沈黙するという表現と適切に無視するという態度

 黙っている人間は無能と思われやすいけれど、優秀な人間も頻繁に黙る。忍耐強い人間も頻繁に黙る。他者との相互理解の可能性を諦めている人間も頻繁に黙る。黙るということを表現として活用することのできる人間の足元には、軽妙な絶望とともに一片の重厚な期待もまた、常に転がっている。わかり合うことができるかどうかという判断は、こうした事態を見て取ることのできる人間にしかわからない。

 沈黙を理解しようとすることは常に有意義である。その人は沈黙できるのかできないのか、その人は沈黙しているのかいないのか、その人の沈黙はなにを意味しているのか。その理解には価値がある。そして、こうしたことは、翻っては、沈黙できない、沈黙しない、沈黙に意味のない人の理解にも繋がる。この相補性は必然的なものであるけれど、それほど明確に分けられるものでもない。

 こうしたことを理解するために、自分と似た視点の人が、自分の見解をどう表現しているかを学ぶことは重要なことであるし、自分とは異なる視点の人を把握して、自分との適切な距離に位置付けることは大切なのである。そして、もっとも重要なことは、そうした考察を行ったあとに、そのあらゆる見解を無視することである。他者を他者として把握したのなら、他者として無視することが必要なのである。

 なにも気にせず、生き易きに生きるのが良い。だからこそ、有能な人は黙らない。そうしなければ、黙ることすらできないことに気付いたからである。だからこそ、天才は黙る。天才は黙らなかったことによって天才になったからであり、黙っているうちに天才であるからである。そして、神は黙ることすらしない。なぜなら、神は一切の表現を必要としないからであり、神は神であるだけで一切に作用するからである。
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by kourick | 2004-01-17 00:00 | 考察