安易な体罰容認は教育の放棄です、か?

 お米を団子にして投げて遊んでいた児童を叩いた校長が懲戒処分を受けたらしい。叩いたタイミングの悪さなどを鑑みて想像するに、わりと面倒な児童で日頃の行いから頭にきていたのだろうと思う。

 なので、「微妙な事例」と言いたい気持ちもあるのだけれど、知人の教員に訊いてみたところ、原則として「手を出してしまったら、もうアウト」だとか(問題を起こした直後で、親の理解があったら微妙)。

 戒告処分なので教職を続けるのかもしれないけれど(教育業界において減給・停職を受けるというのは「自主退職しろ」ということです、か?)、なにはともあれ、僕は「校長、やりましたね」と言ってあげたい。

 ただ、こうした事件が起こると体罰容認派がけっこう現れるので、それが大衆に与える影響というのは少し心配ではある。巷には「うちの子が悪いことをしたら殴って下さい」というような人はけっこういるものだ。

 しかし、そうしたところで児童の扱いに差を付けるのは難しい話だし、「体罰容認」の最初の一歩を認めてしまうと、どこまでが「良い体罰」で、どこからが「悪い体罰」なのかという線引き問題になる。

 しかし、体罰を受ける側の個体差も考慮すると、この線引きは明らかに不可能だ。仮に線引きができたとしても、その「良い体罰」が適切に運用されるかには、きわめて疑わしいものがある。

 たしかに「体罰によって目が覚めた」という人も一定数いるのでしょうが、それはイレギュラな例であり、少なくとも公立学校の教育方法論としては「体罰」は危険だろう。適切に運用できるとは思えない。

 しかしまあ、仮に体罰を容認したとしてみましょう。そのとき、殴られる子供は百歩譲って仕方ないとしても、殴る教員はこれ、しんどいですよ。人ってそう簡単に人を殴れるものですか。

 もし、それが教育行為として認められていたとしても、人を殴るということは言うほど簡単なことではないでしょう。それこそ殴り癖を付けておかないと良い感じには殴れない。それもまた、教師の資質ですか?

 体罰を容認しろと言うだけの人は楽だけれど、実際に大勢の子供に体罰を行う人の気持ちは複雑です。ただでさえ精神を病む人が多いのに、体罰の容認はさらに教員の精神的負担を増やすでしょう。

 結局、安全側の発想を維持するための教訓は、やはり「体罰は原則としてだめだ」ということです。これが前提になっていないと、現実的で協調的な取り組みは不可能といってもよいと思う。

 ただ、この前提を認めつつも、教員の安全もきちんと確保しないといけない。教師の正当防衛はどこからが正当なのか。教育の問題を考えるということは、子供の問題であるのと同じだけ、教員の問題でもあるのだ。

 「教育」というのはわりあい漠然とした言葉なので、教育に関して語ろうとするとついつい、自分の経験から得られた限定的な教訓を当てにして無遠慮・無責任なことを言ってしまうことがある。

 しかし、たまには子供の通っている学校に実際に行ってみて、子供や保護者と教員と交流を図り、子供の通う学校と、その学校を取り巻いている環境を見詰め直してみるのも有意義なことでしょう。
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by kourick | 2007-01-18 00:00 | 考察