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不安に襲われそうなとき、僕はもう不安なのである

気付いたら、また一ヶ月経っていた。気付いたら? まあ、そう、気付いたら。つまり、僕は気付いていなかった。だから、もしかしたら、このまま気付かないまま死ぬのかもしれないな、とか、気付いてしまったら釧路の湿原を眺めに行きたい衝動に駆られてしまうかもしれないなとか、そういうナチュラルな理不尽に身を浸らせてしまう不安に思いを巡らせることもなかった。

けれど、僕は気付いてしまった。気付いてしまうと「気付いていなかった」ということに承服させられる。このときの強迫感の度合は人によって違うだろうけれど、それが無視できないということはわかると思う。というのも、「気付いてしまう」ということと「気付いていなかった」ということは裏腹だからである。もちろん、それを「気付いていないことにする」ことはできる。しかし、もし、僕がそうしようと思うなら、僕は「気付いていないふり」をしなければならない。この「ふりをする」という対処法は、個人の内面に生じる切迫感に限るなら、なんら効力をもたない。

だから、僕がどういう対処をしようとしても、「気付いてしまった」「気付いていなかった」ということから、どうしようもない不安に駆られてしまうということはあるだろう。いや、むしろ、この強迫感に襲われるからこそ、僕は「気付いてしまった」ことに自覚的になるのであって、もし、この強迫感のようなものに僕の身体機能がいかなる異常もきたさず、判断や行為にいかなる影響を与えないのであったなら、その「気付き」は僕の日常に埋没して、僕の人生に姿を現すことなどなかったのである。

では、この不安(それは僕にとっては強迫感を伴うものであるし、人によっては昂揚感として現れるものかもしれない)はどこからやってきたのだろうか。それはもちろん、僕の内面のどこかからではあるだろう。しかし、僕の内面にその不安を惹き起こした源泉は、いったい、どこにあるのだろうか。

僕の内面や、内面以外のところにある、なにか特定の対応する事柄にその源泉を求めることはそれほど難しいことではない。また、理性と感性とを並列させて、気付きと不安との関係を個々人の心性に縒り合わせて理解することもできるだろう。しかし、そのようにして結論された源泉は、人間精神の自浄作用を大いに発揮した結果であるように僕には思われる。

実際には、第一に、そのような「明確な源泉のなさ」が不安を立ち込めさせているのであり、第二に、源泉のあるなしに関わらず、「源泉を覆い隠そうとしているのではないか、という自己への疑心」が、そうした不安を人に自覚させているのではないかと僕は思う。すなわち、不安は自ずから生まれ、不安が不安を生むのである。この点において、「不安」というのは独特な精神状態であるだろうと思う。安直な言い方ではあるけれど、こういうところに「自分との闘い」と言われるものもあるのだろう(このことは今度、話したい)。

しかし、もし、僕がこのように応答されたなら、たぶん、僕はこう訊き返したい衝動に駆られるのではないかと思う。「それで、結局、その不安なるものの源泉はどこにあって、なにがそれを惹き起こしているのか」と。繰り返そう。不安の源泉のなさが不安を立ち込めさせているのであり、不安の真正なる源泉があるかもしれないという可能性を隠蔽しようとしている自己に対する疑心が葛藤を生じさせ、不安を自覚させている。

なるほど、しかし、このように念を押された瞬間、僕は気付いてしまう。そのように不安を理解した瞬間、その不安のうちに僕はいるのか。いや、いない。もはや、それは僕の不安ではない。その理解のうちに僕はいないし、理解のうちに何者かが存在することもまたできないのだ。僕の理解は僕のうちにあり、それは僕の理解のうちに僕があるというのとは別の事柄なのである。また、僕の不安は僕の理解になにかしらの影響を与えているだろうか。いや、いない。理解の起点に不安があるとしても、それは僕の理解に影響する不安ではない。

僕は思う。不安を理解することなど、できないのだ。そして、理解できないからこそ、理解しようとしてしまう、そのときに僕を覆うものこそが「不安」なのである。僕は「不安の源泉のなさ」を指摘した。これはそのことの直接的な帰結である。所在のない言語化不能ななにかを、どうして理解できるだろうか。厳密に言うと、理解できないとすら言うことができない。むしろ、理解しなければと思ってしまうことと「不安の源泉のなさ」の斥力に翻弄されている状態こそが、不安の影響下にあるのである。求心的に言語を寄せ集める理解に反して、遠心的に言語を引き離し、あやふやなものにしてしまう働きにこそ不安がある。

しかし、不安のその不安定さは「理解しようと思うなら、理解できてしまう」ことにある。そして、その表面的な対処こそが、不安の本質的な解決でもある。それは結局、なにも解決しないのではあるが、そのようにして不安を飲み込むことはできる。そして、だからこそ、不安に飲み込まれている人は自分の不安を解消することができない。なぜなら、自分にそのような不安を自覚させているものは「自分は不安の真正なる源泉を覆い隠そうとしているのではないか」という疑心だからである。

だから、僕は何度でも尋ねよう。不安とはなにか、と。そして、何度でも応えよう。わからない、だからこそ不安なのだ。しかし、僕はいまこう思うし、たぶん、それこそ不安であろう。こうやって、不安とはなにかという問いに埋没することで、なにが不安なのかという問いを曖昧してしまうこともあるだろう。それは飲み込むか、吐き出すかしなければならない。そして、その実例がまさにここにある。そうやって、隠していないものを明らかにして、埋めていないものを掘り起こしながら、入ったことのないところから出てゆくまで生き続けるというのも、なかなか趣深いものだろう。
by kourick | 2008-06-05 00:00 | 日記