宗教と科学、そして、信仰するということ

・ 「最愛の妻」という表現をTVで耳にした。「妻」というのは、どうやら分析的には「最愛」ではないみたい。ところで、「妻」と対になるのは「旦那」だったと思うけれど、実にもっともな言い回しだなと思う。いろいろな言葉が不当に狩られている御時勢のなか、こういう表現が狩られていないのは少し不思議な感じもする。表現を単に狩って解決するというよりは良い傾向であるようにも思うけれど、実のところ、単になにも考えずに使っているだけだったりするのかもしれない。

・ 宗教がもっとも成功しているのは、宗教のもとにあるということに人々が無自覚である場合である、とたまに言われるけれども、まさにその通り。こういうのは別に宗教に限らず、英語で語尾が「-ism」で終わるようなものは大抵、同じことが当てはまるように思う、もともとは「-病」的な意味です。

・ 科学もまた信仰の対象であると言われると少し気持ちは悪いけれど、まあ、人それぞれ、そういう表現でもいいのではないかという気もする。科学主義や科学至上主義というとグッとそういったニュアンスが増します。また、実際、科学というのは神の存在を証明したいという動機で始まっているというのも、ある種の事実ではあるだろうと思う。

・ ただ、探求すればするほど神の存在を否定する結果になっていったというのは、皮肉というと皮肉ではある。しかし、まだ、わからない。現代の物理学にして、最終的には「神」としか呼びようのないものに至るかもしれないし、そう信じている人も実はけっこう多いかもしれない。もっとも、それは人格神ではないだろうし、最初からその存在を信じるのは安直にすぎる。

・ むしろ、技術が信仰の対象になるのかどうか、こちらのほうが興味深い。SF的世界ではありうる設定なのだけれど、現実になりうることだろうか。

・ ところで、またそうだとすると、人々は生きている限り、なにかしらの病気にうかされているわけで、どのような信念のもとで生きようとも、どの病気に浸っているかという程度の差でしかなかったりします。この場合、ある特定の立場から、その立場の正当性や正しさを主張するのがきわめて困難になったりもするわけだけれど、それだとしても、ある程度、人々の思考の規範として働いているようなものはあるだろう。

・ このあたりの倫理・論理、あるいは合理性というのは一筋縄ではいかない。

・ 感動もののある種のTV番組は、ときに、おもむろに封建的な枠組みの「美談」でお涙を頂戴したりしているように思う。それ自体は別に良いと思うし、もっともな番組作りだとも思うのだけれど、その番組を観て端的に影響を受けている人を見るとちょっと興醒めるものがある。
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by kourick | 2006-03-01 00:00 | 考察