の限界を語った書物だが、最後まで読み通したとき始めて、『論考』 というのはウィトゲンシュタインという神によって世界の限界が示された書物だったということがわかるようになっている。こうして、ウィトゲンシュタインの世界の解明は終わる。そして沈黙へ。
さて、この後、後期の「生活形式」「言語ゲーム」に向かう展開にも、さながら浮遊大陸から飛空艇エンタープライズ号に乗って飛び出したときのように感動するものがあるけれど、ひとまずこれでおしまいにしておこうと思う。それにしても、なんというか、これはもう感想ではないな。]]>
信じちゃった信じちゃった信じちゃった、イエス!
http://kourick.exblog.jp/17690804/
2012-03-20T00:00:00+09:00
2012-03-21T18:15:21+09:00
2012-03-19T23:24:08+09:00
kourick
随想
「存在は存在者ではない」とちょっとわけのわからないことを言って有名になれた人も存在しているので、似ている表現を並列するというのは「なんかいい感じ」なことだ。もし暇なら「俺のリアルにはリアリティがないんだ」とか深刻そうに言うと、あなたもなんかいい感じになれるだろう。
というわけで、バチカンには奇跡を認定する部署があり、年に数件から十数件の認定があるようだ。毎年毎月、世界中から奇跡の認定要請があるため、日々、その調査に赴いては「これは奇跡ですねミラクル」と奇跡的な出来事を奇跡として登録しているそうだ。
ある出来事を「奇跡」として認定する機関があるという事実こそが奇跡と自己矛盾しそうなことを言いそうになるが、「バチカン認定の奇跡」には「インドの山奥で修業した僧侶」に似た凄まじい説得力があるのはたしかだ。それがもしヨガの達人だったら、もはや不可能はないだろう。
とはいっても、そうして公式に認められる奇跡の大半は「病の治癒」であるらしい。奇跡の認定に当たっては「現在の科学・技術では説明が付かない」という項目があるようで、ひょんなことから起きることに定評がある「難病の平癒」という出来事は奇跡として認定しやすいみたいだ。
たしかに聖書にも病気を治す(どころか、死者のよみがえる)奇跡が描かれている。詳しい理由は分からないけれど治ったというようなことや、わたしが病むって言ったからいまからわたしは病気記念日みたいなことが、当たり前のような事態として巷間を闊歩している。
「馬鹿は風邪を引かない」という迷言があるけれど、そんなこともあるのかもしれない。馬鹿はストレスを感じないから免疫力が落ちないとか、馬鹿は風邪を引いていることに気付かないから病識のないうちに治っていたとかそんなところだろう。ナチュラルボーン馬鹿は偉大である。
有名な奇跡というと、出エジプトのときの「モーセの海割り」というチートが思い出される。ラオウが渾身の力を込めて手刀を叩き込むとか、亀仙人がマッチョになってかめはめ波(どどん波でも可)を放つとかならわかるのだけれど、モーセはこれといった修行なしに海を割った。
奇跡に説明は必要ない、海は割れた、そういうことだ。「オンバサラソワカ、アーメン」みたいなことは言ったかもしれないが(言うか)、それは海が割れたこととはあまり関係がないだろう。それはアラレちゃんが地球を割るときにイデオンソードは必要ないということと同じである。
聖書には魔術師シモンというイリュージョニストが登場するが、彼は空中に浮かぶことができた。が、神に墜落死させられた。ここからわかるのは、人間は奇跡を起こさないほうが良いということだ。ほかの有名な奇跡というと「復活」も挙げられる。復活とは「死者の蘇生」のことである。
死者の蘇生というとこれはもうとんでもないことに思われるが、実のところ死者が目覚めたという事態は枚挙にいとまがない。さすがに現代では少ないと思うけれど、歴史的にそういった逸話は多い。もちろん、厳密に言うと「仮死状態の人が起きた」ということだろう。
お通夜のときに親族が集まってどんちゃん騒ぎをするのも、夜通しそんなことをしているうちに死者が目覚めることが実際にあったからだと(いう、まことしやかな話を)聞いたことがあるし、海外だと死者が目覚めたときのために棺桶を浅めに土葬していたとも聞いたことがある。
橋爪大三郎さんによると「復活や輪廻は、死後の世界など存在するはずがないという、強烈な合理主義の表現」らしいが、本当にそうだろうか。少なくとも、ルネッサンス以降の理神論者たちがいうような後付けサクサクの合理性を真に受けるほど僕は素直ではない。
もっとも僕も、基本的に宗教というのは合理的にできているとは思うのだけれど、それはやはり神秘主義的な発想と表裏一体となっていて、その超自然的な側面を排除して宗教を語ることってフェアなのかなとは疑問に思うところだ。それはちょっとしたズルさを孕んでいる。
それにまあ、合理的だからといって真実だとも限らない。ロジックは内容にタッチしないからだ。処女懐胎において「処女(乙女)」と訳された単語はヘブライ語でもギリシャ語でも「若い女」という意味があったが、神学者たちはどちらの解釈をとるかというときに「処女」をとった。
なぜなら、神は特別な存在なのだから、人間と同じように産まれはしないだろうと考えたからだ。子供が若い女から産まれるというのは当たり前のことだが、それは「当たり前である」がゆえに却下された。神は当たり前の存在ではないからである。これは実に理に適った不合理である。
もし難点があるとしたら、それがファンタジーだということである。しかし、個々人の人生において、自分の重要な信念の一部がファンタジーだったということはそれほど問題だろうか。これはウィトゲンシュタインが書き残しているように、やはり簡単な問題ではないように思う。
それによって、さらに生き続けられるような手段を手に入れたのなら、それにはやはり価値があったのだろう。テルトゥリアヌスは「不合理ゆえにわれ信ず」と言ったし、アンセルムスは「知らんがためにわれ信ず」と言った、それが最高に理性的な人たちの合理的な解答なのだった。
さて、当たり前のように文意が行方不明になっているけれど、案外、こういったとりとめのなさにこそ、文章を読むということの楽しさがあったりするのではないかということを僕は提案したい。というか、本当はヒュームの奇跡論に関して書こうと思っていた。だが、これでおしまいである。]]>
まるで白米のように面白さを味わう僕たち
http://kourick.exblog.jp/17663670/
2012-03-15T00:00:00+09:00
2012-03-15T14:02:07+09:00
2012-03-15T00:09:51+09:00
kourick
随想
納豆はネバネバしていて気持ち悪いじゃんと言われたところで、いや、ネバネバしていて気持ち悪いかもしれないけど美味いよと言われたらそれまでで(美味さという感覚を問うかぎりは)どうにもならない。それでも、美味しさを疑うことは可能だし、美味しさを説明することも可能だ。
どうしてそんなことをする必要があるのかというのはもっともな意見かもしれないが、そうした考察が感覚の精度を細かにするというのももっともだろう。少なくとも、送り手は美味しさを考察し、追究している。僕はそうした考察と、そして、その過程で生まれる批評もけっこう好きだ。
ハンバーガーは美味しい(と僕は思う)が、さまざまな理由からハンバーガーを決して食べない人もいる。そういう人は、ときにハンバーガーというものを否定する。それはそれでけっこうなことで、それを「美味いんだから食えばいいだろ」と一蹴することはやはり噛み合っていない。
というか、僕の場合は「食べられるもので不味いものはない」というような程度の低い人間なので、美味しさをどうこうというのはちょっとわからなかったりする。あそこのラーメンは美味しいと言われるとたしかに美味いのだけれど、不味いラーメンを食べたことがなかったりもする。
そして、今日は暖かいななどと思って街を歩いているときに「今日は日差しはあるけど、肌寒いね」などと言われると、とたんに寒気を感じるというようなこともあって、挙句に「今日はちょっと寒いな」なんて言い出しかねないので、人の認識というのはあてにならない。
たしかに感覚は誤らないものかもしれないが、感覚をどのように認識するかという判断は、ちょっとしたきっかけで容易に覆る。価値観が多様化した昨今、人の好みを論じることは軽いタブーになっているように思うけれど、人の感覚を論じるようなことはもっとあって良いと僕は思う。
というのも、僕がもっとそういうものを読みたいというだけの話なのだけれど、自分自身がそういうことをしようとは思わない。そんなことをすると硬軟巧みな煽りを喰らって、僕のガラスのハートが粉みじんに砕け散ってしまうからである。割ったほうも少し怪我をするかもしれない。
だが、自分の好きなものに対して「いかに好きか」ということを「馬鹿になってみせる」ことによって表現するのはもう、ちょっといいかなとは思っている。言葉にならない好きさをそうした仕方で競争するのは、するほうもみるほうも疲れるんじゃなかろうか。
しかし、正直、こんなに面白いものが溢れかえっているときに、なにかを客観的に批評するという行為にどれほどの積極的な意義があるのかと思わないこともない。いまどき、「面白い」ということは結果ではない、もはや前提である。楽しむから面白いというより、面白いから楽しむのだ。
ただでさえ面白いはずなのに、それを楽しんじゃったらもうチョー楽しいじゃんというわけである。だから、「普通に面白い」という表現が生まれる。これは自分の想い入れはないけれど、まあ、良いんじゃないのという、感情的に一歩引いた表現だ。わかるわかる、みたいな感じ。
いまの時代は人類史上、これまでもこれからも、たぶん、もっとも情報に溢れている時代なんじゃないかと僕は思っているけれど、いまや「面白いのは当たり前」である。そうじゃなきゃ、見向きもされない。むしろ、面白さの上にどれだけの付加価値があるかを試されている。
なるほど、つまりこれは食べ物と同じ道を辿っている。美味いのは当たり前、面白いのは当たり前。江戸時代の人たちが白米を食って「そんなもんばかり食ってると脚気になるぞ」と言われても、「いや、けど美味いし」みたいなことを言っていたのと同じである(同じか?)。
キリンの首は長いけれど(脚も長いから、もしかすると胴体が短いのかもしれないが)、あれは「樹の葉を食みたい」と思ったから伸びたわけではない。そういう目的論的な発想は、少なくとも現代の生物学ではしない。キリンは首が伸びちゃったから、樹の葉を食むようになったのだ。
要するに、目的が先にあって変化が生じたとは(率直には)考えない。結果を事実として認め、それに説明を加えて納得するのである。批評においても、「美味しさ」「面白さ」は目的ではない。それらは説明によってそうなるのではない。成立している結果から、思考が始まる。
「美味い!」「面白い!」と思った肯定的な感情をいかにして表現するかというときに、「面白すぎて、だから、こんなことしちゃいました!」と爆発的に表現することもあれば、「ここがこうなっていて、だから、面白いですよ」と分析的に表現することもある。どちらも方法だろう。
さて、相変わらず、とりとめもないことを書いているけれど、書いた傍から「キリンの首は関係ないんじゃないかな」と思い出している。いつから関係ないことは書いてはいけないことになったのかわからないけれど、関係ないところに飛躍しているあたり、僕らしい楽しみ方ではある。]]>
知るということをどこで知ったのか僕は知らない
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2012-02-25T20:00:00+09:00
2012-02-26T14:22:40+09:00
2012-02-25T05:32:34+09:00
kourick
随想
疑問形タイトルの地雷率(特に新書)はちょっと異常で、どうしてそんなことになるのか買うほうも考えないといけないと思うが、それはさておき、この書籍と三年前に発売された 『なぜあの人はあやまちを認めないのか』 はおすすめできる。ちなみに、これらはハードカバーだ。
どちらも似た領域の話だけれど、『あやまち』 は人が自己を正当化するメカニズムとその顛末を具体的な事例を通して広範に紹介しているものであり、どちらか一冊ということだとこちらをすすめる。そのなかの第四章が 『思い出』 で考察される子供の頃の記憶に関するものだ。
1980年代から90年代にかけて、アメリカでは子供の頃のトラウマや被虐待体験を思い出す人が続出した。もちろんそのなかには本当にそういう体験をした人もいたのだけれど、しかし、なかには実際にはそんな体験をしていない人もいた。
わかるだろうか、その人たちは「体験していないことを思い出した」のだ。その人たちに共通していたのは回復記憶療法を受けていたことだった。なんらかの精神的な失調から心理療法士に相談し、その症状からみて「抑圧されているに違いない記憶」を思い出すよう促された。
そしてふと、いまの自分の精神的苦痛を説明する物語を思い出した。それはあるときは父親からの性的虐待だったし、あるときは母親からの虐待だったりした。面白いのは、一度そうした記憶を思い出すと、次第にその詳細やそのときの自分の気持ちまで思い出し始めることだ。
そして、一度思い出してしまうと、その記憶が作られたものだとわかったあとでも、それを受け容れられないことが多いようだ。ある種、なんともアメリカらしい騒動という気がしないでもないが、なににせよ、これは非常に面白い心理的なメカニズムが働いているというのがわかる。
もちろん、これはあらゆる対話療法を否定するものではないが、ただ、その危うさを指摘するものではある。このことは犯罪捜査において自白のみの立件がどれだけ危ういかということもほのめかす。実際、『あやまち』 の第五章はその話題に割かれている。
まあ、その謎解きは実際に本書にあたってほしいと思うけれど(キーワードは「認知的不協和」と「確証バイアス」と、意外かもしれないけれど「科学的態度」だ)、しかし、もっと可愛らしい例なら、誰だってひとつやふたつ、過去の思い出を修整していたというようなことはあるだろう。
あまり可愛らしい例ではないけれど、僕も10年程前に「人の記憶は巧妙だ」と感じたことがある。大学に入学するちょっと前あたりから、僕はどういうわけか精神的に病んでいる人と関わることが多かった。スタンド使いがスタンド使いに惹かれるみたいな感じだろうか(いや、違う)。
そのときにメンタルなことや薬のことはもちろん、「不幸は単独行動しない」といったことや「被害者の味方になることは加害者の敵になることではない」といった基本的なことを身をもって知るのだけれど、そのなかで、僕はある家族と長期にわたってかかわった。
これはまあ、パンドラの箱を覗いたようなけっこう苛烈な事態だったのだけれど、状況が変化するにしたがって、言動や出来事、気持ちや価値観を各人が忘れていっていることに僕は気付いた。それは都合の良いようにというよりは、滑らかになるように忘れるか変化していった。
それはたしかに悪いことではなかった。いろいろと自分や他人の余計な言動を覚えていたり、拘ったりしているから苦しんでいることが多かったし、そのことで周りを傷付けるということが多かったからだ。そして、僕が以前に言ったことをそのまま僕に喋るというようなこともあった。
僕が「それは前に僕が言ったことだよね」と言うと「いや、前からこうだった」と言うし、僕が「前はこんなことを言っていたよね」と指摘すると「そんなこと言っていない」と怒られる始末だった。僕はそれ以上なにも言わなかったけれど、その人のなかに僕がいるようで、やはり責任を感じた。
たまに発達障害の子供を抱えた人に「うちの子は治りますか」と訊かれることがあるのだけれど、この「治る」という発想はときに人を苦しめる。精神的な失調に関しても、「治る」というよりは「新しい環境に適応する」や「関係性が変化して状況が改善する」というのが近い。
時間に身を任せるわけにもいかないけれど、「時間が解決する」ということの効力も感じるところだ。環境に適応させるには、人を環境に合わせることと環境を人に合わせることの両方が必要だし、関係性に関しては、なにをもって「改善した」とするのかの見定めが重要になる。
どこか過去の一点に問題のなかった地点というのがあって、その地点に戻ることを祈っていても、それはやはりどこかで裏切られるし、前向きに変化していけないものだ。いま直に感じている困難を受け止めて、より良い状態に着地させ続けるというのが等身大でできることである。
そして、そういうことが進むなかで、僕の出会ったその人たちは次第にいろいろなことを忘れていった。というか、もしこういう言い方が許されるのであるなら、僕が把握している彼らの理屈を組み合わせたときに、もっとも整合性のとれる関係性に収束していった。
三年経ったあたりで落ち着いた状態になり、五年経ったあたりで僕はその人たちとの連絡を絶った。僕は精神科医でも臨床心理士でもなかったけれど、最終的に「僕のことを忘れて、この件は決着だろう」という妙な距離感があった。見届けたという虚脱感もあったかもしれない。
もちろん、僕だけが彼らとの関係性において例外だとはいかないだろう。だから、僕も僕自身の記憶に関して、適切な処置を施して呑み込んでいると思うけれど、これが比較的冷静に、多面的に観察できる立場にいた僕の結末だ。人は本当に忘れたいことは忘れたことすら忘れる。
こうした発想を敷衍したとき、「影響を与える」ということは、相手が影響を与えられたことを忘れるほど、その人にとっての当たり前になってしまうことなのだろうと僕は感じている。つまり、学んだということを忘れるほど、その人にとっての常識になってしまうことだ。
変化というのは変化していないところがあるからこそ感じられる。思考にも変化の基盤となるような常識といったものがある。そこには人の価値観や思考の癖といったものが染み付いている。その変化の基盤を変化させること、これが影響を与えるということの極致だろう。
だから、教育に関して言うと、僕は「記憶に残る教師」よりも「影響に残る教師」のほうが純粋だと思っている。子供たちに「できるようになった」という影響だけを残して、自身は忘れられるような存在、多かれ少なかれ教師とはそういうものだが、僕はどこかそういう透明さに憧れている。]]>
沙羅双樹の幹の形、両者一対の理をあらはす
http://kourick.exblog.jp/17455408/
2012-02-13T20:00:00+09:00
2012-02-14T02:11:14+09:00
2012-02-13T17:21:25+09:00
kourick
随想
と、思っていたのだけれど、最近の研究によると、これはどうやらベートーヴェンの秘書だったアントン・シンドラーによる捏造の可能性が高いそうだ。シンドラーは自身の著作 『ベートーヴェンの生涯』(1840)の記述に合うように資料を廃棄・改竄したらしい。これはひどい。
子供の頃、児童会館などで歴史や偉人伝を読み漁ったけれど、最近の偉人伝をみると僕の知っている「ベートーヴェン」とは異なる生涯が描かれているのかもしれない。研究者にとっては悲惨な出来事だっただろうが、今後のベートーヴェン研究とその解釈が楽しみではある。
しかし、アントン・シンドラーの場合はかなり悪質だけれども、クラシックには正式な標題以外の「俗称」をもった曲は多い。ロマン派の代表人物ともされるショパンは自分の曲に題名を付けられることを嫌ったそうだけれど、彼の作品にしても、残念ながら、かなり付けられてしまっている。
しかし、新曲を無題で発表していたという慣習には興味深いものがある。題名が曲のイメージを束縛することを嫌うというのは理由としてわかるけれど、他分野ではあまりない。逆に絵画におけるシュールレアリズムなどになると、絵のイメージを題名で転倒させるということもする。
現代において、題名なしに発表されるものってあるだろうか。書籍の題名が字で表現されるのだから、絵画の題名が絵で、音楽の題名が音で表現されていても面白いと思うが、その場合、題名の意味、要するに題名の題名が求められそうではある。
さて、話を戻して、「ダダダダーン」である。運命はドアを4回叩いた。この逸話が一世を風靡したことはたしかで、そのため、欧米ではドアをノックするときは4回叩くのが正式というマナーになったようだ。これは冗談めいた話だが、わりと信憑性が高いのではないかと思う。
ちょっと調べてみたけれど、どうもそれ以外に「4回が正式」ということに理由を見付けられなかった。おそらく、ドアノックの回数などにマナーなどといったものは本来なく、運命にあやかって4回叩くのが流行り、そのまま定着したというような流れではないかと思われる。
ただ、オフィシャルノックの4回はちょっと多いので、プライベートノックやビジネスノックは3回でいいよね。だけど、トイレノックは二人で4回ってことにしような。俺が2回ノックするから、お前も2回ノックしろよ? みたいなことだろう。トイレのドアは運命が行き来している。
「幸せの黄色いリボン」で有名なトニー・オーランド&ドーンは「ノックは3回」と歌っているが、あれは「イエスなら3回、ノーなら2回」というサインとしてノックを使おうということであって、ドアノックとは関係ない。ただ、近頃のアメリカは、3回ノックが主流だそうだ。田舎的合理性だろう。
こうしたドアの文化、マナーは幕末から明治期に日本に入ってきたものだけれど、どういうわけか日本では自然とドアノックは2回ということで落ち着いた。面接などにおけるビジネスマナーとして3回に矯正されることもあるようだが、別に2回で気にならない。
こういうところで日本人は変に生真面目で、ノックの回数など文化コードの差として把握すればよいのに、「3回じゃないと失礼だ!」と作法に固執しがちだ。それ自体は悪いことではないが、礼儀よりも「右に倣う」ことを作法として強制しがちなのは気を付けたいところである。
「ドアをトントンと叩いた」という表現は自然なものだけれど、この場合も、やはりノックは2回である。これはちょっとこじつけめいて聞こえるかもしれないが、重要な点だと思われる。日本語はもともと擬音語・擬態語の多い言語だが、同じ言葉を二度繰り返す畳語の多さは際立っている。
二回繰り返すというのは表現として自然なことなのだ。これには文化的な要素もあるが、インド・ヨーロッパ語族に畳語表現が少ないという事情もある。英語なら「ジグザグ」「チクタク」みたいに前後の表現の異なるものがちょっとある。日本語だと「かちこち」みたいな感じか。
そんななか、英語圏には「ノックノック・ジョーク」という駄洒落遊びがあるのだけれど、これは「knock, knock」と言って、ドアをノックする擬音語から始まる言葉遊びだ。こういう遊びを見ると「欧米でもノックはもともと2回なんじゃないの?」とも思う。運命に弄ばされたんじゃないのか。
むしろ、日本で忌み嫌われてきたのは「一言呼び」や「一声鳴き」だ。一度に関する禁忌というのは各地の伝承に残されている。それは異界、妖怪からの誘いとみなされた。この一回の非日常性は、もちろん二回の日常性に依拠している。たしかに「トンッ」というノックは不気味である。]]>
さよならバッテン、またきてバッテン
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2012-02-11T00:00:00+09:00
2012-06-29T04:06:28+09:00
2012-02-11T00:01:26+09:00
kourick
随想
しかし、この記号を「バッテン」と言うようになったのは、大正時代からのことである。それは学校教育の現場から生まれた新しい言葉で、それが巷に広まったそうだ。1930年に発表された「阿也都古考」のなかで柳田國男さんが指摘している。テストの「罰点」ということだろう。
それでは、バッテン以前はどう言われていたのかというと、「アヤツコ」ないしは「ヤァツコ」と言われていたそうである。あるいは「たすき」「羅紋(ラモン)」「筋違(スジカイ)」などとも言われていたそうだが、いずれも交差する斜めの線を表象していることがわかる。
その交差した斜線というのが、次第に不吉な記号として発展していった。あるいは記号というよりも、呪力をもった文様、文字といったほうが的確だろうか。おそらく、意味抜きされた形象のみの記号といったものは近世以降の発想なのではないかと思う。
なににせよ、どちらも「文」の付いた表現なのが面白いところだ。また、斜線の「交差」を「交叉」とも書けるのはなるほどと思うところである。封筒を閉じたときに「〆(シメ)」と封印をしたり、「凶」というのが不吉な意味をもっているのもアヤツコのゆえである。
さて、このアヤツコだが、もともとどう使われていたのかというと、魔除けとして使われていたようだ。赤ちゃんが生まれると、その額に墨や紅で「×」を描いた。そうすることで赤ちゃんに悪霊が入り込むのを防ぎ、また、赤ちゃんの霊が身体から出ていかないようにしていたそうである。
白川静さんによると、「厂」は額を意味し、その上に「文」を加えるのがアヤツコ、それに「生」を加えると「産」になるということで、「産まれる」という字からもアヤツコの風習が読み取れる。ちなみに、「産」は旧字体だと「產」である(表示されているかな?)。(参考)
この風習は、平安末期頃には確認できる風習で、わりと近頃までされていたことが伝えられている。いまでも京都あたりなどではやることがあるようだ(検索をかけたら見つかる)。そして、どうしてこの風習が廃れていったのかという理由が面白い。一説によるとこうである。
この風習は出産のときにもされていたのだけれど、実は人が死んだときにもされていた。遺体の額や胸にアヤツコが描かれるのである。ただ、死ぬと描かれるわけだから、次第に人々はアヤツコを描かれることを忌み嫌うようになっていった。それで廃れていったという具合らしい。
さて、「×」印が悪霊に対する呪禁というのはわかった。それは赤ちゃんが産まれたとき、赤ちゃんに悪霊が入り込まないように、そして、赤ちゃんの霊を赤ちゃんの身体に封じ込めるために描かれた。乳幼児死亡率の高かった時代である、やはりそれは必要な儀式だったのだろう。
しかしじゃあ、どうして人が死んだときもアヤツコを描いていたのだろう。これの解釈はいまいちはっきりしないが、小野瀬順一さんによると、
遺体に×を付けるのは「あの世のものになった、再びこの世に戻ってくるな」という禁止、新生児の場合には「異界からこの世にやってきた、再び異界に戻るな」という禁止であり、×はこの世と異界との出入りを禁止する記号であって、したがって魔除けにもなった と解釈されている。なるほどと思うのだけれど、気になるのは「あの世」と「異界」である。こうした曖昧な外側性(「ここではないどこか」「そと」)は日本文化に散見されるものだが、それにしたって嬰児と死者の来し方行く末が「どっかあっちのほう」というのはいかがなものか。
しかし、まあ、たぶんそんな感じで、わりと適当だったんだろうなと思うのもその通りだ。日本人はこういうところはあまり突き詰めて考えないようなところがある。宗教とか習俗とかに、いまいちロジカルではないのである。現世利益主義のたまものなのかもしれない。
さて、ところで今回、どうしてこんなことを書いてきたかというと、この遺体にアヤツコを描いていたという日本人の風習は、どこか死体に石を抱かせていた縄文人の抱石葬を思わせるものがないだろうか。ここにある心性というのは、なにか通底しているものがあるのではないかなと思う。]]>
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