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YOSAKOIソーラン祭りを考える

 よさこいソーラン祭り。札幌のは正確には「YOSAKOI」というみたいです。好きか嫌いかといわれると、僕はまあ、好きではないのだけれど、実際には、それほど気になってはいません(期間中は街に近寄らない)。しかし、道民ないし札幌人の誰しもが YOSAKOI に賛同しているわけではないことは知っておいていただきたいと思います。

 ところで、内地の人たちは札幌の YOSAKOI をどのように見ているのでしょう。「北海道の晩春の楽しいお祭り」というイメージでしょうか。TV 番組のリポータは「日本一、いや、北半球一のお祭りです」などと言っていたのだけれど、それはどういう意味なのだろう。集客数、参加者数、それとも規模や経済効果? あるいは楽しさということだろうか。

 しかし、そもそも、YOSAKOI を「祭り」として把握している人が、どれだけいるかは疑問です。はっきり言って、YOSAKOI は祭りではありません。むしろ、「大会」といったほうが的確だと思います。路上パフォーマンスの大会です。だから、審査もあるし、練習も過酷になるし、参加するには資格も必要になるし、多額の資金も必要になる。

 けして、市民や旅行者の誰しもが参加して楽しめる「祭り」といった代物ではありません。ただ、その大会という限りにおいては、YOSAKOI はなかなかのものです。是非一度、納涼をかねて札幌に見学に来られると面白いと思います。開催時期の札幌の平均気温は25度前後、道民にとってはちょっと暑い季節ですが、内地と比較するなら涼しいでしょう。

 そういったわけで、参考ばかりに こういった視点からのYOSAKOI というものも、YOSAKOI 参加者や関係者は頭の片隅に置いておくと良いと思います。思っている以上に YOSAKOI を楽しんでいる人というのは少ないのではないかと僕は思っています。どちらかというと迷惑です。もちろん、だから止めろといった極論を言いたいのではありません。

 たしかに YOSAKOI は地域に密着した「お祭り」であって、それは素晴らしいことでしょう。各地にチームがあり、特色を生かした振り付けやテーマがあり、感動する場面や斬新な演出に興奮する場面もあります。札幌の大学だったら、たいてい YOSAKOI サークルがあるでしょう。そこでは、いろいろな物語も生まれているのだと思う。

 参加者にしてみたら、やりがいのあるイベントなのだろうし、楽しいのだとも思う。しかし、その一方で、それは集団的な自己満足でしかないのではとも思います。というのも、基本的に YOSAKOI は観客と共有されるような祭りではないからです。いまのように大規模化すると、多少の文句はノイズとして無視されてしまうかもしれないけれど、これはたしかです。

 もともと、YOSAKOI は北海道大学の学生が大通に場所を借りて始めたものでした。けれど、回数を重ね、大規模になるに連れて、学生の自治を離れ、そこに行政とメディアが介入し、次第に YOSAKOI は公的なものになっていきました。料金を取る代わりに良い席で踊りを楽しめる「桟敷席」が問題になったのもこの過程でした。

 いまでは、そういった野暮な問題を取り上げると白眼視されかねません。最初は学生が始めた遊びかもしれないけれど、いまやそれは全国に誇れるような札幌を代表するイベントなのだから。そうした広報的な側面が強化され、運営が実質的に公的な手に渡ったあとも、学生の自治で運営されていた会場は「やはり一番楽しい」と言われていました。

 こういった段階になって、参加する人たちと参加しない人たちは完全に分断されたような印象を受けます。もはや「演者」「観客」という以上に離れてしまっている。演劇でもそうだけれど、こうも一体感が損なわれてしまうと見させられている人は急速に冷めてしまいます。見せている人はもちろん楽しいのだろうし、当初は見ているほうだって楽しかった。

 そこにはなにかしらの共有があったし、見ている人たちにもどこか参加しているという意識がありました。そして、それを共有しない人たちに対する遠慮もありました。それはもしかすると、いまは馬鹿騒ぎしているけれど、その騒ぎのあとにはきちんとあそこに戻らなければならないという刹那感の共有だったのかもしれません。

 しかし、いまは違います。演者と観客の間には深い溝がある。そして、一度そう感じてしまうと、YOSAKOI を押し付けられる人たちの目に映るのはその嫌な部分です。参加者のマナーの悪さ、騒音の酷さ、地方車の場違いさ、そもそも、YOSAKOI のために道路や公園や施設の利用が制限されるのだから、興味のない人には迷惑でしかありません。

 もちろん、どんなイベントだってそういったことはあるけれど、YOSAKOI の場合はそう感じる人が多いのではないかと思います。市民の潜在的な反発がこれだけあるものを、経済効果や参加者の理屈で止められないからといって続けているということに一抹の疑念は感じるものです。ただ、それでも YOSAKOI は終わらないでしょう。

 しかし、いまのような状況がずっと続いて、いつまで経っても変わっていかないのなら、どこかで不意に破綻してしまうのではないかと思います。こうした文章を書いておいてなんですが、別に YOSAKOI を頭ごなしに否定したいわけでも、暴言を吐いてすっきりしたいわけでもありません。ただ、誰もが楽しめるお祭りにしてほしいと思うだけです。


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by kourick | 2003-06-07 00:00 | 考察