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居眠り世界のフィアリクショナリスティックなモスグリーン

最初に「フィアリティ」という言葉を特定の概念を示すために意図的に使ったのは、新婚旅行を済ませてコネティカットの新居に辿り着いたアメリカ人夫妻の奥さんのほうだったと言われている。しっとりと暗闇の湿る22時のガレージに自動車を停めると、彼らは荷物を抱えて新居に雪崩れ込み、そのまま肩を寄せ合ってソファで眠ってしまった。食事をとる気力はなかったけれど、眠りに落ちる前に何度かキスをした。

「その日の夜はもう、クテクテだったわ。慣れない土地の街灯の心許なさというのを、そのとき私は久々に感じたの」と彼女はのちに語っている。「もちろん、それを初めて感じたのは、私が彼の寝室に初めて立ち入ったときよ」と彼女は続けた。独特のユーモアを交えた応答になっているけれど、要はその日、その旅路の帰路、彼らは道に迷ったのである。そして、助手席から地図をチェックして道順を示していたのは彼女だった。

彼らはニューヨークから高速15号線をレンタカーで北上し、お喋りをしながら新婚旅行の最後のひと時を満喫していた。太陽の沈み始めた18時頃、法律家の彼は自分がヌナブト協定に関心をもっており、イヌイットの先住権と民族自治に関して自身の気持ちをまとめているのだという話を彼女にした。彼女はその話題に不意を突かれたけれど、次の瞬間には「そうね」と言って思考のモードを切り替えた。

黙るにせよ、喋るにせよ、彼の期待に応じたいと彼女は思ったのだ。というのも、どこか、嬉しかったのである。彼にとって自分は、そういう話題を安心して話すことができる人格であるとみなされているのだ。彼女の知っている男性のなかに、こういう種類の人格は少なかった。彼女はそのことに憤りを感じたことはなかったし、女性の尊厳を頭ごなしに否定されているとも感じてはいなかったのだが、ちょっとした虚しさのようなものはときどき感じていた。

だから、そのときに彼女が感じた嬉しさというのは「認められた」という高揚感よりも、むしろ「愛しさ」に近いものだった。そして、彼女は慎重に、彼の見解を黙って(たまに「うんうん」とか言いながら)聴いて、丁寧に頭のなかで整理すると、彼を否定しないように、異なる観点からの意見を提供した。それは、フランツ・ボアズのフィールドワークの話だった。彼女は学生時代に文化人類学を専攻したこともあり、彼の関心の向かう先に彼女は興味をもった。

彼女は父方の祖父がメキシコ系のヒスパニックで、彼女を除いた家族は人種差別や差別感情に敏感ではあったけれど、彼女自身はあまりそのことに理性的にも感情的にも執着はなかった。そういう観点からいうと、自分はたぶん幸運な人生を送っているのだろうと彼女は思っていた。彼女のアイデンティティは根本的なところで複雑さを許容しているということにおいて単純であったし、その手の理不尽さに見舞われることもなかったのだ。ちょっと鈍感だったのかもしれない。

一方の彼はイギリス育ちのアメリカ人でフランスに留学した経験があった。彼は彼女とは異なる種類の単純さと複雑さがアイデンティティに根を下ろしていたけれど、ふたりはふたりでいるときにもっとも「自分の人生が世界と噛み合う」という体験を何度もしていた。だから、新婚旅行は絶対に海に面した賑やかな場所じゃなきゃいやと言っておいたにもかかわらず、彼がサウスダコタに行こうと言い出したときも、少し眩暈を感じながらも彼女は彼に同意した。そして実際、それはそれで新しい発見のある楽しい旅だったのだ。

彼女がアメリカ文化人類学の成り立ちを話しているあいだ、彼はそれを黙って(たまに「なるほど」とか言いながら)聴いて、やはり彼女を否定しないように(少なくとも彼女はそのように感じたし、また、彼の配慮を確信もした)異なる観点からの意見を提出した。それは政治的理念と経済学的分析を折半したような見解だった。そうやって、彼女たちは椅子の複数あるシーソーの傾きを調整するかのように思考を繰り返し、意見を交換した。

だから、彼が「カナダやオーストラリア、それに日本なんかは、アメリカとは歴史も社会環境も違うから、どのタイミングでどういう政策を施行すると寛容な社会を形成しうるのか、そのためにどのような議論を重ねて、どのような思想的土台を作るのか、これは難しい問題だ」と曖昧な気持ちを吐露したとき、そこがすでにマサチューセッツのスプリングフィールドだったということは、たしかに彼女のミスだったかもしれないが、ミスと断じるには失ったものは少なかったと言うこともできた。

彼女は地図を開いて、それを眺めていたのに、すっかりコネティカットを通り過ぎていることには気付かなかった。そしてまた、彼は自動車を運転し、現実の道路と標識を眺めていたのに、すっかりコネティカットを通り過ぎていたことに気付かなかった。そんなことがありうるのか。いや、ありうるかどうかは別にして、その出来事は実際に起こったのである。彼と彼女の思考と表現行為の交わり合いは、ほんの少し、世界から乖離しないままに時間と現実認識の束縛を脱したのだ。珍しい体験をした、と彼女は思ったし、彼もまた予想以上の感応に驚いた。

だからもちろん、彼は彼女を責めなかった。ただ、そのような理性的結合を感じなかったとしても、彼は彼女を責める気はなかった。それは、彼女を責めても仕方ないと思ったからではなかったし、女性というのは地図を読めないものだと思ったからでもない。ただ、彼は、自分が助手席にいたら、やはり彼女と同じように道に迷っただろうと直感していたのだ。彼はそういう想像力を働かせることに長けていたし、実のところ、彼は極度の方向音痴だった。

そのような経緯の末、市街地でも迷いに迷いながら、ふたりが新居に辿り着いたとき、あたりはすでに真っ暗になっていた。ただ、ふたりは満足していた。ガレージに自動車を停めると、彼らは少しの間、ほっと息をついて互いの顔を見つめあった。

「鍵はある?」
 彼は彼女に尋ねた。
「ずっと握り締めていたの」
 彼女は答えた。

「そうだといいなと、ずっと思ってたんだ」彼は頷いた。「そろそろ、自動車を降りて、家に入ろう。そして、ソファに座って、キスを何回かして、今日はそのまま眠ってしまおう。たぶん、僕たちなら、いまやそれをすっかり完全に遂行できるはずだよ」
「道に迷わないようにしなきゃ」
 彼女は肩を竦めた。
「そうだね」
 彼は微笑んだ。

自動車を降りると、荷物を両脇と両手に持って、彼らは鍵を開けて、家に入った。そして、リビングのモスグリーンのソファに座ると、その脇に立っている円柱状の照明の電源を入れた。部屋中が淡いオレンジ色に染まる。ふたりの溜め息。肩が触れた。彼はソファにもたれかかりながら、彼女に身を寄せる。

「キスはどっちがするの?」
 彼女は下から覗き込むように彼に言う。
「さきに眠ったほうがされちゃうだろうね」
「そういうルール?」
 彼女は首を左に20度ほど傾けた。
「いや」
「わたしって、けっこう寝たふりが得意なんだけど、それは知ってた?」
 彼女は彼の様子をみるように言った。
「今度から、君が眠っていそうなときは眠っているかどうか尋ねることにするよ」
「ナンセンスだわ」
「ナンセンスじゃないさ」彼は彼女を抱き寄せた。「それでわかることもある」

ふたりはそのまま10分間、静かにソファで肩を寄せ合い、そのあと、彼は彼女にキスをした。身体に蓄積していた疲れが一気に溶けて、全身に染み渡るのを彼女は感じた。もう一歩も動けないと感じるほど、肉体から精神の底流に向かってエネルギィが沈みこむ。眠っているのか眠っていないのか、眠っているふりをしているのか、もう、わからない。彼の唇が、彼女の首筋から離れる。

「フィアリティね」
 彼女は呟いた。
「フィアリティ?」
 彼も尋ねるように呟いた。
 彼女はふらっと身を起こすと、彼に身を任せるように寄りかかった。

「あなた、スナークを知っている?」
「スナークっていうと、あの、ルイス・キャロルの?」
「そう」
「その名前なら、記憶にあるよ。子供の頃、その話を父さんにされて、恐かったな」彼は頭を横にふるふると振った。「ただ、幸か不幸か、会ったことはないんだ。だって、君、もし、そのスナークがブージャムだったら、どうなっちゃうか知ってるでしょう?」

「静かに消滅してしまうのよ」
「そう」
「だけどね、だからといって、スナークを無視して生きるわけにもいかないのよ」
「わからないな」
 彼は彼女の身体を引き寄せて、抱きしめた。
「わたしも、はっきりとはわからないけど、ただ、わたしはいままで、ブージャムを避けるためにスナークも避けてきたのよ」彼女は顔を上げて、彼の唇にキスをする。「だけど、スナークには、ブージャムじゃないスナークだっているのよ」

「うーん、つまり、君はスリルを求めている、ということ?」
「違う、違うの、それは違うわ。そういうことじゃないのよ」彼女は何度も否定した。「私は、ただ、無害なスナークもいるということを言っているの」
「わかったよ」彼は言った。「ところで、フィアリティはどうなったの?」
「良い質問ね」
 彼女は毅然とした調子で言った。
「無害なスナークに寛容な世界のことよ、それを受容するとき、私はフィアリティを感じるの」

 彼はもう一度「わからないな」と言った。
「今日、これ以上、そのことに立ち入るのは危険そうだね」
「そうかもしれない」彼女は彼の身体から少し距離をとり、彼の表情をうかがった。「ごめんなさい」
「いや、謝られるようなことはなにもされてないよ」彼も彼女の顔を見た。「ただ、僕たちは少し眠ったほうが良さそうだ」
「そうね」
 そう言って、彼女は再び、彼の唇にキスをした。

「もう、眠っているのか、眠っていないのか、わからないみたいだね」
 彼は微笑む。
「そんなの、わかる必要なんてないのよ」
 そう言って、彼女は彼の身体に身を寄せた。
 彼女の柔らかさ、体温、息遣い、鼓動とが、彼に伝わる。
 人間が二人もいるというのに、とても、静かだ。
「眠っちゃった?」
 彼は尋ねた。
 彼女からの反応はない。
「…………」
 彼は、寝息を立てている彼女にキスをして、ソファにもたれかかると、眠りに落ちた。
 だから、そのあとのことは記憶にない。