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むやみに「思考停止」を貶めるのはいかがなものか

 「思考停止」という言葉に悪い印象を受ける人が多いようだ。いろいろな切り取り方があるけれども、肯定的でわかりやすい例を挙げると、「公理」を立てるときには思考の停止を伴うだろう。

 公理に「どうして?」と問うことはナンセンスではないが、基本的に有益ではない。思考停止を前否定する人だって、体系的な学問を研究するときに「公理」を立ててないわけにはいかない。

 「公理」の例は分かり難いかもしれないので、もっと日常的な例を挙げると、「常識」というのは思考停止だろう。もちろん、疑われてしかるべき「常識」というものもあるだろう。

 しかし、右手を見て「ここに右手がある」と思うとか、道を歩いていて「一歩先にもちゃんと地面がある」と思うとか、いまこのテキストを読みながら「いま俺は文字を読んでいるな」と思うとかならどうだろう。

 こういった「常識」に関する思考はおおむね停止されているものだ。むしろ、こういった思考は停止してしまうことによって、人はスムーズな日常生活を送れているわけです。

 なにが言いたいかというと、普段、日常生活でさまざまなことを思考停止して流しているのに、いざ「思考停止」と言葉になると徹底的な拒否反応を起こすというのは、ある種、不健全ではないかということ。

 普段は思考を停止して穏やかに生活しているのに、いざ思考を始めたと思ったら、自分の日常を否定しなきゃいけないわけです。上げると落ちるブレーカみたいな感じですね。

 熊野純彦さんが 2000年27号の 『世界思想』 に「思考について―ロボットと日常と哲学と―」という六頁の短い文章を寄せています。これは非常に面白い文章なのですが、要約すると次のようなことを言っています。
 完璧なロボットを考えてみよう。彼は「思考」しており「意識」があるのか。おそらく、これは不毛な問いであるだろう。こたえは「定義による」からである。正しい問いはむしろ、私たちはロボットが思考することを望むのか、そして私たちはそのようにロボットを設計するのか、というものである。

 単純な意味では、まったく「思考」しないロボットは使いものにならない。この場合、最低限の「思考」とは、適切な運動を導くために必要な状況を見分け判断すること、実現されるべき目標のために手段を選択することである。

 こうした思考も、迅速であることが望ましい。むしろ、計算と決定とに要する時間は、できることならゼロに近いほうが良い。とすると、思考するロボットは「思考していないように見える」ほうがよいことになる。とするとさらに、ロボットはたしかに思考しなければならないが、しかしできれば思考しないほうが望ましいことにならないだろうか。
 このように「完璧なロボット」の「思考」について話が展開されます。「たしかに思考しなければならないが、できれば思考しないほうが望ましい」などは、実に印象的なフレーズです。そして、話は「人間」の「思考」についてにシフトして続いていきます。
 日常生活は第一に、大抵の場合ことさらな「思考」を必要としていない。日常の生のなかで思考がよびおこされるのは、自動化された行動がむしろ阻止されるときである。寝坊をすると、対策を考える。パンの買い置きが切れているときに、別の食品を探そうと思いつく。地下鉄が止まってはじめて、バス路線におもいめぐらすという具合である。

 「思考」は行動をたすけ、行動にとっての障害をのぞくためにあるのであって、おもいなやむことそのものに価値があるわけではない。人間の知性はそもそも行動へとさしむけられており、思考はもともと行動の補助的な手段なのだ。

 すくなくとも日常の生にあっては、思考は行動へとむけた問題解決の手続きであるにすぎない。そうであるなら、ちょうどロボットにかんしてそうであったように、人間の日常についても、問題はないほうがよいに決まっており、問題が生じる場合にはその解決が迅速であるほうが好ましい。

 だが、問題の解決にむけられてはいない思考、それどころかかえってつぎつぎと問題をつくりだしてしまう思考がある。哲学的な思考、と呼ばれるものがそれである。
 僕は「哲学」という分野に執着はないし、哲学という活動に打ち込みたいとも思わないけれど、そう思うことこそ、僕が哲学に関する思考を停止したときに受けている恩恵なのかもしれない。僕は、できることなら、なにも思考したくない。そのために思考している、とすら言うことができる。

 ちなみに、「哲学研究にいちおうの予算が付いている不可思議さ」に応じて、熊野純彦さんはなかなか泣かせる一節でその文章の幕を閉じる。
それでも哲学的な思考を肯定しようとすることは、要するに無駄を肯定しようとすることである。ことばをかえれば、人間がロボットになりきることがないであろうことを肯定することなのである。
 哲学に幸あれ。
by kourick | 2007-01-19 00:00 | ○学