個人であること、個性があること

 僕にとって、「個人を尊重する教育」と「個性を育成する教育」は矛盾している。とまではいわないにせよ、不整合なところがあるか、前提としているものがかなり異なっているかなと思います。というわけで、それら両方の言明を主張する人はちょっと信用できません。

 たとえば、「まるっきりなにもかも似ている二人の人」を想像してみましょう。厳密に言うと、時空的な位置もまるっきり同じということになると、そもそも「二人の人」を想定できないことになってしまうけれど、いまはそこまで厳密にならず、きわめて似ている双子を想像してほしい。

 その二人は遺伝子はもとより、性別・体型・髪型・服装・性格・言動なにもかも判別困難なほど似ていて、二人並ぶと気持ち悪いほど似ている。ただ、どれだけ似ていてたとしても、それはもちろん別個の生命です。このとき、その個々を尊重するのは「個人を尊重する」ことでしょう。

 いわば、むしろ「双子である」ということを無視してそのひとりひとりを相手にすることこそが「個人の尊重」になります。では、「個性を育成する」とはどういうことでしょう。もしかすると、ある人はこの双子を評して「いまだ、とりたてて個性はない」と言うかもしれない。

 いやまあ、この場合は「きわめて似ている双子である」という強烈な個性はある。しかし、「双子である」という人は大勢いる。この子たちはたしかに「双子である」という個性をもってはいるが、一般的に「双子である」ということはその個々人の個性ではない。

 やはり、もっと異なる個性がほしくなる。歌が上手い、足が速いのなんてのはどうだろう。いや、その程度なら大勢いる。なにかその子の好きなこと、人とは異なるところを伸ばし、自信をもたせたい。それがその人の個性になる。そういう教育こそ大切だと思う人もいるかもしれません。

 こうなると僕はちょっとどうかなと思う。僕は「そのままの生活」を継続するだけで、勝手に特徴的な現れはするものだと思っているので、個性を企図するのは蛇足としか感じられません。その人のあるがままを受け容れるだけで充分なのに個性を強調すると強迫的になるでしょう。

 個人の尊重というのは憲法の理念として本来的にあるので、教育の領域でも「個人の概念」は常識としてあるはずです。そこにどうして「個性」という誤解を招きやすい概念をさらに導入したのかがわかりません。なにか特別なことをしないと「教育」に自信をもてないのだろうか。

 けれど、それをやりだすときりがない。むしろ、公教育は教育を受ける人の全員に対して、平等に同じ機会を与えるという原点こそが重要視されなければならないでしょう。公教育は基本的に教育水準の底上げこそを目指していてもらいたいものです。学校教育は保守的で良い。

 たしかにその子たちの好きなこと、得意なことを伸ばしたいというのは気持ちとしてはわかります。そういったアプローチももちろんあって良いでしょう。けれど、基本的には、個々人の趣向に立ち入ってはならないと思います。それは思想教育に片足を突っ込む危険性もあります。

 そうした子供の興味の育成はまずもって家庭教育においてされるのが筋であるし、教師が関わるのだとしたって、課外教育の範疇でおのおのの教師のできる範囲で意識されたら良いのであって、それをお題目として掲げるというようなことは不粋というものです。

 むしろ、大切にする必要があるのは「受容」ではないかと思います。「そのままでいいよ」と受け止めてあげて、強迫的に焦らせないことのほうがいまの時代にはありがたいものです。みんな同じように異なる道を異なる速さで進む。焦らずにきちんと悩む時間が子供たちには必要です。
[PR]
by kourick | 2005-01-03 00:00 | 考察