人間のなかに潜むアンドロイド性の話とか

・ 眞鍋かをりさんの人気がインフレを起こしているような気がします。スキャンダルで没落ということはないと思うけれど、いささかスパイシィ。

・ 茂木健一郎さんがいつの間にやら随分と著作を増やしていました。なにかの教祖みたいな書籍が多い感じで、ちょっと首を傾げてしまいました。

・ はてなの一部でネットバトルが発生している模様。手斧を持ってもひもひした人たちと少し粘着気味の若者の戦いみたいです。

・ ところで、僕たちは常にチューリングテストをやっているようなものです。本当にこの回線の先に「人間」がいるのか、その保証はありません。ただ、この回線の向こうには人がいると思ったほうが安全側の発想ではあるし、その先にいるのが人間ではないのであれば無礼な態度をとっても良いという理由にもなりません。

・ フィリップ・K・ディックがいうように、それが人間でもアンドロイドでも、オリジナルでもコピーでも、親切であるのならば、それは本物なのです。もしかすると、僕以外の全員が擬似人格に置き換わっても、僕はそれと気付かずにWebを楽しんだりするのかもしれない。これと同じことがまさに全員に起こっているとしたらどうでしょう。もしかすると、それがいま起こっていることなのかもしれないのだ。

・ 西洋にはフランケンシュタイン・コンプレックスという、人間が作り出したものが人間を襲うことに対する、人工物に対する恐怖感がある(らしい)です。逆に日本では人工物に対する恐怖感はあまりなく、むしろロボットを人型にしたい傾向があるなど、人工物に対して寛容であり、それがロボット産業の活性化に一役買っているというのもまた、有名な話としてあります。

・ そうしたことを鑑みると、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、西洋的にはえらい先を見ていたように思います。というのも、ディックの小説内では人間もアンドロイドもほぼ変わらないからです。つまり、「人間」と「アンドロイド」という構図は、ほぼ無意味なのです。むしろ、「人間」性と「アンドロイド」性という構図が生命全般にあてられています。

 そのようにして見たときに、強調されて立ち現れる光景は、人間社会にアンドロイドが紛れ込んでいるという恐怖よりも、そして、人間と見分けが付かないアンドロイドという存在の恐怖よりも、人間のなかに「アンドロイド」性を持ったような奴がいるという現実です。

・ 「機械のように冷たい人間」という表現はいつまで通用するでしょうか。「機械」という語ほど歴史を通じて用法が変化してきた語もなかなかないのです。「機械」という言葉に直線的なイメージや無機物的なイメージをもつ時代はそろそろ終わりかもしれません。
[PR]
by kourick | 2006-02-13 00:00 | 考察